ソルター・マーシー

山本貫太

一章 施設

 もう長いこと、この施設で暮らしているため、おれはここに入れられた理由をすっかり忘れてしまった。施設は気の遠くなるほど長い坂を上ったところに、孤立して建っている。おれはその坂を一度しか上っていないけれど、それは本当に長く、また、車が通れないほどに細い。その細い坂道は、ある程度整備されており、決して上りにくいということはなかった。しかし、その細さと長さ、それから人が上るには少しばかりきつい傾斜が実に不快で、また、等間隔にある電灯のせいで全く景色が変わらないように思え、うんざりしたのをよく憶えている。

 長い坂を上ってきた割に、この施設からの景色は美しくない。水彩画でなく、のっぺりとした重ね塗りで描かれた油画のような森とその間にある細い坂道、それから茶色い煙突が数本遠くに見えるだけで、街の明かりや車の光はまるで見えず、当然、海なんていうロマンチックなものも見えない。

「いや、海は見えますよ。あの奥のほうの、灰色の部分、あれが海です」

 おれとほとんど同時期にこの施設に入ったヤスは、窓から身を乗り出し、ほとんど全身を使うような姿勢で海を指さした。

「ほら、見えるでしょう。日が沈むときだけ、ほんの少しピンク色になって、それが好きなんですよ」

 ヤスはお手本のように笑ったため、おれはちっとも海が見えていないにもかかわらず頷いてしまった。

「いつか、ちゃんと浜辺で夕陽見たいですね」

 ヤスはこの施設の中では若いほうで、中学生くらいに見える。けれども、施設に入った当初から中学生くらいに見えていたし、もしかしたらもう高校生、大学生、あるいはそれ以上なのかもしれない。こんな施設にいなければ、その人懐っこさと可愛らしい顔立ちのおかげでずいぶん女にモテただろうな、と少し可哀想に思う。この施設にも女はいることにはいるものの、そのほとんどは彼より年上で、恋愛、というものを経験するには不向きに思えた。

 ヤスは窓の外にポイと何か白い物を捨てた。

「ヤス、お前また薬飲んでないのか」

 ヤスは口を少しとがらせ、それから、何故かおれに投げキスをした。

「この施設から出て行った人を一人でも知っていますか?」

 ヤスは微妙に音程をつけながら、歌うように続けた。

「生きている人も、死体も、この施設からは出たためしがないんですよ。ぼくらはきっと、身体の病気じゃなくて心の病気で集められたんですよ」

 ヤスもおれも、ここに入れられた理由をすっかり忘れてしまっている。ヤスは忘れているのではなく、初めから教えられていない、と言って笑う。

「ですから、薬なんかより、ぼくらに必要なのは動物ですよ」

 施設には週に一度、動物がやってくる。馬やヤギなどの比較的おとなしい、けれども、ネズミほど小型でない動物が主に連れてこられる。おれはそれらを遠巻きに観察するだけだが、ヤスは誰よりも長く、そして熱心に動物と触れ合っている。

