五章 脱出

 三日目、コンドウたちの姿はなく、また、患者服を着ている人もいなくなった。それでも、人数は昨日とあまり変わっていないようで、つまり、初参加でありながら私服を着てきた者が数人いるのだろう。今回は机を円形にはせず、それこそ、授業のような形で話は始まった。ヤスはまた赤いシャツを着ていた。内容は一日目、二日目の要約のような形で、初参加の者にも、どちらか片方しか参加しなかった者にも、同じだけの情報量、言い換えれば皆に同じ疑問を持たせようとヤスは試みているようだった。一番前の席を陣取った三人組は背筋を伸ばし、座っている。優等生みたいだな、と内心馬鹿にした。ほとんどヤスの一人語りで、そして、やはりクライマックスは薬を掲げ潰し、大騒ぎするところだった。騒ぎ終わった後、参加者は一様にすっきりした顔をしていた。しかし、その表情が全員同じに見えた。


 四日目、参加者はどうやら一定の人数で固まったようで、おれを含めて二十二。施設にいる人間の半数には一歩及ばないが、かなりの参加者になった。全員が私服で、かつ、無地のシャツを着ている。ヤスは今日、真っ黒のシャツを着てきていた。おれはヤスがあの天井に袖を通したんじゃないか、と一瞬思った。今日は机をすべて後ろに運び、参加者を床に直接座らせ、ヤスのみ立ったままの形で話が始まった。

「これだけ反施設を唱えているのに、未だに誰も施設の人間が覗きに来ない。何故だと思います?」

 ヤスは考えさせる間を置かず、続けた。

「密告者がいる」

 三人組が膝を抱えたまま、あたりを見回す。目が合った参加者が目を背けるようにあたりを見回す。それが連鎖して、首だけがぐるぐると密告者を探し求める。

「でも、安心してください。目星はついています。思い出してみてください、ぼくらの話に参加して、けれども、ぼくらではなく施設側についた人間を思い出してください。たとえば、こんな言葉をかけられた人はいませんか?」

 瞬間、皆の頭には共通の男の顔が浮かんでいた。

「アイツの話を鵜呑みにするな」

 その一言が後押しになった。

「コンドウだ!」

「言われた、オレも」

「あの野郎、終わった後に話しかけてきやがった!」

「コンドウか!」

 皆が口々に「コンドウ」の名を口にし、そのうち「許せねえ」だとか「裏切り者」だとか「ぶっ殺してやる」だとか危うい発言も上がるようになってきた。パン、とヤスは手を叩き、騒ぎを収めた。

「あくまで、目星です。そこをくれぐれも忘れずに。しかし、何の対策をしないのも問題です。いつ、施設側に報告し、対策が打たれるかわかりませんからね。下手したら、もう手遅れかもしれない」

 ヤスは「手遅れ」という言葉に力を込めた。

「ヤスさん、では、一体どうしたら良いというのです?」

 コイさんがやや震えた声で質問する。

「それは、ぼくが答えないとわかりませんか?」

 コイさんが「あの」とか細い声を漏らす。

「わかりませんか?」

 コイさんの唾を飲み込む音が聞こえた。

「わかりませんか」

 誰も音を立てない。

「他の人は?」

 皆が目を伏せる。おれは目を伏せなかった。ヤスと目が合った。ヤスは頷くように微笑んだ。

「逃げましょう。ぐずぐずしている時間はありません」

 皆の顔がさっと上がった。首から上だけの生き物のように見えた。

「残りたい人は残ればいい。ぼくは出て行く」

 ヤスの声は透き通っていてよく響いた。それでいて、芯があった。大人の、男の声だと思った。

「決行は次に動物が来る日、車を奪う。奪ったとしても全員が乗れるわけじゃない」

「乗りたいです」

「乗せてください」

「乗らせてください」

 三人組に続いて、次々に「乗らせてください」の声があがった。まるで、一番大きい声で叫んだ者が乗せてもらえると信じ込んでいるような、喧しく、そしてどこか悲痛なものだった。また、ヤスは手をパンと叩いた。

