第八章

 翌日の出勤日、西阪は会社を休んだ。しかも不思議なことに、無断欠勤だった。


 昨夜、自らの欲望を満たし、元気一杯に朱里のマンションを後にしたのに、妙だと思う。朱里が食べた跡の傷が深く、病院にでも行っているのだろうか。それにしては、会社に連絡くらい入れても良さそうだが。


 どうせ、西阪のことだから、朱里から食べられたことの興奮が収まらず、悶々として出勤すらままならないといったところかもしれない。仕方のない奴だ。後で、電話でも掛けてやろうと思う。


 それから武谷の件だ。彼も西阪と同様、欠勤していた。ただ、こちらはちゃんと連絡が取れており、体調不良だという。やはり、昨日の早退と同じく、朱里達と顔を合わせることができないようだ。もしかすると、このまま休職、それから退職の流れも有り得た。いずれにしろ、武谷を自殺に見せ掛けて殺す予定には変更がないため、好きにすればいい。


 すでに今朝の段階で、武谷の住居の情報は得ていた。彼の欠勤の話に乗じて、他の営業部の同僚から訊き出したのだ。武谷は、南青山のマンションに住んでいるらしい。


 住居の場所は把握した。後は、計画を立てて、決行すれば、必然的に朱里の容疑は晴れ、枷は外れる。自由に狩りができるのだ。


 もうすでに朱里の体力は限界だった。詩緒や両親に限らず、誰の目からでも明確に痩せて見えることだろう。昨夜、久しぶりにまともな食事をしたとはいえ、一口程度である。スーパーの試食レベルだ。それだけでは当然足りず、また、栄養剤やドリンクでは食い繋ぐのは限度があった。


 体が動く内に、早めに武谷を殺さなければならない。


 それから三日が経過した。西阪はなおも無断欠勤を続けていた。武谷の方はしばらくの間、休職を取るという連絡があったが、西阪とは一切連絡が取れないらしいのだ。


 それは朱里も同じだった。西阪が欠勤をした初日から、電話を掛けていたものの、スマートフォンの電源が入っていないのか、繋がらず、不在のアナウンスが流れるのみだった。


 音信不通の社員が出たことで、会社でもちょっとした騒ぎになっていた。


 そこで上司である新田が、緊急連絡先として登録してある西阪の両親へ連絡を行ったそうだ。それを受けて、西阪の両親は、息子が住む御徒町のワンルームマンションへと訪れたらしい。


 大家に理由を話し、西阪の部屋を確認したところ、無人だったため、その足で両親は管轄である上野警察署へ捜索願いを出したようだ。


 現在、西阪は行方不明扱いとなっている。


 そのような経緯を知り、朱里の脳裏に、ある疑惑が生まれた。直近の出来事なのだ。『令和の食人事件』の犯人である武谷が、自身の正体が発覚したため、それを突き止めた西阪をどうにかしたのではないかと。


 西阪の『脅し』により、武谷は何のアクションも取らないような反応を見せたが、見通しが甘かったかもしれない。あいつは連続殺人鬼なのだ。罪を逃れるためなら何だってやるだろう。


