第七章

 うっすらとしたまどろみから、朱里は目が覚める。さきほどから枕元で、耳障りな音楽が鳴っていた。スマートフォンのアラームだ。


 朱里は、ゾンビのような緩慢な動きでアラームを停止させる。体が重く、腕を動かすだけで億劫だった。


 頭も夢遊病者のように霞ががっており、意識がいまいち明瞭ではなかった。ただ、今まで見ていた夢の残滓が、排水溝のヘドロのように、側頭部へとへばりついている感覚はあった。内容までは思い出せないが、極めて猥雑で、おぞましい夢だったのは確かである。


 朱里は、顔を横に向け、スマートフォンの画面を覗き見る。


 現在は、火曜の朝七時だ。今日と明日は祝日で、会社は休みである。


 休みを利用し、今日は朝から西阪と共に、捜査に赴く予定だったが、栄養不足からくる体のだるさで、ベッドから起き上がることも困難だった。あまりの空腹で、胃が握りつぶされているかのように痛く、吐き気すら覚えていた。背中と腹がくっつきそうとは、このことを言うのだと理解する。


 朱里はベッドの中で、じっと横たわったまま、しばらく過ごした。朝日が差し込むカーテンの隙間を眺めながら、ぼんやりと思う。老衰で死に逝く老人は、こんな気持ちなのだろうかと。


 やがて、時計は、西阪と待ち合わせしている時間を指し示した。場所は目黒駅なので、今から急げば、少し待たせるだけで済む。だが、一向に立ち上がり気力さえ湧かなかった。


 さらに時間が経つ。もう三十分はオーバーしていた。今頃西阪はやきもきしているはずだ。電話をして、事情を話そうと考えるが、それも億劫だった。


 それからどれくらい経っただろうか。再びまどろみに陥ろうとしていた朱里の耳へ、部屋のインターフォンがこだました。普段はどうとも感じないのに、やたらとうるさく聞こえるのは、己の精神状態が不均衡であるせいか。


 朱里は無視をしようと思ったが、インターフォンはしつこく鳴り続けていた。朱里は、仕方なくベッドから降りる。それから、パジャマのまま、重度の二日酔いの時のように、千鳥足で玄関へと向かった。


 扉を開けると、外にいたのは西阪だった。手にビニール袋を提げている。


 「やっぱり部屋にいたか。大丈夫?」


 西阪は、責める様子も見せず、不安げに尋ねてきた。約束をすっぽかしたのを咎めないのは、今の朱里の顔色を見たせいだろう。明らかに、病人のような青白い血色をしているはずだ。


 「あまりよくないわ」


 朱里は腹部に手を当て、掠れた声で答える。それから西阪の反応を待たず、またのろのろと自室へ戻り、ベッドへ横たわった。


 西阪が、後を追って部屋へと入ってくる。


 「病院へ行こう」


 西阪は、朱里の顔を覗き込みながら言う。朱里は力なく首を振った。


 「行ってどうするの? 人肉が手に入らないので、飢え死にしそうですって伝えるわけ?」


 朱里は鼻で笑う。自虐めいた思いが胸を占領していた。このカニバリズムは、もう病院では治せない。


 「それじゃあ、無理をしてでも、人肉以外の食べ物を食べてみよう」


 西阪は、手に提げてあるビニール袋を持ち上げた。どうやら食べ物を買ってきたらしい。


 「それも無駄。すでに試したわ」


 昨日の夜、朱里は試しに普通の食べ物を口に入れてみた。コンビニで売っているサンドイッチである。普通の女なら、空腹である以上、何の問題もなく食べられるシロモノのはずだ。


 しかし、朱里は無理だった。咀嚼した時点ですでにえづき、戻しそうになったのだ。それでも無理矢理飲み込むと、途端に胃が痙攣し、たちまち全て嘔吐してしまった。結局、食べる前よりも体力を消耗する結果になった。


 「私には普通の食べ物は受け付けない」


 今回、改めてそれを再認識した。


 西阪は小さく息を吐く。


 「それでも何か胃に入れないと。とりあえず、栄養剤とスポーツドリンクも買ってきたから、今すぐ飲むといい」


 西阪は、ビニール袋の中から、数本の飲料水を取り出し、朱里に差し出す。


 そう言えば、飲み物も今日は摂取していなかった。栄養剤やスポーツドリンクくらいは口に入れるべきだろう。


 朱里は、ゆっくりと、西阪の手から飲料水を受け取った。




 栄養剤とスポーツドリンクを飲んだお陰で、多少なりとも頭が明瞭となった。体も動くようになり、朱里は体を起こすと、ベッドへ腰掛ける。


 西阪は、そんな朱里をほっとした様子で見た後、気を遣いながら訊く。


 「少し体調が良くなったみたいだね。それで、今日はどうする? 犯人探しの捜査はいけそうかい?」


 朱里は、逡巡する。正直、僅かばかり体力は戻ったとはいえ、いつ倒れてもおかしくないほどの衰弱状態だ。部屋を出ることすらしんどかった。


 しかし、ここで寝ていても、一向に何も進展しないのだ。むしろ、食べる物がないので、着実に体は弱っていく。早めに犯人を見つけ出し、『処理』をした後、人肉を手に入れなければ、餓死を迎え入れざるを得なくなるのだ。


