第六章

 「警察から事情聴取を受けた?」


 会社での休憩時間。西阪は、休憩室で素っ頓狂な声を上げた。その声量が大きかったので、西阪は慌てて周りを見回す。だが、現在、休憩室には朱里と西阪以外は誰もいないので、他者の耳に入る心配はなかった。


 それでも、西阪は、声を潜めるようにして訊く。


 「なんでそんな展開になるんだ? 証拠はないんだろ?」


 朱里は肩をすくめる。


 「そのはず。あるのはどうとでも取れる上野駅の映像だけ。でも、相手の刑事は、確実に私に目星を付けていたわ。しかも、前の会社で行方不明になった同僚のことや、その人の肉を食べた可能性まで探っていた」


 朱里は、事情聴取の顛末を西阪に話す。


 話を聞き終わった西阪は、腕を組み、眉根を寄せた。


 「さすが警察、と言いたいところだけど、あまりにもピンポイント過ぎるな。どうして、そこまで近内さんを疑ったんだろう」


 その疑問は、朱里も同じだった。蓬田刑事の言い分によれば、発端は上野駅の監視カメラの映像からだが、証拠とすら言えないあんな瑣末な情報だけで、こうも警察が動くとは思えなかった。いちいちそんな真似をしていたら、人手がいくらあっても足りないだろう。


 蓬田刑事は、他にも同じ理由で、事情聴取を行っている人間がいると言及したが、それはブラフである可能性が高かった。彼の言動を見る限り、やはり、彼は自分に的を絞っているのだ。


 しかし、なぜ自分なのだろう。他にももっと怪しい人間はいたはずだ。なのに、なぜ、ピンポイントでカニバリズムを行っている朱里を探り当てたのか。どこからかリークがあったのか、それとも刑事としての勘なのか。判断不能だった。


 「わからないわ。でも彼は確信を持っていた。多分、決定的な証拠はないとは思うけど……。けれども、問題なのは、間違いなく、私はマークされていること。だから、この先、食料が……」


 朱里がそこまで言った時、西阪の目が輝いた。西阪は、勢い込んで朱里の言葉の続きを言う。


 「今まで以上に、食料を得るのが困難になる、というわけだね。じゃあ僕の肉を食べる時がきたようだ。僕は今日でも構わないよ」


 西阪は、デートにでも誘うかのような気軽さで、朱里に催促する。


 朱里は首を振った。


 「まだ必要ないわ」


 西阪の目が悲痛に染まる。


 「どうして? もう二、三日何も食べていないんだろ?」


 「そうだけど、まだ耐えられるわ。一応栄養ドリンクとかは飲めるから。私が言いたいのは、この先、食料が得られなくなるから、一刻も早く、犯人を探し出さないといけないってこと」