 地の底から這い出たような疑惑が、ずっと朱里の中で渦巻いていた。


 その日の午後、朱里は休憩室で、詩緒と共に休憩を取った。


 詩緒は、始めに朱里の体のことについて触れる。


 「近内さん、前よりも痩せたようですけど……。大丈夫ですか? 今日も昼食食べてなかったし」


 正面の椅子に腰掛けている詩緒は、気遣う様子でそう訊く。


 朱里は、無理に明るい声を出した。


 「大丈夫よ。ちゃんと朝と夜は食べているから」


 「昼食を抜いているのは、やっぱりダイエットのためですか?」


 「ええそうよ」


 朱里の返答を聞き、詩緒は複雑な表情を浮かべた。


 「どうしたの?」


 「いいえ。何でもないです。でも無理をしないでくださいね。今、会社大変ですから、近内さんまで倒れられたら、困っちゃいます」


 おそらく、西阪と武谷のことについて言っているのだろう。詩緒は、西洋人形のように整った顔に、憂いを帯びさせながらそう言った。


 しばらく、沈黙が流れる。


 詩緒がポツリと呟いた。


 「武谷さん、大丈夫でしょうか。体調不良だって言ってましたけど」


 詩緒は、無断欠勤が続いている西阪より、病欠で休んでいる武谷の方を心配した。まるで西阪が存在していないかのような言い方だ。


 朱里は、そこでふと思い当たる。シャロンストーンのように尻の軽い詩緒は、営業部にいる整った顔の男とほとんど肉体関係があるらしかった。おそらく、武谷ともそのような間柄になっているのだろう。だから、肉体関係のない西阪より、一度体を重ねた男の方が心配なのだ。


 「わからないわ」


 朱里は首を振ってそう答える。事実を話すわけにはいかないので、無難な返事に留めるしかなかった。


 だが、詩緒の態度はどこか気に食わない。少しだけ懲らしめてやろうと思った。


 朱里は尋ねる。


 「西阪さんのことは心配じゃないの? 武谷さんのことばかり気に掛けているみたいだけど」


 朱里の言葉に、詩緒は焦ったような仕草で弁明を行う。


 「いえ、もちろん心配です。ただ、武谷さんは病気だってはっきりしているから……。西阪さんはずる休みかもしれないし」


 「その考えはよくないわ。西阪さんこそ何かあったかもしれないのに。あなたは西阪さんのこと嫌いみたいね」


 本来、詩緒個人の考えに過ぎないため、責める必要はないのだが、なぜかイラついてしまう。西阪と特別な関係になったせいなのか、あるいは栄養不足で気が立っているせいなのかは、自分でもわからなかった。


 詩緒はあたふたとする。


 「そんなつもりで言ったんじゃないんです。それに、西阪さんのことを嫌っているわけでもないんです。確かに恋愛対象には見れないけど、悪い人じゃないってわかっているし。体格は魅力的だと思いますけど」


 詩緒はそう言って、唾を飲み込んだ。普段、滅多に声を荒げない朱里の乱暴な物言いに、ひどく動揺しているらしかった。


 少し感情的になり過ぎたかもしれない。朱里は気を取り直して言う。


 「ごめんなさい詩緒。別にあなたを責めているわけじゃないわ。ただ、西阪さんも大切な同僚だから心配しているだけ。気を悪くさせたのなら謝るわ」


 詩緒は、かぶりを振った。セミロングの髪がなびく。


 「いえ。近内さんは悪くないです。私の気配りが足りなかっただけなので……。私の方こそごめんなさい」


 詩緒は謝った。詩緒はひどく困惑しているようだった。なぜ、西阪のことについて、ここまで感情的になるのか、不思議に思っているのだろう。


 ここで会話は途切れる。朱里は二人の間にあるガラステーブルに目を落とした。西阪のことを考える。


 先ほど詩緒に言及したように、朱里の中に不安が募っていた。西阪は一体、どこにいるのか。


 朱里の脳裏に、武谷の陰のある顔がチラつく。やはり、武谷が原因なのだろうか。


 頭に渦巻いている疑惑が次第に形を帯びていく。武谷が西阪に対し、何かしら加害したのであれば、もしかすると、今この瞬間に、西阪は助けを求めている可能性もあった。それともあるいは……。


 朱里は、心の中のネガティブなイメージを拭い去った。西阪に限って、それはない。相手は長身とはいえ、痩せた貧相な男だ。襲われたとしても、簡単に反撃できるだろう。


 多分、何か別の事情でふらりと彼はいなくなったに違いない。


 朱里は無理に良い方へと考えた。


 きっと西阪はすぐにでも姿を見せるはずだ。。そして、彼と再会できたら、また肉を食べさせてもらおう。彼も大いに喜んでくれるはずだ。今度はどの部位を食べて欲しいと懇願してくるのかな。会うのが楽しみだ。