 「いくわ」


 朱里は、気力を振り絞り、立ち上がった。


 準備を整え、マンションを出た二人は、一応、警察や犯人の監視がないか確認する。それらしき影が見当たらないと判明した後、タクシーを使い、目黒の南にある三田地区へ向かった。


 二人はタクシーを降り、柊彩夏のアパートの前へ立つ。彩夏のアパートは、この前と違い、閑散としていた。ハイエナのごとく、アパートへ集っていたマスコミは、ほとんど姿が見えなかった。別のネタを嗅ぎまわるために、どこかへ消えたのだろう。そういつまでも同じネタを追い続ける連中ではないのだ。


 お陰で、こちらは動きやすい。


 朱里と西阪は、由佳の時と同様、アパートの住人に話を聞いて回ることにした。




 結果的に言えば、収穫はほとんどなかった。前回もそうだったが、アパートの住人の証言は、何ら特色のないものばかりで、ニュースで伝えられているような、朱里達も知っている内容に終始した。かえって、一度現場を訪れた朱里の方が詳しい場合もあった。


 当然といえば当然である。由佳の事件でも同じことが言えるが、警察やマスコミも聞き込みを行っているのだ。アパートの住人が重要な証言を持っているのなら、今頃犯人は檻の中だろう。


 事件発生の前から、被害者をマークしていた朱里ならではの視点での聞き込みも行ったが、結局は無駄であった。


 だが、今回の聞き込みで、ただ一つ、気になる証言があるにはあった。


 彩夏の上の階の住人からの情報である。彩夏が被害に遭う前日、尋ね人がいたらしいのだ。らしい、とはその姿を見ていないためである。由佳のアパートで男が証言した時と同様、彩夏の部屋から女性同士の話し声だけが聞こえたようだ。内容までは聞き取れず、その住人は、その時、友達同士の会話だと思ったらしい。


 彩夏のアパートでの聞き込みを終え、二人は目黒駅へ辿り着いた。


 東口前で、二人は立ったまま話す。


 「結局、大した成果はなかったね」


 西阪は、頭を掻きながら言った。


 「うん」


 朱里は悄然と頷く。栄養失調寸前の体に鞭を打って、わざわざ出向いたのに、この結果はきつかった。疲労感がなおさら増す。今にすぐにでも横になりたかった。


 それでも、朱里は口を開く。


 「だけど、気になる情報はあったわ。例の女性同士が話している声。それは、舟崎由佳の時と似通っているわ」


 「ああ。そうだね」


 「犯人に繋がる情報かしら」


 西阪は、顎に手を当てて言う。


 「そうとは限らないよ。証言があったとは言え、女性が一人、事件の直近に訪れた――たったそれだけだ。両方のパターンで、その女性の姿を見た者はいない。全くの別人の可能性もあるし、偶然である可能性も高いよ。結局、その女性が犯人であることを直接示す証拠にはなり得ないと思う」


 確かにその通りである。決定的な証拠とはかけ離れている。だが……。


 西阪は言葉を続けた。


 「やっぱり僕は男が犯人だと思うよ。女性がそう易々と一人の人間を、しかも一晩で、精肉工場の牛のように綺麗に解体できるとはどうしても考えられない。君が特別なだけだ」


 「……」


 朱里は、深く思案する。可能性という意味では、今の西阪の意見が正しいだろう。だが、果たしてそれを素直に受け入れていいのだろうか。


 西阪は君が特別なだけ、と言った。その言葉は間違いではない。しかし、自分という実例があるのもまた事実である。


 以前考えた通り、自分のように、動物の精肉作業に慣れた末、人間の解体に精通した女が都合よく何人もいるとは思えなかった。動物の精肉作業に慣れているという条件を省いたら、なおさら少ないだろう。


 だが、朱里という前例がある以上、他に同じような女がいる可能性もゼロではない。ゼロでは。これは考慮に入れるべきことではないか。少なくとも、アパートを訪れた女性がいるという数少ないヒントはあるのだ。その点は、決して無視していいものではなかった。


 何か見落としている。朱里はそんな予感にとらわれた。まるで開封し忘れた手紙が鞄の奥底に入ったままのような、頭の隅に大事な情報が埋まっている感覚。それを探ろうと手を伸ばすが、虚しく空を切るばかりだった。


 犯人はいまだ霧の中にいる。朱里の眼前をミルクのような濃い霧が覆う。その中に紛れて、黒いシルエットが見えた。


 お前は誰だ。朱里は、霧の中の人物に問いかける。だが、返事はなかった。なぜ、私の獲物を横取りする? 目的はなんだ? 朱里の声は虚しく霧散した。


 霧の中のシルエットが笑った気がした。この笑みに私は見覚えがある。これは、確か……。


 「大丈夫?」


 西阪の心配げな声に、朱里ははっと我に返った。糖分不足の脳がトリップをし、妄想に襲われていたようだ。目の前の霧とシルエットは曇りガラスを拭った時のように、すぐさま消失した。