 朱里は、西阪に、犯人を探し出した場合の適切な『処置』について話した。一番自分が安全圏にいられる方法。


 西阪は、納得したように頷く。


 「そうだね。確かにそれが近内さんにとって、ベストな結果になるだろうね」


 だけど、と西阪はしょげた顔をした。


 「僕は少しでも早く、君に食べられたいんだよ。毎日その欲望を抱き続けて、もう我慢の限界だ」


 朱里はため息と共に伝える。


 「元々、その約束だったでしょ? 犯人を捕まえてからだって」


 西阪は、渋々納得した。


 「わかったよ。まあ確かにそう約束したもんな。ご褒美のために、僕は精一杯協力するさ」


 そこまで西阪が言った時だった。休憩室の扉が開き、人が入ってきた。朱里は口を噤む。西阪も無言になった。


 その自分達に、声がかけられる。


 「あれ? 今日は二人共一緒なんだ」


 新田だった。武谷も子分のように後ろに続いている。


 「お疲れ様です」


 朱里と西阪は、ほぼ同時に挨拶を行った。


 新田は許可を得ることなく、どかりと朱里の隣へ腰掛けた。


 「なになに? 君達、いつの間にそんな親密な仲になっちゃったの?」


 新田の嫉妬が入り混じった目が、西阪へと向けられた。


 朱里が先に弁明する。


 「違うんです。課長。たまたま一緒になって、話をしていただけなんです」


 「ふーん、本当? 何の話をしていたの?」


 「えっと、『令和の食人事件』についてです」


 朱里がそう言うと、西阪の隣に座った武谷が、興味を惹かれた様子を見せた。


 「何か続報があったのかい?」


 朱里は手を振った。


 「いいえ。ただ、犯人はどんな人なのかなって」


 武谷は、眉をひそめた。


 「その犯人って、人を殺して肉を食ってた奴だろ? どうして気になるんだ?」


 「なんとなくです」


 新田が口を挟む。


 「頭のおかしい人間なのは間違いないな。人肉を食べるなんて考えられない」


 新田は恐れを抱いたように、身をすくめる。突き出た醜い腹が、強調された。以前、その腹に、人の肉が収められたことは、本人は知らないようだ。


 武谷はどこか面白がっているような、にやけた顔をして言った。


 「多分、犯人は筋肉フェチな奴だな」


 「え?」


 「人の筋肉に対して、並々ならぬフェチを抱いている奴だよ。それが高じて、人の肉を食べたい欲求を持つようになった、って感じじゃないかな?」


 「そんな単純なものか?」


 西阪が、呆れたように言う。


 「そうさ。なんとなくだけど、犯人の気持ちがわかる気がする。例えば、女性のすらりとした細い脚を見たら、素敵だと思うだろ? それが行き過ぎると、犯人みたいになるんじゃないかな? いわゆる性癖ってやつ」


 「おいおい。こんな所で変な話をするなよ」


 西阪が、武谷をたしなめる。だが、武谷は気にせず続けた。徐々に熱を帯び始めているようだ。


 「人は誰だってそんな性癖みたいなものを一つや二つは抱えているもんだろ? 男なら特にさ。西阪、お前も」


 ストレートに聞かれ、西阪は、少し戸惑いを見せた。そのもの、ずばり的を射た質問である。


 「わからないでもないけど……。武谷、お前女性の細い脚を美味しいと思う奴なんだ?」


 武谷は、焦ったように手を振った。


 「さっきのは一種の例えで、そんな性癖の奴もいるかもしれないってことだよ」


 武谷が一瞬だけ、こちらの脚に目を走らせたことに朱里は気がついた。朱里は自然と、短めのスカートから伸びる自分の脚を閉じる。


 「なんかお前が『令和の食人事件』の犯人みたいだな」


 新田が笑みを浮かべて訊いた。武谷は頭を掻く。


 「勘弁して下さいよ。犯人ならわざわざこんなこと言いませんって」


 朱里は武谷から目を逸らすと、ストッキングに包まれた自分の脚を見下ろした。武谷は、細い足、と言ったが、何かが気になった。


 以前の職場で同僚だった男を思い出す。


 彼は、ガリガリに痩せた女に性的な興奮を覚える男だった。結局は、その性癖を満たすことがないまま、朱里の最初の餌食になったが、もしも、このまま朱里が人肉を得ることができずに、飢えていくならば、再びその男が望む体型へと変貌することになるだろう。


 喉元に、異物が引っ掛かっている感覚がする。モヤモヤしたものが、胸の中に去来していた。


 やがて休憩時間が終わり、業務が始まっても、そのモヤモヤはしばらくの間、一向に晴れなかった。




 仕事が終わり、朱里は品川駅から少し離れたファミリーレストランで、西阪と落ち合った。


 犯人捕縛のため、対策を立てるためである。


 ファミリーレストランの奥の席に、二人は陣取る。時間帯が早いせいか、店内は人が少なく、周りの席には誰も座っていなかった。これなら、仮に警察が張り込んでいても、会話を聞かれる恐れはないだろう。


 レストランにきたとは言え、朱里は何も食べることができない。空腹は凄まじいほどに朱里を苦しめているのだが。


 今日の昼食も、栄養ドリンクのみで、食物を口に入れていなかった。詩緒には、食欲がないと言って、食堂での同席を拒否したが、心配している様子だった。業務中も何度か体調を聞かれたほどである。まだ目に見えて体の変化はないため、両親のような特別な相手で限り、周りに察知される心配はないと思っていたが、一度昼食を抜いたことがよほど詩緒に憂慮の念を抱かせたらしい。詩緒の視線を常に感じていた。