 夜の帳が完全に落ちた頃、朱里は目黒のマンションへと到着した。玄関を通り、古ぼけたエントランスへ足を踏み入れる。


 その途端、眩暈がした。空腹と栄養失調のせいだ。とっさに、玄関のガラス扉に手を付く。しばらくそこで眩暈が治まるまでじっと待った。


 幾分か落ち着いたところで、次はスマートフォンが着信音を鳴らし始める。


 小さく息を吐きながら、スマートフォンを鞄から取り出す。眩暈はほとんど解消していた。ガラス扉から手を離し、モニターを見てみる。


 母の美智代からだった。平日に掛けてくるのは珍しいので、何かあったのではと朱里は不安に包まれる。


 電話に出ると、すぐに母の穏やかな声が聞こえてきた。


 「朱里、今電話大丈夫?」


 「うん。大丈夫。どうしたの?」


 母は、少しだけ間を置いて言う。


 「特に何かあったわけじゃないんだけど……。今度のお休みの日、こっちに帰ってこれない?」


 喫緊の用でないことを知り、朱里はホッとする。


 「今度の休みは用事があるかな」


 武谷を『処分』するために、時間を割く必要がある。実家に帰ってなどいられない。


 「そう。残念だわ」


 「どうして帰ってきて欲しいの?」


 「あなたがまだご飯を食べずに痩せたままなんじゃないかって心配になって。お父さんも同じように心配しているわ」


 あくまで両親は朱里の身を案じてくれているようだ。胸が熱くなるのを感じる。しかし、だからこそ、心配の念を抱かせたくない。


 「それなら大丈夫よ。もう体型は元に戻ったから」


 「そう。よかった。精を付けてもらいたくて、ご馳走を用意するつもりだったけど、無駄になりそうね」


 「また今度食べるわ」


 その後、近況報告をいくつか行い、朱里は母との電話を終えた。朱里は、エレベーターに乗り、自分の部屋がある三階へと上がる。


 部屋の近くまでくると、部屋の扉の前に、何かが置かれてあることに気が付いた。


 側まで行き、確認する。それは、白い発砲スチロールの箱であった。三十センチ四方ほどの大きさだ。


 宅配便でもきたのかと思ったが、送り状も何も貼られていないので、そうではないとわかる。


 他の住人への荷物を、誰かが間違って置いて行ったのだろうか。それはそれで不自然だ。この階にはほとんど住人が入っていない。その状況で、荷物の送付先を間違えることなどあり得るだろうか。それに、この箱の置き方。朱里に対して、贈り物をするかのように置かれてあるのだ。


 おそらくだが、この発泡スチロールの箱は、朱里へ向けてのものだろう。


 息を吹きかけられたかのように、朱里の背筋がぞくりとする。とても嫌な予感がした。


 朱里は素早く周りを見渡す。誰もいない。次に、箱を持ち上げてみる。けっこう重いことがわかった。


 朱里は、発泡スチロールを小脇に抱え、部屋の扉を解錠する。そして、爆弾でも持っているような気分で、部屋の中へと運び入れた。


 電灯を点けた後、キッチンの天板の上に箱を置く。それから、封のために貼られているガムテープを剥がした。


 蓋を開けてみると、中には、ビニールに包まれた赤い塊が入っていた。保冷剤も同封されており、クーラーボックスのようにひんやりとした冷気が溢れ出てくる。


 朱里は、中のビニールを開いた。赤い塊は、肉の切り身だった。ブロック肉ほどもあり、相当大きいことがわかる。


 何なのだろうか。一体。どうしてこんな物が、部屋の前に置かれてあったのか。


 それから朱里はハッとする。匂いを感じたのだ。久しい匂い。ここ数週間、ずっと待ち焦がれ続けた匂い。


 人肉の香りだ。


 朱里は眉根を寄せ、しばらく硬直する。そして、我に返ると、急いで戸棚からナイフを取り出した。その後、箱の中の肉をナイフで一口分、切り落とす。


 肉片をナイフで刺し、口の中へと入れた。すぐに確信する。間違いない。やはり、これは人肉だ。


 それから驚愕する。この人肉の味には、覚えがあった。ほんの少し前に味わったのだ。忘れるわけがない。


 この肉の味は、西阪のものだ。


 朱里は、ナイフを手に持ったまま、呆然と立ち尽くした。なぜ、西阪の肉がこんな箱に入っているのだろう。それに、この量。おそらくは腹部の肉なのだろうが、これほどの量を体から取られたら、間違いなくその人間は死んでしまう。つまり、西阪は……。