「馬の毛って意外と硬いんですよ、知らないでしょう」

「知る必要がないからな」

 ヤスは少し顔を曇らせた。しかし、すぐにその曇りは晴れた。

「あっ、ほら見てくださいよ。ピンク色、ピンク色ですよ」

 やはりおれには海は見えなかった。日が沈んでからは、あっという間に暗くなった。徐々に、ということはなく、舞台の背景が変わるようにガラリと夜になった。

「レクリエーションルーム行きますか? 今日は301では怪談、302では恋バナ大会やるらしいですよ」

 おれはその両方に興味がわかず、寝室に戻ると告げた。

「タカさんの恋バナ聞いてみたかったんですけどね、気が向いたら途中参加で来てくださいね」

 おれは「ああ」と「おお」の中間のような返事をして、ヤスと別れた。


 施設は八階建てで食堂と浴場、いくつかのレクリエーションルーム、図書室と、それからそれぞれの寝室からなっている。食堂での三度の食事と薬を渡されること以外は自由で、タバコも吸うことができ、驚くことに消灯時間すらない。一日中、寝室を含めたすべての明かりは点きっぱなしだ。そのため、各自勝手に催し物を開いては、人を集め、一日中どこかで誰かが遊んでいる。おれはほとんど夜のレクリエーションには参加せず、眠るよう努めている。夜、といっても今はまだ日が暮れただけで実際には眠るような時間ではない。それでも、この施設にいるということは、おれは病人なはずであるし、十二分な睡眠が必要なはずだ。そう自分に言い聞かせ、寝室に戻るとケイコさんがおれのベッドで眠っていた。ベッドのそばには脱ぎ散らかした服と青色の下着と、ピンク色の日記、それから単三電池が何本かゴロゴロと落ちていた。

「ケイコさん、また部屋間違えてますよ」

 おれは布団越しにケイコさんの肩をつかみ揺すった。ケイコさんはゆっくりと目を開いた、ように見えた。ケイコさんは糸のように目が細いため、閉じていようと開いていようと表情が変わらないのだ。

「たっくん、どうしたのお」

 ケイコさんが上体を起こすと、布団がずり落ち、形のいい胸があらわになった。手のひらには収まらない、ふっくらとしたお椀のような胸だ。年齢は三十代半ばくらいだと聞いているが、身体はだいぶ引き締まっており、余計な肉がない。

「ここ、おれの部屋です、ケイコさん」

「知ってるわよお」

 ケイコさんは必要以上に語尾を伸ばして、口を「お」の形にし、そのままあくびをした。

「あたしねえ、話があってここで待ってたのよ」

 そう言うとひょいとベッドから降り、ブラジャー、パンツ、上着、ズボンという順に服を着た。

「でも、忘れちゃったあ」

 ケイコさんはそう言うと、日記と電池を拾い上げ「またね」と出て行った。彼女はたびたび、他人の寝室に間違えて、もしくは、意図的に入っては、服を脱ぎ散らかし眠る。彼女のことを色情症呼ばわりする者もいるが、たぶん、そういうのとはまた少し違うのだと思う。もし、そういう目的じみたことがあって人の寝室に潜り込んでいたとしたら、もう少し色香のある身体になるはずだ。ケイコさんの身体はあまりに瑞々しすぎて、そういう香りがない。

 おれはケイコさんの温もりの残るベッドへ仰向けに倒れ、白い天井を見つめた。寝室は一人一部屋与えられるが、狭く、また窓もなく、ベッドと黒い長机しかない。テレビはその長机の上に置かれているものの、どこにも繋がれておらず映らない。よく言えばホテルのようで、悪く言えば暖かみがない。部屋の壁は厚く、隣からはくしゃみの音ひとつ聞こえない。明かりを消せないことを除けば眠る分には快適で、しかし、暮らす分には不満の多い部屋。だからおれは寝室と呼んで、睡眠以外ではここに留まらない。

「思い出しちゃったあ」

 寝室の扉をがらりと開け、ケイコさんが戻ってきた。手にはやはり、ピンク色の日記と単三電池が握られている。

「あっ」

 手のひらから、こぼれるように、と、飛び出すように、の中間の勢いで一本、電池が落ちた。それはゴロゴロ転がってベッドの下に入りこんだ。何かが瓦解するように、続いて何本も電池が落ち、それらすべてが奇妙なことにベッドの下へ入り込んだ。おれはベッドから降り、手を伸ばしたが、届かず、ケイコさんが屈んで手を伸ばしてもやはり届かなかった。

