月を飛ぶ蝶のように

増田朋美

月を飛ぶ蝶のように

その日も、暑い日で、なんだか外出するのも面倒くさくなってしまいそうな暑さではあるのだが、でもなんだか朝と晩は涼しくなってきてるかなと思われる日であった。まあ確かに、外出はなかなかできないのであるが、それでもやむを得ず外出する人も居るだろう。そういうときに役に立つのが、タクシーというものである。お金を払えば、運転手さんが目的地まで乗せて行ってくれるのだから。

「今日から、よろしく頼むよ。たくさん働いて、ぜひ我が社の発展に力を尽くしてくれれば。」

と、社長さんに言われて、木下佳子さんは、はいと小さな声で言った。ちなみに木下佳子さんは、この日から、運転手として岳南タクシーに就職したのである。応募したのは、ただ単に、ケアドライバー募集と、書いてあっただけのことなんだけど、長年勤めていた介護施設を退職して、その次の職場が見つかるまでの、腰掛けとして応募しただけのことである。だから、やる気というものは出なかった。

「声が小さい!もう一回!」

社長さんに言われて、木下佳子さんは、思わず

「はい!」

とむきになって言った。この職場では中年以上の男性ばかりで、女性である木下佳子さんは、なんだか日の丸弁当みたいな感じで、一人目立つような感じであった。他の運転手たちが、次々と、呼び出されて車を出していくのに、木下佳子さんは、何も指示が出なかった。まあ確かに、学校と違って、こうしろああしろと指示をされることは、あまりないといえば無いのだが。

ぼんやりしていると、電話がなった。

「はい。岳南タクシーでございます。はい、はい、わかりました。どちらまで行けば良いのでしょうか?ああ、はい、呉服屋ですね。それで、UDタクシーを希望ということですね。それでは、すぐにUD車でまいりますので、しばらくお待ち下さい。はい、よろしくどうぞ。」

と、受付係がそういう事を言っている。どうせ私ではなくて、別の誰かが行くのかなと木下佳子さんが思っていたのであるが、

「おい、木下さん、今から大渕まで行ってくれ、場所は富士山エコトピアのすぐとなり。そこの玄関先でお客さんが待っているそうだ。車椅子の方が一名いらっしゃるそうだから、慎重に頼むよ。そして、行き先は増田呉服店だそうなので、よろしく頼む。」

と、社長さんに言われて、木下佳子さんは、ハイと思わず言った。

「UDタクシーを希望しているそうだから、ケアドライバーとしてここに入った人にちょうどいいと思ってね。」

社長さんはそういうのだった。全く、そういうときに限って、男の人達は称号を使いたがるんだからと木下佳子さんは思いながら、仕方なくワゴンタイプのUDタクシーを走らせて、富士山エコトピアまで走っていった。ちなみに、UDタクシーとは、最近流行り始めたタクシーで、大型のワゴン車を使用し、車椅子でも乗り込めるようになっているタクシーである。静岡県ではみんなのタクシーと言っている。他の県では、また別の呼び名があるらしい。

木下佳子さんが、富士山エコトピアの近くに行ってみると、車椅子の男性と、一人の女性が、日本家屋のような建物の前で待っていた。

「ああきたきた。こっちだよ。ちょっと乗せてくれ。よろしく頼むぜ。」

車椅子の男性が手を上げて言った。木下佳子さんは、すぐにタクシーをその建物の前で止めた。

「はい、岳南タクシーでございます。えーと呼び出されたのは、影山様ですね。」

木下佳子さんが言うと、

「うん、名前は、影山杉三だけど、杉ちゃんって言ってね。こっちは、親友の峰岸艶子さん。」

と、車椅子の男性、つまり杉ちゃんが言った。

「はい。わかりました。じゃあまず影山様は後ろに車椅子で乗っていただきます。」

と、木下佳子さんは、後部のドアを開けて、スロープを出し、杉ちゃんを後ろの席に乗せた。ついでに峰岸艶子さんと紹介された女性が、自分は何処に乗ったらいいのかと聞いてきたので、木下佳子さんは、助手席に乗ってもらうように言った。峰岸艶子さんがそうすると、

「じゃあ行きますね。えーと行き先は、増田呉服店という呉服屋さんですね。それでは、行きますよ。」

と、木下佳子さんは、助手席のドアを閉め、タクシーのエンジンを掛けて、増田呉服店に向けてタクシーを走らせ始めた。

「今日は、呉服屋さんに用があるそうなんですね。なにか祝い事でもあるんですか?結婚式とか、そういうことですか?それともそちらの女性の方がまだ若いようだから、成人式で使う振袖でも買われるんですか?」