 いや、何かの間違いだ。そんなわけがなかった。


 朱里は再び、肉の塊へナイフを突き立て、切り落とす。それから口に入れ、今度はゆっくりとテイスティングしながら咀嚼した。


 柔らかく、コクのある味。黒毛和牛のように美味しいこの肉は、間違えようもなく、西阪のものであった。


 朱里は西阪の肉を口の中に入れたまま、ショックで硬直した。西阪が行方不明であることと、致命的であるほどの肉が切り落とされていること。そのことから、間違いなく西阪は、もうこの世にはいないのだと確信できた。


 途端に、悲しみが噴水のように、胸の奥底から噴出してくる。震えが、足元から這い上がってきた。


 目の奥が熱くなり、朱里の頬を涙が伝ってくる。止められなかった。


 朱里は子供のように泣きじゃくった。次から次へと涙が溢れ出てくる。映写機で映したかのように、西阪の顔が頭の中を駆け巡った。数少ない味方であった西阪。特別な存在に昇華した男。もう、二度と会えないのだ。


 ひとしきり泣き終えると、朱里は、口に含んだままの西阪の肉を飲み込んだ。肉が胃の内部へ収まり、感情とは裏腹に、満足感が体を包む。朱里は涙を拭った。手が勝手に動き、再度、西阪の肉を切り分けた。それを口に入れる。心はどこかに飛んで行ってしまったようだが、朱里の体は西阪の肉を求めていた。


 西阪を手に掛けた人間は、すでにわかっている。一人しかいないのだ。あの男だ。性懲りもなく、わざわざ朱里の部屋まで西阪の肉を届けにきた。これも挑戦状というわけだ。必ず追い詰めてやる。追い詰めて、西阪の仇をとってやる。


 朱里は、西阪の肉を生のまま貪り食いながら、そう誓った。




 翌日の夕方、朱里は南青山にある武谷の住居を訪れていた。


 武谷の住居は、二階建てのこじんまりとしたマンションだった。同僚から聞いた話では、彼はここで一人暮らしをしているらしい。


 あれから西阪の肉を朱里は食べ続けた。会社にも、調理した西阪の肉を詰めた弁当を持って行った。当然ながら、弁当は完食し、詩緒の安心した声を聞いた。


 西阪は、敵の手により殺害され、解体されたものの、朱里に食されることは、彼の本懐だったはずだ。このまま食べ続けてやることこそが、西阪に対する弔いであると思った。


 西坂の肉のお陰で、空腹も改善され、見境なしに辺りの人間に食欲が湧くこともなくなった。体力も若干だが戻り、眩暈に襲われる頻度も激減した。


 これなら、多少なりとも敵と戦うことができるだろう。


 そして、ここに、西阪を殺した張本人が住んでいる。


 朱里は、マンションの中へと入る。そこは、小さいエントランスだった。朱里は目の前にある集合ポストを調べた。


 武谷の苗字が記されたポストは、空だった。ということはつまり、奴はマンションを離れることなく、ここにいるということである。


 武谷の部屋は、二階の一番奥の部屋だった。朱里はマンションから出て、裏手に回る。そして、二階の奥の部屋の窓を見上げた。


 武谷の部屋はカーテンを閉め切っており、内部を窺い知ることができない。だが、確実に部屋にいることが確信できた。


 朱里は、西阪の肉が箱の中に詰められていた光景を思い出す。あの肉の量は、西阪の肉体からすれば少量だ。つまり、西阪の死体の大部分は、まだ残されている可能性が高い。


 死体の処分がどれほど大変なのかは、自らが身に染みて理解している。ましてや、大の男丸々一人分となれば、短期間での処分は不可能であろう。


 西阪が行方不明になった日付から換算すると、間違いなく、まだあの部屋に西阪の死体はあるはずだ。


 これは『武谷が犯人だとわかる状況』に則したシチュエーションである。このタイミングで、武谷を自殺に見せ掛けて殺せば、予定通りの殺害方法が達成できる。同時に、西阪の仇も取ることが可能だ。


