第三話「家出したい少年」


   ●


「ただいま」


 私は玄関を開け、いつものようにそう呟く。

 私の「ただいま」に対し、両親は滅多に返事をしてくれない。


 それもそのはず。リビングに入ると、大抵二人は喧嘩の真っ最中か、もしくは喧嘩が終わった後。ただでさえ機嫌が悪いのに、私におかえりなんて言えるはずがないだろう。


 しかし、今日は違った。私が靴を脱ぎ、部屋の奥に入ると、母は笑顔で


「おかえり」と言ってくれた。


 おかえりと言ってくれて、私は内心とても嬉しかった。あ、今日はお母さん喧嘩しなかったんだと、私は少し安心していた。


 だが、私は気付いた。

 お母さんの目は、笑っていない。私は悟る。お母さんは、無理して笑顔を作っていることを。


「…お父さんは?」


 そして私は辺りを見渡して、また気付く。いつもなら此処にいるはずの父がいないことに。


 私たちが住んでいるのは、1LDKの小さな賃貸。父と母がいなければ、すぐに分かります。扉が開いた寝室にも父の姿が見えませんし、それにこの時間帯ならいつもは家にいるはずなのです。


 私の問いに、母は静かに答えました。


 重たい口をゆっくりと開こうとする母は、とても暗く重い表情を浮かべていました。


「お父さん…出て行っちゃった。」


「…え?」


 私は困惑した。


「もうお父さん、この家には居られないんだって。」


 衝撃だった。私は今日まで、なるべく二人の関係性が悪化していることに対し、知らないふりをしていた。まさか2人がそこまで険悪な仲になっていたなんて、夢にも思わなかった。


 …いや、本当は気づいていたのかもしれないが、私はどうしても認めたくありませんでした。


「うぅ…。」


 だから母からこの言葉を聞いた時、私は涙が止まりませんでした。

 母は涙を流す私をまっすぐ見つめます。瞳の奥が真っ暗な闇色に染まった母の目を見て、私の胸はズキズキと痛みました。


「お母さん…。」


「ククース。」


 それからお母さんは私に嘆くように弱音を吐きました。



 いつからでしょうか?

 私の家族は気付いた頃には、もうこんなにも壊れてしまっていました。

 

 一体何がいけなかったのでしょうかね?



   ○



「…客さん…お客さん!」


 誰かの呼ぶ声が聞こえ、私は目を覚ましました。

 目を開けて顔を上げると、目の前には美味しそうなパンがたくさん並んでいました。視線を下げると、私の机にはメニュー表があります。


「やっと起きた。」


 そして私は声のする方へ視線を移すと、そこには恰幅の良いエプロンを巻いた、髪の毛がカールがかったおばさんが立っていました。片手には美味しそうなパンが入ったバスケットを持っています。


 …そうでした、私は朝ごはんを食べようと、閑静な住宅街の片隅にあるパン屋さんにお邪魔していたのでした。


「大丈夫かい?お客さん、ずいぶん魘されてたみたいけど。」


「…すみません。気付いたら寝てしまっていて。」


 私はおばさんの言葉に、答えになってない返事をしました。

 思い出したくもない、嫌な夢からの目覚めというのもあって、私の頭は正常に機能していないようですね。


「……。」


 おばさんは私のことを少々訝しんでいるようでした。

 私は誤魔化すかのように、淡いピンク色の髪をいじります。するとおばさんは


「…はぁ。お嬢ちゃん、コーヒーは飲める?」


 と私に尋ねました。


「苦いから無理です。」


「ならココアは?」


「粉っぽいから嫌です。」


「じゃあカフェオレは?」


「大好きです!」


 私の大好物を突然挙げられ、私は反射的にそう言います。


「おけ、じゃあカフェオレ持ってきてあげるから…あー、ここで寝られると他のお客さんの迷惑になるから」


「あっ…。」


 私はおばさんに手を引かれ、店の奥へと案内されました。



 ちなみにさっきの夢は、私が小学校中学年頃の思い出の回想。あれは、たしか父と母が大喧嘩した日…

 まあ要するに思い出したくもない過去の話です。


 あの日、父は「もうお前と一緒にいたくない!」と母に言ったそうです。


 狭い空間で繰り返される、嫌いな人との家族生活。それは父にとって、とても耐え難かったものだったのでしょう。


 父はあの日感情が高ぶって、母にそう吐き捨てました。

 そして父はその勢いに任せて家を出ていったそうです。ちなみに私はあの一件のことを家出事件と呼んでいます。


 まあ結局あれから数時間後に、父はのこのこと帰ってきましたけど。彼には家を出ていく度胸なんて更々無かったのです。


 結局その後、私たちはアパートから祖母が住んでいた実家に引っ越すという形で、あの件は和解に終わりました。実家に帰るとそこは広い一軒家で、尚且つ自分専用の部屋ができた父は、以前より居心地が良くなったのではないでしょうか?


