第九章

 武谷の逮捕を受け、社内は騒然となっていた。


 情報の出所は、新田が受けた警察からの電話だった。休職中の武谷が家宅捜査を受け、逮捕されたとの内容だ。現在取調べ中らしい。


 新田の口からは罪状までは出なかったが、警察がわざわざ会社へ従業員の逮捕を報告してくるということは、重大事件か、あるいは横領や他の従業員が被害者になったなどの、会社絡みの事件である。


 今回はその両方に当たるだろう。朱里の情報提供を受け、武谷の部屋を警察が調べた結果、そこで同僚である西阪の死体を発見したのだ。そして、現場の状況から死体遺棄容疑で逮捕、取調べという流れになったのだろう。


 朱里達が問い詰めた際、あれ程うろたえた武谷だ。警察の追及を受ければ、西阪への殺人のみならず、『令和の食人事件』の犯人としてでも、子供のように簡単に自白するはずだ。


 西阪の殺人でのニュースがまだ報道されていないのは、もしかすると、すでに洗いざらい自白し、『令和の食人事件』の容疑者としてでも、取調べを受けているせいなのかもしれない。


 そうなれば、もう時間の問題だ。近い内にニュースで大々的に報道されることは必至だ。世間は大騒ぎすることだろう。連続猟奇殺人事件の犯人が、白日の下に晒されるのだから。


 そうなると『四谷総合商事株式会社』は騒動どころ話ではなくなる。アルバート・フィッシュ並みの猟奇殺人者を輩出したのだから、会社の存続すら危ぶまれるかもしれない。自分も退職を検討する必要が出てくる可能性はあった。


 しかし、そんなことは二の次だ。何よりも、食料を確保することが先決だった。すでに西阪の肉は、全て食べ終えてしまった。体型もほとんど元に戻ったが、また食べる物がなくなったのだ。


 朱里の予想通りならば、武谷はそう遠くない内に、連続殺人事件の容疑で起訴されるだろう。そして、それから有罪判決が下されるはず。そうなれば、捜査本部は解散し、『令和の食人事件』での捜査は行われなくなる。蓬田刑事の疑惑が解消するまで耐えれば、また食料が手に入るのだ。


 それまでの辛抱である。




 「近内さん、体型が元に戻りましたね」


 受付業務が全て完了し、ロッカールームで着替えている時である。詩緒がそう言ってきた。


 朱里は下着姿のまま、首肯する。


 「ダイエットを止めたからね」


 「今の体型の方が絶対いいですよ。前はちょっと痩せ過ぎてました」


 「そうかもね」


 食料が尽きてしまったので、再び痩せてくるだろうが。


 「近内さんの体型が元に戻って、本当に一安心です」


 詩緒は、胸元に手を当て、安堵したような表情を浮かべた。自然と詩緒の胸に視線がいく。やはり美味しそうだ。西阪の肉がなくなった代わりに、詩緒の肉が欲しい。


 朱里はカットソーを着ながら、詩緒へ謝罪する。


 「ごめんなさいね。色々と心配かけて」


 「いいんです。近内さんの体型が元に戻って何よりですから。以臓補臓の話の通り、美味しい物を食べて元の体型に戻ったんですね」


 偶然だろうが、詩緒の口から的を射た言葉が出て、少しどきりとする。


 「ええ。そうね」


 内心を悟られないように、朱里は肩をすくめて同意した。


 詩緒は微笑みで返した後、ブラウスを着用する。それでも強調される大きな胸が艶かしかった。以臓補臓と言うのなら、今の詩緒の肉がそれに相応しいだろう。


 詩緒は、デザインジャケットを上に羽織ると、声のトーンを落として言う。


 「それにしても、武谷さんが逮捕なんて驚きました」


 詩緒は実際、憂いているようだ。もの悲しさが、オーラのように全身から立ち上っている。肉体関係のある男が逮捕されたのだから、当然の反応だろうと思う。


 「一体、何の罪でしょうか。新田課長は教えてくれなかったし」


 「わからないわ」


 新田は、他の社員から武谷の容疑を尋ねられても、青い顔をして首を振るだけで、教えようとはしていなかった。どこまで彼が警察から聞き及んでいるかはわからないが、少なくとも、同じ会社の同僚が被害者であることは伝えられているはずなので、そう簡単に口外できないのだろう。


 「武谷さん、刑務所に行くのかな」


 「まだ有罪と決まったわけじゃないわ。冤罪かもしれないし」


 朱里がそう言うと、詩緒は顔を僅かにほころばせた。


 「そうですよね。武谷さんが犯罪なんてするわけないです。何かの間違いですよ。きっと」


 詩緒は朱里のおためごかしを真に受けたのか、本気で武谷の無罪を信じたようだった。


 しかし残念ながら、その希望は儚く潰えるだろう。そう遠くない内に、武谷の所業が世間の明るみに出るからだ。常軌を逸したの犯人として。


 そのニュースを知って、詩緒はどのような反応を見せるのだろうか。大層落ち込むのか、それともただの肉体関係があるに過ぎない男だから、すぐさま忘れ去るのか。


 前者ならば、朱里がなぐさめることができる。そうなると、あわよくば、詩緒の肉を食べるチャンスが生まれるかもしれない。


 武谷の犯行が世間に知られた後だから、『四谷総合商事株式会社』は窮地に立たされるだろう。朱里も詩緒も、退職を余儀なくされる可能性が出てくる以上、同僚の立場の時より犯行はしやすくなる。


 とは言っても、そう何人も現職場や元職場から行方不明者が出てしまっては、さすがにあの刑事以外にも、朱里に目を付ける者が出てくるかもしれない。現時点で、あのような刑事が現れたのだ。ほとぼりが冷めるまで、詩緒を狙うのは控えるしかないのが実情だろう。


 それで構わない。楽しみは後に取っておいた方がいいという言葉もある。今は何より、蓬田刑事の目が朱里から逸れるまで待つことが先決だ。


 朱里は、詩緒の果実のような瑞々しい体を眺めながら、夢想を脳内へと展開させた。詩緒を絞殺し、解体した後、胸を輪切りにするのだ。それから豪快にステーキとして焼く。それからオニオンをベースにした特性ソースをかけ、噛り付く。例えようもない濃厚な肉汁を味合うことができるだろう。


 その時を楽しみにしている。




 目黒の部屋へ戻ると同時に、卓上電話が鳴り響いた。まるで朱里の帰宅に合わせたかのようなタイミングだった。


 電話に出ると、男の声が耳を突く。相手は蓬田刑事だった。


 「夜分にすみません。近内朱里さんのご自宅でしょうか?」


 「はい。そうですが……」


 何の用だろうか。朱里の胸がざわめく。武谷は逮捕されたのだから、捜査対象はそっちのはずである。それとも、危惧した通り、武谷の口から朱里が食人行為を行っていることを耳にしたのだろうか。


 それなら誤魔化しきるしかない。証拠はないのだから、知らぬ存ぜぬで通せば、蓬田刑事が深いところまで踏み込んでくることは難しいはずだ。


 受話器を通して、蓬田刑事の低い声が耳へ響く。


 「申し訳ないが、またあなたに事情をお聞きしたくてお電話差し上げたんですよ」


 やはり聴取の催促だ。朱里は毅然とした口調で言う。


 「お断りします。暇じゃありませんので」


 蓬田刑事の声が、さらに低くなった。


 「前回協力してくれるって言ったのに?」


 「事情が変わったんです。犯人が逮捕されたんですから、そちらをお調べになったらいかがですか?」


 蓬田刑事は怪訝な口調になる。


 「犯人が逮捕された? 何の事件のことですかな?」


 おかしなシラの切り方をする男だ。それで上手く言い包めるつもりなのだろうか。


 「ですから西阪さんの行方不明の件についてです。私の情報を元に、武谷さんの部屋を家宅捜査したんでしょう? そこで西阪さんが行方不明になった証拠が見付かったから、彼を逮捕したんじゃないんですか? それに私がお伝えしたように、『令和の食人事件』の容疑としても追及しているんじゃないですか?」


 朱里が強い口調でそう言うと、蓬田刑事は、苦笑した。


 それから驚くべきことを口にする。


 「そんな容疑では逮捕していませんよ。武谷啓氏が逮捕されたのは、の容疑です」


 ? どういうことなのだろう。


 「上司から聞かなかったの?」


 「いいえ」


 蓬田刑事は、逮捕理由を話す。


 「実際に、我々はあなたの情報を元に、彼の家を訪ねたんです。一応ね。いやー極めて挙動不審だったですよ。まるで借金取りを前にした債務者のように、うろたえて」


 蓬田刑事の声は、どこか楽しそうだった。


 「それで、ちょっと脅しを掛けたら、拒否すればいいものを、簡単に我々を部屋へ通してくれましてね。そこで発見したわけです」


 朱里の推測では、西阪の死体があの部屋にあるはずだが……。


 朱里は訊く。


 「何を発見したんですか?」


 「大量の女性物の衣類です」


 朱里は耳を疑う。今、刑事は何と言った?


 「どういうことです?」


 電話越しに、蓬田刑事が息を吐いたのがわかった。


 「武谷啓は、女性の下着やパンストの類を盗む窃盗常習犯だったんです」


 窃盗常習犯? 殺人犯ではないのか? しかし、それならなぜ、武谷は朱里達に問い詰められた際、『令和の食人事件』の犯人だと認めるような言動を取ったのか。


 朱里は意味がわからず、混乱を来たし始める。その感情を電話越しに悟ったのか、蓬田刑事は説明を行った。


 武谷は、下着やパンストといった女性の衣類に対し、異常な執着を示す男だった。彼は、その性癖を抑えることができず、日々、一人暮らしの女性を狙って、干してある下着や、捨てたパンストをゴミ置き場から盗んでいたらしい。


 蓬田刑事達が部屋へ入ったところ、女性物の下着やパンスト類がカーペットのように、所狭しと並んでいたとのことだ。武谷は、多量の女性の衣類と常に触れ合いながら、部屋で過ごしていたのである。まるで、複数の恋人達と肩を寄せ合って暮らすハーレム王のように。


 「自分が勤める会社でも、犯行を行ったことがあると白状しましたよ。あなたの物も盗んだことがあるんだとか」


 蓬田刑事の説明を聞き、朱里の脳裏で記憶が明滅する。


 以前、ロッカールームから朱里のストッキングが消えたことがあった。てっきり、新田にでも盗まれたのだと思っていたが、武谷の仕業だったというのか。


 しかし、そうなると、いくつか合点がいった。


 まずは、以前、深夜に朱里のマンションの玄関先で武谷と邂逅をした件である。


 あの時、確かに武谷はゴミステーションの側にいた。蓬田刑事の説明が正しいならば、そこで武谷は朱里が捨てたゴミを狙っていたということになる。朱里からストッキングを盗んだことに味を占めてか、個人的な好みで標的にしたのかは判断つかないが、朱里が捨てたゴミ袋の中に衣類が入っていないか、確認しようとしたのだ。


 無論、朱里の住居やゴミを捨てる日などを把握する必要があるが、そんなことは造作もないだろう。


 そして、朱里に目撃され、逃げるようにして退散した。朱里を襲わなかったのは、ただの窃盗犯だからだ。


 それから会社の倉庫で、西阪と共に武谷を問い詰めた時。その際、武谷は朱里の犯人であるという指摘に、過剰なまでのリアクションを示した。今も警察の手から逃れ続けている『令和の食人事件』の犯人にしては、不自然なほどの動揺だったが、それは、ただ単に、朱里の所有物を盗んだ犯人として、軽挙妄動な反応を取ったに過ぎなかったのだ。それを朱里達が誤認しただけの話だろう。


 つまり、蓬田刑事の言うように、彼は西阪を殺しておらず、『令和の食人事件』の犯人でもない、ただの変態的な軽犯罪者であるということだ。


 「これでわかりましたか? 武谷啓が西阪氏の行方不明や『令和の食人事件』とは無関係であることに」


 蓬田刑事の言葉に、朱里は納得するしかなかった。


 では一体、犯人は誰なのか? 今、どこにいる?