 「ええ。大丈夫、ちょっと眩暈がしただけ」


 西阪は不安げに顔を覗き込んでくる。


 「店に入って休むかい?」


 朱里は首を振った。


 「いいえ。帰るわ。横になりたい」


 「送るよ」


 「大丈夫。一人で帰れるわ」


 朱里は足をもつれさせながら歩き出す。西阪は追ってはこなかった。背後で西阪の声がする。


 「捜査はまた後日にしよう。さっきの女性の件は、頭の隅に留めておくくらいでいいと思うよ」


 朱里は返事をすることなく、その場を離れた。


 マンションへ戻る最中、再び目の前に霧が現れた。例のシルエットも健在だ。


 そのシルエットは、朱里を待ち侘びているように感じた。大切な人が自分の元へやってくるのを見守りながら、その場に佇んでいる。そんな気配があった。


 このまま歩き続ければ、すぐにでも、シルエットの人間と遭遇することができる。そのような不思議な兆しを覚えた。




 その夜。朱里はベッドで、何度も寝返りを打っていた。空腹のあまり、眠れないのだ。夕食時、食事代わりに牛乳と栄養ドリンクを飲んだものの、ほとんど腹の足しにはなっていなかった。


 現在、時計の針は、午前二時を指している。今日も仕事が休みとはいえ、睡眠不足はまずい。栄養失調の上、睡眠不足まで加わってしまったら、自分の体はさらに衰弱するだろう。


 朱里は目を瞑り、眠るよう努める。しかし、いくら頑張っても、空腹が苛み、意識は途切れなかった。生き物を飼っているかのように、ずっと腹がぐうぐうと鳴っている。


 キャビネットにある睡眠薬を飲む手段も考えたが、栄養不足で弱っている体に薬物を入れると、肝臓に大きな負担がかかってしまう。それは避けたかった。


 しばらく奮闘してみたものの、やがて朱里はゆっくりと体を起こし、ベッドへ腰掛ける。眠れないのに、意識は不明瞭だった。立ち眩みのように、常に頭がふらつき、体に力が入らない。


 それでも、朱里は気合を入れ、立ち上がった。このままでは埒が明かない。何か栄養のある飲み物を腹に収めようと思った。大して腹の足しにはならないが、何も摂取しないよりはマシのはずだ。


 だが、夕食時に飲み物は全て消費してしまっていたことを思い出す。翌日がゴミ収集日だったので、ベッドへ入る前に、空容器全て捨てており、冷蔵庫はほとんど空である。買いに行かなければならなかった。今の朱里では、すぐ近くのコンビニに行くことすら、マラソン並みの労力を強いられるのだが、そこは根性で乗り越えるしかない。


 朱里はベッドから離れ、クローゼットから簡単に服を見繕って着用する。最後に、カーディガンを上に羽織った。


 顔は、すっぴんのままでいいだろう。目的地はすぐそこなのだ。そもそも、化粧を行う労力すらきつかった。


 朱里は、眩暈を堪えながら、部屋を出て、マンションの入り口から外へ踏み出す。


 秋の冷ややかな空気が、朱里を包んだ。思ったより、外は寒い。カーディガンを羽織ってきて正解だと思う。


 朱里はマンションを後にすると、周囲に目を走らせた。犯人と、警察を警戒したのだ。両者とも、自分を監視している可能性がある。


 だが予想に反し、そのような人影は見当たらない。犯人は元より、警察も自分を常にマークしていると思ったが、これまでの動向を見る限り、両者とも、常時、張り付いているわけではないようだ。


 警察に至っては、もしかすると、あの刑事の独走で朱里に当たりを付けているだけで、そこまで手が回らないのかもしれない。実際のところ、朱里の早合点に過ぎず、本当は人肉を得るための隙が存在していた可能性があったのではないか。そう思わせる何かがあった。その点には、留意しておこうと思う。


 朱里は、冷える夜空の中、静まり返った下目黒の中を歩き始める。連休只中と言えど、時間帯も時間帯なので、人は全く見掛けなかった。ネオンも少ない場末のような住宅街であることも相まって、廃墟を思わせるうら寂しさが漂っている。


 朱里はすぐにコンビニへと到着した。店内に入り、牛乳や栄養ドリンク、スポーツ飲料などを手に取る。店内は、自分以外、客はいなかった。


 全くやる気のない男性店員がレジを打ち、購入を済ませる。それから、コンビニを出て、またすぐにマンションへと引き返す。


 マンションの玄関が見えた時だった。そこに人影が見えることに気が付いた。


 動きがどこか妙だったため、マンションの住人ではないとすぐにわかった。そして、時間帯のせいもあり、朱里は最初、警察――あの刑事――が張り込んでいるのかと思った。やはり、自分への容疑を捨てきれないのだと。


 だが、すぐに違うと理解する。その人影は、私服だったし、なにより体型が違う。ひょろりとした高身長の人間だ。あの若い刑事の方の可能性もあるが、それも何だか雰囲気が違った。


 次に、犯人がとうとう姿を現したのだと思った。もしそうだったら、姿を確かめてやる。


 朱里は、人影に悟られないよう、マンションの正面から外れ、脇に回った。そこからゆっくりと玄関へ忍び寄る。人影はなおも、玄関付近から動こうとはしなかった。随分と、そこに執着しているようだ。張り込みにしては、少しおかしい気がする。一体、何をしているのだろう。