 朱里は、やってきた店員にドリンクを注文する。西阪も気遣ってか、同じくドリンクのみを注文した。


 ドリンクが運ばれてきた後、西阪が口火を切る。


 「以前から考えていたことだけど、多分、犯人は近内さんの身近な人間だと思うよ」


 朱里は同意した。


 「私もそう思う」


 これは自明の理と言えた。朱里の犯行を知るきっかけを持ち、なおかつ、朱里の動向を把握し続けることが可能な人間がいるとしたら、それは朱里の近辺にいる人間に他ならない。友人や、同僚、近所の人間など。


 「そして犯人は、あなたのようなストーカー行為を行った」


 朱里が当て付けのように言うと、西阪は恥ずかしそうに頭を掻いた。


 「まあ、その通りだよ。そして、その立場から物を申すと、前にも言ったように、君のマンションは非常に無防備だ。いくらでも付け入る隙があった」


 そこは、朱里も重々承知していることだ。


 「それに、犯人は、僕以上に、君の行動を把握している節がある」


 朱里は首肯した。そうでなければ、あれほどピンポイントに、朱里の動きに合わせて犯行を行えるはずがなかった。


 「それはわかっているけど、でもどうやって? やっぱり、ずっと私に張り付いていたってこと? あなたが私を監視している時も怪しい人間は見なかったんでしょ?」


 西阪は、個性のない顔に笑みを浮かべた。


 「多分、犯人は君の部屋に盗聴器や盗撮器を仕掛けている」


 朱里は首を振る。それはあり得ない、と思った。


 「まさか。これまで被害者以外、誰も部屋に入れてないのよ。部屋に侵入された形跡もないし、一体どうやって?」


 「ピッキングして入ったんだよ。おそらく、被害者二人の部屋にもそうやって侵入したんだ」


 その説もあり得なかった。朱里は論駁ろんぱくを繰り出す。


 「ピッキングは、専用の工具が必要よ。そう易々、誰でも入手できるものじゃない。そこから足もつくし、技術だっているわ」


 こちらも獲物を狙うハンターなのだ。相手の部屋や家に侵入するため、ピッキング道具を入手することを考えたことがある。しかし、調べた結果、それが困難であることが判明したのだ。


 ピッキングに必要な『特殊解錠用具』は、購入するだけでも、制限がある。専門の業者でなければ、購入や譲与が法律で禁止されているのだ。つまり、個人での購入は不可能である。もしも、犯人が業者の人間で、自前の『特殊解錠用具』で犯行に及んでいるとしたら、すぐに経路を辿られ、身元を割り出されるのは必至である。


 被害者二人の現場の状況で、警察も、ピッキングでの侵入かどうかは判断ついているだろうから、身元を割り出せていない以上、犯人が被害者の部屋へ、ピッキングを使用して侵入していないことは確かだといえるのだ。


 おまけに、朱里のマンションは防犯が手薄とはいえ、部屋自体の錠は、ピッキングに強いディンプルキーを使用したものだ。仮に朱里の部屋のみ、ピッキングを行使して侵入を試みても、相当な技術がないと解錠は不可能である。


 それほどの技術を所持し、かつ、ピッキング道具を入手し得る人間が、そう易々と朱里の身近にいるものだろうか。


 朱里が西阪に説明すると、西阪は首を捻り、うーんと唸った。


 「だけど、それしか考えられないよ。確実に君の部屋は監視されている」


 「ずいぶんと自信満々ね」


 部屋に侵入した者がいないのは、直感でもわかっていた。だが、西阪は、納得していないようだった。


 西阪は提案する。


 「だから君の部屋を調べたい。盗聴器や盗撮器がないか確かめたいんだ」


 「どうやって?」


 西阪は、隣に置いていた黒の通勤バッグを手に取り、掲げた。


 「ここにそれを可能にする道具が入っている」




 朱里は、ディンプルキーを鍵穴に差し込み、扉を開けた。部屋に入ると、後ろから西阪が続く。


 あれから朱里は拒否したものの、西阪に押し切られる形になってしまい、同伴帰宅へと相成った。朱里自身、部屋へ侵入された可能性はないと確信しているが、万一ということもある。ここは、西阪の言い分を聞き入れても損はないと判断した結果だった。