 あの件は、父にとっては良い結果に終わりましたが、母は心に深い傷を負いました。


 父の心無い言葉に、お母さんは酷く傷ついていました。

あの時のお母さんの絶望に満ちた表情を、私は今でも鮮明に覚えています。


 ……まあ、私はもう家出をした身です。私にはもう、知ったこっちゃありません。



「~~♡」


 そしてそんな悪い夢のことを、私は美味しいカフェオレを飲んで全て忘れるのでした。

 ミルクの優しい甘みとまろやかさの裏で、ほんのり感じるコーヒーの苦味。この絶妙なバランスと優しい口当たりが最高です。


 そして私の目の前には美味しそうな焼き立てパンが並びます。このパンは先ほど、おばさまが気を利かせて持ってきてくださったのです。


「美味しい。」


 私はカフェオレと、出来立てのパンを交互に食べ、この上ない幸せを感じていました。


 おばさまには感謝しかありません。暖かい部屋に入れてもらえた上に、このような贅沢な接待をして貰えるなんて。あとでお礼を言わないとですね。


「さて、今日はどこへ行きましょうか…。」


 私は窓の外を眺めます。窓から覗く空には、数羽の鳥たちが列をなして飛んでいました。

 私はカフェオレを飲みながら、しばらく景色を眺めていました。すると…


「やっほー!!」


「わっ。」


 いきなり窓の外から少年が、勢いよく顔を出してきました。私は驚いて、後退りました。


「驚いた?アハハ」


「もう、なんなんですか?いきなり驚かせてくるなんて。いたずらにも程があります。」


 私は窓を開けて身を乗り出す少年の頭を軽く叩きました。


「アハハごめんごめん。別に驚かせるつもりなんてなかったんだ。実はおねーさんに伝えたいことがあって…」


「なんですか?私先を急ぐんで、手短にお願いします。」


 私は面倒ごとを避けるためにそのような嘘をつき、残りのカフェオレを飲み干そうとしました。


「おねーさん。家出中でしょ?」


「!?」


 咽せました。


「やっぱり~。」


「なんで分かったんですか?」


「お母さんが言ってたんだ。あの子は絶対に家出中だから、早く警察に相談してなんとかしてあげないとって…。」


「もしかして…あなたのお母さんって…」


「ん?あーこの店の店長だよ。ほら、髪の毛がカールの…ちょっと太ってるおばさん。」


「やっぱり。」


 おばさまが私に対しこのような接待をしてくださったのは私をここに留まらせるためだと、私はこの時気付きました。だとしたら、早くここから出なければなりませんね。


「…ごめんなさい。私、先を急ぐんで…」


「あー。逃げる気でしょ~。お母さんに言っちゃおうかな~?」


 ニヤニヤと私のことを見る少年。私は彼に弱みを握られているみたいですね。


「…何をしたら良いんですか?」



「あっれ~?まだ僕何も言ってないけどな~~。」


「ぐぬぬ、早くしてください!私はここで捕まるわけにはいかないんです!」


「へぇ~そうなんだ~。それは残念だったね、おねーさん。」


 私は悔しそうな顔をして見せました。しかし少年は、そんな私のことを面白がるかのように見てきます。


 屈辱です。こんなまだ私よりだいぶ年下の少年に、ここまで煽られないといけないなんて…。

 半分涙目になる私でした。


「…。」


「そんな顔しないでよ~。そうだなー、おねーさんが僕のお願いを聞いてくれるなら…」


「なんでも良いから早くしてください!」


 私は涙を堪えながら少年を急かしました。

 すると少年は、にやりと笑って言いました。


「…僕もおねーさんの家出に連れて行ってよ。」

 と。



   ○



「ありがと~おねーさん。そういえば、名前まだ聞いてなかったね。名前は?」


「普通名前は尋ねた方から名乗るんですよ。」


「僕の名前はツバサ。それで?おねーさんは?」


「…ククースです。」


「そっか。じゃあこれからはククースお姉さんって呼ぶね。」


「どうぞ、ご勝手に。」


 あれから私は少年…いえ、ツバサさんに逃げるのを手伝ってもらい、なんとか逃げ出すことに成功しました。

 まあ逃げ出すまで、かなりめんどくさい手順を踏んだのは言うまでもありませんが。


「それで?これからどこ行くの?」


「そうですねぇ、なら手始めにあなたの家にでも行きますか。」


「あ、僕を送り返そうとしても無駄だよ。それにおねーさんだって、僕ん家に行くと困るでしょ?」


「ぐぬぬ…」


 どうやら何をしようとしても、私はこの子の思う壺のようですね。かくなる上は…


「分かりましたよ。そんなに私と一緒に行きたいなら、頑張って着いてきてください。その代わり、のんびりしていたら置いていきますからね。」


「はーい。」


 滅茶苦茶な道を通って、彼の心が折れるまで歩いてやりましょう。

 まだ初心な少年に、家出の過酷さを思い知らさせてやるのです!