 それに、武谷が犯人ではないとすると、大きな疑問が出てくる。なぜ、本当の犯人は、あのタイミングで西阪を殺したのだろうか。西阪が行方不明になったのは、武谷と一悶着があった直後の出来事だ。だからこそ、朱里は武谷の仕業だと踏んだが、武谷が犯人じゃないとすれば、どうして武谷とのいざこざに合わせるようにして、西阪を殺すことができたのか。偶然では決してないはずだ。


 倉庫で武谷と対峙した際、他に人はいなかった。直接対決が終わった後も、朱里と西阪は口外していない。それは、武谷も同じだろう。どうして、あの一件を真犯人は知ったのか。あの倉庫ですら監視していたということなのだろうか。


 押し黙った朱里へ、蓬田刑事の静かな声が聞こえる。


 「いい加減、本当のことを話してくれませんかね?」


 朱里は受話器を握り締めたまま、頭を抱えた。これでは、再び、朱里が『令和の食人事件』の容疑者筆頭となる。少なくともこの刑事はそう見做している。しかも、真犯人はまだ野放しだ。今も朱里の姿を淡々と監視しているのかもしれない。


 このままでは、人肉を得るどころの話ではなくなってくる。非常にまずい。


 「私は何もしてません」


 語尾が震える。蓬田刑事にもそのことははっきりと伝わっただろう。


 蓬田刑事が薄く笑ったのが、受話器越しに伝わってくる。


 蓬田刑事は言う。勝ちを取ったような声だ。


 「明日にでもあなたのお部屋へ窺いますよ」


 「来ても無駄です。私は応じませんから」


 蓬田刑事は、朱里の返答を聞き、ため息をつく。それから、諭すような口調で言った。


 「わかりました。では、あなたの言う通り、あなたが犯人ではなく、『令和の食人事件』の犯人が他にいるとする。そして、その人物は、西阪将彦も殺した。しかし、そうなると、次に危ないのは、千葉にいるあなたのご両親かもしれないね」


 「え?」


 朱里はごくりと唾を飲み込んだ。なぜ、そうなるのだろう。


 「どうしてです?」


 「だって君の身近な人間が、何人も不遇な目に合っているんだよ? 行方不明になったり、逮捕されたり。前の職場に引き続き、今回は同僚二人だ。極めて不吉だろう? そろそろ君の両親の番だとは思わないか?」


 蓬田刑事は、まるで自身が、朱里の両親を標的にでもするかのような風情で言ってくる。


 「……」


 朱里は返事につまる。刑事の言葉は否定できない。朱里が最も危惧していることでもある。だが、何か違和感があった。


 蓬田刑事は無言のままの朱里へ、唐突にある提案を行った。


 「それならこうしましょう。今度、プライベートでお話しませんか? 二人っきりで」


 「は?」


 何を言い出すのかと思う。


 「なぜそうなるんですか?」


 「いやね」


 蓬田刑事が頭を掻いたことが、電話越しにわかった。


 「通常の聴取だと、他にも人がいて、話し辛いことがあるんじゃないかと思ってね。直接事件とは関係ないことでも、何か抱えているようだったら話して欲しいし。もちろん、プライベートなので、口外はしないよ」


 はっと朱里は息を飲む。頭の中に極めて嫌なイメージが浮かんだからだ。もしかするとこの刑事は……。


 「それもお断りします。あなたにお話しすることは何もありませんから」


 朱里が強く言い切ると、蓬田刑事は、小さく鼻で笑った。肩をすくめたようだ。


 「そう。ならいいや。でもね、いくら拒否しても私はあなたを追うことを諦めないよ。どこへ逃げようと、休暇を取ってでも、追うから。ご両親の所に逃げてもね。だから、そういう意味でも、さっき言ったように、ご両親の身を案じていた方がいいと思うよ」


 朱里の中で、幻影のようなイメージが、次第に明確な形を帯びてくる。


 最初の聴取から疑問に思っていたことだ。どうして、この刑事は、これほどまでに朱里のことに詳しいのか。由佳の事件が発生して、さほど間がなかったはずだ。その短期間に、当たりを付け、調べ上げたとすれば、あまりにも早すぎる気がした。それほど優秀な刑事であるということなのだろうか。


 もしかすると、この刑事は、事件が発生するよりも前に、朱里がカニバリズムを行っていたことを知っていたのかもしれない。ずっと前から、朱里の身辺を常に監視し、朱里に決して勘づかれることなく、行動を把握し続けていた――。


 すなわち、


 そう考えると、納得できることがいくつかある。


 朱里に悟られることなく、朱里の犯行を把握できていたのも、相手が刑事だからだ。身辺調査は言うに及ばず、防犯が手薄な朱里のマンションを張り込むことなど、朝飯前だろう。一般人の西阪ですらできていたことだ。その西阪に発覚せずに、継続できるのは当然である。


 それから、由佳と彩夏を殺害できた方法も説明が付く気がした。


 この男は本物の警察関係者だ。警察手帳も持っている。夜、女性の住宅へ訪れたとしても、警戒はされ難くなる。それを利用し、由佳と彩夏を殺したのだ。朱里の手法を真似て。


 西阪を殺せたのも同じ理由だろう。


 イメージが明確な形を持ち、一つの筋書きが朱里の頭へ描かれた。


 どのタイミングかまではわからないが、この男は、過去の――おそらく前の会社で行方不明になった同僚の――事件を知り、朱里の存在へ目を付けたのだ。


 それから朱里の近辺を調べるうちに、朱里の所業を知ることになる。だが、刑事は逮捕に乗り出そうとはせず、ある行動に移した。


 自身も人を殺害する行動に。


 朱里の所業を目にし、感化されたのか、あるいは元からそのような願望があったのかはわからない。だが、朱里の計画を把握している刑事は、先んじて、由佳を殺害した。


 肉を取り去ったのは、朱里を飢えさせるためだろう。朱里が飢えれば、またすぐに狩りの計画を立てなければならない。それを利用し、再び彩夏殺害の計画を把握、朱里を隠れ蓑にして犯行に及んだ。


 そうすれば、自身の犯行は露呈することなく、朱里に罪を全て被せられる。しかも自身の手で立件できれば、一挙両得だ。


 最初の聴取の後、朱里を常に張らなかったのも、泳がせるためだ。その結果、西阪が現れ、これも殺害、朱里がますます疑われる材料となった。


 西阪を武谷とのいざこざの直後に殺せたのは、以前から武谷の犯行を知っていたからかもしれない。武谷との邂逅を察知した蓬田刑事は、朱里達と武谷が一悶着することを見越し、期を窺っていたということだ。


 先ほど、この男が匂わせた朱里の両親への危惧。それも本当のことだろう。こいつは、私の親も殺すつもりなのだ。そうすれば、また自身の殺人願望を満たすことができ、より濃厚に朱里が不利に立場へ立たされるしまうから。


 そして頃合を見て、朱里を逮捕。以前からのカニバリズム行為も判明し、『令和の食人事件』の犯人として、これ以上にないほどの容疑者として起訴、やがては死刑が下り、朱里はこの世から消える。真犯人は追及すらされないまま、世間を震撼させた事件の犯人を逮捕した敏腕刑事として讃えられて――。


 電話先にいるこの刑事は、それを可能としている。こいつが、この男こそが……。


 「納得できましたか」


 余裕を持った蓬田刑事の声が聞こえる。


 このままでは両親の身が危ない。それだけでなく、自分の命も危険だ。どうにかしなければ。


 「失礼します」


 朱里は大声でそう言うと、受話器を乱暴に置いた。


 とした静寂が部屋を覆う。まるで空気が重たくなったみたいだ。秋の夜の冷ややかな空気が体を包み、朱里は身を震わせた。


 あの刑事が犯人だった……。


 恐怖と動揺で、不規則に、心臓が鼓動を刻み始める。胸を抑えながら、朱里はスマートフォンを取り出した。


 それから、母へ電話を掛ける。


 電話はすぐに取られた。


 「もしもし」


 母の声が耳に届く。朱里はとりあえず、ほっとした。無事のようだ。


 「朱里? どうしたの?」


 母は、不安げに訊いてくる。こんな時間に娘が電話を掛けてきて、不穏な予感にとらわれたのだろう。


 「なんでもないよ。ただ、声を聞きたくなっちゃって」


 朱里は明るい声を出した。


 「そう。それならいいけど……」


 「ねえ、明日そっちに行ってもいい?」


 「いいけど、仕事はどうしたの?」


 「有給を貰ったから、休みだよ」


 明日、本当に有給を取って、鴨川に帰ろう。両親を守るために。


 「わかったわ。それじゃあ美味しいご飯を用意して待ってる」


 母は嬉しそうに答える。娘の急な帰郷に喜んでいるようだ。背後に忍び寄る魔の手から自分達を守るために、娘が駆けつけようとしていることは、もちろん察してはいないはずだ。


 母との電話を終え、朱里は和室へ向かった。置いてあるバッグの中から、いくつか道具を取り出す。それを旅行鞄へ詰めた。


 これは、両親を守るための護身用の武器だ。実際は、肉を得るための『狩り』に使う道具だが、このような時にも役に立つ。もっとも、両親に気付かれる恐れがあるため、少量しか持ってはいけないが。