「全員は乗れない」

 全員の目線がヤスに集まる。

「最も行動した者だけが、殻を破った者だけが乗れる」

 そう言うとヤスはもう話すことはない、と言わんばかりにくるりと背を向けた。

「やるべきことをしてください、ぼくも、やるべきことをする」

 ヤスはそう言うと「タカさん」とおれだけを呼び、部屋を出た。立ち上がると、視線が集まった。「何でお前は選ばれるんだ」と言われている気分だった。おれは参加者たちを残し、部屋を後にした。ヤスは壁にもたれかかって座っていた。

「なあ、ヤス。お前、本当に出て行くつもりなのか」

 ヤスは座ったまま首の関節を鳴らした。

「つまらないこと言わないでくださいよ。本気に、ホントに決まってます」

 ヤスは深いため息を吐き、天井を見上げた。

「何か、すっごく疲れました。でも、あと少しです」

 ヤスが手を伸ばしてきたので、おれは掴み引っ張り上げた。おれの手より一回りも二回りも小さい。

「もうしばらくしたら、戻ってきましょう。たぶん、すごいことになってますよ」

 ヤスはそう言うと歩き出し、エレベーターの上矢印を押した。階段を使わないのは珍しいことだった。エレベーターが来るまで、何も話さなかった。来てからも、口を開かなかった。無言のまま、八階まで上がると、ヤスは自分の部屋ではなくケイコさんの部屋に入った。ヤスが手招きしたため、続いておれも部屋へ入った。ヤスは机に置かれているケイコさんの日記帳を手に取った。まだ、ケイコさんの部屋として残っていたことに少し驚いた。

「日記の中、見せてもらったことあります?」

「ないな」

「見ますか?」

 おれは首を振った。

「人の日記を覗く趣味はない」

 ヤスは少し俯いて笑い「日記なんて言う代物じゃないですよ、これは」と言った。

「じゃあ、覗くのを嫌がるタカさんには特別に、ぼくが読み聞かせをしてあげます」

 ヤスはベッドに腰を掛け、ページの中身がおれに見えるような形でめくり始めた。一ページ目には「Psalter・Marcy」と青い字で書かれていた。

「ソルター・マーシー」

「どういう意味だ?」

 ヤスは眉間に皺を寄せると

「調べたんですけど、よくわからなくて。造語みたいです」

 と、言って続けた。

「ソルターは祈りの言葉とか、何を歌うかだとか、そういうことが書かれた挿絵いっぱいの旧約聖書の詩篇のことらしいです。今ではもう使われたりはしてないらしいんですけど、正直あんまり文献とかもなくて、詳しくはわからないです。タナベさんにも手伝ってもらって色々やったんですけどね、残念です。マーシーの方は人名ですかね。政治家の名前とか、天文学者の名前とか、いくつか調べたら出てきたんですが、どれもピンときませんでしたね。あとは、アメリカの病院船にマーシー級病院船って言うのがありましたけど、まあ、そんなところです」

 ヤスはそこで説明を終えようとしたため、おれはもう一度「で、結局どういう意味なんだ?」と訊いた。

「勝手に意味を持たすなら、そうですね……。聖なる舟、みたいな感じですかね。ノアの箱舟とかに近い印象です。でも、これが本当の意味かはわかりません。ケイコさん自身、そこまで意味を込めて付けたかどうか、それさえ分からないんですから」

 そう言うとヤスはページをめくった。細かい、それでいて色調のはっきりしている絵が描かれていた。それは馬の周りに人が集まっている絵で、どこか祈っているようにも見える。

「読み聞かせって言っても、読めないんですけど」

確かに、字はところどころに書かれているものの、とても読めたものではなく、記号として、背景の一部として配置されているだけに思えた。次のページは食事の場面で皆同じものを口に運んでいる絵が、またも細かく描かれていた。