 朱里は、そっと人影に近寄った。人影は、玄関近くにあるゴミステーションのそばに佇んでいる。


 やがて、人影が少し動き、玄関へと繋がる通路に備えられた電灯に照らし出された。


 その人物を確認し、朱里に衝撃が走る。見覚えのある人間だったからだ。


 朱里は思い切って、通路へと入った。そして、その人物の前へ立つ。


 「ここで何をしているんですか? 武谷さん」


 人影は、同僚の武谷啓だった。武谷は、ここで朱里と出くわすとは全く思っていなかったようで、心底驚いた様子を見せた。


 「あ、ああ、近内さん、偶然だね」


 武谷は、万引きがばれた高校生のように、あたふたとする。


 朱里はもう一度訊く。


 「ここで何してたんですか? ここは私が住んでいるマンションですよ」


 武谷は、頭を掻き、わざとらしい驚いた口調で言う。


 「へえーそうなんだ。知らなかったよ」


 武谷の白々しい声が、マンションの入り口に響き渡った。極めて、挙動不審である。すこぶる怪しい。こいつが犯人なのだろうか。監視するために、この場にきた?


 朱里は再び同じ質問をぶつける。彼は、まだ私の問いに、きちんと答えていなかった。


 「武谷さん、質問に答えてください。ここで何をしてたんですか?」


 武谷は、なおも動揺を隠せない様子で、手を上下させ、宥める仕草をする。


 「勘違いしないでくれ。俺はただ、引っ越し先のマンションを見繕っていただけなんだ」


 「引っ越し?」


 「あ、ああ。そろそろ今住んでいる場所から離れたくてね。次に住む場所を探している最中だったんだ。それで、このマンションを発見して、調べていたというわけ」


 「こんな時間に?」


 「連休だし、ちょっと近くで用事を済ませた後だったんだよ」


 武谷は、次第に落ち着きを取り戻していた。声が平静に戻っている。しかし、それでも怪しさは満載であった。不審さも全く拭えていない。


 自分でも気が付かない内に、険しい形相になっていたようだ。武谷は、朱里の顔を凝視した後、叱られた子供のような表情になる。それから、小さく頭を下げた。


 「すまない。近内さんを不安がらせて。でも、本当に君がここに住んでいるとは知らなかったんだ」


 明らかに嘘だとわかる。間違いなく、ここに朱里が住んでいたことを知っていた様子だ。先ほどの引っ越し先云々の言い訳も、不自然極まりない。そうなると、当然、彼は朱里が目的でここにやってきたということになる。そして、嘘までついて誤魔化そうとした。


 これは、もしかするかもしれない。


 犯人は朱里の近辺にいる人間。その条件にも、この男は該当している。


 こいつが犯人だ。


 朱里は、確信を持った。


 待ちに待った『令和の食人事件』の犯人との邂逅である。


 しかし、それならばどうするか。朱里は提げたコンビニの袋を握り締めたまま、考える。


 警察の職質を警戒して、スタンガンを置いてきたのは失敗だった。かと言って、仮に持ってきたとしても、今の栄養失調寸前の弱った体で、この男を取り押さえることができるだろうか。おそらく、不可能に違いない。


 そして、もしも、逆にこの男がここで朱里を襲ってくるのならば、その時は、なす術もなく組み伏せられてしまうだろう。それから殺され、由佳や彩夏のように食われてしまうかもしれない。


 このまま逃げるか。それとも戦うか。西阪を呼ぶにしても、その隙があるだろうか。


 野生の熊を前にした時の如く、朱里は頭の中で目まぐるしく思考を張り巡らせた。


 その時、武谷は意外な行動を取った。


 「まあ、そういうわけだから。別に怪しいことをやっていたわけじゃないんだ。それじゃあ」


 武谷はそう言うと、そそくさと朱里の目の前から離れたのだ。ゴミステーションに背を向け、朱里の真横を通り抜ける。そして、玄関前の通路を、マンションの正面に面している歩道の方へと向かって歩いていく。


 何もしないのだろうか。


 離れていく武谷の背中を見ながら、拍子抜けする気持ちと共に、怪訝に思う。標的であるはずの朱里に、明らかに疑念を抱かれる状況を目撃されたのだ。それなのに、朱里を放置するとはどのような心境だろう。いくら怪しまれても、逃げおおせる自信があるとでも言うのだろうか。


 朱里は武谷を呼び止めようとした。しかし、寸前で思い止まる。ここで呼び止めても無意味だと思ったからだ。下手をすると、相手を刺激し、襲われるきっかけを与えてしまうかもしれない。


 朱里は、武谷の背中を見送るしかなかった。武谷は、一度も振り返ることなく、歩道へと出ると、姿を消した。


 丑三つ時の静謐な夜が、再び訪れる。武谷の姿が見えなくなっても、しばらくその場で朱里は動かなかった。武谷が再び戻ってくることを警戒したのだ。


 だが、いつまで経っても、武谷は戻ってくることはなかった。ただただ、静かな夜の街の空気が、朱里を包んでいた。




 連休が明け、出勤初日の昼休み。朱里は西阪と共に、会社の二十階にある事務用の倉庫へ向かっていた。


 昨日、電話で西阪に武谷の件を話すと、一緒に問い詰めよう、という提案を彼は行った。それで、昼休み、武谷を倉庫へと呼び出したのだ。朱里だと警戒されるので、直接打診を行ったのは西阪である。


 朱里は今日、てっきり、武谷は会社を欠勤するものと思っていた。さすがにあれだけ怪しい行為を目撃されたのだ。自分が殺人犯なのだと疑念を持たれたまま、朱里の前に姿を現すのは不可能であろうと。