木下佳子さんがそうきくと、

「いやあ、成人式とかそういうことでは無いんですけどね。彼女は、着物で出かけたいので、それで買いたいっていい出してさ。それをお手伝いするだけだよ。」

杉ちゃんはすぐいった。

「それでは、なにか式典でも呼ばれたんですか?」

と木下佳子さんが聞くと、

「そういう高尚な式典に呼ばれるほどの身分じゃないよ。」

杉ちゃんはすぐ言うのだった。

「そうじゃなくてね。ただ、着物を着て、コンサートとか展示会とか、そういうところにいったり、友達のところに食事にいったりするときに着用するのさ。」

「そうなんですか。そういうことだったら、私は洋服で済ませてしまうけど、なんでわざわざ着物なんですか?呉服屋さんに買いに行くなんて。」

木下佳子さんは一般人なら持ちやすい感想を言うのであるが、

「うーんそうだね。でも、着物を着ることによって、すごい嬉しいことが得られる人間も居るんだよ。例えば、すごいコンプレックスに悩んでいる人間がいたとする。だけど、着物を着ているときは、そういう自分は居ないんだなって気がつくことができて、着物を着ているときは、楽しくしようという気持ちになれるもんでもある。それで、着物を着て、出かけるようになれば、出かける先が増えて、対人恐怖症の症状は減少する。それを狙って僕らは、彼女に着物を着ることを勧めたわけだ。だから、一種の変装療法かな。着物セラピーとでも言うのかな。ははは。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうなんですね。でも、着物を買うのって何十万もするんでしょ。それならなかなか手が出ないのでは?」

木下佳子さんはそう言うが、

「ええ、そうかも知れませんが、それは新品着物であればの話。リサイクル着物であれば、数百円で買えることもあるよ。だから大丈夫。」

杉ちゃんはそういったのであった。

「それでは、そちらの方は、なにか持病でもあるんですか?確かに、車を運転しないでタクシーを利用されるのは珍しいものですからね。」

木下佳子さんは思わずそう聞いてしまった。

「そうだね。彼女は、ちょっと、精神疾患があってね。先程もいっただろ。対人恐怖症って。学校の先生が怖くなってそれで外へ出れなくなっちまったらしい。そういうわけだから、着物を着させて、惨めな思いをしている彼女をなんとかしてやりたいと思ったわけよ。」

杉ちゃんはにこやかに言った。

「そうなんですね。着物セラピーか。そうやって社会に着物が役にたてるように、しっかり考えていらっしゃるんですね。着物って、もう役目を終えたのではないかと思いましたが、意外にそうでも無いのかな?」

「まだまだ、着物は役にたつさ。こういうね、どうしようもないものにたいして、自分が変わるしか無いってときに、着物は手助けしてくれるわけよ。人間は、どうしてもそうしなくちゃならないことだってあるんだよね。そういうときに着物ってものは、自分を別な人間にしてくれる。それが、どうしても変えられない日常生活に挑めるきっかけになる。こんなすごいことがあるかな?それができるのは着物ならではだと思うよ。」

杉ちゃんに言われて、木下佳子さんは、

「そうか。感慨深いものがあるわ。」

と思わず言ってしまった。助手席に座っていた、峰岸艶子さんが、

「あたしも、さんざん薬で対人恐怖症の治療をしてきたんですけど、なんかたくさん薬を飲むよりも、着物を着たほうが、ずっと早く治りそうです。」

と照れ笑いをしてそういうのだった。それと同時に、タクシーは増田呉服店の前で止まった。

「へえ、これが呉服屋さんか。なんだかそういう感じしないわね。呉服屋さんは、もっと立派な店構えで、すごいところだと思ったけど、この店はそんなに大きな店では無いし、小さなブティックみたい。」

思わず、木下佳子さんが、そう言ってしまうほど、小さな店であった。

「ありがとうございます。いくらになりますか?」

と、艶子さんがそうきくと、

「はい。1300円です。」

木下佳子さんはそう答える。介護タクシーと違って、基本介助料などはつかず、ただ走行距離の運賃だけ払えばいいのだった。艶子さんが、1300円支払うと、木下佳子さんはありがとうございますと言って、それを受け取った。