「これは、施設か?」

 ヤスは頷いた。次のページをめくると大人数で談笑している絵が、次のページをめくると窓から見える夕日が海へと沈んでいく絵が、次のページをめくると列になって身体を医者に調べてもらっている絵が、それこそ宗教画としても十分通じそうな筆致で描かれていた。本当に、ケイコさんが描いたものなのだろうか、とおれは正直疑った。しかし、ああいう人だからこそ、こういう細かい作業ができるような気もした。ペラペラとページはめくられていき、そのどれもが見覚えのある施設内の出来事だった。

「次のページはきっと驚きますよ」

 そう言ってめくられたページには白い布に包まれた死体を男二人が運び、それを遠巻きに見守る人々が描かれていた。背景はむらが一切ない黒だった。ケイコさんの死体が運び出された時と完全に重なった。

「ケイコさんは自分の死をわかっていたんですかね?」

 ヤスはページをめくった。

「死をわかっていたというより、未来が見えていたんですかね?」

 そこには、大勢が拳を振り上げ、白い煙が渦巻いている絵が描かれていた。中心には赤色の服を着た、ヤスとしか思えない青年も描かれていた。

「とてもじゃないが、信じられないな。運び出された死体がケイコさんじゃなかった、みたいなトリックがあれば話は別だが」

 おれは両手を挙げて降参のジェスチャーをした。

「ぼくも、正直信じられませんでしたよ。でも、信じざる得なくなったんです。まだ起きてないことが描かれていて、それが実現していくんですから。これはケイコさんが生きていたって無理ですよ」

 ヤスはページをめくった。大男が一人の男を押さえつけ、それを囲むようにして人が集まっている。押さえつけられている男の顔は苦痛に歪んでいる。

「尋問ですよ、これは。たぶん。これから、もしくは、もう始まっているはずです」

 ヤスは次のページをめくった。大勢の人間が軽トラに乗ろうとして重なっている。中には血を流して倒れている者もいる。馬はどこにも繋がれてなく、中心に立っている。

「これは決行日でしょうね、そう遠くない」

 ヤスは次のページをめくった。のっぺりとした森を前に二人の男が佇んでいる。次のページをめくった。机の上に立ったり、ガラスが飛び散っていたり、裸になったりしている人が施設内に溢れている。たぶん、場所は食堂だろう。

「もういい」

 おれがそう言うと、ヤスは静かに日記帳を閉じた。

「信じられませんか?」

 ヤスは少し心配そうな表情でおれを見上げた。

「なあ、ヤス。おれは別に、お前に脱走するなとは言わない。今まで散々注意はしてきたが、薬を無理矢理飲ませるようなこともしない。お前のしたいことは好きにしたらいいと思う。ただ、この絵みたいに人様に迷惑をかけるって言うなら話は別だ。今更、こういう話をするのは遅い気もするが。尋問だか拷問だか知らないが、そこまですることなのか? 施設の人間に一度でも『ここから出て行きたい』って相談したのか? 一時的な熱狂で皆をうまく沸かせられたからって、何かお前は、勘違いしちまってるんじゃないか?」