「ああ、新しいのもらわなきゃあ」

 そう言ってケイコさんは立ち上がり、そして残念そうに下を向き「また忘れちゃったあ」と呟いて出て行った。何なんだ、と思いながらおれは、単三電池の入り込んだベッドの上に倒れ、目をつむった。もしかしたら、ケイコさんは電池式で、単三電池を握っている間しか記憶を維持できないのではないか、記憶だけでなく原動力そのものなのではないか、と考えてみたが馬鹿らしくなって、やめた。

 そうすると、やはり何か物を動かすための電池ということになる。けれども、この施設では電話はおろかラジオも使用できない。テレビのリモコンに電池を入れたところで、繋がれていないのだから意味はない。外部の刺激から隔離する意図があるのだろうと思う。ならば、個人的な持ち物に電池を使うと考えるのが自然だが、自分に照らし合わせて考えると施設に入る前の持ち物は服しかなく、ケイコさんだけ何か特別に持ち込んでいるとは思えない。

 施設に入る前の記憶、改めて考えると変な感じがする。確かに、記憶としてありはするものの、うまく今の自分と繋がらない。母の顔も、父の横顔も、思い出すことはできる。逆上がりができるまで公園で一人練習していた幼いころの記憶も、田舎の高校へ通っていた時、川を挟んだ向こう側に鹿がいた記憶も、一番好きな映画を恋人に見せたら十分くらいで飽きられてしまった記憶も、確かにある。しかし、それらすべてが人から聞かされた話のような、昔見た映画のような、大げさな表現をするならば前世の記憶のような、実感のなさなのだ。これはおれだけが持っている感覚、というわけではないと思う。この施設では恥ずかしいことであっても、悲しいことであっても、抵抗なく、皆よく話す。実感がないからこそ、よく話せるのだ。お気に入りの映画を勧めるように、もしくは、話すことで自分の過去だと言い聞かせているかのように。

 

 眠れないが目をつむり続け、もしかしたらもう夢の中なんじゃないか、と考え始めたころ、寝室の扉が二度ノックされた。

「タカさん、入っていいですか?」

 おれが返事をしないでいると、ゆっくり扉が開いた。ヤスが申し訳なさそうな顔を覗かせた。

「なんだ、起きてるんなら言ってくださいよ」

 ヤスはおれが目を開いているのを確認すると安心したようだった。

「おまえに起こされたんだよ」

「そんな意地悪言わないでくださいよ」

 ヤスはそう言うと中に入って、扉を静かに閉めた。

「タカさん、ぼく、めちゃくちゃ怖い怪談聞いちゃって」

「なんだ、恋バナ大会に参加するんじゃなかったのか」

 おれはてっきり夜通し恋バナをしていると思っていたものだから、ヤスの口から「怪談」という言葉が出たことに少し驚いた。

「タカさんの恋バナ聞けないんじゃ、つまらないですからね。怪談に参加したんですよ」

 ヤスの話だと怪談のために集まったのは四人しかおらず、しかもそのうち三人は聞くために来たと言い、結局主催者であるタナベさんだけが語ることになったそうだ。

「それで、タナベさんは洞窟に友達と入ったらしくて、そこから先が二手に分かれてたらしいんですね。で、二手に分かれて、そのあと、ええと」

 ヤスは怖い怖いと言いつつ、その怪談の内容をほとんど記憶していなかった。「ええと」と「うーん」とを交互に言っているうちにヤスの怪談は終わってしまい、話の大筋すらおれには伝わってこなかった。

「おかしいな、でも本当に怖かったんですよ。真っ白な天井くらい」

「真っ白な天井?」

 おかしなたとえにおれは引っかかった。

「真っ白な天井、というか白って怖くないですか? ぼく、すごい苦手なんですよ白色。部屋の天井に黒い画用紙貼るほど嫌いなんです」

 おれは一度もヤスの寝室を訪ねたことがないため、その話の真偽はわからなかったが、天井に黒い画用紙が貼られているのを想像すると不気味だった。

「ぼく、昔、すごい高熱出したことがあって、本当死にかけるくらいに。その時、ぴたって心臓が止まっちゃったんです。親には夢だって言われたんですけど、ぼくはその時本当に心臓が止まってたと思います。そして、気がついたら、真っ白な空間にいて、遠くで鐘が鳴ってるんです。ああ、死んじゃったんだって、ぼくは思ったんです。理由とか、理屈とかじゃなくて、ある種の決まり事みたいな感じで、ぼくにはわかったんです」

