エピローグ
階段をゆっくりと下りてくる足音が聞こえる。
朱里はそれまで観ていたテレビを消し、急いでベッドに潜り込んだ。頭から毛布を被り、寝たふりをする。
やがて、部屋の扉の鍵を解錠する硬い音が耳に届く。重い金属を引きずるような重厚な音と共に、扉が開いたことがわかった。
「朱里、寝てるの?」
母の声が地下室に響く。しかし、朱里は答えない。笑い声が漏れないよう、口を押えつつ、なおも毛布を被ったまま、寝たふりを続けた。
背中に、母の愛情のこもった視線が注がれていることがわかる。朱里は、温かい気持ちに包まれた。
しばらくの間、静けさが訪れる。そして、扉を閉める音が聞こえ、母が部屋の中へと入ってくる足音がした。
部屋の中央にあるテーブルに、何かが置かれた。その後、母はベッドの側まで歩み寄ってくる。
母がこちらを見下ろしていることが気配でわかった。ぞくぞくとした楽しい感じが、背中から首筋へとかけて走る。
「わかっているわよ。朱里」
母の優しげな声がした。朱里はそれでも答えない。だが、笑いを堪えているせいで、体が小刻みに震えていた。母からもそれは見て取れるだろう。
「寝たふりをする悪い子は……」
母は冗談めいた愉快な声でそう言う。朱里の楽しさは、最高潮に達した。
「こうだ!」
母は、毛布越しに朱里をくすぐった。朱里は体を仰け反らせながら、子供のような歓声をあげ、毛布を取り払う。
目の前に母の姿が見えた。白髪が交じった頭髪。顔も以前より皺がはるかに多くなり、老婆と言っても差し支えないほどに老けている。やはり。老いていく親を見るのは悲しい。
もっとも、今の自分も人のことを言えた状態ではないが……。
母は目尻に深く皺を刻み、笑顔で言う。
「やっぱり寝たふりしてた。あなたのやっていることは何でもお見通しなのよ」
「うん。ばれちゃった」
朱里は母に抱きつく。折れそうなほどの華奢な母の体格が、パジャマ越しに伝わってきた。母はまた随分と痩せたようだ。それとも、現在の朱里の体型のせいで、そう感じるだけなのだろうか。
母は、朱里の頭を優しく撫でた。
「お腹空いたでしょ? ご飯持ってきたわ」
「今日のメニューは何?」
母は含み笑いをする。
「ハンバーグよ」
「やった!」
朱里は目を輝かせた。母の作る自家製ハンバーグは絶品だ。ソースも手作りである。すぐさま、朱里の口の中に涎が溢れ、お腹がぐうと鳴る。
母は朱里のお腹の音を聞くと、満足したように頷く。それから朱里の元を離れ、テーブルへと近付いた。そして、朱里を手招きする。
テーブルの上には、布が覆い被さったトレイが置かれてあった。一部分が不自然に盛り上がっている。
朱里は喜び勇んで、テーブルへと駆け寄り、椅子へと座った。目の前に置いてあるナプキンを首からかける。
朱里の準備が整ったことを確認した母は、トレイの上の布を取り払った。布の下から姿を現したのは、白い食器に乗ったハンバーグだ。母お手製のデミグラスソースがかけられており、畑で採れた野菜も添えてある。
それだけではない。なんと、もう一皿、から揚げまで付いていたのだ。このから揚げは母のサプライズに違いない。朱里を喜ばせるために内緒にしていたのだ。引っ掛かった。やるなお母さん。
そして、朱里は食器の隣に置かれてある生首に目を向けた。女性の生首だ。蠱惑的な容貌をした綺麗な人。このハンバーグとから揚げの材料となった肉の持ち主。
この人は、どことなく、かつて同僚だった駒形詩緒に似ている気がした。
もう随分前になるが、詩緒の肉も大変美味しかった。脂が適度に乗った、ジューシーな味と食感。大きな胸をステーキにして食べた時は、思わず舌鼓を打ってしまったほどである。かつて彼女が言っていた
その詩緒に似ているのなら、この女の人の肉も期待できるかもしれない。
朱里は母に訊く。
「この人はどんな人?」
母は、グラスに赤ワインを注ぎながら、答えた。
「有楽町の化粧品会社で働いていた二十四歳のOLよ。学歴が高くて、頭も良いみたい」
「ふうん」
ワインを注ぎ終った母は、朱里の耳元に口を近付け、囁くようにして言う。
「この人は水泳を趣味にしているんだって。お父さんが身辺調査している時に、知ったことよ」
「へえー」
朱里は改めて、元OLの生首を眺めた。やや肉付きがよく見えるが、実際はスポーツウーマンだったようだ。
「それなら、身も引き締まってるんじゃない?」
母は、自信満々に頷いた。
「その通り。解体したお父さんが言ってたわ。これは上等な肉だって」
「わあ」
朱里は歓喜の声を上げる。さすがは父だ。娘が気に入る肉を完璧に見繕うことができている。
再び、朱里のお腹が鳴った。さっきからお腹が鳴りっぱなしだ。空腹も強くなっている。拒食症とは無縁の感覚。ああ、なんて素敵な音色なんだろう。
母にお腹の音を聞かれ続けたせいで、朱里は少し恥ずかしくなった。だが、母は喜んでいるようだ。にこやかな表情を作ると、朱里の頭を撫でる。
「さあ、食べなさい。もうお腹ペコペコでしょ?」
母は、ナイフとフォークを朱里へと手渡す。
「うん」
朱里はそれを受け取り、料理を見つめた。
唯一、朱里が口にできる食べ物。昔は、危険を犯してまで手に入れていた食材。今はこうして、両親が、愛する娘のために用意してくれている。これまでも、これから先もずっと、その庇護は続くだろう。
この親の愛に満ちた世界こそが、両親と朱里にとっての幸せなのだ。
ハンバーグからは、デミグラスソースの甘い香りが漂っている。から揚げもできたてらしく、肉汁が滲み出ていた。
思わず、吐息を漏らす。とても美味しそうだ。
「いただきます」
朱里は人肉を前に、溢れた涎を飲み込んだ。
私の肉を食べないで 佐久間 譲司 @sakumajyoji
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