 ヤスは首のあたりを掻きながら「タカさんは厳しいなあ」とぼやいた。

「出て行きたきゃ一人で出て行けば良いじゃないか。皆を馬鹿騒ぎさせて、混乱させて、正直おれは最近のお前は何がしたいのかわからんよ」

「一番確実だからです」

 ヤスは首を掻きながら言った。

「確実?」

 ヤスはそれ以上答えなかった。日記帳を開いてはパラパラめくり、そして閉じ、また開いてはパラパラとめくった。

「海、行きたいですね」

 そう言うと、ヤスは立ち上がった。

「ぼくは少し図書館に行ってきます。そのあと昼食をとったら、また、レクリエーションルームに戻るつもりですけど、タカさんどうします?」

「おれは、一旦レクリエーションルームに戻る」

「そうですか、じゃあ、また後で会いましょう」

 おれとヤスはエレベーターに乗り込んだ。ヤスは四階で降り、おれは三階で降りた。レクリエーションルームからは何か言い合っている声が聞こえてきた。おれは戻ると言っておきながら、なかなか足が進まなかった。一人だけヤスに呼ばれ出て行った時の、残された奴らから向けられた目をおれは思い出した。おれは引き返し、階段を使って寝室まで戻った。そして、少し眠ろうとベッドに横になったが眠れなかった。


 昼食をとりに食堂へ行くと、どこか異様な光景があった。その違和感にはじめは気がつけなかったが、よく見るとコンドウの両隣には無地のシャツを着た奴が座っている。コンドウの仲間たちも同様に、私服に挟まれる形で席についている。

「タカさん、隣いいですか?」

 ヤスがそう言って隣に腰を下ろす。

「なんだよ、改まって」

「いや、難しそうな顔していたんで、一人になりたいのかなって思っただけですよ。そうじゃないんなら安心です」

 そしてヤスは何でもない、という風に虫の話をし始めた。

「食事中にするのは、あれですけど、よく腹の虫が収まらない、とか言ったりするじゃないですか。そういう虫だけを集めた図鑑で『針聞書』っていうのがあるんですけど、これがなかなか面白いんですよ。たとえば、ヒステリーだとか鼻歌だとか、そういう今でいう無意識の部分を全部虫のせいにしているんです。確か、戦国時代の書物だったかな」

 そう言うと、ヤスはスープを酒でもあおるように飲み下した。

「食いしん坊、暴れん坊、そういう性格の領域まで全部虫のせいにしていたんです。で、ちゃんと虫ごとに治療法まで調べられているんですよ。薬草を煎じて飲め、ここに針を打て、みたいな感じで」

「何が言いたいんだ?」

 おれがそう聞くと、ヤスは目をぱちくりさせた。

「タカさん、別に何の意味もない話だっていいじゃないですか」

 ヤスはそう言うと、次はカエルの話をしだした。

「カエルって実は前足に水かきがないんですよ。でも、コンゴツメガエルっていうカエルだけは前足にも水かきがあるんです。なぜかって、コンゴツメガエルは一生水の中で暮らすからなんですよ。両生類なのに、面白いですよね。でもちゃんと肺呼吸ですよ」

 ヤスはカエルの話をそのあともしばらく続け、次は昆虫の話をし出した。

「カブトムシがオス同士で交尾をするっていうのは割と有名な話なんですけど、けっこう同性愛の昆虫って多いんですよ。カメムシってわかります? あの臭いヤツです。カメムシもオス同士で交尾するんですけど、それがなかなか合理的なんですよ。なんと、オスがオスの精巣に精子を放つんです。だから、そのオスが他のメスと交尾したら、自分の精子もメスに注がれるっていう仕組みなんです」

「おい、ヤス」

「そもそも、交尾って調べると結構面白いんですよ。イメージ的にオスが一方的に精子を注いで、メスは受け身って印象があるかもしれないんですが、実は女性器側の方が主導権を握っていることが多いんです。もっと詳しく言うと、女性器が精子の選別を意識的に行っているらしいんです」

「なあ、ヤス」

「そう思うと、ぼくらが意識してない部分にまで意志は働いているんじゃないかって気がしてきますね。でも、意志ってどこまで意志なのかって考え始めると怖くなりますね。ほら、脳とかも結局は物質なわけじゃないですか。そうすると、科学が発展していけば、全部の動きが、つまり、未来までわかっちゃうらしいんです。でも、未来を調べる行為まで、予測されているとしたら、全部予測されているんだとしたら、何か嫌になっちゃいますね」