 ヤスはそこまで一気に話すと、ふう、と一息ついた。

「まあ、真っ白な天井の話はいいんですよ。ぼくはともかく、タナベさんの怪談が怖かったんで、眠れなくなっちゃって、タカさん起きてないかなって思ったんです。別に起きてなくても良かったんですけどね、なんか一人でいるのが怖くなっちゃったんですよ」

「ここで寝るつもりか?」

 ヤスは少し気まずそうに、まるで、すかしっぺがバレた女の子みたいに笑って「お邪魔でなければ」と言った。

「わかってると思うが、寝室は狭いし、ベッドは一つだ。寝れるような場所も余計な布団もここにはない。それに、天井も白い」

 ヤスは気まずそうに笑いながら「どこでも寝れます、机とベッドの間とか、ちょっとした隙間で十分なんです」と言った。そんな場所で眠るほうが余程怖いようにおれは思うが、それなら特に断る理由もないため寝かせてやった。

「布団くらい自分の部屋から持って来いよ」

 おれがそう言っても、ヤスは部屋に戻らず暑がりだとか、冷たい床の感触が好きだとか、丸まれば平気だとか、言い訳をして結局そのままベッドと長机の間の床に横になった。

「あっ、電池」

 ケイコさんが落とした電池をベッドの下に見つけたヤスは、手を伸ばした。

「とれましたよ、はい」

そう言って上体を起こし、ヤスは電池をおれに渡そうとした。おれやケイコさんよりずっと、ヤスの腕は細いのだと知った。改めて見ると、その細さは子供だった。

「おれのじゃないんだ、ケイコさんの落とし物」

 そう言うとヤスは不思議そうに「ケイコさん?」と聞き返した。

「あの人はすぐ人の寝室に入っては物を散らかすからな、その被害ってわけだ」

 ヤスは電池を手の中でこすり合わせ、嫌な音を立てた。何かを言いかけ、口をつぐみ、そしてそのままヤスは床に横になった。

「明日、ぼくから返しときますよ」

 そう言うとヤスは静かになった。寝息や、歯ぎしり、鼾というものが全くなく、意識的に音を立てないようしているのではないかと疑うほどに。おれは静かに上体を起こし、ヤスを覗き見た。ヤスは腹ばいになって倒れていた。ほとんど、死んでいるみたいに腕も足も投げ出されたような不規則さで、それぞれ違う方向を向いていた。

「おい、大丈夫か、その寝方」

 ヤスは返事をしなかった。

「おい、ヤス、平気か?」

 返事がない。

「ヤス、ヤス、おい」

 すると、ヤスは腹ばいのまま、首だけをぐるりと回転させ、真っすぐにこちらを見た。ヤスの顔からは表情が消えうせ、また、若さも失われていた。その顔がおれを見ているのではなく天井を見ているのだと気付くまでに、少し時間がかかった。ヤスは腹ばいのまま、真っ白な天井を見上げていた。


「おかげさまで、安心して眠れましたよタカさん」

 朝目を覚ますと、ヤスは既に起きてからずいぶんと経っているようで、そう言ってニコニコおれを見下ろしていた。顔色もよく、首も正常だった。あれは、へたくそな怪談を聞かされたおれが見た夢だったのだろうか。けれども、人はあんなに早く眠りにつけるものだろうか。おれは何か嫌なものを抱えたまま、ヤスに「おはよう」と言い、ベッドから降りた。