 朱里は、改造スタンガンを握り締め、思う。


 もしも、本当にあの刑事が両親を襲うのならば、返り討ちにして殺してやるつもりだ。そうしなければ、彼は止まらないだろう。


 ずっと自分を守ってくれた父と母。今度は自分が守る番だ。


 朱里は、スタンガンを鞄へ詰め、そう誓った。





 朱里は夢を見ていた。子供の頃の夢だ。


 夜、自室のベッドに朱里は入っていた。眠ってはおらず、頭から毛布を被ったまま、じっと目を瞑っていた。すると、朱里の耳に、階段を踏みしめる音が届く。


 やがて、足音は、部屋の前で止まり、扉が開かれる音がした。


 開いた部屋の入り口からは、誰かが朱里の様子を窺っていることが感じ取れた。一人ではない。


 朱里は頭から毛布を被っているため、その人物達の姿までは見えなかった。だが、誰なのかはすぐにわかる。両親だ。


 愛する娘の様子を見るために、部屋を訪れたのだ。子供がいる家庭なら、よくある光景であろう。


 毛布越しに伝わる暖かな眼差し。愛されているという実感が湧く。


 朱里はその感覚が嬉しくて、寝たふりを続ける。存分に両親の愛情を堪能しようとした。


 だが、子供の寝たふりには限度がある。見られていると思うと、体がむず痒くなり、つい小さく笑ってしまったのだ。


 小刻みに震える毛布を見て、両親は悟ったらしい。


 「朱里。起きてるの?」


 母の楽しそうな声が聞こえる。


 ばれてしまったようだ。朱里は毛布を取り払い、体を起こした。


 部屋の入り口には、両親が立っていた。二人共、微笑を浮かべ、朱里を見守っている。


 ああ、やっぱり二人は私を愛してくれているんだ。


 朱里は両親に声をかけようとした。


 そこで朱里ははっとする。二人の背後に何かがいた。


 黒くて巨大な熊のようなもの。凶暴な肉食獣。数々の人を食い殺した人食いの怪物。


 それは、朱里が声をかけるよりも前に、背後から両親へと襲い掛かった。


 朱里は悲鳴を上げた。




 勢いよく体を起こす。心臓は早鐘のように鳴っている。汗も額から滲み出ており、喉もひどく渇いてた。


 カーテンの隙間からは朝日が差し込み、すでに日が昇っていることが見て取れた。スマートフォンで時刻を確認すると、七時半。けっこう眠ったようだ。


 朱里は額の汗をパジャマの袖口で拭い、息を整える。


 夢の残滓が、いまだに頭の中を漂っていた。黒い熊のような姿は、あの怪物は……。


 朱里は強い不安に襲われた。母と父の姿が脳裏をよぎる。あの刑事が、今にも両親の元へ向かっているような、嫌な予感がした。


 朱里はベッドから降りると、以前連絡先を聞いていた蓬田刑事のデスクへ、電話を掛けた。


 電話に出たのは、諸岡刑事だった。


 朱里が蓬田刑事の所在を尋ねると、諸岡刑事は、そっけなく言う。


 「係長は有給を取得して、休みです」


 朱里は自分の手足が、さあっと冷えたのがわかった。


 昨晩の蓬田刑事の言葉が頭の中に蘇る。やはり、蓬田刑事は、私の両親を殺すために、現在、鴨川に向かっているのだ。


 直感がそう告げていた。


 諸岡刑事が、何事か訊いてくるが、朱里ははぐらかす。この男は蓬田刑事の所業を知らないはずだ。かといって、真実を話しても、決して信じはしないだろう。


 適当に言葉を取り繕い、朱里は電話を切った。不安と恐怖で、心臓が張り裂けそうになっている。


 今すぐにでも、両親の元へ赴き、二人を守らなければ。


 朱里は、外出の準備に取り掛かった。




 近内朱里からの通話が切れ、諸岡慎二は、受話器を置いた。


 小さく息を漏らし、椅子の背もたれに身を預ける。


 彼女は随分と切迫した様子だった。一体、何があったのだろう。結局は理由を語らなかったが、自分を容疑者として見做している係長をわざわざ呼び出そうとするとは、よほどのことがあったのかもしれない。もしかして、自首とか?


 諸岡は、近内朱里の容姿を頭に思い浮かべた。


 しかし、随分と綺麗な女だった。プロポーションも良かった。あんな女を抱けたら、さぞかし最高だろうと思う。二度目の聴取の時は、最初見た時より、相当痩せていたが、それはそれで魅力があった。


 諸岡は、脳裏に妄想を繰り広げる。痩せた彼女を後ろ手に縛り上げ、罵りながら口に無理矢理性器をねじ込むのだ。彼女は、えずきながらも、それを受け入れ、必死にしゃぶるだろう。そして口内へ射精してやると、彼女は顔を歪めつつ、それを飲み干す。


 その後、全身を鞭で打ち据えながら、濡れた膣に挿入し、そこでも射精してやるのだ。彼女は、恍惚とした表情を見せるだろう。


 やはり、綺麗な女はいじめるに限る。


 淫らな妄想を繰り広げたせいで、気が付くと、諸岡は勃起していた。少々あせりながら、周りの署員に悟られないよう、さりげなく前傾姿勢を取る。それから書きかけの調書の続きに手を付けた。


 ペンを走らせながら、諸岡はそれにしても、と思う。


 仕事の鬼のような係長が、捜査真っ只中の現在、休みを取得するなんて前代未聞である。一体、どうしたのだろうか。理由は話さなかったが、もしかしたら、あの女のことを個人的に調べているのかもしれない。


 係長は、近内朱里をクロだと見做していた。しかし、それにも関わらず、上には報告せず、ほぼ独断で捜査を行っていた。そのせいで、思うように、彼女を張り込むことができなかったのは、自縄自縛といえた。


 係長は、近内朱里の過去の情報をどこからか入手し、『令和の食人事件』の犯人だと指し示したが、それには何ら証拠はなく、妄想と言われても仕方がない状態だった。


 それでも、係長が、彼女を追うことを止めなかったのは、勘で動いているか、あるいは、何かしら思惑があるのかもしれない。例えば、諸岡のように、彼女に特別な感情を抱いてしまったとか。


 だが、もしも、本当に近内朱里が『令和の食人事件』の犯人だとしたら、それも最高だと思った。あんな美女が人間を解体し、その肉を喰らっているのだ。ひどく淫靡に感じる。


 そして、彼女がそうやってカニバリズムを行っているのならば、逆に彼女自身を食うのもおかしな話ではなくなってくる。弱肉強食を体現しているのなら、それを遵守するのが自然の掟というものだろう。


 諸岡は、近内朱里を自身が解体して、食う場面を想像する。人を殺して、食うことほど、相手を支配できる行為はないのだ。あんな美女を支配できたら、さぞかし最高だろう。


 諸岡は、再び自身のペニスが起立してきたことを自覚した。その感触を愉しみながら、諸岡は調書を書き続けた。





 「おかえりなさい。朱里」


 両親は、娘の急な帰郷を快く迎え入れてくれた。


 両親が無事で、特に変わった様子を見せていないことから、蓬田刑事がまだ二人の前に姿を現していないことは明白だった。


 だが、彼が今もどこかで、こちらの様子を窺っている可能性はある。実家に到着する前に、一通り周辺を探索し、それらしき姿がないことを確認したが、油断はできない。相手は刑事なのだ。思いもよらぬ所に身を潜めているかもしれないし、まだ到着していないだけで、これからやってくるかもしれない。警戒は怠らないようにしなければ。


 両親を守れるのは私だけなのだから。


 「さあ、家の中に入りなさい」


 両親は、朱里の帰郷の理由を尋ねようとはしなかった。それに、身体を見て明白だったのか、朱里の元に戻った体型についても触れなかった。気を遣われているのだろうと思う。


 「うん」


 朱里は両親に促されるままに、玄関に向かった。その時、前は家の一部に掛かっていたブルーシートがなくなっていることに気付く。


 訊くと、つい先日、リフォームが完了したとのことだ。新しく倉庫を増設し、いくつか部屋も新築同然に改築したらしい。以前の家よりも、災害に強く、防犯対策も良くなったようだ。


 朱里はそれを聞き、少し安堵する。古い家であるため、色々と緩い部分が存在するのは不安要素だったが、僥倖にも、タイミングが重なった。ある程度、蓬田刑事の侵入を防ぐ助けにはなるだろう。


 やはりこういった状況では、幸運の女神が私に味方してくれるのだ。


 こちらに都合の良いカードが一つ手に入り、朱里は勇気が湧いた。朱里は、力強く荷物を持ち上げると、両親の後に続き、家の中へと入った。




 両親を守るための帰郷とはいえ、事情を話せない以上、基本的には普段とやることは変わらなかった。


 朱里は家事の手伝いや、畑仕事の手伝いなどを行う。ただ、状況が状況なだけに、可能な限り、両親が共に同じ場所にいて欲しい思いがあった。その方が、護衛はしやすくなるのだ。


 そのため、畑仕事などで二人が離れようとすると、朱里はそれとなく、もう一方を誘導し、極力両親がペアで行動するように仕向けた。もちろん、懐にはスタンガンを忍ばせたまま。


 そのような状況が午後まで続いた。朱里はビニールハウスでの手伝いを済ませた後、シャワーを浴び、着替えを取るため自室へと入った。


 服を着て、整えられているベッドへ寝転がる。無理をして帰郷したためか、疲労が溜まっていた。空腹でもある。体が鉛のように重かった。


 瞼が勝手に下りてきて、つい、寝入りそうになってしまう。それを堪え、朱里はベッドから立ち上がった。このまま眠るわけにはいかない。今すぐにでも、蓬田刑事がやってくるかもしれないのだ。両親を無防備な状態に晒すわけにはいかなかった。


 朱里は部屋を出て、階下へと降りる。一階は物音一つせず、やけに静かだと思った。


 朱里は両親を探す。先ほど、一緒にビニールハウスから戻ってきたので、家のどこかにいるはずだった。


 家の中を歩き回るが、両親の姿は見当たらなかった。不安が押し寄せる。どこにいるのか。


 朱里は、廊下の突き当たりに差し掛かる。そこは妙に真新しい造りの場所だった。リフォームした一帯なのだろう。


 廊下の突き当たりに、新しく増設された部屋があった。朱里はふと気付く。その部屋の扉の前に人影が立っていた。二人だ。朱里は、それが両親であるとすぐにわかった。


 朱里は目を疑う。それから思わず、反射的に自分の口を手で覆った。美智代と義隆が血に染まっていたのだ。まるで血の入ったバケツを頭から被ったかのように。


 そして朱里は目を見開く。二人の背後にとある人物がいることを確認したからだ。


 それは蓬田刑事だった。蓬田刑事は、死人のような無表情で、そっと背後から二人の方へ手を伸ばす。


 「お母さん! お父さん!」


 朱里は叫んだ。




 はっと目を覚ます。薄暗くなった部屋の天井が、視界に入る。


 朱里は体を起こした。どうやら眠ってしまっていたらしい。


 夢の中の両親の姿が、目の前をよぎる。あの陰惨な光景が夢であるとわかり、朱里は胸を撫で下ろした。


 朱里はベッドから降りると、窓際へ向かった。そこから外を眺める。寝入っている内に、外はすっかりと日は落ち、闇に包まれていた。


 朱里は蓬田刑事のことを考える。彼は近くにいるのだろうか。すでにこの家を監視できる場所に潜み、両親を殺す機会を窺っているのかもしれない。


 窓の外に目を凝らし、透かして見るが、この近辺は、他の民家と距離が相当あり、街灯すらないため、闇夜で何も確認できなかった。


 再度、頭の中で夢が走馬灯のようにリピートされる。強い胸騒ぎを覚えた。両親のことが心配になる。


 朱里は机の上に置いていたスタンガンを手に取り、ポケットに入れると、部屋を出て、一階へ降りる。


 一階は煌々とした明かりが灯っており、台所の方から、料理をする音が聞こえてきた。


 朱里は台所へ入る。母が、キッチンの前で、料理を行っていた。その背中を見て、朱里は懐かしい想いにとらわれる。この家に住んでいた頃、幾度となく見た光景だ。まるで昔にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。


 香ばしい匂いが鼻腔をつく。母はソーセージを焼いているらしい。


 よかった。無事のようだ。父の姿は見えないが、この調子なら大丈夫だろう。


 朱里はほっとしつつ、美智代に声をかける。


 「お母さん」


 美智代は振り返ると、優しく微笑んだ。


 「あら、朱里。今までどこにいたの?」


 「部屋で寝ちゃってた」


 母は薄く笑う。


 「もうすぐご飯できるからね」


 台所のテーブルには、料理が乗った皿が、所狭しと並んでいた。母は随分と張り切って作ったようだ。から揚げに、しょうが焼き、それからサイコロステーキまである。しかも、たった今、焼いていたソーセージが追加される。


 母は、意気込んで作ってくれているものの、やはり食べられそうになかった。どう足掻いても、私は人肉しか口にできないのだから。


 「お母さんごめん。ちょっと風邪気味だから食欲がなくて」


 「そう」


 母は、悲しそうな顔になる。


 一瞬の間、重い静寂が訪れた。母は手を止めることなく、次はミートボールを皿に乗せ始める。


 朱里は。静寂を打ち消すために、話題を変えた。


 「そういえば、お父さんは?」


 母は答えなかった。ミートボールを皿に乗せ終えた母は、皿の中からサイコロステーキの一つを箸で摘むと、こちらへ差し出す。


 「朱里、ちょっと味見して頂戴」


 朱里は首を振った。


 「さっきも言ったけど、私、食欲ないから」


 それでも母は引き下がらなかった。サイコロステーキを挟んだまま、箸をこちらの口元へ近づけてくる。


 母は、朱里が食欲がないことを知り、拒食症が再発したのだと思ったようだ。無理にでも食べさせて、栄養を付けさせようという魂胆なのだろう。


 朱里はもう一度、断ろうと口を開きかけた。


 その時だ。鼻がを感じ取った。


 サイコロステーキから漂う香り。幾度となく嗅いだ芳香。とても美味しそうな――。


 氷が触れたように、背筋に冷たいものが走った。


 朱里は愕然とする。そんな馬鹿な。なぜ『これ』がここに?