   ○



「おねーさん。まだ~?」


「はぁ…はぁ…ちょっと待ってください…」


「もう、ククースお姉さんも大したことないなぁ~。」


 結果は見ての通りです。少年の溢れんばかりの体力に惨敗です。

 あれから私は山を越え、谷を越え、川を越え、少年が嫌になって家出をやめたいと言い出すまで辛抱したのですけれど、結局私が先にバテてしまいました。


「ほら、早く行こうよ。」


「ちょっと…」


 少年に手を引かれ、強引に歩かされる私。これだと立場が逆じゃないですか。


 私はだんだんと嫌になってきました。今後もずっとこのままなんじゃないかと、内心とっても不安になってきました。

 出来ることなら、少し休ませてください…。


「…あ、雨。」


 そんな私の願いに応えるかのように、空から大粒の雨が降り出しました。




 それから私たちは雨を凌げる洞窟へと、雨宿りをすることにしました。


「すごい雨だね~。」


「そーですねー。」


 私は焚き火に手を当てながら、そう言いました。長いこと家出という名の長旅を続けていると、たまにどの街にも行きつかないことが多々あります。そういう時はたいてい野宿です。


 最初の頃は何をしたら良いか分からなかった野宿でしたが、有識者のおじさんからキャンプのノウハウを教えてもらい、今は人並みに出来るつもりです。


「にしても凄いねククースさん。まるでキャンプに来たみたいだよ~。」


 などと呑気に宣う彼は、野宿のやり方はおろか家出を続けるための知識も持ち合わせていないのでしょうね。


「そういえば…」


「何?」


「あなたはどうして、家出をしようと思ったんですか?」


 私はここで、彼に薄々疑問に思いつつあったことを尋ねてみました。


 私に強引に着いてきたことはさておき、彼は何故に家出をしようという結論に至ったのでしょうか。実はこんな能天気に見える彼も、私と同じように居心地が悪い家族生活に嫌気がさしたのかもしれません。


 家出の理由は人によって複雑です。きっと彼にも、どうしてもと言う事情があるのではないでしょうか…


「僕はお母さんの手伝いをしたくないんだ!」


「は?」


 何を言ってるんですか。


「だから、僕はお母さんの手伝いをしたくないんだって。お母さんったら、いつも僕をこき使ってさ~。パン焼くのを手伝って~だとか、この食器洗うの手伝って~だとか、本当にいつも勝手なんだから!」


「はぁ。」


 私は思わず頭を抱えました。


 どうしても家出をしたいと考えているのがただの少年でも、彼もそれなりの立派な理由を持っていると考えていた私がバカでした。蓋を開けて見れば、少年が述べる家出の理由はただの我儘。ふざけるのも大概にしてください。


「ねえ、ククースお姉さんは分かってくれるよね!」


「…呆れてものが言えません。」


「でしょ!ククースさんもそう思うよね!」


 私の発言が彼に対する肯定だと思い込んだのか、少年は勝手に納得していました。

 私はこんなただの子供相手に、無駄に歩かされたと言うわけですか…はぁ。


「…疲れたので、私は寝ます。」


「あ、寝るの?僕も寝る~。」


「隣に来ないでください。」


「えー、良いじゃん~。」


「ダメです。」


「ぶー。」


 私は洞窟の奥で横になり、仮眠を取ることにしました。

 少年は私のそばで眠れないのが不服なのか、ほおを膨らませながら焚き火に手を当てていました。


 –––はぁ。思い返してみても馬鹿らしい理由です。


 でも、そんな理由で家出しようと思えるのは、逆に幸せなのかもしれませんね。それだけ心にゆとりがあると言うことなのですから。


 …ですが、やっぱり少年はどうにかして家に帰らせましょう。そうしないと、私の幸先が不安で仕方がありませんから。



   ○



「ヤダヤダヤダー!1」


 私が仮眠から覚めて、最初に聞いた言葉はコレでした。

 何やら洞窟の外の方から、少年の駄駄を捏ねる声が聞こえてきました。


「…何事?」


 私は近くの岩陰に隠れて少年の方を見ます。


「このバカ息子!早く帰るんだよ。」


「ヤダヤダヤダ~!帰りたくない~~!」


 そこにはツバサさんと、彼の母親がいました。

 ツバサさんは帰りたくないと暴れ、そんな彼の頭をぐりぐりしながら帰らせようとする母。


「全く懲りない子だね。これで何度目?」


「くそーっ!次こそは、絶対家出してやるぅぅ~~!」


 少年は母に引きずられ、洞窟の外へと出ていきました。

 私はこっそり洞窟から抜け出し、彼らの様子を木の上から見送ります。


「…はぁ。」


 私はため息をこぼした後、家出を再開するために飛び立ちました。

 空を飛びながら私は、少年のことを愚痴っていました。


「全く。家出をしようだなんて、100年早いんですよ。」


 と。

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