 ダイニングキッチンへと足を踏み入れた西阪は、これまでの被害者達がそうであったように、まっさきに、隅に置かれてある冷凍庫へ目を止めた。


 「あれが例の人肉を保管してある冷凍庫?」


 西阪は冷凍庫へ顎をしゃくり、そう訊く。


 朱里は頷いた。


 「ええ。そうよ。今はもう人肉は入ってないけど」


 朱里はそう答えた後、西阪を洋間へと通す。ファミレスで語ったように、この部屋へ『獲物』以外の立場で人間が入り込むのは、西阪が始めてであった。両親ですら、この部屋に越してからは、一度も招いていないのだ。


 西阪はざっと部屋を見回した後、通勤バッグからある物を取り出した。それは、無線機のような形状と大きさをした、手の平ほどの機器だった。小さなモニターも付いている。


 「それなに?」


 朱里が訊くと、西阪は、機器のつまみを弄りながら答える。


 「電波探知機」


 「それで盗聴器とか盗撮器が仕掛けられているかわかるの?」


 「ああ」


 西阪は、電波探知機を調整する傍ら、軽く説明を行ってくれた。


 盗聴器や盗撮器は、主に二つのタイプに分かれるらしい。一つが、録音や録画を行う単体で完結しているメモリータイプと、もう一つが、撮った映像や、音声を電波に乗せて、受信機へ送るワイヤレスタイプのものだ。


 前者は小型のものが多く、簡易に設置することが可能で、場所もほとんど選ばないことが特徴だ。ただ、デメリットとして、機器の回収が必要な点が挙げられる。しかも、盗聴、盗撮いずれにしても、記録可能時間が存在し、それが上限に達する前に回収する必要がある。つまり、前者のタイプを設置しているのであれば、頻繁に仕掛けた場所へ侵入する必要があるとのこと。


 後者の場合は、その必要がなかった。電源を取ることができる場所に設置しなければならない制限はあるが、一度設置すると、半永久的に映像や音声のデータを電波で飛ばすことが可能なのだ。


 ただ、これにもデメリットはあった。電波という証拠を発信している以上、探知される危険性を孕んでいるのだ。


 仕掛ける先が個人の住居である場合、ほぼ確実に後者のタイプが選択されるらしい。そこで西阪は、そのデメリットを狙って、電波探知機での検出を目論んでいるのだ(わざわざ朱里のために購入して)。


 しかし、この電波探知機にも欠点が存在する。盗聴器や盗撮器以外の、例えばテレビやラジオ、無線機、Wiーfiルーターなどの関係ない電波も拾ってしまう点だ。そこは適宜、見極めるしかないとのことだった。


 説明と調整を終えた西阪は、さっそく作業に取り掛かった。玄関へと行き、探知機のアンテナを方々へ掲げて、電波を探り始める。


 電波探知機の受信範囲は、一メートルから五メートルほどらしい。それに加え、出所を突き止めるには、もっとも電波強度が高い場所を探り当てる必要があるとのこと。


 西阪は、電波探知機のモニターに表示されたインジケーターを見ながら、まるで取り逃がしたゴキブリを探すかのように、部屋の隅々まで探査していく。


 朱里は近くで見守っているだけだが、インジケーターのレベルが、増減していることがここからでも見て取れた。


 「反応あるの?」


 「ああ。あるよ」


 西阪は、アンテナを冷凍庫の裏に向けながら答える。


 「じゃあ盗聴器や盗撮器が仕掛けられているってこと?」


 「反応があっただけでは、そうとは限らない。電波は方々から飛んでくるからね。近くの部屋や、通りの向こうからでもくる。それだけじゃなく、この部屋にあるテレビやWiーfiのルーターからも関係ない電波は発信される。こういった冷凍庫や電子レンジに対しても反応があるんだ」