 嘘だ。何かの間違いに違いない。母が『これ』を調理しているはずが……。


 朱里は、そのサイコロステーキを口に入れた。その途端、甘みと旨みが口一杯に広がる。咀嚼してみると、肉汁が滲み出て、香ばしさに舌が喜ぶのがわかった。


 朱里はサイコロステーキを飲み込んだ。吐き気は一切せず、満足感が胃を中心に湧き起こる。


 これは、人肉だ。とても美味しい――朱里が唯一、口にできる食べ物。


 朱里は唖然として、母の顔を見やる。母は、慈愛と優しさに満ちた表情をしていた。まるで子供に誕生日プレゼントを贈り、受け取った姿を見守っているかのごとく。


 なぜ、母が人肉を調理しているのか。そして、なぜ、それを朱里に食べさせようとしたのか。


 朱里の脳裏に、父の姿がよぎる。


 朱里は叫ぶようにして訊く。


 「お父さんは!?」


 母は、相変わらず微笑を絶やさない。聖母のような顔で、朱里を見つめ続けていた。


 まさか……。


 朱里はテーブルの上に並んでいる料理に目を向けた。まさか、この大量の肉料理は。


 先ほど見た夢の光景が頭に蘇る。朱里は母をその場に残したまま、駆け出した。台所を出て、父の名を呼びながら、一階をくまなく探す。


 だが、父の姿は見えない。恐怖と絶望が朱里を包む。


 やがて、朱里は新築の家のように、綺麗に整った区画へと辿り着いた。リフォームをした場所だ。いくつか部屋がある。


 朱里は、廊下の突き当りまで進んだ。そこには、一際目を惹く部屋があった。倉庫のような分厚い扉。取っ手に当たる部分には、大きなレバーハンドルが付いている。


 調べていない場所はこの近辺だけ。そして、この部屋は異質だった。


 父はこの中にいるのだろうか。朱里は、躊躇った後、レバーハンドルを回した。硬質な音がし、掛け金が外れたことがわかった。


 朱里は、扉を勢いよく開ける。


 途端、全身を冷気が包んだ。真冬に家の外へ出た時のような感覚。


 朱里はすぐに理解する。その部屋は冷凍室だった。天井からは照明が灯り、内部を明るく照らしていた。


 朱里は息を飲む。冷凍室の中には、精肉工場のように、大きな肉の塊がいくつも吊り下げられていたからだ。


 その肉の林の中に、一人の人間がいた。その人物は、肉屋が身に付けるような大きなエプロンを纏っており、長靴を履いている。顔にはマスク。まさに精肉工場の作業員といった出で立ちだった。


 その人物は、手に持った大きな肉切り包丁で、傍らに吊り下げられている肉の塊を削ぎ落としている最中だった。そして、朱里を認めると作業を止め、こちらに体を向ける。


 マスクをしていてもわかった。その人物は、父の義隆だった。


 「お父さん、これは一体……」


 朱里は絶句する。息が白い霧となって、広がっていく。冷凍されていても、朱里にはわかる。この肉の塊は、全て人肉だ。ご丁寧なことに、肉の上部には、『元の』持ち主なのだろう、人間の頭部が、まるでディスプレイのようにフックで吊られている。


 頭部の容貌は男女入り混じっていた。だが、どれもが朱里にとって、好みと言えるような整った顔立ちの者ばかりである。


 朱里の全身が震えた。歯がカチカチと音を立てる。寒さのせいではない。恐怖と衝撃のせいだ。


 どうしてこんな……。


 「どう? 素敵でしょう? あなたのためにやったのよ」


 背後で声がした。はっとして振り返ると、母が冷凍室の入り口にいた。


 朱里は訊く。


 「私のため?」


 母は、嬉しそうに頷いた。贈り物を喜んでくれている――そんな風情だった。


 「その通りだぞ。朱里。ここまで集めるのは本当に大変だったんだからな」


 父は、腰に手を当て、誇らしげに訴える。それから、手に持っていた肉切り包丁を床へ置いた後、マスクを外し、手を広げた。


 「どれもお前好みの肉ばかりだ。ちゃんと顔がわかるように、首から上も取ってある。お前は面食いだからな」


 朱里が声を失っていると、母が笑いながら言う。


 「もう、朱里ったら。嬉しくて声が出ないのね」


 母は父に言葉を投げかける。


 「あなた、おすすめを朱里に教えてあげて」


 父は、よしきたと言わんばかりに、胸を張る。そして、近くに吊り下げられている人肉を指差した。


 「おすすめと言えば、この肉だな。この肉の持ち主は、ラグビーで大学推薦を勝ち取った二十歳の男のものだ。筋肉の塊みたいな男で、体格がとても良いから、多分お前の口に合うと思う。殺すのに手を焼いたから、不味いと言われると、お父さん悲しいぞ」


 父はひょうきんな仕草で、泣く真似をする。とても楽しそうだ。


 父は次に、朱里のすぐ真横に吊り下げられている人肉を指し示す。


 「ああ、それから、その肉も見てくれ。二十五歳の女の肉だ。グラマラスで、とても色艶が良い。顔も美人だ。お前は、そんな女性が好物だろう?」


 朱里は、父が指し示した人肉の塊を見上げる。上部に添えてある生首は、確かに美人で、朱里好みであった。


 だが、少しも嬉しいという感情は湧かない。ショックと動揺で、頭が真っ白になり、麻痺したように何も考えられないのだ。


 朱里は過呼吸のように何度かあえいだ。目の前の光景と、両親の言動が信じられなかった。まさか、この二人が……。


 朱里は、何とか口を開く。


 「由佳と彩夏を殺したのもお父さん達なの?」


 父はニッコリと頷く。


 「そうだよ。殺したのは美智代で、解体したのは俺だ」


 背後で母の声がする。


 「今日の夕飯は、その二人の肉を食材に使ったのよ。あなた、とても食べたがっていたでしょ?」


 朱里は、強い眩暈を覚えた。同時に吐き気も込み上げてくる。信じられない。両親が『令和の食人事件』の犯人だったなんて。朱里が狙っていた標的を殺し、肉を奪った張本人達。


 「どうしてそんなことをしたの!?」


 朱里は大声で訊く。未だに頭が混乱し、理解が追いつかなかった。


 母が答える。


 「あなたに殺人を犯して欲しくないからよ」


 「どういうこと?」


 「自分の娘が日常的に人を殺している事実を知って、止めない親はいないだろう?」


 「どうやって、そのことを知ったの?」


 本格的に朱里が狩りを始めたのは、今のマンションに移り住んでからである。現在のマンションへは、両親は一度も訪れていなかった。その上、居住とほぼ同時に、西阪のストーキング、つまり監視が始まった。もしも、両親が朱里の近辺を探っていたとしたら、確実に西阪の目に触れたはず。


 西阪は、それらしき存在について、一切言及をしていなかった。ただの農家に過ぎない両親が、監視の目をすり抜けるほどの潜入能力を持っているとは思えない。何か特別な方法を使ったのだ。


 父は、イタズラ小僧のような、無邪気な笑みを浮かべた。血と肉片が付着したエプロンが揺れる。


 「朱里、その答えを知りたいかい?」


 朱里はゆっくりと頷いた。


 父は、朱里の背後にいる母と楽しそうに目配せを行う。まるで新婚夫婦のような初々しさだ。


 父は口を開いた。


 「我々は、お前の部屋の中から、お前を見守っていたんだよ」


 「どういう意味?」


 わけがわからない。そんなことができるはずが……。


 父は自信満面にほくそ笑む。目尻に深く皺が寄る。以前よりも増して、さらに老け込んでいるように見えた。


 「少し前、お前に買ってあげたテレビ。あれに盗撮器と盗聴器が仕掛けてあったんだよ。両方とも電波式のものだ」


 朱里ははっとした。西阪とのやりとりを思い出す。電波探知機で探査した際、彼は確かに、テレビから反応があると言っていた。


 朱里の表情を見て、父は満足そうに頷く。


 「あの男、西阪といったか。あいつの行動は実は間違っていなかったんだ。ただ、惜しむらくは、テレビの電波と盗撮器類の電波を判別できなかった点かな。そのせいで自分の推察は合っていたのに、肝心の物を発見できなかったんだよ」


 やはり盗撮器と盗聴器は仕掛けられていたのだ。そして、両親は西阪のことも知っている。ということは。


 「西阪を……将彦を殺したのもお父さん達なの?」


 「ええ。もちろん」


 母が誇らしげに肯定する。


 「どうして!?」


 「娘に付いた悪い虫を追い払うのは、親の役目だからよ」


 「そんな理由で将彦を殺したの!?」


 麻痺した頭に、ようやく一つの感情が戻ってくる。それは怒りだった。


 「安心して。彼の肉もちゃんと保存してあるから」


 母は、冷凍室の隅にある人肉を顎でしゃくった。朱里はその肉へ歩み寄る。見上げて頭部を確認すると、見覚えのある西阪の顔が確認できた。怪物でも目撃したかのような、カッと目を見開いたデスマスク。


 朱里は自身の口元を手で覆った。西阪がすでにこの世にいないことは確信していたが、こうやって死体をまざまざと見せ付けられると、あらためて強いショックを受ける。もう二度と、彼のを叶えてあげられないのだ。


 悲観に暮れる朱里へ、父が咎めるように言う。


 「お前はまるで恋人とセックスするように、彼の肉を齧っていたね。全て見ていたよ。親の前であんな真似をするなんて、はしたない。恥を知りなさい」


 朱里は、かっとなり、強い口調で責める。


 「お父さん達が由佳と彩夏の肉を奪ったからでしょ!? どうしてそんなことしたの? 殺人を止めさせたいなら、直接言えばいいじゃない!」


 父は肩をすくめた。


 「お前は頑固だからな。以前、拒食症を患った時のように、直接言っても、私達の言葉を一切聞き入れないと判断したんだよ。お前はそういう娘だ。だから、由佳と彩夏の肉を奪うことにしたんだ。お前を飢えさせるために」


