運命にはなれない。

人影

運命にはなれない。

 この世界には運命の人が誰でも一人存在する。その人とは、触れることのできない赤い糸で結ばれている。


 俺の目から覗く世界はモノクロだった。建物も空気も、煤けた色をしていた。


 ただひたすらに息苦しい。交差点を渡ると、雑踏の中で交錯する赤い糸に絡まりそうで、首を絞められて殺されそうだった。


 赤い糸だけが鮮やかで透明な色をしていた。それが、うらやましい。


 いらいらする。


 雨が降る。


 雨粒が傘に当たる音がする。


 足音がうるさく跳ねる。


 うるさい。うるさいんだよ。どいつもこいつも……。


モアレの視界の中で見つける。


 ぐちゃぐちゃに糸に絡まった女の子。俺と同い年くらい。


 傘もささずに、長い髪を濡らしていた。


 その女の子に近づく。


 赤い糸がぐちゃぐちゃしていて、顔も姿もよく見えない。


 でも、その無数の赤い糸は全部女の子から伸びていた。


 なんなんだ。なんなんだよ、お前は。


「一本くらい、よこせよ」


 自分の口から出たその言葉は、世界の何よりも汚れていた。


 女の子は困った風に、口元を緩める。


「あげられるなら、あげたいんだけど」


 その声に、生気はない。俺の求めていた静けさだ。


「お前、死にたいのか?」


 女の子は口噤んで、こくりと静かに頷く。


「じゃあ——」


 俺は、誰かの運命にはなれないけれど。


「一緒に死んでやるよ」


 女の子は笑う。


「他の人には、内緒だよ」


 ぶちぶちぶち……。


 へその緒が引きちぎれるような、生々しい音が鳴る。


 それは、運命の糸が千切れる音だった。






 俺の運命の人は胎児のときに死んだ。たった一人の運命の糸が千切れた。


 その時からずっと孤独だ。


 生きる意味がずっと見つけられなかった。というより、俺にとっての生きる意味は胎児のときに消え失せた。


「私、幼馴染がいるんだ」


 と、女の子——リサが言った。


 電車に揺られ、飴色に染まった景色が流れていく。


 どこか、遠い所に行きたかった。遠い所なら、どこでもよかった。


「勝也っていうんだけど、でも……」


「でも?」


「私の運命の糸が多すぎて、愛想つかされちゃってさ」


 運命の糸が、多すぎて。


「俺が一緒に死ぬから。だから、大丈夫だ」


 ぶちっ、ぶちっ……。


 リサの表情が、糸の隙間から覗く。


 拙い輪郭だった。


「あり、がと」


 ぶちぶちっ、ぶちぶちぶち……。


「別に、死にたくないならいいぜ。今、ここで引き返しても。だけど、今ここで引き返さないんならもう、後戻りはなしだからな」


 不安になった。もしかしたら、一緒に死んでくれないんじゃないかと思って。


 リサは頷く。


「私も、死ぬよ」


 ぶちっ、ぶちっ、ぶちぶちぶち……。





 ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶち




     ぶちっ



     ぶちっ



     ぶちっ。






 リサに絡まっていた運命の糸が、千切れる。 


 生々しい、悲鳴のような音をたてながら。


 残ったのは、一本だけ。


 リサの心臓から伸びている。


「勝也……」


 リサは囁くようにそう言って、胸元をぎゅっと握りしめた。


 舌打ちを堪えて、聞こえないふりをする。


「生きる理由ってのは、結局他者とのつながりなんだよ」


「…………」


 俺たちは呼吸を止めるみたいに、山に向かって歩き続ける。


 案外、山が近づいてきても住宅街が途切れることはない。


 坂道に無理やり差し込んだ民家の白い壁に、赤錆が垂れている。


 脆弱性の欠片のような静寂が流れる。


 足音が鳴る。


俺一人分だけの。


リサは影みたいに俺の後ろに張り付いている。


 人工的に作られた閑静な住宅街を切り裂くように進んでいた。


 その時だった。


 背後から、男の声がした。


「リサッ!」


 その声に俺たちは足を止めて、振り返る。


 その男の心臓から伸びる赤い糸は、リサの胸と繋がっていた。


「勝也……」


 リサがそう零したのをみて、ようやく確信する。


「探したよ、リサ。急に、いなくなったから……」


「……ッ」


 涙を浮かべるリサは、俺のそばから離れて、勝也の胸に飛び込んだ。


 ぱっと、赤い糸が舞って、夕陽の光を反射する。鮮烈な赤色が、世界の汚さをより一層際立たせる。


 ……むかつくなぁ。


「その人は……? リサの彼氏?」


「いや、違うけど……」


「もしかして、リサを助けてくれたんですか?」


 勝也が、リサの前に出て、深く頭を下げる。


「ありがとうございます。リサを、赤い糸から救ってくれて……」


 ……は?


「それと、リサ、ごめん。僕が間違ってた。赤い糸で苦しんでるリサの気持ちもわからないのに、勝手否定して、傷つけちゃった。だから、ごめん」


「あ……、うん。いいよ。気にしてない」


 リサはそう言って、困った風に微笑む。


 笑ってんじゃねぇよ。


「ありがとう……。それじゃあ、一緒に帰ろうか」


「……うん」


 リサの拙い手が、勝也の手の中に収まる。


「最後に、名前をお伺いしてもいいですか……?」


 最後……、最後だって?