「じゃあ、ありがとう。またどっかで御縁があったら、乗せてくれよな。それではありがとうな。」

杉ちゃんに言われて、木下佳子さんはちょっと照れくさいなと思いながら、二人を急いでタクシーから降ろした。そして自分はタクシーに乗り込むと、

「また御用がありましたら、いつでも言ってくださいね。」

と言って、タクシーのエンジンを掛けて、岳南タクシー営業所に戻っていった。営業所に戻ると、また呼び出しがない時間が続いた。他のおじさんたちは、普通のセダンを運転して、楽しそうにタクシー運転手のしごとをしているけど、あたしは、ケアドライバーとして来てるんだ。そうなると、UDタクシーを頼む人も少ないのかなと思ってしまった。

それから、木下佳子さんは毎日決まった時間に営業所に出勤したのだが、やはりUDタクシーをお願いしたいというお客はそうは現れない。タクシーに乗って、病院まで行きたいというお年寄りから依頼が来たことがあったが、逆を言えばUDタクシーを病院以外の用事で使いたがる人はそうは居ないのである。なんだかつまらないところに来ちゃったなと木下佳子さんは思うのであった。まあ、どうせ新しい介護施設に雇って貰えればこの仕事もやめるつもりだったので、それほど重要視していなかった。仕事の合間に、介護施設でまた働かせてもらえないか、いつも募集サイトなどを見ているんだけど、彼女に適した介護施設はほとんど無い。なんだかあまりにもタクシー会社の仕事がつまらなすぎて、木下佳子さんはだんだん気分が滅入っていってしまった。UDタクシーの仕事なんて、何の役にも立たないのかなと思っていたその時。

「木下さんに電話です。お母さんから。」

と、隣の席に座っていた、タクシー会社の事務員が彼女に受話器を差し出した。

「はい木下です。ああ、お母さん。何なのよ、こんな時に。今仕事してるんだから、あとにしてくれないかしら?」

佳子さんがそう言うと、

「違うのよ。敦子が、またやらかしたのよ。だから、お母さんもしばらく敦子のそばに居てあげようと思うのよ。」

電話口でお母さんはそう言っていた。

「敦子、ねえさんがまた何かしでかしたの?」

佳子さんのお姉さんの木下敦子さんは、精神疾患で長らく働けていなかった。あのときの艶子さんとか言う人と同じ。学校の先生に酷いことを言われて以来、ほとんど外に出ていない。そして、つらいことがあるとこうして薬を大量に飲んだりとか、そういう事をしでかすのである。佳子さんは、そういう事は早く忘れてしまえばいいのになと思うけど、姉の敦子さんにはそれができないらしい。いつまでも、つらい思いをした学校の事を口走り、時には死にたいと言い張り、そうやって自殺未遂をしでかすのだった。

「じゃあお母さん、しばらく敦子のところに居るから。佳子は、ちゃんと仕事に行きなさいね。あんたは、あんたのままでそれで居てくれればいいんだからね。」

お母さんはそう言うけれど、佳子さんは、その言葉ほど傷つくセリフは無いと思った。そんな事できるわけが無いじゃないか。そういう事を人に話したら、精神障害者の妹かとばかにされるだけだ。それを言うのならずっと隠して置きたいと佳子さんは思うのであった。だから、できるだけ姉のそばにも居たくないのである。母はちゃんと姉のそばにいると言うけれど、そんな事絶対私にはできない。母は強しだなと佳子さんは思った。

しかし、その電話があって数日後。木下佳子さんが、自宅であるアパートメントに帰ってみると、佳子さんの部屋の前に、一人の女性が経っているのが見えた。

「お母さん!」

思わず佳子さんは言ってしまう。とりあえず、玄関先に居るのも困るので、部屋の中へ入ってもらい、テーブルに座ってもらってお茶を出してやった。

「どうしたの?ねえさんは?」

「敦子は、病院に居るわ。お母さん、なんだか人生失敗しちゃったのかなと思って、あんたのところに来ちゃった。」

珍しく母がそういうことを言ったので、佳子さんは耳を疑った。

「それではねえさんは今精神科に?」

佳子さんが言うと、母は力なく頷く。

「まあ、日増しに酷くなるわ。でも、他の人に助けてくれなんて言っても、何もしてくれないでしょうしね。だから、思わず来ちゃったのよ。こっちへ。」

母が、車を運転できるのが、まだ幸せだと佳子さんは思った。それがなくなったら、一日中母は姉の事を考えなければならなくなって、もうにっちもさっちも行けない状態になってしまうかもしれなかった。

「そうなのね、まあ良かったじゃないの。ねえさんにやられて怪我でもしたら、お母さんのほうが大変よ。それより病院に居させてもらったほうがよほどいいわよ。」

とりあえず佳子さんはそういったのであったが、母はそれを肯定しようとはせず、

「そうかしらね。」

と、言うのだった。

「時々思うことがあるのよ。あたしのせいで敦子はああなったのかなって。あたしが、もう少しあのとき敦子の話を聞いてあげれば、ここまで酷くなることはなかったかなとか、考えちゃうのよね。」