 母が言葉を継ぐ。


 「あなたが飢えて、どうにもならなくなったら、その時こそ、あなたは私達を頼ると思ったの。自らの意思で、全てを話してくれると踏んで。そうなれば、あなたに殺人を犯させることなく、私達が代わりに肉を手に入れて、あなたに与えることができるから」


 朱里は唾を飲み込む、確かに、その目論見が間違っていなかっただろう。だが……。


 「だけど、西阪というあんな変態男が現れたせいで……」


 母は苦々しく呟いた。


 父が言う。


 「ただ、お前が警察に疑われたのは、我々の誤算だったよ。本当なら、お前には一切、容疑がかからなかったはずなのに。あの刑事は本当に優秀だな」


 両親の告白を聞き、おぼろげだった真実が、次第に形を成していく。


 おそらく、二人は、ずっと以前から精神を病んでいたのだ。朱里が拒食症を患い、心身共にやつれ果てた頃から。


 どう手を尽くしても、病状が改善せず、弱っていく一方の娘。提案した措置入院さえ拒否される始末。両親は、娘が痩せ細り、死に近付いていく姿を間近で見続けざるを得なかった。大切な一人娘を守ることすらできない不甲斐ない自分達を責めながら。


 次第に両親の心は、闇に蝕まれていく。


 だが、ある時期を境に、その娘が、まるで病気が嘘だったかのように、元の体に戻った姿を見せてきた。


 両親は疑問に思ったはずだ。長期間、あれだけ手を尽くしたにも関わらず、一切改善を見せなかった拒食症が、どうしてこんなにも容易く快復したのかと。


 自分達の預かり知らぬ所で、娘の身に何かがあったのだ。


 その疑問は、ずっと両親の中でくすぶっていたに違いない。やがて、両親は娘を監視することを決意する。盗撮器と盗聴器を仕組んだテレビを娘にプレゼントし、その後で、朱里の住むマンションの近隣の部屋を借りるか買うかしたのだ。朱里に悟られない距離かつ、盗撮器と盗聴器の電波が届く範囲内の部屋を。


 そして、両親は、娘の私生活を監視し始める。実家は千葉であるため、おそらく、二人は交代でその目黒の部屋を行き来していたはずだ。


 間もなく、両親は、娘の真の姿を目の当たりにする。常軌を逸したその所業に、戦慄し、強いショックを受けたことだろう。


 だが、二人は、警察に伝えようとはしなかった。知られれば、確実に娘は逮捕され、起訴、死刑は免れないためだ。


 しかし、娘の殺人は止めたかった。代わりに自分達が人を殺し、肉を得ることになっても。かと言って、説得は通じないだろう。措置入院や自分達の保護をあれほど頑なに拒否した娘なのだから。


 そこで両親は一計を案じる。娘の方から助けを求めてくるように仕向ければいい。そうなれば、障害なく娘を守ることができるからだ。


 両親は娘の行動を全て把握する。盗撮器と盗聴器の使用は元より、尾行も行ったに違いない。だが、朱里のマンションには一切近寄らなかった。西阪の監視の目を潜り抜けられたのは、このためだ。


 下地を整えた両親は、犯行を決意する。娘の標的を先に殺し、肉を奪えば、娘は飢えて自分達を頼るだろうと踏んで。


 タイミング的に、最初のターゲットになったのが由佳だった。メインに動いたのは母。朱里とのバッティングを避けつつ、おおよその女が興味を惹かれそうな、ダイエット商品の訪問販売という体で、由佳の近辺を探り、尋ねる。おそらく、試供品などをプレゼントするような名目で、犯行時刻に訪れるアポを取ったのだろう。そもそも母は、小柄で温厚そうな中年女性。相手が女だろうと、元来から警戒はされにくかったはずだ。


 直接由佳を殺害したのも母だ。油断した由佳を、おそらく朱里の犯行と似た方法で仕留めたに違いない。そして、解体を行ったのは父だ。母は動物の解体の類が苦手で、着手できない。だが、父は猪の解体で、人間の解体もお手の物だったはずだ。


 計略はスムーズに進んだことだろう。元々、朱里がそのような標的を選んでいたのだ。その先を越しただけに過ぎない。


 父は、由佳の肉を全て取り去り、死体をその場に残す。残した理由は、朱里へのメッセージだ。『敵』がいるとわかれば、ますます朱里が追い詰められるためだ。


 そして、次に朱里が標的にした彩夏も、同じような方法で殺害、肉を奪う。


 やがて、朱里は両親の画策通り、食べる物がなくなり、飢え始めた(おそらく、この頃から両親は、様々な人間を殺し、人肉を集め始めていたはずだ。それを保管する冷凍室の増設は、もっと早くから着手されていたのだろう)。


 だが、ここで誤算が生じる。予想外の所から、朱里の協力者が現れたのだ。


 それが西阪である。その男は、娘の所業を知っておきながら、あろうことか、共に犯人探しを始めた。幸い、朱里と西阪は、その時点では、決定的な証拠を得ることはできないでいたが、それでも娘に味方と言える存在が出現したのは、両親にとって、望ましい展開ではなかった。


 その上、時を同じくして、娘は刑事から容疑者としてマークされるようにもなる。そのマーク自体は、両親にとっては好都合だった。朱里の食糧供給源の一つを潰せたからだ。警察のマークがなくても、両親は何かしらの策を講じていただろうが、これで朱里の飢えは早まることになる。しかし、これもあまりよい展開とは言えなかった。


 そこで、両親は、計画を前倒しし、朱里を郷里へ呼び出すことにした。飢えと警察からの容疑により、追い詰められる形となっている今の朱里なら、それとなく、手を差し伸べれば、心が揺れ動くだろうと目論んで。


 その目論見は正しかったと言える。現に、朱里は両親に全てを告白しようとした。だが、西阪の顔が頭の中を横切り、二の足を踏む結果となったのだ。


 結局、朱里は両親に助けを求めることなく、郷里を後にした。両親は、娘が自分達に全てを打ち明けなかった原因が、西阪の存在にあるとすぐに悟っただろう。次第に、西阪を邪魔だと思うようになる。


 やがて、事態は妙な方向へと動き出す。朱里と西阪は、事件とはまるで関係のない同僚を犯人だと断定。言質を得るために乗り出した。


 見事、その同僚が犯人だと――誤解だが――判明し、言質を得た後、より親密になった娘とその変態男は、親の『目の前』で、許しがたい行為を行った。


 それを目撃したのは、おそらく父だ。憤怒に駆られる義隆。娘をたぶらかした男を、すぐにでも殺すことを決意する。


 事情を話し、急遽母を鴨川から呼び寄せると、予め突き止めておいた御徒町の西阪の部屋へ向かった。そして、その日の夜の内に、西阪を殺害したのだ。


 殺害方法は、由佳や彩夏、おそらくその他の被害者達と同じだろう。母が西阪の部屋を訪ね、油断したところを殺害。父が綺麗に解体し、全て持ち去る。


 その後、西阪の行方を案じる朱里の元へ、解体した西阪の肉の一部を届ける。もう彼がこの世にいなくなったことを知らしめるためと、さすがに限界に達していた朱里への、ちょっとした栄養補給のために。


 それから、再度刑事が立ち塞がり、その刑事を犯人だと疑う展開になる。だが、蓬田刑事は、完全にシロ。父が言ったように、勘が鋭い優秀な刑事に過ぎず、昨夜の言葉も、朱里の尻尾を掴むためのブラフであったに違いない。あくまでも彼は、終始一貫、朱里の逮捕を目指す刑事として動いていただけなのだ。


 結局、朱里はそれを察することなく、蓬田刑事を犯人だと誤認したまま、実家へと帰ってくることになる。一連の流れを見ていた両親は、チャンスとばかりに、全てを告白することに決め、待ち構えていたのだ。


 全容が理解でき、朱里は青ざめた顔で、両親を交互に見比べた。義隆と美智代は、温かな眼差しをこちらに向けている。そこには罪悪感も、良心の呵責もない、あくまでも子を想う、親の愛情で満ち溢れていた。


 朱里は冷えてきた体と、ショックで、身を凍えさせながら美智代と義隆に訊く。


 「それで、これから先、私のために、人肉を手に入れてくれるってこと?」


 声がかすれる。白い息が漂い、近くに吊り下げられた人肉へかかる。


 義隆は目を爛々とさせ、頷く。


 「そうだ。だから、もうお前は人を殺さなくていいんだよ」


 「私達が全てやってあげるから。もうあなたが警察から逮捕される心配もなくなるわ」


 美智代が穏やかに言う。


 朱里は口を噤む。確かに、二人の提案は朱里にとって、極めて有益だろう。もう自分で手を汚さなくて済むのだから。


 だが、本当にそれでいいのだろうか。つまるところ、それは両親が代わりに手を汚すということだ。


 朱里が押し黙っていると、美智代が明るく言った。


 「それから、あなたのために、新しい部屋を用意したわ。これからはそこで暮らしてもらうから」


 最初は何を言っているか、理解できなかった。


 「部屋? どういうこと?」


 義隆が代わりに答える。


 「リフォームした際に、もう一つ、新しい部屋を地下に造ったんだ。ずっと過ごせる快適な部屋だよ」


 ざわざわとした黒い影が、背中を這い上がってくるのを感じる。この二人は、一体何を言っているのだろう。


 「い、意味がわからないわ」


 義隆は胸を張り、説明を行う。


 「お前は綺麗な娘だからな。外に出すと、色々と不安なんだよ。また変な虫が付くかもしれないし、ストーカーやセクハラにもあうかもしれない。もうそんな目にあってほしくないんだ。それに、お前を野放しにしたら、いつ何時、街で見かけた美味しそうな人間に惹かれて、犯行に及ぶかわかったもんじゃない」


 「今日からその部屋で、私達がずっとあなたを守ってあげる。人の肉も好きなだけ食べさせてあげるわ」


 「外へは出せないが、心配しなくていい。ちゃんとお前が気に入る部屋に造ってある」


 両親は、自分達の言動を何らおかしいとは思わず、買ってあげた新車を紹介するような調子でそう語った。


 朱里の心臓の鼓動が、古い車のエンジンのように激しく鳴り始める。息が荒くなり、目の前が白く染まった。


 朱里は慄いていた。この二人は、私を監禁するつもりだ。監禁して、娘をずっと手元で養おうとしているのだ。


 立ち竦んでいる朱里へ、入り口にいた母が、歩み寄ってくる。


 「さあ、説明は終わり。ここは寒いわ。早く出ましょう。それからご飯ね。由佳と彩夏のお肉沢山あるから、お腹一杯食べなさい。そして、食事が終わったら、地下室へ案内してあげる」


 母は、微笑みながら朱里の手を取った。それから引く。


 しかし、朱里は動かなかった。母は怪訝な面持ちになる。


 「どうしたの? 朱里。ここにいたら風邪を引くわ」


 それでも朱里は従わない。母の手を振り解く。母はぎょっとした表情を浮かべた。


 冗談ではなかった。地下室に監禁? これから先、ずっと? 二人が食料を確保してくれるとは言え、そんなペットや家畜のような人生、まっぴらごめんだった。


 朱里は鋭く言う。


 「私、地下室へは行かないから。そんなところでは暮らさない」


 母は激昂した。


 「何言ってるの! それがあなたのためなのよ。言うことを聞きなさい」


 母は唾を飛ばしながら、朱里を咎める。塾に行きたくないと、駄々をこねる子供を諭すような口調だ。


 父も援護射撃を行う。


 「我儘言うんじゃないぞ朱里。地下室を造るのに、一体いくら掛かったと思っているんだ。お父さん達を困らせるな」


 やはり、二人は納得してくれない。ならばどうするか。説得も通じなさそうだ。ここは、ひとまず、この場を離れることが先決だろう。


 父は、朱里の表情から、朱里が拒否する姿勢を崩さないことを悟ったようだ。ため息をつくと、父もこちらに近付いてくる。人間の血と肉片で汚れているエプロンが、別の角度から照明に当たり、艶かしく光沢を放つ。