 だが、朱里の予想に反し、武谷は、何事もなかったかのように、堂々と出勤してきていた。朱里とはあまり目を合わせないようにしている節はあるものの、普段と態度がほとんど変わらなかった。よほどの胆力の持ち主か、あるいは、証拠など決して出ないであろうという自負があるのか。


 いずれにしろ、今日これからの『直接対決』で全てがわかる。


 二人は、二十階にある倉庫前へ辿り着いた。ここは滅多に人が立ち入らない部屋であるため、他の社員から邪魔をされる恐れはない場所だった。


 倉庫の簡素な扉を、西阪がゆっくりと開ける。西阪が中に入ると、朱里も後に続いた。


 部屋の中は、事務用品を乗せたラックが図書館の本棚のように並んでいる。その奥から、武谷の明るい声が聞こえてきた。彼は先に着いていたようだ。


 「西阪、こんな場所に呼び出してどうしたんだ? まさか愛の告白か?」


 窓際で冗談っぽく笑みを浮かべている武谷は、そこまで言って、はっとしたように口を噤んだ。西阪の背後に、朱里がいることを知ったからだ。


 固まった武谷に向かって、西阪は開口一番、あの時のことについて質問をした。まるで、尋問中の刑事のような口調で。


 「武谷。昨日の深夜、近内さんのマンションにいた理由をもう一度説明してみろ」


 武谷は、薄い顔に、動揺の色を滲ませる。目をパチパチと瞬かせ、西阪と朱里を交互に見やった。


 「お前達、まさか付き合っているのか?」


 武谷は困惑した風情で、逆にそう訊く。西阪の質問に対し、都合が悪いため避けたとしても、着眼点がおかしい言葉だと朱里は思った。


 西阪は、さらに語尾を強め、もう一度質問をする。


 「関係ないだろ。それより答えろよ。昨日の夜、なぜ近内さんのマンションにいたんだ?」


 武谷は、覚悟を決めたようだ。腕を組み、迎え撃つ姿勢を取る。だが、強い動揺が、全身を覆っていることがはっきりと伝わってきた。


 「答えるも何も、ちゃんとその時、説明したぞ。引っ越し先のマンションを下調べしていたってね」


 武谷は、一瞬だけこちらに視線を向ける。彼は、これまで一度も、朱里と目線を合わせていなかった。


 「嘘を付くな。そんな深夜にマンションの下調べをする馬鹿がいるわけないだろ。正直に話せ」


 「事実だ。変な憶測でお前が話しているだけだ」


 二人の男の押し問答がしばらく続く。このままでは埒が明かない。朱里は横槍を入れることにした。ここは単刀直入に切り込んだ方が早い。


 「あなたが犯人だったのね」


 「え?」


 西阪と口争をしていた武谷は、ギョッとしたように、朱里の方に顔を向ける。ここにきて初めて、武谷と目が合った。その目に、著しい慄きが潜んでいるのを、朱里は見逃さなかった。


 「犯人はあなたね」


 朱里はもう一度、同じ言葉を繰り返した。武谷は、視線を逸らし、狼狽える。頬がピクリと痙攣した。


 「何の話だ? 犯人って? 何の犯人だ」


 武谷は、口ごもりながらそう訊く。語尾は震え、所々イントネーションがおかしかった。目も泳いでいる。彼が見せるあまりの動揺に、それまで矢面でやりあっていた西阪も、目を丸くした。


 「言わなくてもわかるでしょう? なぜあんな真似をしたの?」


 「あんな真似って何だよ。知らないぞ。言っておくが俺は何もしていない。もう関わらないでくれ」


 武谷は矢継ぎ早にそう言い、この場から立ち去ろうとする。別の方向から逃げるつもりのようで、隣のラックに挟まれた通路へ、足を踏み出そうとした。


 そこを西阪は逃さなかった。


 ネズミに襲い掛かる蛇のように腕を突き出し、武谷の手首を掴む。そして、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。


 「逃げるな。本当のことを言うんだ」


 「ちゃんと言っただろ。離せよ。警察を呼ぶぞ」


 武谷が声を震わせながら、そう訴える。それを聞いた西阪は、カッとしたように、力強く武谷を窓へと押し付けた。割れそうなほど窓が大きく揺れる。武谷は長身だが、線は細い。体格の良い西阪の方が力は上だった。