 今日中に計画を立て、明日の夜にでも実行に移そう。


 朱里はそう決意し、武谷の住むマンションを後にした。


 その足で、次は西阪の住居へと向かう。すでに無人だと判明しているが、何かしら手掛かりがあるかもしれないと思ったからだ。


 朱里は、御徒町にある西阪のワンルームマンションへ辿り着いた。以前、ここにきた時と同じく、静けさに包まれている。


 安っぽいワンルームマンションの二階が西阪の部屋だ。全ての部屋に、人が入居しているようである。


 朱里は疑問を持つ。一体、武谷は、どうやって西阪を襲ったのだろうか。


 西阪が襲われたとするならば、それは無断欠勤が始まった日に他ならない。つまり、武谷が犯人だと発覚した日の夜――朱里のマンションを出た後から朝にかけて――ということになる。


 随分と限られた時間だ。その間に、犯行が行われたとするならば、随分と手際が良い気がした。武谷とやり合った直後であるため、西阪も警戒はしていただろうし、体格差もある。どうやって、西阪を殺すことができたのか。それに、このマンション付近で襲われたとなると、この静けさだ。叫び声や争う音がすれば、さすがに周辺の住人に感付かれるだろう。


 だったら、目黒からここに至るまでの間に、襲われたということか。しかし、それも難しいはずだ。西阪が朱里のマンションを離れた時刻は、さほど遅くはなかった。人通りも多い時間帯である。その中で、大の男一人を襲って殺すことは困難を極めるだろう。


 武谷はどんな魔法を使ったのか。由佳や彩夏を殺害した方法も現時点では不明だし、それほど卓越した実行力を持つスプリーキラーだということなのだろうか。


 どの道、それらの疑問は全て、武谷を殺す際にわかることだ。


 朱里はマンションの二階へ上り、西坂の部屋の前へ立つ。少し躊躇った後、インターホンを鳴らす。無駄な行為だとわかっているが、どうしても衝動を抑えられなかった。


 インターホンの音が扉を越えて聞こえてくる。そのすぐ後、バタバタと廊下を駆けてくる足音が耳に届いた。玄関扉が開き、西阪がひょっこりと顔を覗かせる。西阪は、朱里の姿を確認すると、子供のように目を輝かせた。そしてこう言う。「待ってたよ。さあ中に入ってさっそく僕を食べてくれ」朱里はその言葉に、微笑みを返した。


 閉ざされたままの玄関扉を前に、幻想が白昼夢のように広がる。西阪の部屋は寂としており、一切人がいる気配はなかった。


 わかっていることだ。もう西阪はこの世にはいない。確実に死んでしまったのだ。


 朱里はため息をつくと、心に重りを付けたような気分で、西阪の部屋の前を離れた。階段を下り、マンションから歩道へ出る。それから駅へと向かって歩き始めた。


 その時、背後で声がした。朱里を呼び止める声。この声には、聞き覚えがあった。


 振り返ると、そこに蓬田刑事がいた。隣には諸岡刑事。蓬田刑事は、熊のような厳つい顔に笑みをたたえて、朱里に話しかける。


 「いやー偶然ですな。こんな所であなたと会うなんて。近内朱里さん。私を覚えてますかな?」


 蓬田刑事は、無遠慮に朱里の眼前まで歩み寄り、射抜くような目線をこちらへ向ける。相変わらず体格が良く、強い圧迫感を感じた。同時に、やはり美味しそうな体だと思う。西阪の肉が手に入ったため、飢餓状態ではないが、それでも食欲が湧く相手だ。