 「本当に困った子だな。言うこと聞かないのなら、無理矢理にでも連れて行くぞ」


 父は、こちらへ手を伸ばした。二の腕を掴もうとする。朱里は、身を引き、父の手をかわした。


 父は、イラっとしたようだ。目を吊り上げて、怒鳴る。


 「いい加減にしなさい! どれだけ聞き分けのない娘なんだ!」


 父は、こちらに飛び付いた。肩を掴み、羽交い絞めにしようとする。


 朱里はポケットに入れていたスタンガンを取り出し、父の腹部へ突き付けた。それから、スイッチを押す、


 父は、踏まれたカエルのような声を出し、大きく痙攣をした。すぐに、足元から崩れ落ち、床へ倒れる。高電圧の改造スタンガンは、見事、父の意識を奪ったようだ。


 「何てことを……」


 母は、手で口を覆い、わなわなと震えた。


 その母を睨み、朱里は決心する。


 自分の獲物を奪い、そして、西阪の命も奪った張本人達。『令和の食人事件』の犯人。それが、今度は、朱里の自由だけではなく、未来すら奪おうとしている。


 容赦をするつもりはなかった。二人の真意はどうでもいい。今は、すでに、恐怖が怒りを上回っているのだから。


 「お母さん。私から離れて」


 朱里は、スタンガンを母へ向けた。ゆっくりと冷凍室の入り口の方へ歩き出す。何にせよ、冷凍室から――家から脱出しなければならない。


 母は、スタンガンを警戒し、その場で固まったままだ。娘の反逆に対し、苦渋と衝撃が顔に滲み出ている。


 数歩歩いた時だった。朱里の足首を何かが掴んだ。はっとして下を見ると、父がゾンビのように蘇り、朱里の足首を右手で掴んでいた。


 改造スタンガンは、確実に父を襲ったはず。大男でさえ昏倒なし得る高電圧のはずが、妙に復活が早かった。おそらく、厚めのエプロン越しだったため、威力が半減したのだろう。


 それでも、意識は完全に戻っていないらしく、足を振ると、簡単に父の手は離れた。


 その隙を母は見逃さなかった。猫科の動物のように朱里へ飛びかかる。朱里はとっさにスタンガンを母へ押し当てようとした。


 だが、母が一瞬だけ早かった。母は朱里の右手を強く払いのけた。弾き飛ばされたスタンガンは、冷凍室の隅の暗がりへ転がっていき、見えなくなる。


 母は朱里の髪を掴んだ。


 「親に対して、何て仕打ちを! 恥を知りなさい!」


 母は怒鳴りながら、朱里の髪を引っ張る。朱里は痛みに呻いた。


 朱里は喧嘩をしている子供のように、絶叫し、無我夢中で腕を振り回した。母の顔に腕がぶつかり、母は髪から手を離す。


 朱里は間髪入れず、母へ体当たりをした。朱里よりも遥かに小柄な母は、簡単に吹き飛び、背中から床へ倒れる。


 朱里は、冷凍室の入り口へ向かって駆け出した。スタンガンを拾いたかったが、その隙はなかった。すぐに母は起き上がるだろうし、浅手の父もじきに復活するはずだ。


 冷凍室から廊下へと出て、玄関を目指し朱里は疾走する。冷えた手足のせいで、フローリングの床なのに、雲の上を走っているような、おぼつかない感覚がする。廊下がやけに長く感じられた。


 やがて、玄関へと辿り着く。朱里は引き戸に手を掛け、開けようとした。だが、鍵が掛かっており、つっかえ棒を差しているように動かない。


 朱里は慌てて、錠を下ろした。そして、再び引き戸に手を掛ける。その時だった。


 背中に強い衝撃を受け、朱里は土間へうつ伏せに倒れた。引き戸に体がぶつかり、大きな音を立てる。朱里は小さく悲鳴を上げた。


 背中に重みを感じ、朱里は土間へと押し付けられる。


 頭の後ろから、声が聞こえた。


 「本当に悪い子だな。ここまで反抗的なら、徹底的に閉じ込めておかないと」


 首をひねって背後を見る。背中に覆い被さっているのは、父だった。予想以上に早く復活し、即座に朱里を追ってきたのだ。身に纏っていたエプロンは、すでに外している。


 朱里は激しくもがくが、完全にねじ伏せられた状態なので、少しも抜け出すことはできなかった。


 「大人しくしなさい。抵抗するだけ痛い目見るぞ」


 父はそう言うと、背中に乗ったまま、ポケットから何かを取り出した。金属同士が触れ合う音がする。それは、銀色に光る大きな知恵の輪のような物体だった。


 手錠である。どこから入手したのだろうか、玩具やジョークグッズのような類の物ではなく、本物ような硬質感があった。


 手錠を見た途端、朱里は青ざめる。そして、死に物狂いで、体を暴れさせた。


 だが、父は意に介さず、こちらの腕を後ろ手に引き寄せると、手錠をはめようとする。


 「やめて!」


 朱里は絶叫した。しかし、父の動きは止まらない。手に金属の冷たい感触がする。


 朱里は目を瞑った。もう終わりだと思った。これから私は、ずっと二人に飼われる身になるのだ。自由のない、人肉だけを与えられる日々。家畜のような残りの人生。


 朱里は観念し、力を緩めた。抵抗がなくなったことを知った父は、満足そうに「いい子だ」と呟くと、朱里の右手首に手錠の片方を通す。


 その時だった。勢いよく引き戸が開き、黒い影が玄関へと飛び込んできた。




 血のような赤い夕日が鴨川富士の間に落ち、周囲が暗闇に染まった頃。蓬田は、愛車のインサイトを近内家が確認できる位置で停車させた。


 ライトを消し、エンジンも完全に停止させる。この近辺は住居も街灯も少なく、極めて静かだ。呑気にライトを点けたままアイドリングをさせていると、警戒しているであろう、近内朱里に気付かれる恐れがあった。


 蓬田は、周囲に人がいないことを確認し、双眼鏡で近内家を確認する。


 納屋と隣接している二階建ての住居は、眠ったように静かだった。照明は一階部分のみ灯っており、二階は真っ暗である。


 おそらくは、家の二階に朱里の部屋があると思われるのだが、明かりが点いていない以上、不在の可能性もあった。


 まだ、実家へ帰ってきていないのだろうか? いや、そんなことはない。昨夜、あれだけ発破をかけたのだ。間違いなく、彼女はあの家にいる。


 もしかすると、一階で夕食をとっている最中なのかもしれない。二人の両親と共に。


 そこで、蓬田はふと笑った。カニバリズムを行う彼女が、両親と共に食事をするのか。それとも、両親揃って、同じ食人鬼なのだろうか。そうだったら、さぞかし豪勢なメニューが食卓に並んでいることだろう。


 蓬田は、古風の近内家を観察しながら、朱里のことを考える。


 『令和の食人事件』の捜査において、上野駅での映像を観た時から、ピンときていた。この女には何かあると。明確な根拠はない。あくまでも勘だった。


 上長や、他の捜査官は、近内朱里には目もくれなかった。朱里が含まれていない被疑者リストが作られ、その中の数名を蓬田と部下である諸岡は洗うように命じられた。


 蓬田は、的外れな被疑者を調査しながら、個人的に朱里を追い始めた。やがて、いくつか出てくる曰く付きの過去。


 その中で、殊更注目に値すべきものは、以前勤めていた会社の同僚が行方不明になった点と、朱里が拒食症を患っていた点だ。これは、朱里の元同僚から話を聞いたため、確かである。


 そこから、さらに調べると、どうも、朱里が同僚と親しくなった直後に、その同僚が行方不明になったらしいのだ。それから、拒食症が治った時期も重なっていた。


 この時点で、蓬田の中で、線と線が繋がった気がした。だが、決定的な証拠とは程遠い妄想に近い根拠では、捜査本部に報告すらできるわけがなかった。鼻で笑われ、目黒警察署の評価を地に貶めるだろう。


 それは、近内朱里を事情聴取した後も変わらなかった。メインの捜査の合間を縫って、わざわざ呼び出したのだが、彼女は警戒心が強く、言質を取ることはできなかった。朱里の反応から、蓬田はクロであることを確信したが、明確な証拠と呼べるものは未だない状態だった。


 そのため、表立って、近内朱里を張ることができなかったのは、痛恨の極みだった。相も変わらず上から命じられた被疑者を追う傍ら、間欠的に朱里を見張ることが精々であった。


 かろうじて、朱里が同僚である西阪将彦と懇意になっていることまでは知り得たが、それが限界だった。もしも、ここで常に彼女を張ることができていれば、決定的な証拠ないしは、もう一度事情聴取を行えるほどの情報が得られていたかもしれない。


 捜査は進展を見せず、シロとしか思えない被疑者達を洗う日々がしばらく続いた。そこで大きな変化が訪れる。


 朱里の同僚であり、その彼女と直近で親しくなった西阪将彦が行方不明になったのだ。


 共同で捜査を行っていた上野警察署からの情報である。捜査本部では、『令和の食人事件』の捜査の一環として、行方不明者の情報に目を光らせていた。それに引っ掛かったのだ。


 捜査の口実ができたことで、蓬田は諸岡と共に、西阪将彦の部屋を張った。そこで姿を現したのが近内朱里だった。


 蓬田は確信を持つ。確実にこの女は真っ黒だと。


 蓬田は、近内朱里に任意聴取を求め、無理にでも受諾させた。ここから確実に言質を取ってやる。そう誓って。


 だが、そこから先が実に妙な展開を見せた。近内朱里は突然、事件の犯人を名指しして提示してきたのだ。


 さすがに蓬田は困惑する。始めは言い逃れのためのホラだと思った。だが、様子を見ると、どうも違う気がする。次に、蓬田は朱里が共犯者を売ったのだとも思った。しかし、それも辻褄が合わない。それならもっと上手い方法がある。


 蓬田は、朱里の真意を探るため、その情報を元に、武谷啓の部屋を訪れた。


 自分の元にやってきた男達が、刑事だと知った時の武谷の反応は、蓬田も目を丸くするほどだった。まるで借金取りのヤクザでも前にしたように、見る見るうちに顔面が蒼白になり、冷や汗をかき始めた。これでは、部屋に何かあると告白したも同然である。


 そこで蓬田は、ちょっとした脅しをかけ、部屋へ入れてくれるよう催促した。武谷は、小便でも漏らしそうなほど怯えた様子で、いとも容易くそれを了承する。


 武谷の部屋へ足を踏み入れる際、蓬田は、朱里に対する自分の疑惑を懸念し始めた。自分の勘が外れたのだと考えた。珍しいことである。これまで、勘が外れたことなど滅多にないのに。


 蓬田と諸岡は、武谷の部屋の中を確認する。近内朱里の証言が念頭にあったため、蓬田は武谷が『令和の食人事件』の犯人だと思っていた。武谷自身の反応もあり、部屋のどこかに人間の遺体や、切り落とされた人肉があるのだと。