 武谷は、痛みで呻いている。西阪は、カツアゲをするチンピラのように、武谷に顔を近付けた。


 「やってみろ。警察を呼ばれて困るのはそっちだろ」


 武谷は、西阪と目を合わせず、視線を床へと落とす。肩が震えている。この様子では、すでに相手の言い分を認めているも同然であった。


 やはり、この男が犯人だった。


 朱里は、自分の確信が、真実になったことを実感した。


 由佳と彩夏の部屋を訪ねたという女性は無関係で、西阪やマスコミの推測通り、『令和の食人事件』は、男の手による連続殺人事件だったのだ。


 西阪は、怯えている武谷の胸倉を掴むと、怒気を込めて言葉を言い放つ。


 「いいな。よく聞け。お前がこれ以上、犯行を続けるなら、その時こそ本当に警察へ垂れ込むぞ。こっちは証拠を握っているんだからな」


 証拠云々は完全に西阪のはったりだが、相手がこの調子なら、効果覿面だろう。現に、武谷の顔はさっと青ざめた。


 無言で顔を伏せている武谷に、西阪は掴んでいる胸倉を引き寄せ、激昂したように問いかける。


 「わかったな? 武谷」


 武谷は、観念したように小さく頷く。西阪は武谷の胸倉を離した。武谷は、脱兎の如く、この場を離れ、部屋を出ていく。


 静かになった倉庫内で、朱里は西阪へと歩み寄った。


 「大丈夫?」


 西阪は、「ああ」と首肯した。肩が微かに上下している。随分と興奮しているようだ。


 「正直、驚いたわ。あなたがあそこまで気迫があるなんて。見直した」


 朱里は素直に感想を述べる。地味な性格だと思っていた西阪に、あんな一面があるとは思いもよらなかった。


 そして、そのお陰で、朱里の憂患は解消の道を辿り始めるだろう。この餓死寸前の空腹状態に、終止符を打てるのだ。


 西阪は息を整えると、こちらに尋ねてくる。


 「これで解決できそうかい?」


 朱里は頷いた。


 犯人の正体は判明した。後は、かねての計画通り、武谷を犯人だと決定付ける証拠を提示させた状態で、自殺に見せかけて殺せばいい。


 奸計をめぐらせての殺人は、朱里に一日の長がある。上手くこなせる自信があった。幸い、警察は朱里に張り付いているわけではなさそうだし、あれだけ西阪が脅しをかけたお陰で、武谷も変なアクションをこちらへ向けることはないだろう。犯行はスムーズに進むはずだ。それが終わると、狩りの再開である。


 そして、なぜ、武谷があのような凶行に及んだのかの動機が気になるが、それはチャンスがあれば殺す時に聞けばいい。無理ならそれはそれで問題はなかった。どうせ殺せば、どの道邪魔はされなくなるのだ。


 朱里が説明すると、西阪は訊いてくる。


 「手伝おうか?」


 朱里は首を横に振った。


 「必要ないわ。これから先は一人でやった方が上手くいくから。私は慣れているし。今までありがとう」


 これで西阪の役割は終わりである。彼は、約束通り、犯人を突き止めることに一役買ってくれた。充分な成果である。


 ということは、つまり……。


 西阪は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


 「ようやく、君は僕を食べてくれるわけだね。約束通りに」


 西阪は、格闘技のの試合直後のような興奮した状態から一転、性的な昂ぶりを見せていた。目が、爛々と輝いている。


 朱里は思案する。どうしたものか。西阪の肉は食べたくない。だが、約束した手前、それを素直に言って、引き下がるようにも思えなかった。


 「……うん」


 朱里は仕方なく、頷いた。




 午後、武谷は会社を早退した。あれだけの修羅場を繰り広げ、自分の正体が朱里達に発覚したのだ。まともに仕事などできないだろう。無理もない話だった。


 武谷が抜けた穴を新田がフォローしていたが、四苦八苦しているようだ。もっとも、いずれ武谷の存在自体がこの会社から消えるため、今のうちに慣れていた方がいいのかもしれない。


 やがて、会社が終わり、意気軒昂とした西阪と共に、朱里は自分のマンションへと帰宅した。


 西阪を洋室へ通し、お茶を淹れる。これにはもちろん、睡眠薬など入っていない。

 朱里は、西阪とテーブルを挟んで座った。お互い、しばらく無言でお茶を啜る。沈黙が流れた。点けていたテレビから、お笑い番組の騒がしい音声だけが聞こえてくる。


 口火を切ったのは、西阪だ。


 「それで、どのようにして僕を解体してくれるんだい?」


 朱里は、テーブルに目線を落とした。


 西阪を解体する――。つまり、西阪を手に掛ける。それはしたくなかった。西阪の肉が美味しくなさそうだからではない。もうそんな嗜好は消え失せている。彼の性癖に対する嫌悪感も、いつの間にか露を払うようになくなっていた。


 もう西阪を食料として見れないのだ。少し前から生まれていた感情である。その他の人間のように食肉用の獲物ではなく、彼を一個人の人間としてしか認識できないのだ。


 そのような相手を殺すことなど、到底できるはずがなかった。私は快楽殺人鬼ではない。あくまで、生きるために人を殺しているに過ぎない捕食者である。れっきとした人間だ。殺したくないという感情を相手に持つのは、当然の心理である。


 朱里は、顔を伏せたまま小さく首を横に振った。そして謝る。


 「ごめんなさい。やっぱりあなたを食べることはできないわ」


 西阪は嘆き声を発した。


 「そんな。約束したじゃないか」


 朱里は慌てて顔を上げた。西阪の表情は、悲しみに包まれている。


 「待って。私の話を聞いて」


 朱里は、胸の内を全て、西阪に曝け出した。西阪を食料として見れないこと。一人の『人間』として見ていること。両親と同じように、特別な存在になってしまったこと。


 西阪は、全てを黙って聞いてくれた。


 話を聞き終えた西阪は、真摯な表情をこちらへ向ける。


 「わかった。君の気持ちは理解できたよ。むしろ光栄だ。君のような絶世の美女から特別視されるなんてね。食べてもらえないのはすごく残念だけど……」


 西阪はそう言った後、哀愁を帯びた様子でテーブルの上のお茶を見つめた。どうやら、朱里の気持ちを汲んでくれたようだ。意外にも簡単に引き下がってくれそうな雰囲気に、朱里はホッとする。


