#2「あとすこしのところでした」


 友人の結婚式を翌日に控えていました。脚本の仕事もひと段落して、なんとなくカレンダーの中でぽっかりと空いたような、浮いたような日でした。台風が近づいているそうで、まだ雨は降ってないものの部屋の外から聞こえる風の音とか、どんよりとした雨雲とかが、いつもとはちょっと違った気分にさせました。


 明日の式が無事に開催されるだろうかと気をもみつつも、僕はご祝儀袋を買いにでかけ、たまった洗濯物を洗い、部屋の掃除をし、ゴミ袋をマンションのゴミ置き場に放り込んだあとは、自宅の前に設置された自販機で缶コーヒーを買って一息をつき、残った時間は本の整理に費やしました。

 本棚の隅に、一冊の、読みかけのままになっていた本を見つけました。それはアンソロジー、つまりは色々な作家さんが一つのテーマに沿って書いた短編を集めた本でして、僕が見かけたそれは、ホラーにまつわるアンソロジーでした。目次を見てみますと、好きな作家さんが名を連ねており、特に、一番好きな作家さんが最後の作品を飾っています。ただ、どうも僕はその作家さんの作品を読む前に、この本から手を引いてしまったようです。なぜだろう。少し考え、思い出します。そうだ。僕は、この本を読んでとても気分が悪くなったんだ。

 一体なにがそうさせたのか。気になった僕は仕事用の椅子に座ると、続きを読んでみることにしました。掃除機をかけ終えた部屋は空気が澄んでいて、ベランダと部屋を隔てる半開きの窓の向こうからは、やはりごうごうと、風の音が聞こえていました。

 しおりが挟まっていたのは、無名のとある作家さんの書いた小説でした。著者プロフィールには新進気鋭の若手としか書かれておらず、代表作も受賞作も特にないようです。10ページ程度の掌編。

 主人公の男性が病室に足を踏み入れると、ベッドの上には亡くなったばかりの友人が寝かされています。そして、そのそばに人ならざる者が立っている。顔は卵のようにツルツルとした真っ白で、そこに、赤の口紅で落書きのような目と口が描かれています。人ならざるものは、あとすこしのところでした、と主人公に伝え、そしてそのまま物語は終わります。明確なオチがあるわけではありません。ただ、主人公が遭遇したその人外の描写にやたらと文字を使っていたのが印象的で、そして、僕は前回と同じく、やはり言いようのない気持ち悪さを感じました。怖いとは違います。警戒というか嫌悪というか、とにかく近づきたくないという感じ。そしてそれは、夕食を食べ、シャワーを浴び、ねむる段階になっても僕の周囲にまとわりついていました。


 24時前、そろそろ寝なければなりません。しかし電気を消して眠ることがなんだかそら恐ろしく、できるかぎり照明の光を落とした薄明かりの中で就寝することにしました。挙式は午前中。朝慌てなくても良いよう、ベッドの近くには、必要なものを揃えてあります。

 24時を回りました。眠れません。先ほどからボソボソと声が聞こえています。話し声ではない。隣の部屋のテレビでしょうか。今までこんなことなかったのに、なんで今日に限って。寝返りを打ちます。右耳を下に、横向きの体勢です。声はまだ聞こえます。先ほどよりも大きくなった気がしました。下の階から聞こえているのか。

「あと……あと……」

 どうやらその声は同じ言葉を繰り返しているようです。再び寝返り、今度は左耳を下に。まだ声は聞こえます。何度か体勢を変え、体を向きを確かめ、そこでようやく、仰向けの体勢になれば声がほとんど聞こえないことに気づきました。安心したせいか体がゆったりと重くなり、ベッドに沈んでいく感覚になります。もうすこしで寝れそうだ、そう思いながらもここにきて付けたままの照明が妙に鬱陶しく感じ始めました。電気を消したい、でも起き上がりたくない、そうだ目だけ、目だけを何かで覆ってしまおう。夢と現実が曖昧なままの僕は、目を瞑ったまま左手を伸ばします。何度か宙を掻きました後に左手が目当てのものを見つけ、僕はそれをつまみ上げ、自分の顔に乗せます。肌触りの良い生地が顔を覆った感覚があり、同時に意識がさらに溶けかけていって、そして思うんです。あぁ、そうだ、僕がつかんだそれは、自分の顔にかかっているそれは結婚式のために用意した白い正方形のハンカチだ、だから、うんそう、今の僕は仰向けのまま顔の上に真っ白な布がかけられていて、そうだそうだ死んだ直後の人間と全く同じ状態になっているんだとそのことに気づいた瞬間、身体中にすさまじい勢いで鳥肌が立ちまして、うわっと飛び上がってしまったんです。


 僕が怖かったのは、僕が何よりも気味が悪かったのは、僕が死者を模した不吉な状態になっていたこと自体ではなく、その時の僕が、ナニカによってそうなるよう誘導されていたということなのです。そして直感的に思いました。もしあの状態があとすこしだけでも続いていたら、きっととてもよくないことが起きたはずだって。



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この話は一部フィクションです 水谷健吾 @mizutanikengo

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