 「つまり、電波の発信元を突き止めない限り、それが盗聴器や盗撮器によるものか、別のものかの判別ができないわけね」


 「その通り」


 西阪は、大きく首肯する。


 電波の探査を開始して、三十分ほどが経った。西阪は、すでに、ダイニングキッチン、脱衣所、風呂場、和室の探査を終え、洋室へと進んでいた。


 さらに、それから十分ほどが経過する。西阪の表情を見ると、雲行きが怪しくなってきたことがはっきりと窺えた。


 西阪は、洋室を出ると、再び玄関から探査を始める。そして、二度目の洋室の探査を終えた後、小さなため息と共に呟いた。


 「盗聴器や盗撮器の発信源となるものがこの部屋にはない」


 「そうなの?」


 「ああ。テレビやルーターからは電波反応があるけど、さっき言ったように、関係のない電波だろう。そもそも、そういった機材に設置しようとすると、時間と手間がもの凄くかかってしまうんだ。部屋に侵入した犯人が、わざわざそんなところへ仕掛けるとは思えない。つまり、君の部屋には、電波式の盗聴器や盗撮器が設置されていないんだ」


 「それなら、電波式じゃなく、メモリー式の盗聴器が仕掛けられているってこと?」


 西阪は力なく首を振った。


 「それもあり得ない。説明した通り、メモリー式なら、頻繁に回収しなければならないんだ。そんなことしていたら、必ず僕の目に留まったはず。僕は前からずっとこの部屋を監視していたんだからね」


 この会話を他者が聞いた場合、明らかに異常に感じるだろうが、朱里の場合は、妙な説得力を覚えた。


 「それなら犯人は、盗聴や盗撮をせず、しかもあなたにも見つからないよう、ずっと私に張り付いて情報を得ていたってことね」


 理屈で言えば、そうなってしまう。随分と卓越したストーキング技術を持つ相手である。


 朱里の出した答えに対し、西阪は返答をしなかった。釈然としない様子だ。


 その西阪に、朱里はある質問を行う。西阪から電波受信機の説明を聞いて、疑問に思ったことだ。


 「もしも、仮に電波式の盗聴器や盗撮器が仕掛けられていた場合、それを犯人が受信するとしたら、この近くに潜伏しているってことになるの?」


 西阪は、電波探知機の電源を落とした。


 「そうなるね。対応する受信装置があれば、半径五十メートル前後が受信可能距離の相場だ」


 狭いようではあるが、朱里に悟られることなく、潜伏できる範囲でもあるといえた。


 西阪は、肩を落として言う。


 「もしも、機器を発見できたら、そこから犯人を割り出そうと思っていたけれど、当てが外れたな。また振り出しに戻ったよ」


 西阪は、無念そうに、電波受信機を鞄へと納めた。




 それから数日が経過した。朱里の空腹は、耐え難いほど、極限にまで達していた。これほどの飢えは、生まれて初めてかもしれない。以前、拒食症を患った時の方が、絶食期間は長かったが、あちらはそもそも食欲自体湧かなかったのだ。しかし、今回は違う。食べたいのに、食べる物がないのだ。単純な飢饉状態である。


 一週間近く食物を口にしていないため、低血糖で常時、頭がふらつくようになった。かろうじて、栄養剤やその他の健康飲料のお陰で、少しは緩和されているものの、このままでは、いずれ栄養失調で倒れるのも時間の問題といえた。


 あまりの空腹のせいで、多少肉付きの良い人間を見るだけで、食欲を刺激されるようになった。スポーツマン体型の男とすれ違うと、たちまち腹が鳴り、つい後をつけそうになる自分がいた。しかし、今はそれをやるわけにはいかなかった。今も、犯人や、警察が自分を張っている恐れがあるからだ。


 残る飢えを凌ぐ方法は、西阪を食う選択だが、やはり食指が動かなかった。


 だが、それは別に好みの『肉』ではないからではない。これまではその理由で拒否していたが、現在はもうそんな我儘を言う状況ではなくなっているのだ。西阪を食うことだってできるはずだった。しかしそれでも、彼を食べる気にはなれなかった。理由は、もっと根源的な――自分でも形容し難い――感情が心の奥底に渦巻き、西阪を喫食することにブレーキをかけているのだ。