 ヤスは今度、微生物の話を始めた。ヤスのトレイに乗っているご飯は冷めてきていた。

「ヤス、いい加減、飯食えよ」

 ヤスは構わず話し続けた。赤いミドリムシもいるだとか、一番大きいミジンコの種類は一つ目だとか、肛門からエサを食べて肛門からフンを出す生き物がいるだとか、とにかく止めどなくヤスは話し続けた。おれは軽い相槌だけ打ちつつ、食べ進めた。もう、周りはほとんど全員食べ終え帰ってしまっている。食堂にほぼ二人きりという状況は初めてかもしれないと思った。微生物の話が終わり、花の話をし始めようとした頃、おれは昼食を食べ終えた。それでも、ヤスの話は止まらなかった。おれが食べ終えたということにすら気付いていないようで、もしくは、気付かない振りをして話し続けている。おれはヤスの肩にそっと手を置いた。ヤスは吹き出しをはさみで切られたように、プツリと静かになって、それから、おれの空になった食器に目を落とした。かなり長い間、といっても、実際は数秒だろうけれど食器を見つめていた。そして、おれの顔を見上げた。泣くのを我慢しているような、笑いをこらえるような、もしくは、無理矢理微笑んでいるような、曖昧な表情をしていた。

「もう少し話させてくださいよ」

 ヤスはそう言ったが、それ以降は特に何も話さず、ほとんど噛まずに昼食を平らげていった。トレイの上に食べ物は何もなくなった。

「戻りましょうか、タカさん」

 食器類を返却し、階段で三階まで上がった。おれは三階まで上がるだけで横っ腹が痛くなった。レクリエーションルームからは変わらず言い合いのような声が漏れていた。しかし、ヤスといるせいか足は重くはならなかった。

「あ、ヤスさん」

 中に入ると、すぐにわらわらとヤスの周りに人が集まった。

「色々試したんですが、なかなか口を割らなくて」

 そう言った男の手にはライターが握られていた。それは、コンドウの使っていたものだったはずだ。集まった人垣の隙間から、奥を覗くとコイさんがコンドウを押さえつけていた。コンドウは正座をさせられたまま、コイさんの手で頭と背中をがっしりと抑え込まれていた。ヤスは何食わぬ顔で「口を割らせる必要はないですよ」と言った。

「ただ、施設側に密告しないか、それだけを丁寧に見張ればいいんです」

 コイさんは押さえつけていた手を離した。三人組はさっと素早くコンドウから離れた。コンドウは足が痺れているのか立ち上がらず、両手を床についたまま肩で呼吸をしていた。コンドウの左目の周りには小さな水ぶくれができていた。ヤスは皆を一度座らせた。

「皆さん、決行の日はもうすぐです。早くて明日、遅くても三日以内に動物は来ます。しかし、繰り返しますが、全員は乗れません。誰が車を運転するのか、施設の人間を足止めするのか、動物の飼育者を抑えるのか、施設側につく人間が出たら誰が戦うのか、そういうことを話し合ってください」