 反対に、大して美味しそうではない長身痩躯の諸岡刑事は、少し離れた位置に立っていた。


 予期せぬ遭遇により、動揺を感じ始めた朱里は、それを悟られないよう、ゆっくりとした口調で言う。


 「当然覚えてます。刑事さん。偶然ですね」


 もちろん偶然などではないだろう。この刑事達は、何かしら目論見があって、ここを張っていたのだ。


 蓬田刑事は、西阪のマンションを顎でしゃくった。


 「さっき、そこからあなたは出てきたけど、何の用事があったの? 確か、あなたの同僚の人が住んでいるマンションでしょ? 現在行方不明になっている」


 蓬田刑事は、最後の『行方不明』という単語を強めて言った。


 やはり、西阪が行方不明であることを受けて、ここを張っていたようだ。しかし、なぜ、と思う。どうしてわざわざ西阪の住居を見張る必要があったのか。それに、この刑事達は目黒が管轄のはずだ。御徒町は管轄外である。


 なのに、この男達が管轄外であるこの地区で、捜査をしているのもおかしかった。第一、どうやって、御徒町に住んでいる行方不明者の情報をこうも早く入手できたのか。


 そこで思い当たる。上野、目黒で起きた事件により、警視庁に捜査本部が設立されている。この地域の管轄は、上野警察署だ。おそらく、西阪の両親の手で出された捜索願いを、合同で捜査を行っている上野警察署から、情報として取得したのだろう。


 死体でも発見されたわけでもないのに、なぜ、事件とは関係なさそうな一介の会社員の捜索願いをこの男達が調べようとしたのか。それはわからない。しかし、その結果、その会社員の就業場所が朱里と同じであると知ったため、管轄内となったここで、張り込んでいたということなのだろう。


 朱里がここを訪れるはずだと踏んで。


 「西阪さんが心配だから訪ねてみただけです」


 朱里は納得しそうな理由を伝える。だが、この刑事には通用しなかった。


 「そう? やっぱり心配なんだ。そりゃそうか。前の職場に引き続き、今の職場でも行方不明者が出たもんな。気になるわな」


 蓬田刑事は、片方の眉を上げ、茶化すように言う。しかし、目は笑っていなかった。


 離れた所にいる諸岡刑事が、こちらを見つめていることに気が付く。その目は、まるで、朱里の着ている通勤用の制服を見透かし、その下にある裸を直視しているようだった。どこか淫靡なものを見ているような感覚があり、朱里の体がむず痒くなる。


 ここには居たくない。


 朱里はそう思った。


 「前の職場のことは関係ありません。失礼します」


 朱里は立ち去ろうと、足を踏み出した。すぐに蓬田刑事の太い手が行く手を阻む。


 「すませんがまだ終わってないんですよ。ちょっと署までご同行願えませんか」


 署とは前と同じく、警視庁のことだろう。素直に同意するわけにはいかなかった。


 「任意ですよね?」


 蓬田刑事は、微かに頷く。


 「それならお断りします。理由がありません」


 「理由ならありますよ。前回に引き続き、『令和の食人事件』の参考人として。それから、西阪将彦の行方不明について」


 「西阪さんの行方不明について私は関係していません。それに『令和の食人事件』についても、私は何の関係もないと前回はっきりしたでしょ? ですから私が任意聴取に応じる必要性は微塵もありません」


 朱里の返事を聞き、蓬田刑事は、呆れたように笑った。前回と比べて、蓬田刑事の態度か好戦的に見える。


 蓬田刑事は、引き下がらず、手をこちらに向けたまま言った。


 「そんなこと言わないで。すぐに終わりますから」


 「お断りします」


 蓬田刑事は頭を掻くと、ため息混じりに言葉を発した。


 「素直に従っておいた方がいいと思うよ。断っても、ずっとあなたを誘い続けるから。我々はしつこいよ?」


 蓬田刑事の目は真剣だった。おそらく、この男の言うことは事実だろう。今度こそ、朱里が応じるまでいつまでも付き纏うに違いない。そうなれば、武谷を殺すこともままならなくなる。