「そんなことはないわ。姉さんも悪くないし、悪いのは病気だって、精神科の先生は仰っていたじゃない。だから、それに従っていれば大丈夫だってあたしたちはそれで散々やってきたんじゃないの。」

佳子さんはそういうのであるが、お母さんは、そうは思えない様子だった。

「変な事言わないでよ。お母さんまでねえさんと同じようになったらあたしはどうするの!」

と思わず佳子さんは言ってしまうが、

「そうよねえ。あんたはまだ結婚もしてないし、子供を持ったこと無いから、そういう気持ちにならないだけよ。なんかお母さんもう疲れてきちゃった。」

母はそういうのだった。この言葉に、佳子さんは母に老いというものがだんだん力を見せ始めてきたんだなと思った。はじめは、強気で当たっても、母はそうなってしまうのだろう。老いて体も衰えてきてるから、気持ちも弱くなってしまうのである。

でも、佳子さんは、姉の敦子さんの世話をする気にはなれなかった。

「このままこんな生活が続いてしまうのかなって考えると、もうつらくて仕方ないわ。あたしは、敦子をあんなふうにしてしまったから、もう幸せになっては行けないのかなって、落ち込むこともあるのよ。」

母がそう言っているのを聞いて、佳子さんはあることを思いついた。

「まあ確かに、ねえさんのことは誰も変えることはできないでしょうよ。これからもそうなっていくと思うわ。だったら、お母さんも自分を大事にしてさ、偶にはねえさんを施設に預けて、着物を着てでかけてみれば?」

「着物?まあ何を言っているの、この年になってそんな贅沢は。」

と、母は言っている。

「贅沢なんかじゃないわよ。リサイクル業者に頼めば、数百円で買える事もあるんですって。だから、お母さんも私も、着物で出かけることでいい気分転換ができたら、そりゃ楽しくなるんじゃないの?」

佳子さんはにこやかに言った。

「だけど、あっても高価なものだからめったに着られないわよ。」

お母さんがそう言うが、

「でも、数百円で買えるんだったら、そういう気持ちも起こらないんじゃないかしら。どうせ、数百円で買ったんだって思えば、着物もすぐに着てみようかなっていう気持ちにもなるし。」

佳子さんはそう話を続けた。

「佳子がそんな事言うなんて、何だか佳子も変わったわね。お母さんも敦子をなんとかするには変わらなければだめだっていろんな人に言われてきたけど、結局変わらないできちゃったからね。」

お母さんがそう言うと、

「だって、今の生活が苦痛になってきたら、変わるときよ。それは、そういうことなんだと思うわ。だったら、お母さんも変わりましょうよ。あたし、ねえさんの世話はできないけど、そうやって提案することはできるわ。だから、お母さんも偶には着物着てでかけてみたら?」

佳子さんはにこやかに笑った。

「佳子がそんな事言うなんて。ずっと介護施設で働いてたから、誰かきもの好きなおばあさんにでも出会ったのかしら?」

お母さんはそう言うが、

「いいえ、タクシーの運転手を始めて、そのお客さんから聞いたのよ。」

と佳子さんは答えた。

「そうなのね。じゃあ、新しい仕事を始めて、佳子も変わってるのかな?」

お母さんは親らしい顔をしている。そういうところは親でなければなかなか気が付かないだろう。

「まあ私のことはどうか知らないけど、でもこないだタクシーに乗せたお客さんで、対人恐怖症を治療するために着物を着て出かけるという女性を乗せたの。その言葉を聞いてなるほどと思ったわ。着物を着ていれば、惨めな思いをしている自分は居ないんだもんね。それは確かにすごいことになるものね。」

佳子さんはそうお母さんに言った。

「もし、店にいってみたかったら、私が運転してもいいわよ。そのお客さんに教えてもらった、ほんとに小さな店だけど、着物が手に入る店。」

「そうね。そうしてみようかな。佳子が、そうやって人のためになにかしたのは初めてね。佳子も、変わってきてるわね。そうなったら、私も変わっていかなくちゃいけないのかな。」

お母さんは、佳子さんにそう笑い返したのだった。

気がつくと夜になっていた。その日は、スーパームーンとかで月が美しく見えるひだという。所々に虫の声も聞こえる。ほんとに小さなことだけど、変わっているのかもしれなかった。



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月を飛ぶ蝶のように 増田朋美 @masubuchi4996

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