 だが、もちろんそう問屋が卸さない。西阪は顔を上げ、朱里を真っ直ぐ見据えた。


 「だけど、やっぱり僕は君に食べられたいんだよ。食べられて、支配される快楽を味わいたいんだ」


 西阪は、切実に訴える。やはりそう易々と引き下がるつもりはないようだ。


 朱里は困惑する。どうしよう。どう言えば、説得できるのか。


 しかし、その必要はないようだ。


 西阪は、優しく笑みを浮かべると、話を続けた。


 「というのが僕の本音。けれども、君の気持ちを僕は優先しようと思う。本当に残念だけど、そこまで僕に好意を持たれていると、無理を言えないからね」


 朱里は安堵した。やっぱりわかってくれたようだ。


 だが、まだ続きがあった。


 「だから折衷案。僕を殺して解体しなくてもいいから、僕を一口だけ食べてくれないか?」


 「どういうこと?」


 「僕を齧ってくれ。せめて君みたいな美女に、傷を付けられたいんだ」


 西阪は真剣な顔で要望を行う。朱里はどこまでも食い下がる西阪に面食らったが、やがて小さくため息をついた。彼の異常なほどの被虐願望に心底呆れ返ったのだ。それと同時に毒気が完全に抜かれ、逆におかしくなってしまう。


 つい、朱里は小さく噴き出す。


 「どうした?」


 西阪の訝しげな質問に、朱里は笑いながら答えた。


 「今更だけど、こんな下らないことに一生懸命なあなたを見て、おかしくなっちゃって」


 西阪は憤慨した。


 「下らないってなんだよ。こっちは真剣なんだ」


 朱里は、涙を拭いながら言う。


 「ごめんなさい。わかったわ。齧るだけね」


 心が落ち着き、朱里は完全にその気になっていた。一口齧るくらいなら、何の問題もないだろう。


 「ありがとう」


 西阪は目を輝かせた。


 朱里は立ち上がり、西阪の側へいく。西阪も立ち上がった。


 「どこを食べて欲しいの? あまり目立つ部分は良くないと思うけど」


 西阪は、少し考える仕草をする。食べられる部位まではまだ考慮していなかったようだ。あれこれ、どの部分が気持ちいいのか想像しているのだろう。


 やがて口を開く。


 「やっぱり二の腕かな。そこなら肉も厚みがあるし、いつでも『勲章』として眺めることができる。日常生活にも支障がない部分だし」


 「わかったわ。じゃあ上半身裸になって」


 西阪は言われるまま上着とシャツを脱ぐ。朱里も、カットソーを脱ぎ、ブラジャーだけになる。このシーンだけを見れば、これから性交に移る男女のようにも映るだろう。実際は、性交以上に、危険で常軌を逸した行為が始まるのだが。


 露わになった西阪の上半身を、朱里は眺める。やはり、西阪は引き締まった肉体を持っていた。それは予想以上で、西阪に対し、食わず嫌いの感情を抱いていたことを恥じるほどだ。もしも、西阪に特別な感情が生まれていなかったら、この時点でむしゃぶりついていたかもしれない。


 「どうだい?」


 西阪の自信あり気な言葉に、朱里はうっとりと頷いた。


 「素敵だわ」


 朱里は、西阪の盛り上がりのある大胸筋を指でなぞった。程よく固く、黒毛和牛のように身が締まっていることが指を通して伝わってくる。なかなか上等な肉だろう。極限の空腹状態である今の朱里には、とても刺激的だ。お腹が鳴ってしまう。しかし、それでも、西阪を殺してまで食べる気は起きなかった。


 それから、今気付いたが、体の所々に、うっすらした傷跡が付いていることが確認できた。細いミミズ腫れのような跡である。以前西阪はSMクラブに通っていると告白したが、そのプレイの際に付けられた傷の名残なのだろう。彼は正真正銘、マゾヒストなのだ。


 「じゃあ始めるね」


 「ああ頼む」


 西阪は、注射を受ける時のように、左の二の腕を朱里へと突き出す。朱里はそっと顔を寄せた。


 それから、犬のように、西阪の二の腕へ歯を立てて、噛み付いた。


 ああっと西阪は小さくうめき声を上げる。すぐさま快感が体を駆け抜けたようだ。

 朱里は力を緩めることなく、歯を西阪の肉へ食い込ませた。西阪は体を痙攣させ、大きく悶える。恍惚とした表情に包まれていた。


 そのまま力を込めて食い付いていると、やがて肉食獣の権化である犬歯が、皮膚を捉えた。そして犬歯は容易く皮膚を突き破り、血を溢れ出させる。朱里はその血を啜った。口の中一杯に、新鮮で濃厚な鉄錆の味が広がる。


 久しぶりに味わう、人の血だ。


 美味しい。美味しい。信じられないほど美味しい。朱里は夢中で西阪の血を啜り、歯を立てて、さらに噛み込んだ。皮膚はちぎれ、二の腕の肉片が、口の中に流れ込んでくる。


 柔らかく、コクのある味だ。ブランド牛の霜降り肉にも劣らない旨みを持っている。朱里はその肉と皮膚を咀嚼し、嚥下した。


 西阪の肉片が胃の中へと落ち、満足感が腹の底からエクスタシーのように這い上がってくる。何日ぶりくらいだろうか。栄養剤やドリンク以外に、ようやくまともな食事にありつけたのは。そして、西阪の肉は、予想を超えて美味であることがはっきりとわかった。