 コイさんが手を挙げる。それは自信なく、顔の高さまでしかない。

「ヤスさんがお決めにならないのですか?」

 ヤスは弾けるように笑った。肺の中を空っぽにする勢いの、大きな笑い声だった。

「ぼくが決めて、それで皆さん納得できるんですか?」

 ヤスは首を掻きながら

「時間はいくらかかってもいい、話し合ってください。勝ち取ってください」

 と、言った。首から上が一斉に動き出し始めた。

「最初に参加しましたからねえ」

「最初から参加していますからねえ」

「最初からずっと参加していますからねえ」

 三人組たちが互いに互いを承認し合う。

「参加回数は関係ないだろ」

「施設で古株の人から優先的に乗せようじゃないか」

「時間は関係ない、出たい意志の強い人が乗るべきだ」

「そもそも車の運転できる人は?」

「オートマ免許持ってる」

「マニュアル免許持ってる方が上だろ」

「土地勘ある人はいますか?」

「柔道部だったから」

「最初から参加してます」

「待って、待って、誰が運転手?」

「すみません、今、何を決める時間ですか?」

「飼育者は」

「何から決めるか、まず、そこから決めましょう」

 聞いてほしい、という思いがあるだけで、誰も周りに耳を傾けていない。ヤスはリズムをとるように短く、小刻みに頷くとレクリエーションルームを後にした。

「何人乗れるんだ?」

「全員乗る方法は本当にないんでしょうか?」

「待て待て、ヤスさんは見張りは丁寧にしろと言った。それこそ一番大切な役割じゃないか?」

「今、何の話ですか?」

「車の運転は任せろって」

「おい、ヤスさん出てっちゃったぞ」

「リーダーは必要ですからねえ」

「リーダーがいないと困りますねえ」

「次のリーダーを決めないと困りますねえ」

「タカさんは、いつもヤスさんの片腕じゃないか」

 急に名前を挙げられ、おれは驚く。

「なあ、タカさん。あんたが決めてくれよ」

「タカさんが司会をさ、やってくださいよ」

「タカさんは誰が乗るべきだと思いますか?」

 首から上が全部おれの方を向く。しん、と静まり返り、おれの発言に注目が集まる。皆、同じような表情をしている。

「好きにしてくれ」

 おれは立ち上がり、出口に向かった。

「ちょっと、待ってくださいよ」

「あんただけ特別かよ」

「進行役、引き受けてくださいよお」

立ち上がらないまま群がる何人かの背中を蹴飛ばしてしまった。部屋を出るとヤスは待っていなかった。


 次の日、動物は来なかった。ヤスはどこか元気がなく、飯をほとんど食べずに残した。周りから「ヤスさん、ヤスさん」と呼ばれても相手にしなかった。おれが「大丈夫か?」と聞くと「部屋に戻って少し休みます」とだけ言って早々に帰ってしまった。

レクリエーションルームを覗くと、まだ誰がどこを担当するか決まってないらしく、議論が続いていた。誰が車を運転するかさえ決まってなく、また、進行役も決めかねているようで、ほとんど昨日と変わっていない。おれは中には入らなかった。その後、別の部屋のレクリエーションを覗いてみたり、図書室に行ったりして時間を潰した。図書室にはタナベさんが相変わらずいて、見るからに難しそうな本を読んでいた。

「何読んでるんですか?」

 普段なら決して話しかけようとは思わないのだが、やることがなかったためか、それとも、純粋な興味からか、おれは話しかけた。

「ホッファーです、大衆運動、ホッファーの文はいい、とても……。彼の人生が、眼差しがある」

「どんな内容なんですか?」

 タナベさんはひび割れた唇を舐めた。

「大衆運動の、原理、原因……。そういったものを古今東西の歴史から、ナチスや、共産党、キリスト教から、読み解く、本。人は個人であること、個人で考えることに耐えられなくなる。外部に、大衆に身を委ねることで、運動が、大衆運動が起こる……」

 タナベさんはゆっくりと、しかし、それでいて丁寧に教えてくれた。

「自伝も、ホッファーはいい、とても……。どこまで彼は人生を、設計していたのか……」


 次の日、動物はやって来た。軽トラックの後ろに乗せられた仔馬だった。それを食堂のガラス越しに確認した。皆が手元ではなく、ガラス越しに仔馬を見つめていた。食器がこすれる音すら、ほとんどしない。しかし、誰も動かない。おれの斜め前に座っていたヤスは立ち上がり、手を一度、強く叩いた。蚊を潰すときのような、手のひらと手のひらの間に隙間を作らない叩き方だった。

