凸凹

過疎

第1話

「手、出して」

 不意に彼がそう言って、こちらに手を伸べた。握りこぶし五つぶんだけ空けて隣に座っている俺が「はぁ?」と訝しんでも、眉ひとつだって動かさずに待っているようすは、まるで俺を急かしているみたいだ。俺は箸の先で行儀よく咀嚼を待つ玉子焼きを見て、彼の顔を見て、箸を下ろした。差し出されたままの手のひらが誘うように揺れるのをみとめて、しぶしぶ腕を持ち上げる。

 そうして俺の手のひらの上に乗せられたのは、つやつや輝く、豊満なオレンジだった。

 果肉が詰まったそれは、いやにぎっしりとした感触を手のひらに伝えてくる。意図を図りかねた俺がふたたび「はぁ?」と声をもらしたあたりで、彼はオレンジを指しながら口角をつり上げた。

「あ、その反応は、もしかしなくても知らないな?」

「とつぜんオレンジを渡されて困惑しないやつがいるなら、俺はそいつの顔を拝んでみたいね」

「いや、もしかしたらいるかもしれないだろ。ほら、あり得ないくらいオレンジが好きなやつ、みたいな」

「残念ながら、俺はその前提条件には当てはまらないな」

 畳んだ弁当包みの上に哀れなオレンジを置いて、膝の上にある弁当箱をつつきながら、俺は答えた。彼が突拍子のないことを言うのはいつものことで、決して長くもない付き合いの中で、俺のほうはすっかり慣れきってしまったのだ。

 俺の芳しくない返事に気を良くしたのだろうか、彼はにやりとして続ける。

「つまり知らないってわけだ」

「だったら何だって言うんだよ」

「それはそれは、我ながら罪なオレンジだなと思って」

 ゆらゆらと笑うこいつは人を小馬鹿にするのが生き甲斐なのだろう、とひとりで納得すれば、俺の思考を読んだかのようなタイミングで「僕はいたって真面目に言ったんだよ」と、げに楽しそうに彼は言った。真面目という言葉の概念について、黙想したくなるくらい説得力がない。それだけは確かだ。ふたたび玉子焼きをつまみ上げた俺を見て、彼は慌てたように口を開く。

「あ、ちょっと待てってば。ほんとうにきみってやつは、ひとのはなしを真剣にする気がないのか?」

「人の話じゃない。お前の話の間違いだ」

 ぱくり。口に含んだ玉子焼きがほろりとほどけて、甘じょっぱい塩味が口腔に広がる。暫時彼は俺が黙々と箸を動かすさまをじっと注視していたが、ついに根負けしたのか「わかった、教える。教えるよ」と諦念に侵されきった声をあげた。ちらりと盗み見た彼の横顔が、なぜだか少しだけ不自腐れたように映ったのは見間違いだろうか。

「これは、オレンジの片割れ」

「片割れって言うには大きすぎる気がするけど」

「だって、本当に割ったら手が汚れるでしょ」

 彼はむ、と頬を膨らませた。さも当然だという表情で告げられた言葉に、こちらがますます困惑したのは言わずもがな。彼がおもてを背けたのは、きっと眉根を寄せた俺の視線から逃れるためだった。

「とある国のことわざなんだ。意味は、そうだな。強いて言うなら『あなたはわたしの半身』ってところ」

 ふぅん、と返した気のない相槌は、俺の心をそっくりそのままに表わしていた。

 彼は尚も言い募る。

「でもほら、このオレンジは丸いだろう。それはもう妬ましいくらいに」

 まるまると肥えたオレンジに指先で触れながら、彼はふわりと言葉を落っことした。落っことされたそれらは俺の足元をころりと転げて、それから、空気に馴染んで薄まってゆく。その尾っぽを掴み損ねたこちらのことなんて歯牙にもかけず、彼は連綿と科白を重ねる。

「だから、もとからひとつのものだったこいつは、はんぶんに切り裂かれる苦痛を知らないんだよ」

 彼の人差し指がオレンジの表皮をなぞっている。それはちょうど、ぱんぱんに実を詰まらせた果実を天辺から両断する、そんな動きだった。

「僕らはずっと、切り落とされた半分に、向かい合った頬に、触れられなくて悩んでいるっていうのに」

 影と影を重ね合わせるような、もしくはひかりを遮るような。彼は、それをどうしようもなく切望している。「球体だった人間は、神さまの怒りを買ってばらばらにされてしまったから」と呟いた彼の瞳は真っ直ぐ俺のそれを貫いて、全く本気じみた態度が甚だ滑稽だった。いたずらに無垢なようすと零される言葉とのちぐはぐさが、腹の底をにわかに騒がしくしたあとで、ゆったりと退く。

「このオレンジでふたりがひとつになれるなら、たったいちどだけ、試してみるのもいいかなって」

 果実から離れた指先は、なまあたたかい響きとは裏腹だった。いっぱいの恥ずかしさに期待をひとさじ加えて、出来上がったものは悔悟だとでも言いたいのだろうか。

 だというのに、俺が吐き出したのは、彼以上に滑稽でつまらない台詞だった。

「それが、俺にこれを渡した理由になるって?」

 ひたり、交わった視線がほのかに緊張感をはらむ。なるよ、と呟いたのは彼で、ならない、と反駁したのは俺だった。いや、反駁したいのが、俺だった。片腕を緩慢に持ち上げて、口元を覆う。こもる吐息を丁寧に吸い込んだのは、ことさら体が熱を持ったからに違いない。

「…こんなのまるで、一生涯の告白じゃないか」

 目線をそろりと横に流した。これは諸刃だ。その証左に、彼も俺も揃って耳が赤いし、全身が心臓に取って代わってしまったみたいに、どくどくと波打っている。せり上がってくるものは焦燥か、彼がひとさじだけ掬って垂らした期待か。とにかく俺は準透明のそれを大事に捨い上げて、彼の手のひらに乗せてやることしかできなかったのだ。

 俺の手から彼の手に渡ったそれは、みずみずしい弾力と爽やかな橙色をまとっていて、文句の付けようもないくらい、丸い。

 どっかりと居座るそいつは、ただ柑橘の芳香を周囲にまき散らしながら、堂々と彼の視線を独占している。そんな一挙手一投足がささやかに癪にさわるというのは、あまりにも自分勝手が過ぎるだろうか。

「ねぇ、どうして返してきたのさ」

「お前が。半分にはしたくないみたいだったから」

「えぇ、きみ、おかしいよ。真っ二つになったって、どんな形であっても、オレンジはオレンジのままなのに!」

 何が琴線にふれたのか、笑いをかみ殺す彼は「ためらってた僕がばかみたいだ!」と叫んで、今度こそけらけらと声を上げて笑った。花びらをさらう、春の風みたいに軽やかに。

「それに、僕はこいつを後生大切に抱えていかなきゃいけなくなっちゃった」

 彼の胸にかき抱かれたオレンジが、窮屈そうにみしりと鳴く。やわい力でも悲鳴を上げる繊細さと果肉の重さだけが、ありもしないはずの過去の姿を連想させるようだった。ふたつの頭にひとつの頸、四本ずつ生えた手足とふたつの隠しどころ。それが俺たちだったのかもしれない。

「きみがオレンジに悋気を持つくらい、大切にしてやるからな」

 そのまあるい球体を面影で飾りたてたのは誰なんだ、と茶化すのはたぶん悪手だろうから、止めておいてやろうと思う。

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