 西阪は、先ほどから快感に悶え打っている。絶頂を味わう女のように、喘ぎ続けているのだ。彼も彼で、望み通りの幸福の只中らしい。


 朱里は、自分の口元や胸元が、血で染まっていることに気が付いた。ブラジャーにも血が付いている。こちらも上半身裸になればよかったと後悔する。


 そして、今の自分の姿を想像した。口元から胸元まで血濡れで、まるで捕食の最中の獣のようではないか。いや、その状況は間違っていないだろう。今自分は、獲物を喰っている野生動物も同然なのだから。


 人間ではなく、野生動物のように獲物を貪るようになった自分。しかし、そこには何の羞恥心も罪悪感も存在していなかった。あるのはただただ、食欲だけである。


 まだ足りない。これくらいでは。


 朱里は、再び、西阪の二の腕に食らい付く。ざくろのように広がっている傷口が、さらに深く抉れる。


 朱里は食欲が赴くまま、悦楽に打ち震えながら西阪を食べ続けた。




 朱里は西阪の二の腕に、包帯を巻き終えると、軽く撫でながら言う。


 「これで手当ては終わったけど、病院に行った方がいいかもしれないわ。傷が結構深いから」


 「大丈夫だよ。これくらいは自力で治すさ」


 「そう。逞しいわね。それでも傷跡は残ると思うわ」


 「それこそ本望さ。君に食べられたという証拠が残るんだから。その傷跡を見て、また僕は興奮できる」


 「もう」


 朱里は肩をすくめて笑う。西阪の変態的な言葉も、今では何だか愛おしい。


 「美味しかったかい?」


 上着を着ながら西阪は、ディナーでも済ませたかのような風情で訊いてくる。


 「ええ。とても美味しかったわ。ご馳走様」


 朱里は、ニッコリと微笑んで礼を言う。ほんのちょっとだが、久しぶりにまともな栄養が取れた。体調も幾分か、よくなった気がする。詩緒が前に話した以臓補臓いぞうほぞうの概念通り、自分にも少しは西阪の逞しい肉体の一部が身に付いたようだ。


 「それはよかった」


 西阪は、無邪気に笑った。笑顔もこんなに素敵だったのかと改めて朱里は思った。

 スーツを着終えた西阪は、朱里に尋ねる。


 「こういう方法なら、これからも続けられるんじゃないか?」


 朱里は考える。確かにそれは可能だった。この方法ならば、食べられる量は少ないものの、栽培しているミニトマトから収穫するように、定期的に肉を食うことができるだろう。


 通常なら、相手を殺さなければ得られないはずの人肉であるが、西阪のような特殊な人物が相手なら、問題なく成立させられるはずだ。西阪の欲望も満たすことができる上、こちらもメリットがあるのならば、拒否する理由はない。


 もっとも、得られる量は西阪が死なない程度に収めるので、西阪だけを食べて生きていくことは不可能だ。おそらく、間食のようにして扱うことになる。しかし、それでも無駄ではないだろう。


 朱里は西阪の肉の味を思い出しながら、そう結論付けた。


 「ええ。そうね。これから先、私はあなたを食べ続けたいと思うわ」


 朱里の答えを聞いて、西阪は喜んだ。


 「そうか。すごく嬉しいよ。つまりカニバリズムの契約が成立したわけだ」


 西阪は手を広げ、そう言う。それから、朱里と向き合った。


 「これからよろしくね。近内さん」


 西阪は、頭を下げた。礼儀正しく振舞っているのは、おそらく、彼にとってそれほど重要な事柄なのだろう。


 朱里は少し考えた後、西阪の顔を真っ直ぐ見つめた。これは双方同意の契約である以上、こちらも同じように敬意を払わなければならない。


 朱里も頭を下げて、言う。


 「私の方からもよろしくお願いするわ」


 まるで告白され、恋人になった時のような気分になる。


 西阪も同じ気持ちのようで、少し照れたような様子を見せた。


 それからおかしくなって、二人は笑い合った。


 ひとしきり笑い終わると、西阪が思い出したように口を開く。


 「そうそう。君が犯行を行っている瞬間を収めた画像、あれはこの場で消すよ。約束だったからね」


 西阪はそう言うと、スマートフォンを操作し、朱里に見えるように画像を消去した。


 もうすでに、西阪の手から朱里の犯行が露呈する危険性は微塵も危惧していなかったが、それでもリスクは一つ減ったことになる。少しは安心してもいいだろう。


 「もう僕らはパートナーだからね」


 西阪は、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。


 その後、朱里は西阪をマンションの玄関まで送った。


 いくつか言葉を交わし、西阪は朱里の元を離れる。歩き去っていく西阪の背中は、まるで初体験を終えた高校生のように、意気揚々としていた。


 姿が見えなくなるまで、朱里は西阪のその背中を見送っていた。


 西阪が見えなくなった後、寂しさに襲われる。またすぐにでも会いたい。会って、また彼の肉を食べてあげたい。


 そう思った。

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