 朱里は渋々頷いた。




 警視庁へ到着すると、前回と同じ取調室へ朱里は通された。相変わらず、壁には『禁煙』の貼り紙が御札のように貼られてある。


 朱里は監視カメラを意識しながら、奥の席へと座った。目の前には蓬田刑事。隅の机には、諸岡刑事が着いている。これも前回と同様のフォーメーションだ。


 取調べが始まると同時に、蓬田刑事は単刀直入に切り出した。


 「君は西阪将彦の行方不明に関わっているか?」


 朱里は首を振った。


 「関わっていません」


 「ならなぜ、わざわざ西阪将彦の部屋を訪れたんだ?」


 蓬田刑事は、西阪のマンション前で行った質問を、再度口に出す。


 「先ほども話した通り、同僚が行方不明だと聞いて、心配になっただけなんです」


 「ほう。君は彼と親しかったんだな」


 「そういうわけでは」


 「親しいわけでもないのに、部屋を訪ねたのか?」


 「いけませんか? 親しくなくても、同じ会社の同僚なんです。心配するのは当然だと思いますけど」


 朱里がそう言うと、蓬田刑事は、苦笑した。朱里の証言を全く信じていないスタンスであることが感じ取れる。


 蓬田刑事は質問を続けた。


 「君が前に勤めていた会社でも行方不明者が出ているね? それから今回の件。それについて君はどう思う?」


 またマンション前で行った質問と同じだ。嫌気が差す。しかし、これがこいつらの手法なのだ。


 朱里は答えた。


 「それも先ほど申し上げた通り、ただの偶然ですから、特別な感情を持ち併せておりません」


 蓬田刑事は、眉根を上げた。


 「不思議には思わないの?」


 「はい」


 この質問は早めに切り上げたかった。この刑事は、前の職場で朱里が殺して食った同僚のことと関連付けたがっている。もしも、そうなれば、少し面倒だ。


 朱里は逆に質問を行う。引っ掛かっていたことでもある。


 「あの、どうして西阪さんが行方不明であることを調べようと思ったんですか?」


 「ん?」


 「西阪さんが行方不明になったのは『令和の食人事件』と関係なさそうですけど」


 蓬田刑事は両手を机に突くと、こちらに身を乗り出した。


 「気が付いていたかどうかわからないが、我々は、以前君を聴取して以来、君をマークしていたんだ。その過程で、君と西阪将彦が親しい仲だと判明したんだよ」


 朱里ははっとする。刑事や犯人の監視には警戒し、その結果、監視はされていないと判断したが、実のところ、見過ごしていただけで、マークされていたということか。


 いや、それはおかしいと思う。確実に監視の目がない状況はいくつもあった。


 もしも、常に朱里をマークしていたのなら、もっと早く二度目の聴取が行われていたはずだ。彩夏の部屋にも訪れているし、武谷との一悶着もあった。常に見張っていたならば、口実などいくらでも作れるだろう。