 だが、蓬田の目に飛び込んできたのは、様々な女物の下着やパンストの群れだった。床にはまるで絨毯のように、カラフルなショーツが敷き詰められており、それを囲むように、パンストやブラジャーが積まれてある。始めそれを見た時は、下着を作る内職でもしているのかと思ったほどだ。


 もちろん、そうではない。蓬田は、硬直している武谷を問い質した。武谷は、あっさりと全てを白状する。万引きした高校生の方が、まだ粘るレベルの手応えのなさであった。


 そこで彼が、女性用の下着類の窃盗常習犯だと判明した。本人から、証言が取れたため、蓬田は武谷を逮捕する。


 武谷を調べるうちに、彼が『令和の食人事件』の犯人でないことは明らかとなった。部屋からは人間の肉片などは一切発見されず、女性物の下着類のみが見付かった。武谷は、ただの変態的なフェティシズムを持った窃盗犯に過ぎず、殺人やカニバリズムとは無縁の小物なのだ。


 ここで蓬田は頭を抱える。近内朱里の意図が読めなかった。どうしてわざわざ武谷を売るような真似をしたのか。結局、西阪将彦の行方もわからないままである。容疑の矛先を変えるためだとしたら、極めて弱い理由と言える。それに、近内朱里は、本気で武谷のことを犯人だと思い、リークしたように見えた。


 彼女は、『令和の食人事件』の犯人ではないのだろうか。その考えが蓬田の頭をかすめる。だが、すぐに否定した。間違いなく、彼女はカニバリズムを行っている女だ。以前の職場で同僚の男を殺して食った時から、ずっと犯行を続けている異常者である。そのため、少なくとも何らかの形で『令和の食人事件』にも関わりがあるに違いなかった。


 もっと詳しく近内朱里を調べたい。蓬田はそう考えた。しかし、彼女の部屋は何の証拠もないのだと予想した。朱里は入念に準備を行い、犯行に移っている節がある。だからこそ、今まで捕まらなかったのだ。ゆえに、彼女の部屋を今調べても、無駄骨に終わるだろうと思われた。


 調べるなら、彼女の実家だ。そこに何かある。勘がそう告げていた。勘だけではない。近内朱里の両親も共犯の可能性は捨て切れなかった。朱里とその両親は、それなりに交流がある。娘が続けている犯罪を、全く把握していないというのも無理があるだろう。


 蓬田は、近内家に狙いを定める。そこで、朱里に発破をかけることにした。


 口八丁を使い、脅しをかける。蓬田自身が『令和の食人事件』の犯人として、朱里の実家を襲うような素振りすら見せた。もしも、朱里が『令和の食人事件』の犯人ならば、蓬田が休暇を取ってでも、無理矢理実家を捜査すると受け取るだろうし、犯人ではないのならば、素直に蓬田を『令和の食人事件』の犯人と見做し、両親を守るために帰郷するはずだと。


 そうなれば、必ず彼女か『彼女達』は、何かしらボロを出すだろうと踏んだのだ。少しでもその予兆があれば、休暇中で職権のない今の状態だろうと、強引に調べてやるつもりだった。


 蓬田は、近内家の観察を止め、双眼鏡を助手席に置く。それから、ドアを開け、インサイトから降りた。


 すぐに、秋の夜の冷たい空気が蓬田を包む。蓬田は、コートの襟を寄せ、近内家に向かって歩き始める。


 これから、軽い敵情視察を行うつもりだった。近内家は動きがないし、外部を窺っている様子も見受けられない。多少、深く踏み込んでも問題はないはずだ。幸いなことに、この近辺は切り離されたように過疎した場所なので、通行人や他の住人の目に止まる恐れも皆無だった。


 蓬田は、堂々と正面から近内家へと接近する。玄関が見えてきた。近内家の玄関扉は、上半分が磨りガラスの引き戸になっており、そこから廊下の光が漏れていた。


 蓬田は家の周囲をチェックする。やはり人影はない。


 蓬田は、玄関へと近付いた。その時だ。蓬田はギョッとする。玄関の内部から物音がしたのだ。誰かが出てくる音ではない。何かが倒れる音、それから引き戸に激しく衝突する音だ。


 蓬田は、眉をひそめ、玄関の前まで素早く移動した。耳を澄ます。玄関内で、何かが暴れている。それがわかった。引き戸越しのシルエットでも、物々しい様相であることは一目瞭然であった。


 それから、蓬田の耳に声が届く。「やめて!」という悲痛な叫び声。聞き覚えのある女性の声だ。近内朱里のものだとわかる。


 彼女を調べるためにここまでやってきたのだが、何か、想像を超えた非常事態が起きているようだ。


 蓬田は、弾かれたように足を踏み出し、引き戸に手を掛けた。施錠はされておらず、引き戸はするりと開いた。





 玄関へ飛び込んできた人影は、朱里の背に乗っている父へタックルを行った。ノーガードだった父は、驚くほど簡単に後ろへ吹き飛び、上がりかまちへ頭をぶつける。


 朱里は、はっとして乱入してきた人影を見上げた。それは蓬田刑事だった。


 「刑事さん……」


 朱里は、呆然と呟く。やはり蓬田刑事は、朱里の尻尾を掴むため、この近隣に潜伏していたのだ。だが、思いがけず、救世主となった。予想外なのは、蓬田刑事も同じだろう。


 「大丈夫か?」


 蓬田刑事は、朱里の腕を掴み、助け起こす。立ち上がった朱里は、右手首に嵌められた手錠を外した。幸い、ギリギリのところで、ロックはされなかったらしい。


 「刑事さん、あの……」


 手錠を土間へ捨て、朱里は口ごもった。この状況をどう説明していいものか、困惑する。蓬田刑事は、何かを悟っているような様子で、頷くと、正面を顎でしゃくった。


 「話は後だ」


 蓬田刑事の目線の先で、父が起き上がっていた。強く頭をぶつけたにも関わらず、平然としている。


 父は、唇の端に泡を溜めながら、怒鳴った。


 「娘から離れろ!」


 父は、蓬田刑事へ挑みかかった。だが、蓬田刑事は冷静に対処する。柔道か合気道の技なのだろう、父の腕をがっしりと掴むと、救い上げるような動作で体を捻った。その瞬間、父は宙を半回転し、それまで朱里がそうしていたように、土間へうつ伏せに倒れた。


 それからすかさず、掴んだままの腕を捻る。父は、痛みに呻きながらも、全く身動きができなくなったようだ。


 父を完全に制圧した蓬田刑事は、朱里へ向かって言う。


 「なぜ、このような展開になったのかはわからない。だが、言っておく。私は君への容疑は捨てていない」


 蓬田刑事の熊のような厳つい顔が、さらに固くなっている。


 蓬田刑事は言葉を継いだ。


 「だけど、まずは君の安全を確保する。警察へ通報してくれ。携帯電話を持っているか?」


 朱里は首を振った。スマートフォンは、座敷のバックの中だ。


 蓬田刑事は、片手で父を押えつけたまま、懐からスマートフォンを取り出すと、朱里へ手渡した。


 「これで警察に通報を」


 蓬田刑事が、そこまで言った時だった。朱里の顔に、生暖かい液体がかかった。


 朱里は思わず、ひっと声を上げ、受け取ったばかりのスマートフォンを落とす。


 目の前の蓬田刑事の頭に、大きな肉切り包丁が食い込んでいた。その包丁は、父が冷凍室で使っていたものだ。頭から角のように包丁を生やした蓬田刑事は、何が起きたのかわからないといったキョトンとした表情のままだったが、やがて白目を剥き、横向きに倒れる。たちまち頭部からは夥しい量の血が流れ出て、土間に広がった。


 すでに絶命したことが、はっきりと見て取れた。


 朱里は唖然とした状態で、開いたままの引き戸に顔を向ける。そこには母がいた。おそらく裏から回り込み、隙を突いて蓬田刑事の頭部へ肉切り包丁を振り下ろしたのだろう。


 母は、家の中へ入ってくる。土間で絶命している蓬田刑事と、倒れ込んでいる父を交互に見比べた。


 「あなた、大丈夫?」


 母がそう訊くと、父は頷き、ゆっくりと体を起こす。蓬田刑事に捻られていた腕が痛むのか、右腕を押えていた。


 「とんだ闖入者が現れたな。まあ、しかし美智代、よくやった」


 母は微笑んだ。


 「あなたと朱里のためだもの。当然よ」


 そして、二人は同時にこちらへ視線を向ける。朱里は、蛇に睨まれたカエルのように、体を硬直させた。


 父は立ち上がり、土間に落ちている手錠と蓬田刑事のスマートフォンを拾った。


 「さあ、朱里。もう観念しなさい」


 父は朱里へ歩み寄ろうとする。


 逃げなければ。そう思う。しかし、体が動かない。足が凍りついたように固まっているのだ。動くんだ足。そうしなければ、一生檻の中で暮らすことになる。動け。私。


 己を叱咤激励し、朱里は何とか走り出すことに成功する。父の手が伸びるが、寸前のところでかわした。蓬田刑事が体にダメージを与えてくれたお陰で、父の動きは少しばかり鈍くなっていたようだ。


 朱里は土間から、廊下へ上る。引き戸の方は母がいるため、通れない。向かうならこっちだ。


 朱里は廊下を駆け、先にある階段へ足を踏み入れた。何か考えがあったわけではない。本能的なものだ。自分にとって、一番安全だと思う場所。そこへ体が勝手に向かっていた。


 朱里は階段を登りきり、自室へと転がり込んだ。そして、勢いよく扉を閉め、鍵を掛ける。


 その直後、扉のノブが、音を立てて回された。父はすぐさま追ってきていたらしい。ギリギリで間に合ったようだ。


 だが、これからどうする? 何も策がないまま、ここへきてしまった。武器もスマートフォンも持っていない。


 やがて、扉が衝撃音と共に、大きく揺れ始めた。部屋全体が、地震でも起こったかのように軋んでいる。父が体当たりしているのだ。壊してでも中に入ってくるつもりらしい。


 朱里は後ずさった。どうしよう。部屋に踏み込まれるのも時間の問題だ。


 朱里は窓へと駆け寄った。ガラス戸を開け、外を見る。目の前は、漆黒の闇に包まれていた。叫んで助けを求めようか? しかし、ここは隣家とは相当距離がある。ずっと住んでいた家なのだ。叫んでも声が届かないことは、重々理解していた。


 ならば、飛び降りるか。二階なら不可能ではないだろう。だが、照明も何もないため、地面は全く見えなかった。奈落のように真っ暗だ。そのような状況で飛び降りて、果たして無事に着地できるのだろうか。骨折でもしたら、それこそ一巻の終わりだ。