 その感情は、両親に向けるそれと似ている気がした。朱里は、両親だけには食欲が湧かない。それと同じだ。カニバリズムを行うようになってから、こんな感覚を他人に抱くのは、初めてである。


 そんな中、もっとも、朱里の食欲を刺激する存在がすぐ近くにいた。同僚で同じ受付嬢の詩緒である。


 詩緒は、相も変わらず、男好きするような程よく肉の付いた体で朱里を誘惑(朱里から見れば)していた。詩緒が目の前にくるだけで、朱里は詩緒をその場で絞殺し、すぐにでも解体作業に移りたくなる衝動を抑えなければならなかった。


 一方、詩緒の方は、少しずつ痩せていく朱里の体型の変化に気が付いていたようだった。そのことを詩緒から質問されたのは、業務が終了し、ロッカールームで着替えている最中だった。




 「近内さん、少し痩せました?」


 朱里はブラウスに袖を通しながら、詩緒からその質問を受け、少し、ドキリとする。


 「ええ、そうなの。わかる?」


 「いつも見ているからわかりますよ」


 一週間近く食べ物を口にしていないので、外見に変化が現れるのは無理もないかもしれない。とはいえ、それでも僅かな差だろうから、詩緒は随分と鋭い感覚を持っているといえた。


 「ダイエットが上手くいっているお陰よ」


 朱里は取り繕う。まさか食べる物がないせいで、ダイエットするつもりがないのに、痩せていっているとは言えなかった。


 詩緒は、上半身ピンクのブラジャーのまま、胸の前で手を合わせた。


 「やっぱりダイエットのお陰なんですね。最近、近内さん、昼食を食べてないようだから、心配してたんですけど、頑張っているだけだったんだ」


 詩緒は納得したように言う。手を合わせているため、豊かな胸が強調されていた。


 つい、朱里は、詩緒の体に目を奪われてしまう。ギリシャ神話の女神、デメテルのような、豊満な肉体が輝いている気がした。思わず、朱里は唾を飲み込む。この大きな胸を輪切りにして、ステーキとして焼いて食べたら、どれほど腹が満たされるだろうか。


 朱里のそんな思考など露知らず、なおもブラジャー姿のまま、詩緒は訊く。


 「食事を制限する代わりに、ダイエット食品とか食べてますか? お勧めがあったら教えて欲しいです」


 「ダイエット食品? 残念ながら、食べてないわ」


 「それじゃあ、食事制限だけで頑張っているんだ。すごいなー」


 「そんなことないわ」


 本来なら、ダイエットなどしたくないのだ。思いっきり、人肉を食いたかった。


 「いや、立派ですって。私なんて、食事制限をしても、絶対何か食べちゃう。こう見えて私は昔、ガリガリだったのに、世の中、美味しい物で溢れているせいで、こんなに肉が付いちゃったもん」


 「気持ちはわかるわ」


 すこぶる同意だった。世の中には、美味しそうな人間で溢れている。


 そしてあなたも。


 そこまで話すと、詩緒は朱里に背を向け、ようやくカットソーを着始める。服に隠されてもわかる美味しそうな体。セミロングの間から覗く剥き出しの白いうなじが、妙に艶かしかった。皮を剥いだばかりの鶏肉のような、食欲をそそる色合い。


 朱里は、無意識に詩緒の方へ足を踏み出していた。詩緒の背後に立ち、白いうなじへ、ドラキュラのように口を近づけようとする。詩緒はそれに気付くことなく、カットソーのボタンを締めていた。