 つまり、蓬田刑事の言葉は正確ではないのだ。実のところ、張り込みは断続的だったに違いない。しかし、それはなぜだろう。


 蓬田刑事は、朱里に的を絞っている。にも関わらず、その相手を常に張らなかったのは、何か理由でもあるのか。やはり、手が回らなかっただけの話なのだろうか。


 目の前の刑事は続けた。


 「彼が行方不明になったという情報が我々の耳に入り、西阪将彦が住むマンションを張っていたわけだよ。そこで君が姿を現した」


 蓬田刑事は、ワントーン声を落として訊いてくる。


 「どうしてさっき、嘘をついたの? 親しくないって」


 次第に緊迫していく場の雰囲気に飲まれ、心臓が激しく波打ち始めた。


 朱里は答える。


 「プライベートのことなので、話したくなかっただけなんです」


 「ほう。そうなのか」


 朱里は諸岡刑事の方へ目を走らせる。彼も書類に書き込むのを止め、こちらを凝視していた。


 「ところで、近内さん、あなた前にあった時よりも随分痩せているね」


 てっきり、追求が増すと思った矢先、蓬田刑事は話題を変えた。


 「え、ええ。ダイエットしているので」


 朱里は面食らいながら答える。蓬田刑事は、なぜか訝しげな顔になった。


 「ダイエット?」


 「はい」


 「それにしては、少し病的な感じで痩せているように見えるけど」


 「やり過ぎただけです。私、夢中になる性質なので」


 蓬田刑事は、顎に手をやり、思い当たったように言う。


 「ああ。昔、あなたが拒食症で痩せていた時と同じということか。そう言えば、前の職場で行方不明者が出た状況と、今回も似ているね」


 「……」


 あくまで刑事は、あの件と結び付けようとする。これ以上何を言っても、その方向へ進むだろう。朱里は無言を貫いた。


 その様子を見て、蓬田刑事は、納得したように頷く。そして、朱里の方へ顔を近付け、どこか決意を込めた風情で言った。


 「わかっていると思うが、私は君を『令和の食人事件』の犯人だと疑っている」


 朱里は蓬田刑事の顔を真っ直ぐ見据えた。目と目が合う。彼の瞳には、獲物を追う獣のような光が宿っていた。


 「だから、正直に話して欲しい。君は『令和の食人事件』に関わっているか? それから以前、前の職場を含め、人を殺したことがあるか?」


 朱里は蓬田刑事と目を合わせたまま、首を振って答えた。


 「ありません」


 なおも、彼の眼光が朱里を捉えている。執念深そうな、ハイエナのような目。


 朱里は決心した。このままでは、『令和の食人事件』の犯人にされかねない。仮に今日の聴取を逃れたとしても、武谷のアパート前で蓬田刑事が言及したように、いつまでも朱里へ付き纏うだろう。すなわち武谷を殺すどころの話ではなくなる。そうこうしている内に、朱里は餓死してしまう。


 朱里は口を開いた。


 「一ついいですか? 私、西阪さんが行方不明になったことについて、原因と思われる怪しい人を知っているんです」


 朱里は武谷のことを蓬田刑事へ話した。西阪とトラブルがあったことや、もしかすると『令和の食人事件』の犯人ではないかと思わせるような怪しい言動など。虚実織り交ぜて、伝える。


 蓬田刑事は、興味深げに朱里の話を聞いていた。


 朱里が全てを伝え終わると、蓬田刑事は腕を組む。


 「ふむ。確かに気になる話ではあるが……。しかし、だからといって、君への容疑が晴れるわけではないぞ」


 朱里は頷いた。


 「わかっています。しかし、彼が西阪さんの行方不明に関与していることは、おそらく間違いありません。それに多分、『令和の食人事件』の犯人としても、何かが出てくるかもしれません。先に彼を調べてから、私を疑ってもいいのではと思います。そうなれば、私も聴取に協力しますし」


 もしも、これで武谷への捜査が行われれば、彼が逮捕される可能性は極めて高い。西阪の死体も含め、何らかの証拠があるはずだからだ。


 そうなった場合、以前より不安視していたように、武谷の口から朱里の犯行が刑事へ示唆されるだろう。朱里にとって、望ましくない展開になるが、現段階の危機的状況よりかは、希望はあった。第一に、これまでの朱里の犯行は証拠が一切ないため、武谷の証言のみが根拠となる。それだけでは朱里への逮捕状を取るのは不可能だろう。


 それに、朱里に疑惑を抱えているのは、目下のところ、この蓬田刑事ないしは、諸岡刑事のみのはずだ。『令和の食人事件』の犯人が逮捕されることで、捜査本部は解散し、同件で朱里を捜査することはできなくなる。


 警察は個人プレイを嫌うため、ほとんど証拠がない容疑で、一個人を追い続けるのは、限度があろう。少しの期間耐えれば、この刑事は手を引かざるを得なくなるかもしれない。


 あくまで希望的観測だが、今の状況を切り抜けるには、これがベストであった。それに、逮捕という形ではあるが、一応、西阪の無念を晴らすことにもなる。


 蓬田刑事は、しばらく朱里の顔を見つめていたが、やがて、息を吐くと言う。


 「わかった。そちらの件も調べてみよう。それからまた君に聴取をとることになるかもしれない。それは覚悟しておいてくれ」


 朱里は頷いた。


 「それじゃあ今日の聴取はここまでだ。もう帰っていいよ」


 蓬田刑事は手を払う仕草をして、終了を告げた。


 朱里は頭を下げると、立ち上がる。扉へ向かおうとしたところで、諸岡刑事と目線が合う。諸岡刑事は、朱里と目が合うと同時に、薄っすらと笑みを浮かべた。




 それから数日後のことだ。朱里の耳に、武谷が逮捕されたという情報が届けられた。

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