「朝食、食べ行きましょうよ」

 そう言って微笑むヤスの手に電池が握られていないことにおれは気がついた。

「タカさんより早く目が覚めたんで、ちゃちゃっと返してきたんです」

 寝室を出て階段を下りながら、ヤスはケイコさんの話をしてくれた。電池を返すとものすごく喜んだそうで、抱きつかれたらしい。何に使うのかは教えてくれなかったそうだが、それでも、何か大事なものに使う予定なのだろう。おれが昨日ぼんやり考えた電池はケイコさんの原動力説は当たり前だが間違えだったようだ。

一階の食堂にはすでに人が大勢集まっており、いくつかのグループに分かれて食事をとっていた。一番大きなグループの中心には古株のコンドウがおり、皆を笑わせていた。朝から元気なものだ、と感心と呆れを同時に行い、なるべく離れた席に座ろうと思った。トレイを持ちながら列に並ぶと、順番に、パン、ジャム、卵焼き、サラダ、牛乳、が置かれた。そして、最後に自分の名前を告げ薬と水を受け取った。職員は紙にチェックマークをつけ、一人一人異なった薬を渡し、また、渡すことで生存確認をしている。

「ずさんですよね、どうせなら目の前で飲ませてチェックすればいいのに」

 そう言いながらヤスは指先で薬を粉々にし、パラパラと床にまいた。

「これで、ぼくは飲んだってことになるんですから」

「いつか手遅れになっても知らんぞ」

「大丈夫ですよ、ぼく、ここの健康診断ぜんぶパスしてますから」

 施設では不定期に健康診断が行われる。もしかしたら定期なのかもしれないが、間隔が七日周期のふれあい動物と違って長いため、おれには不定期に思える。この施設にはカレンダーと時計がない、というのも大きな要因かもしれない。おれとヤスは食堂の一番端のほうの席に腰を下ろした。白い長テーブルに赤いトマトみたいな背もたれのない椅子、上から見下ろすと車輪を描きすぎたバスみたいに見える。

「あんな健康診断、誰だってパスできる。パスできたからって、健康とは言えない」

 おれはパンを齧りながら、そう言った。純粋な心配からというより、何とか意見を覆してやるという意地のようなものから出た言葉だった。

「じゃあ、そんな施設側が出す薬も、飲んだからって健康とは言えないんじゃないですか?」

 おれは「この話はやめだ」という手ぶりをし、硬いパンを飲み込んだ。ヤスは明らかに、不満そうな顔をしたが無視した。ヤスみたいな奴、より大っぴらな表現をするならば、施設に反抗的な人間はなかなかに珍しい。動物に全く触れない、という点ではおれも反抗的な人間に区分されるのかもしれないが、薬を飲まないよりはずっとマシだ。

「今日は何の動物が来ますかね」

 ヤスはサラダにたっぷりとドレッシングをかけながら、続けた。

「たまには、肉食の動物と触れ合いたいですよね。虎とかライオンとか、熊もいいですね」

 ヤスは時々、冗談なのか本気なのかわからないことを言って、人の気を引こうとする。

「触れ合えないだろ、喰われてしまいだ」

 ヤスはサラダを一口で食べ、牛乳で流し込むと「それもいいですね」と、笑った。


 動物は馬だった。さほど珍しくも、目新しくもない馬にヤスは駆け寄り、飼育員に教わりながらブラッシングを手伝っていた。動物は一日中、施設の広場と呼ばれる場所に繋がれ、好きな時間、好きなだけ触れ合うことができる。広場、といってもそれほど広くなく、車が三、四台何とか停まれるほど。そのため、一度に大勢は触れられないし、馬も一頭だけだ。それでも、熱心に馬に触れようとするのはヤスくらいのもので、他の人は何かの礼拝みたいに一度手のひらで撫でると施設の中へと戻る。おれは触れもせずに、遠巻きに馬の様子を、もっと言えば馬と触れ合うヤスの様子を見守る。あるいは、広場に隣接する食堂から、その様子をぼんやり眺める。食堂はガラス張りのため、見る分には不自由ない。おれは二、三分遠巻きに見ると「食堂にいる」とヤスに告げた。