 どうしよう。逃げられない。袋小路に追い詰められたネズミのような気分になる。動悸が増し、朱里は次第にパニックへと陥りかけていた。扉はすでに半壊し、開きかけている。


 朱里は頭を抱えた。もうどうすることもできない。せっかく、蓬田刑事が命を賭けてまで作ってくれたチャンスを、みすみす無駄にしたのだ。


 半ば諦めかけた時だった。朱里の目が、部屋にある学習机の引き出しに吸い寄せられた。




 木材が打ち壊れる音がし、扉が強風に煽られたかのように勢いよく開く。最後まで粘っていたデッドボルトが弾け飛び、床へと転がった。


 開いた扉から、父がのっそりと入ってくる。顔には怒気の色が浮かんでいた。


 「朱里、いい加減にするんだ。お父さん達はそろそろ我慢の限界だぞ」


 父は朱里の方へ、床を踏みしめるようにして近付いてくる。


 朱里は窓際ギリギリまで後退し、少しでも距離を取るかのように後ろに手を回していた。その他は、身じろぎ一つしない。


 父はその姿を見て、万策尽きて諦めたと思ったようだ。立ち止まり、我儘な子供に言い聞かせるようにして言う。


 「お前が不安に感じているのはわかる。だが、よく考えなさい。お前にとって何が幸せなのかを。人肉しか口にできないお前がどうやってこの先、ずっと生きていくのかを」


 父は朱里の目を見つめたまま、続けた。


 「私達は、お前が拒食症を患った時、お前を守ることができなかった。世界一愛する娘なのに。だから、私達は今度こそ手元においてお前を守らないといけないんだ。それが親の役目だ。そして、同時に、お前にとっての幸せなんだよ。わかってくれるか? 朱里」


 しばらく間を置いた後、朱里は硬直したまま、コクンと頷いた。


 父は満足げに笑みを浮かべる。自分の説得が、愛娘の心に響いたと思ったらしい。


 「いい子だ。さあ、こっちへおいで」


 朱里は父の言葉に従い、足を踏み出した。後ろに手を回したまま。


 朱里は父の目の前までいき、立ち止まった。


 「手を前に出しなさい」


 父は、銀色に鈍く光る手錠を掲げた。


 朱里は言われるがまま、両手をゆっくりと前へ出す。両の手の平は握られた状態だ。


 そして、朱里は父の前で手を静止させず、右手だけを父の左太ももへと向けて、突き出した。


 砂の中に棒を突き刺したような感覚。父の口から、絶叫が迸った。父はその場に勢いよく倒れ込み、左の太ももを押える。指の間からは、湧き水のように血が溢れ出していた。


 父の左太ももには、コルク抜きのような刃物が突き立っていた。ブッシュダガーナイフ。朱里が『秘密のスペース』へ保管していた刃物だ。手の中に隠すようにして使う、刺突に特化した殺傷能力の高い武器。


 床をのたうち回る父をその場に残し、朱里は戸口へ走り出した。壊れた扉を抜け、廊下へ出る。


 その瞬間、目の前に火花が散った。


 朱里は廊下に倒れ込む。何が起きたのか、すぐにわからなかった。だが、体の痺れからやがて悟る。


 スタンガンを喰らったのだ。


 倒れたまま、朱里は顔だけを上げる。目の前に、二本の足が見えた。さらに顔を上へ向けると、こちらを見下ろす母と目が合う。


 母はスタンガンを手にしていた。朱里が持っていた物と形状が似ているが、細部が違った。おそらく、母達が狩りに使っていたスタンガンだろう。朱里の物を真似て、手を加えているのだ。


 幸い、こちらが動いていたため、深く電流は流れなかったらしい。朱里が使っていたスタンガンと同程度の威力なら、本来、即昏倒していたはずだ。


 母は怒り心頭だった。


 「親に逆らうだけじゃなく、刺すなんてとんでもない娘ね。これでは監禁だけじゃなくて、躾も必要みたい」


 母は、スタンガンを朱里の肩に押し当てた。朱里は痺れが取れ始めた右手を精一杯振り、ポケットに入れていたある物を母に向かって投げつけた。


 それはブッシュダガーナイフの刃を覆っていた『鞘』だった。


 ステンレス製の『鞘』は母の顔面に当たり、母は僅かばかり怯む。朱里は足をもつれさせながら、その隙を利用し、母を突き飛ばした。母はスタンガンを握り締めたまま、尻餅を付く。


 朱里は階段へと駆けた。まだ痺れが残っており、体がふらついてしまう。


 階段が寸前まで迫った時だ。朱里の服が背後から引っ張られた。バランスを崩し、朱里は膝を突く。朱里は振り向いた。起き上がった母が、追いついていた。


 母は、スタンガンを朱里へと押し当てようとする。朱里はその腕を掴む。母は鬼気迫った顔で、さらに押してきた。


 もつれ合う二人。そして、二人は、一緒に階段の方へ倒れた。


 全身を襲う衝撃。体中を棒で叩かれているかのような痛み。派手な音を立てて、朱里と美智代は階段を転げ落ちた。


 二人は一階の廊下へと、折り重なるようにして倒れる。息が詰まり、目の前が一瞬真っ暗に染まった。


 母は、朱里の下敷きになっていた。母の体がクッションとなり、多少はダメージが緩和されたようだ。


 それでも朱里は、しばらく動けなかった。身体中の骨が砕かれたかのように、感覚が消え失せ、代わりに鈍痛がひっきりなしに襲い掛かる。


 やがて全身の痛みが薄れた頃、朱里は震える両膝を押さえながら立ち上がった。


 朱里は、廊下に倒れたままの母を見下ろす。母は、階段から落下した衝撃で気絶しているらしく、身動き一つしない。息をしているので、死んでいないことはわかった。


 朱里は母の傍らに転がっているスタンガンを手に取り、玄関へと向かう。素早く靴を履いた後、土間に倒れている蓬田刑事の死体を飛び越し、開いたままの引き戸から外へと出た。


 家の外は、これまでの騒乱が嘘であるかのように、静寂に覆われていた。


 朱里はその中を、遠く離れた隣家へ向かって疾走する。隣家へ辿り着いたら、助けを求め、警察を呼んでもらおう。そうすれば、朱里は保護されるはず。両親の手から逃れることができるのだ。


 舗装されていない道を朱里はひた走る。息が上がったが、足は止めなかった。


 しばらくすると、隣家が見えてくる。窓から光が漏れており、住人が在宅であることが見て取れた。


 背後を振り返る。誰も追ってきてはおらず、暗闇のみが朱里を凝視していた。


 朱里は走り続ける。隣家の造形がはっきりするほどまで近付いたところで、朱里は立ち止まった。荒くなった息を整えながら、朱里はほっとする。


 ここまでくればもう大丈夫だろう。仮に今、両親に襲われても、人がいる民家が目と鼻の先なのだ。必ず騒音や悲鳴が住人の耳に届くはず。そうなれば、助けに出てくるか、あるいは警察へと通報してくれることは必至だろう。つまり、すでに自分は安全圏へと脱出したのだ。


 そう。私は、もう両親の手によって監禁されることはなくなった。家畜のような人生を送らなくて済むのだ。


 そして、このまま助けを求めれば、朱里は警察に保護され、両親は逮捕されるだろう。


 朱里は隣家の方へ歩き始めた。しかし、再びピタリと足を止める。


 頭の中で声が聞こえた。自分自身の声だ。


 だが、その先は? 両親が逮捕されて、それからどうする?


 実家から逃れ、冷静さを取り戻し始めた朱里の脳が、ゆっくりと回り出す。


 もしも、このまま両親が逮捕されれば、世間はさぞかし賑やかになるだろう。『令和の食人事件』の犯人が、千葉の片田舎に住む農家の夫婦で、人肉を得るために、東京の若い女性二人のみならず、複数の人間を手に掛けていたのだから。


 その中には、捜査中の刑事まで含まれている。しかも、家には、人肉を保管するための冷凍室まで増設し、そこに食肉工場のごとく、解体された人肉がずらりと並んでいるのだ。


 日本のみならず、世界中に衝撃を与えることだろう。マスコミやネットユーザーらの好餌となり、連日攻撃を受けるはずだ。それは、娘である朱里も対象になるに違いない。


 それだけではなく、朱里の過去の犯罪も露呈する可能性が高かった。そうなれば、両親よりもさらに世間を騒がせる存在となり得るはずだ。仮にそうはならなくても、日夜マスコミが朱里に張り付き、人肉を得るどころの話ではなくなってくる。


 両親のことが警察に知られた時点で、朱里も破滅なのだ。


 ではどうすればいい? このまま両親を放置して、東京まで逃げ帰るか? そしてこれまで通り、人を殺し、人肉を得る日々を送る?


 父の言葉が、脳裏に蘇る。


 父は言った。朱里にとって、何が幸せなのかと。


 これから先、ずっと自分の手を汚して、人肉を求め続ける人生が本当に幸せなのだろうか。飢えた猛獣のごとく、獲物の近辺を嗅ぎ回り、隙を見つけて食い殺す。そんな人の道から逸れた所業が、幸せだと言えるのだろうか。


 人肉を得るのは困難を極める。今の時点ですら、様々なトラブルに見舞われた。これからも同じことが起きるかもしれない。そのうち、蓬田刑事のように、朱里の元へ辿り着く警察官が現れる可能性もあり得た。


 このまま自分自身で、獲物を狩り続けることは限界かもしれないのだ。


 朱里は俯き、地面を見つめながら考える。


 両親は、本気で朱里のことを守るつもりだった。本気で娘の身を案じ、娘が唯一、口にできる食料を調達してくれていた。しかも、これから先、ずっと手を血で染め続ける覚悟を決めて。


 両親は、環境まで整えていた。わざわざ娘のために大きな出費を払い、食料を保管する冷凍室と、新しい『部屋』を造ったのだ。


 これも全て、親の愛情が故のことだろう。娘を守れなかった不甲斐ない自分達を恥じ、この先一生、手元に置いて養うことで、名誉を挽回しようという想いがあるのだ。


 そして、そうなった原因は全て朱里にある。自分が拒食症を患い、カニバリズムを行う食人鬼になったばかりに。


 だったら、朱里がとるべき道は一体、何だろう。どうすれば、自分と両親が幸せになれるのか。


 朱里は眼前に建つ隣家に目を向けた。明るい光が漏れる普通の家庭。今は何だか、非現実感を伴う遠い存在に見える。


 朱里は隣家から目を逸らし、踵を返した。


 もうすでに明白だった。道は一つしかないないのだ。それは、朱里が食人鬼になった時から――いや、朱里が拒食症を患った時から決まっている運命だったのかもしれない。


 ずっと自分を愛してくれている父と母。数少ない味方である存在。今までずっと朱里を守ろうとしてくれていた。そして、これから先も――その両親の愛情を受け入れることこそが、本当に正しい道なのかもしれない。


 朱里は、足を踏み出し、実家へと向かって歩き始めた。


 それに、と朱里は思う。父と母が調達してくれた冷凍室の人肉達。朱里の好みを熟知し、選りすぐったためか、どれも美味しそうに見えた。実際に、味を確かめたら、全て朱里の眼鏡にかなうだろう。


 冷凍室の肉だけではない。由佳と彩夏の肉もある。それを母が腕によりをかけて調理してくれたのだ。さすが母というべきか、一口だけでも、素材を生かした料理に仕上がっていることがわかった。散々楽しみにしていたのだ。二人の肉を食べないでいるのは、とてももったいない。


 西阪の肉もある。あれほど朱里に食べられたがっていたのだから、ちゃんと食い尽くし、彼の言うところの支配をさせてあげたかった。


 他にも忘れてはいけない。ついさっき、また新しい朱里好みの肉が手に入ったのだ。体格の良い、優秀な刑事の肉が。早く血抜きをし、解体しないと肉が不味くなってしまう。


 あそこには沢山の食料がある。これから自分は、飽食の日々を送ることになるだろう。


 実家へと足を進めつつ、しばらくの間、何も入れていない自身のお腹が、ぐうぐうと鳴っていることを朱里は自覚した。

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