 逃がすかよ。逃がすわけねぇだろ。


「リサ。さっさといくぞ」


「いや、リサは……」


「俺、リサと死ぬ約束してんだよ」


「……は?」


「なぁ、リサ。ソイツに言ってやれよ。私はもう死にますって」


「リサがそんなこと言うわけないだろ!」


「ちゃんと言ったよ。だから俺と一緒に居たんだろ。だから、運命の糸がなくなってんだろ」


「運命の糸が一本もねぇ奴のことなんか、信じられるわけないだろ!」


 ぶちっ。俺の体の中の血管が千切れる。


「……てめぇ、ぶっ殺してやるよ」


 どうせ今から死にに行くんだ。


 人一人殺したくらい、なにも変わんねぇだろ。


 首を思い切り締めあげる。


「ぐっ、がっ……」


 勝也の顔が歪んで、苦悶の声が聞こえる。


 このまま一気に締め上げてやる。


「やめて!」


 リサが言う。


「死ぬから……、私も、一緒に死ぬから……。だから……。やめて……」


 ぶちっ。


 糸が千切れる。


「あ……」


 勝也は千切れた糸を見て、掠れた声を出した。


 だらりと体から力が抜けていく。まだ意識があるのに。首を絞めてまだ十秒くらいだ。


 俺は掴んでいた首を手放して、リサに言う。


「じゃあ、さっさと死ににいくぞ」


 リサはこくりと頷く。その頬には涙が伝っていた。


 勝也はそれっきり屍みたいになって動かなくなった。


 そのまま、俺たちは山に向かう。


 俺たちを繋ぎとめるものはもう、何もない。






 山の中に入ると、いよいよ暗くなってきて、俺たちは闇雲に進む。


「俺たちは赤い縄で首を絞め合って死ぬんだ。ロマンチックだろ?」


「…………」


「こうやっていい感じの木を見つけて、そこに縄を引っかけて、俺たちはそれぞれ反対方向に飛ぶんだ。そしたら、両方の首が締まるだろ?」


 なんてロマンチックなんだ。二人で殺し合いながら心中できるなんて。


「……ここで死ぬか」


 ちょうどいい感じの木があった。幹も太く、二人分の体重にも耐えられそうだ。


「ほら、縄。持てよ」


「…………」


 リサは盲いた目をして、口を噤んでいる。赤い糸が一本もついていないリサは、夜の黒色に掠れて、煤けていた。


 本当は気づいてる。リサが死にたくないって。


「……うん」


 リサはか細い声を出して、ぎゅっと縄を握った。


 これを首に括りつけて、二人で木に登って、飛んで、死ぬ。


「つけてやるよ」


 俺はリサの首に手を伸ばす。すると、向こうからも伸びてくる。


 リサの手は震えていた。夏だというのに指先は冷え切っていて、華奢な指先が清潔だった。


 心の中で黒ずんだ赤色がぐちゃぐちゃになって、絡まっている。俺が必死になって呑み込んだ、リサの運命の糸。


 リサの瞳は運命の糸のような、透明で彩度の高い赤色をしていた。


 俺にはその赤色が欠陥していた。その赤色は、生きる理由。


 リサの首は、細い。白いけど、土で汚れている。


 心拍が鳴る。鼓動する心臓が、緊張を訴えている。


 ばくっ……ばくっ……。


 静かだ。でも鋭利だ。鋒鋩と心臓に突き刺さるような……。


 ばくっ、ばくっ、ばくっ……。


 そんなことを感じて、ようやく実感がわく。


 ばくっばくっばくっばくっ。


 俺はリサを殺すんだ。


 瞬間。


 首が締まる。


「……ぐッ」


 リサの振動が首に伝う。リサは赤い眼光を俺に向け、首を縄で締め付けていた。


「死ね……ッ! 死んじゃえッ!」


 お前も死ね。


 俺はリサの首をくくっていた縄を、思いっきり引く。


「ぎ……ッ!」


 喉仏が潰れるような音がした。


 頸動脈が押さえつけられて、首で血液が止まって、心拍が歔欷の声をあげる。


 なんだか、笑える。


「お前死にたかったんじゃねぇのかよ? 誰よりも幸福な環境に恵まれて、運命に恵まれて! それなのに世界の何よりも不幸みたいな顔してたよなぁ!」


 赤い糸が切れるたび、リサは不安そうな顔をしていた。


 リサが邪魔だと思っていたものは、リサ自身の大切なものだったのだ。


 そんなことに、今更気づいたのだろう。


「死にたきゃ死ねよ! 殺してやるよ! お前の大切なもんはもう千切れちまったしなぁ!」


「ああああぁぁぁぁああぁぁぁ……ッ‼」


 首がより一層締まって、意識がチラついた。


 殺してやる。


 俺も、渾身の力で縄を引いた。


 直後、手から感触がなくなる。てごたえがない。


 みると、リサの首を絞めていた縄がほどけてしまっていた。


「……ッ」


 リサは面食らった様子で、目を見開く。


 そんな顔するくらいなら、死ねよ。


 俺はリサの腹を蹴って、距離を取った。リサは尻もちをつく形で、その場に倒れる。


「げほっげほっ」


 頭に血液が戻って、狭窄した視界が回復する。


「いつまでも自分が不幸みたいな顔してんじゃねぇよ」


 不幸なのはお前じゃねぇんだよ。


 俺なんだよ。


「そんなに死にてぇんなら、俺が殺してやるよ。俺が死ぬまで、ずっと」


 どくん。


 心臓が鳴る。






 ジ……。ジジジ……。






 ジジジジジジジ……。






 何かが焼き爆ぜるような音が鳴る。


 見ると、俺の心臓から糸が伸びている。澄明な赤色をした、一本の細い糸。


 その先には……。


 リサがいる。


 思わず、笑ってしまう。


 俺は、俺は——。







 運命にはなれない。









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運命にはなれない。 人影 @hitokage2023

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