「タカさん、馬、触れましょうよ」

 一音一音、はっきりとそうヤスが言うのを背に、おれは施設に戻り、食堂のやはり端のほうに腰かけた。食堂ではまだコンドウ達が朝食をとっていたためだ。コンドウの声は大きく、また、喫煙者なためかがさついており、すぐにわかる。もうだいぶいい年齢だろうに、この落ち着きのなさは何なのだろう。けれども、これは個人的におれがコンドウを嫌っている、疎ましく思うから持つ感想のようで、周りからの評価は「明るく楽しい人」「リーダー」「親分」など好意的なものばかりだ。

「タカさん」

 ささやくような声がおれを呼んだ。ささやくような、というより、ささやき声で呼ばれた。振り向くと職員の鈴鹿ちゃんがペコリと頭を下げた。ヤスと同じで、いつ見ても子供のような可愛らしい顔立ちで、背伸びした中学生が職業体験をしているようにしかおれには思えない。短い髪を何とか後ろで結んでいるのも、子供っぽい。

「ケイコさん、見ませんでしたか? まだ朝食をとりに来ていないんです」

 おれは「ああ」と言って、ヤスが朝、電池を返したという話を思い出し、それを伝えてやり「そのうち来るんじゃないか」と適当なことを言った。

「あの人はいろんな人の寝室に忍び込むからね、探すのは一苦労だな」

 鈴鹿ちゃんは優しく微笑んで頷いた。

「手伝おうか、おれは相変わらず暇だし」

 おれがそう言って立ち上がると、鈴鹿ちゃんは「お願いします」と一度お辞儀をした。おれは、施設の地図を頭に思い浮かべた。一階は食堂、それから大ホールと呼ばれる健康診断などが行われる場所がある。二階は職員たち専用のスペースで、カードを持たないものは入れない。三階と四階はレクリエーションルームがそれぞれ三部屋あり、三階の奥にはトイレと大浴場、四階の奥には図書室がある。五階から上の八階までは寝室が等間隔に十二部屋、計四十八部屋ある。移動手段は階段かエレベーターだ。おれの寝室は五階の505で、階段横のエレベーターは使っていない。ケイコさんの本来の寝室は鈴鹿ちゃんによると八階だそうで、ヤスも確か寝室は八階と言っていた。性別などで階が分かれているということも、また、ここへ来た順ということもなく、ほとんどランダムなのだという。けれども、不思議と施設はそれで成り立っている。

「レクリエーションルームと図書室を覗いていなかったら、寝室を一つ一つ確認するしかないな」

 寝室は四十八部屋すべて埋まっているわけではないが、構造上、鍵はかけられないため、どの部屋でも自由に入れてしまう。つまり、そう遠くない未来に四十八部屋を見て回ることになるのだという予感があった。

 三階のレクリエーションルームの301では学生時代の思い出話、302では読み聞かせが行われていたが参加者の誰もが「ケイコさんは知らない、見ていない」と答えた。使われていない303も確認したが、机と椅子が整頓された状態で並んでいるだけで人影はなかった。一応、おれは男子トイレと男湯、鈴鹿ちゃんは女子トイレと女湯を確認したが姿はなかった。四階のレクリエーションルームも同様で、ケイコさんはいなかった。四階奥の図書室にはタナベさんだけがいた。図書室には様々な本が置いてあるものの貸し出しに手続きが必要ないため、ほとんどの人は好きな本を見つけると寝室へと持って帰ってしまう。図書室には椅子が一つもなく、ただ本だけが所狭しと並べられているため、長居には適さない。ここで立ったまま何時間も本を読み漁るのは、たぶん、タナベさんしかいない。相変わらず?せぎすの白髪頭で、ずいぶんと年寄りに見える。また、縁なし眼鏡をかけているため、どこか近寄りがたい印象を人に与える。