 一人が駆け出した。それに続いて、二人、三人、と駆け出した。椅子が倒れ、食べ物が残った食器が床に落ち、一度大きく弾んでから中身をすべてぶちまけた。施設側の人間を抑えるだとか、反抗するものを見張るだとか、そういう役割など何もないという風に、皆、車という一点を目指した。おれは座ったまま、ヤスは立ったまま動かず、その様子を眺めた。人が個ではなく、塊のように見えた。蟻や蜂などの虫のようにも見えた。ガラス越しでも外の声は響いてきた。なぜか、患者服を着ている者まで駆け出し、車を目指した。施設の人たちが慌てだし、外に飛び出す。誰かが運転席に乗ったのか、車はゆっくりと斜めに動き出した。荷台に次々と人が乗り込み、それを職員が引きずり下ろし、それでもそれを上回る人数が新たに乗り込む。

「タカさん、外、出ましょう」

 荷台から落ちた者を踏み越え、荷台に乗り込もうとする者が後を絶たない。タイヤがゆっくりと立ち上がれない者の身体を潰す。柔らかい粘土のように身体が曲がる。泥と血が混じりあい、その上にまた人が立つ。

「ヤス、おれは……」

「タカさん、外に出るだけでいいですから」

 車は少しスピードを上げた。乗れなかった者が引きずられ、振り落とされ、それでも、また走り出し乗り込もうとする。

「わかった、出よう」

 車は人間の塊を引きずったまま、あの細い坂道をこじ開け通ろうとする。ヤスは坂とは反対の方向に歩き出した。

「そっちでいいのか?」

 ヤスは頷く。車のクラクションが鳴った。叫び声や、雄叫びも聞こえてくる。ヤスは気にせず、どんどんその場から離れる。施設の人たちは車に集まる人の対処に追われ、おれたち二人のことなど眼中にないようだ。あの鈴鹿ちゃんでさえ、止めに入っていた。

ヤスは油画のようなのっぺりとした森の入り口に足を一歩踏み入れた。

「車を奪ったとしても通れるのはあの細い坂道、どうせ捕まります。だから、注意をすべて向こうに集めている隙に、ぼくは森から逃げます」

 ヤスは初めから、皆で逃げようなどとは思っていなかったのだ。

「タカさん、一緒に逃げませんか?」

 ヤスは目を合わせずに言った。

「海、見に行きましょうよ」

 このまま、真っすぐ森を進んでいけば、いずれ海に着くのかもしれない。悪くないな、と思った。森は長く、厳しいだろうけれど、それでも一度も海を見れていないおれにとっては中々の口説き文句だった。

「逃げましょう」

 今度はしっかりとおれの目を見て、そう言った。ヤスの背後の木々の色が濃くなったように見えた。

「ヤス、おれはここに残る」

 自分でも明確な理由があるわけではなかった。もう一押しされれば頷いてしまうような、とりあえずの答えだった。しかし、ヤスはそれ以上おれを誘わなかった。

「あ、タカさん。言っておかないとなってことがあるんです。ちょっと言いにくいんですけど。ぼく、薬は確かに飲んではいませんでしたけど、入った理由は憶えてなんかいないんです。あれは、みんなを奮い立たせるためのハッタリだったんです」

 ヤスもヤスで出て行く明確な理由はないのだ。おれが残れと言ったら、ヤスは「そうします」と答えるんじゃないか、という気がした。けれども、おれは「そうか」としか言えなかった。

「あと、これ……」

 そう言ってヤスはポケットから単三電池を取り出した。

「実はケイコさんに返してなかったんです。すみません」

 ヤスから手渡された電池はずっとポケットの中にあったためか、少し熱を持っていた。

「じゃあ、行きますね、タカさん。お元気で」

 ヤスはそう言うと、一度も振り返らず、森の奥へ奥へと進んでいった。ヤスの姿が完全に見えなくなるまで、おれは見送った。そして、電池をポケットの中にしまった。


 振り返るとすぐ近くに、どこにも繋がれていない仔馬が逃げるわけでもなく、佇んでいた。仔馬の毛は硬かった。

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