 その時、詩緒は振り返ることなく、ポツリと呟いた。


 「そう言えば、近内さん、医食同源って言葉知ってます?」


 詩緒の声が耳に入り、朱里ははっと我に返った。ピタリと動きを止める。そして、息を飲み、そっと詩緒から離れた。何をしているんだ私は。


 「何?」


 朱里は、気を落ち着かせながら、聞き返した。


 詩緒は、繰り返す。


 「医食同源です」


 確か、中国の食文化が元の造語だった気がする。しかし、なぜ、詩緒は唐突にそんな言葉を口にしたのか。


 「知ってるわ。でもそれがどうしたの?」


 「医食同源って、例えば調子が悪い体の部位と同じ動物の部位を食べれば、その部分の不調が治るっていう東洋医学の考えじゃないですか」


 あれ、そうだったっけと思う。医食同源は違う意味の言葉だったはずだ。


 朱里は訂正する。


 「間違っているわ。それは以臓補臓いぞうほぞうという言葉よ。医食同源とはまた別の意味」


 医食同源は、病気の治療と食事は源が同じで、食に気を遣っていれば、薬は要らないという中国の薬食同源を元とする造語である。


 その説明を聞いた詩緒は、ぺろりと可愛らしく舌を出した。


 「うっかりしてました。以臓補臓ですね」


 「それで、その以臓補臓がどうしたの?」


 詩緒は、どこか真剣そうな面持ちになる。


 「例えばですよ。もしも太らない体質の人間や健康的な体型の人間を食べれば、食べた人も同じような体質になるのかなって疑問に思って」


 「どうしてそんな疑問を?」


 朱里は訝しむ。ただの尻軽女に過ぎないはずの詩緒が、どうして、そんな疑問を抱くのか。それに、なぜ、わざわざ朱里にその話をするのか。元々、思ったことをすぐに口に出す女ではあったが。


 詩緒はどこか誤魔化すように、小さな笑みを浮かべた。


 「ほら、例の『令和の食人事件』。あのニュースをずっと観続けていたら、そんなこと考えるようになっちゃって」


 なるほど。ワイドショーに感化される性質らしい。そのせいで、変な思想にとらわれたようだ。わざわざこちらに聞いたのも、大して意味はないのだろう。


 朱里は、質問に答えることにした。あくまで、の、予測の範囲で話すという体で。


 「多分、人の肉を食べても体質は変わらないと思うわ。だって、鶏肉を食べても、人間は羽なんて生えないでしょ? それと同じよ。けれども、肝臓が悪くて貧血気味の人が、レバーを食べると貧血が改善するのはあり得るわ。それが、以臓補臓の考え方」


 人間の肉や内臓をいくら食べても、体質に変化がないのは、自身が身を以って経験していることである。


 「残念。別の方法でダイエットに励むしかないか」


 詩緒は、冗談めいた口調で、笑った。


 会話が途切れたところで、朱里は少し考える。


 確かに、人間をいくら食べても、それは他の動物を食べた時と同じで、体質に影響はない。しかし、以臓補臓の考え方には、はっとさせられるものがあった。


 なにせ、不調な部位を治す目的で、他の生き物の同じ部位を食すならば、それこそ人間の肉体が一番適していることになるだろう。移植と似たシステムで、人間の肉体と親和性がもっとも高いのは、人体に他ならないからだ。


 朱里は、着替えをしている詩緒の背中を見つめながら、あるイメージを思い描いた。


 詩緒が、人間の肉を食っている姿である。それも、解体して食べるのではなく、野生の肉食動物のように、倒れた人間の腹に顔を埋め、貪り食っているのだ。


 詩緒は、臓物や肉を引きずり出し、次々に胃袋へと収めていく。次第に詩緒の顔は、血色良く横溢し、お腹もぷっくりと膨らみ始めた。


 そして、脂が乗り熟れた体となった詩緒を、次は朱里が食すのだ。縛り上げ、腹を捌き、解体してその肉を頬張る。医食同源、以臓補臓の観念により、栄養満点である詩緒の肉体は、朱里を元の体型へと戻し、より健康体へと導いてくれるのだ。


 残骸となった詩緒の肉体の中で、唯一無事である整ったデスマスクは、どこか幸せそうだった。それを見て、朱里は悟る。


 詩緒は、私に食べられるために、人の肉を貪り食っているのだと。


 低血糖により、機能が落ちた朱里の脳は、壊れたビデオテープのように、際限なく妄想を垂れ流し続けた。


 人を貪り食う詩緒の姿が、いつまでも脳裏にこびり付いたままだった。

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