「ケイコさん、見ませんでしたか?」

 やはり、ささやき声で鈴鹿ちゃんは尋ねた。

「いや……」

 短く、何か続きそうな余韻を引きずったまま、タナベさんは黙った。おれはヤスの異常に怖がっていた怪談を思い出し、怪談よりタナベさんその人が何かしら人の恐怖心を刺激するのではないか、と思った。

「そうですか」

「八階で見た、早朝に」

 鈴鹿ちゃんはバツの悪そうな表情になった。あれだけ間が空いては、思い出しているのではなく、会話は終わったものだと誰でも勘違いする。

「八階ですか」

 おれがそう確認すると、また、独特の時間が流れた。

「今いるかは、わからない」

 

 八階でおれは801~806を鈴鹿ちゃんは807~812を担当した。誰かの寝室で眠っているならば下着が散らかっているはずだし、一目でわかるだろうと思った。寝室は六部屋が左右に分かれて配置されており、手前から反時計回りに801、802と数が増えていく。806と807が一番奥の部屋となり、廊下の一番奥には子供ならぎりぎりくぐれそうな大きさの窓が一つついている。そこからケイコさんが落下する心配は、まず、ない。

 801の扉をノックすると「はい」と短い返事が聞こえた。開けると長机で何かを書いている大男がいた。おれはいつもでかいなあ、と見る度に思っていたが生憎、名前は記憶していなかった。

「どうされました?」

 ひどく落ち着いた、そして丁寧な口調でそう尋ねられ、おれはケイコさんを探していることを伝えた。彼は申し訳なさそうに力になれないことを謝ってきた。優しい巨人、というフレーズが頭に浮かんだ。

 802、803は人がおらず、がらんとしていた。元から人がいない部屋なのか、綺麗好きな人が使っているのか、非常に整頓された部屋だった。804の扉をノックするとここも返事がなかった。扉を開けると一発でここはヤスの部屋だとわかった。本当に天井には黒い画用紙が、それも想像していたよりもびっしりと隙間なく貼られていたためだ。辛うじて蛍光灯の部分だけは何も貼られていなかったが、その周りを几帳面に囲む画用紙が、より気持ち悪かった。おれはしばらくその天井を見つめ、白い天井より黒い天井のほうが余程怖いじゃないか、と思った。

「いた!」

 誰かわからないほど大きな声があがり、一瞬鈴鹿ちゃんと結びつかなかった。

「いました、いました、いました……」

 自分でも驚いたのか、その声は徐々に小さくなっていった。ヤスの寝室を出ると鈴鹿ちゃんが807の前に立っていた。おれはケイコさんを見つけて喜ぶ鈴鹿ちゃんの顔を想像していたため、実際の表情に幾分か面食らってしまった。その表情は、たとえるなら、口に入った髪の毛がいつまでも取れないような、不快さを前面に押し出したものだった。

「どうした?」

 おれが駆け寄り、部屋を覗くと、ケイコさんはベッドの上に、もっと言うならば掛布団の上に、うつぶせで眠っていた。いつも通り全裸で。手足は投げ出されたように、それぞれバラバラのほうを向いていた。ヤスの、あの、眠り方とよく似ていた。

「びが……」

「えっ?」

 鈴鹿ちゃんは何かを呟いたが、それはよく聞き取れなかった。

「まあ、見つかったんだ、よかったよかった。とりあえず起こして、朝食取らせないとな」

 そう言ってケイコさんを起こすため近づこうとすると、鈴鹿ちゃんはおれの腕をつかんだ。どこにそんな力があるのかとびっくりするくらい、強い力だった。

「どうした?」

 鈴鹿ちゃんの顔は、真っ青になっていた。何か変だ、と思った。

「首が回ってたんです」

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