GT
茂木英世
GT
観戦しているからなのか、酒が振る舞われているからなのか、恐らくその両方の理由で地面を揺るがす程の熱狂が渦巻く広場の中を俺は走っていた。
身体は快調。だが心はどうしようもなくもどかしかった。体幹の安定も、呼吸のリズムも、腕の振り方も、全てが拙い。全てが足りない。もっと早く走れるはずなのに、それが実現出来ない。歯軋りは加速の為ではなく、このどうしようもない苦悩によるものだった。
視界が流れていく。前には誰もいない。それは俺が一番早いという事を示していた。
──そんなはずは無い。人間がこれ程遅いはずがない。人間とはもっと速いはずだ。
視界が流れていく。
──「一番速い」という言葉が、こんな走りに相応しいはずがない。最速とは、こんなものではないはずだ。
視界が流れていく。
雨後の川のように、流れは加速していく。人が建物が木々が雲が引き伸ばされて線となり、発色が強くなったかと思えば唐突に失われた。白と黒の世界の中でも俺は足を動かしていた。汗が額から流れ、目の中に入る。思わず目を閉じた。
次に目を開いた時、そこには赤く光るシグナルがあった。
●
第四宇宙速度とは魂の到達点だ。最高速を求める魂は次元境界面を超えて、超時空不変体へと至る。風とスピードを愛し愛された者達の
このサーキットで走るのに
目視不可能な爆走集団のレース模様を残すには走者に直接書き残してもらう他なく、タイヤが残した轍が文字となり、エンジンの熱がそれを大地に焼きしめた。
今あなたが読んでいるこのテキストも、ホイールが刻んだ俺の
どこまでも続く赤色の荒野を爆走する。
誰も知らない速度の単位への到達と突破を繰り返す。オリーブの冠のレリーフが施されたカウルが世界を引き裂く。加速、加速加速加速。
かつて地を蹴った踵はタイヤの接地面に、遮二無二振った腕はハンドルになっていた。無人のシートは空気抵抗を減らす為にキャノピーで覆われている。
信念は燃料に、運命力はホイールに、存在強度が外装に。歓喜がエンジンの回転数を上げ、恐怖がハンドルを支え、憤怒が速筋ピストンに力強さを与える。この機体を駆る俺は今、自分自身が真紅の外装に覆われた大型バイクになっていた。
一つの存在をそっくりそのまま疾駆体へと置換する超抜級の大業を駆使してする事が、ただ走るだけだった。
知性体とは往々にしてそういうものだと思う。人間なんかが良い例だ。せっかく重力に反逆して二足歩行を成し得、ある程度の文明まで発達して最初に行った競技が、手を使わない
もしくは、早く走りたいという欲求が進化を凌駕するほどに強いものだったという証左かもしれない。
背後から迫る威圧感と引力を感知する。巨星インスボスだ。インスボスは星一つがそのまま一体の知性体だ。ガス状の星の雲が脳となり、吹き荒れる大気が演算を実行する。何物も寄せつけずにただ考えるだけだったインスボスは、流星を見て動くという概念を知った。真似して動いてみた。楽しかった。もっと早くと欲するのに時間はかからなかった。もっと、もっともっともっとと欲し続けた結果、今インスボスは星一つの存在質量を凝縮した
しかし圧迫感はインスボスだけのものではない。それはインスボスに隠れるように、しかし虎視眈々と前に出る機会を伺っていた。インスボスに比べれば蟻にも等しい、
かたや丸ごと一つの惑星知性体。かたや限定的とはいえ神の顕現体。只人では対峙すら出来ない上位存在に追い上げられながら、俺は少しも臆していなかった。どれだけレベルが違う存在であろうと、俺と同じ衝動に突き動かされているのだと分かっていれば、怯える必要はどこにもない。
カーブが続いていたコースが直線に戻り、一気に前方が開ける。その隙を見逃さず、ヘルメスが一気に加速して俺の横に並んだ。単分子タイヤの接地面に触れないように機体角度を調整するが僅かに触れ合い、火花が散る。
疾駆体の俺たちは、人間の表情のように感情を視覚的に外部出力する手段を持たない。けれどそんなものは不要だと俺たちは知っている。感情どころか、存在の全てがその走りには現れるのだと知っている。
ヘルメスは昂っていた。鎬を削り、文字通り火花を散らすこの頂点の獲り合いに。
そしてそれは俺もだ。魂の賦活が疾駆体と呼応し、思考より早く機体内で操作が行われる。
後ろの二機はエンジンも大したものを積んでいるだろうが、こっちはヒューマノイド由来のブラッドエンジンだ。既に限界スレスレの状態だが、意にも介さずに俺は
超加速と同時に、一瞬世界の色の主張が強くなり、すぐに白黒に移り変わった。このサーキットに来る前に感じたものと同じだったが、俺はもうこの疾駆体の体になる前の事を覚えていない。人間だった事は知っているが、どの時代に生き、どんな生活を送り、どんな風に考えていたのかは何も記憶していない。
ただ、速く走りたいと思っていたのは間違いないはずだ。それさえ分かっていれば良い。他のものは重くて邪魔なだけだった。
後続を引き離したのも束の間、俺が無理なブーストをかけるのを待っていた奴らが一気に拍車を打って前に出てくる。
カルマエンジン搭載の
錚々たる面子だ。だが誰が来ようとやる事は変わらない。一秒後には過ぎ去るコースを読み解き、最適解のライン取りを演算し、導き出した結果よりもさらに速く走れるようにエンジンに鞭打つ。これまでずっとそうしてきたし、これからもそうする。
超時空不変体に過去と未来はなく、俺達は一つの衝動だけに駆られて永続的に走り続ける。こうしている今も、どこかの時代、どこかの宇宙で最速を求める知性体の脳にシグナルが点灯しているだろう。そいつの魂は疾駆体に組み替えられて、気づけば一緒にこの無始無終のサーキットを走っている。今このサーキットにいる全員を抜いても、また誰かがどこかから参戦してくる。全宇宙のあらゆる知性体を追い抜いてようやく最速は証明可能、かと思えばまだ自分の限界という難敵が残っており、そいつと鎬を削っている間にまた他の疾駆体が土煙を上げて追い上げてくる。ゴールラインは見えないどころか用意されていない。最速になる道とは、こういう理不尽なレースのことだ。
そうと知っても俺達は命がけで走る。走り抜いても褒賞は与えられず、栄誉も授けられない。完全に無報酬の行為だ。
もっと速く、何よりも速くなりたい。俺含む馬鹿達を突き動かすのは、その指向性だけだ。それ以外は全てゴテゴテとした趣味の悪い外装みたいなもので、走り出せば勝手に剥がれていく。走るだけの行為の呼び名が儀式やら祭礼やらスポーツやら色々と変わっても、それは変わらない。
加速、加速加速加速。俺達はただひたすらに加速していく。
まだまだ果ては見えない。じっくりと楽しもうじゃないか。出せる限りの最高速度で。
●
一九一メートル。たったそれだけの距離を走り切る事が、オリンピアで行われた祭典唯一の競技だった。
走法は確立されていない。コースも整っていない。何もかもが不完全で、それでも走る事を求めた。誰が一番速いのかを決めようとした。
一九一メートルを誰よりも早く走り切った男は、喝采を受けながらも満たされていなかった。こんな走りに一番速いなんて言葉は相応しくないと憤った。
もっと! と魂が吼える。渇望が無音の咆哮となった時、その光は届けられた。数多の知性体の速度への衝動がコアとなり、時空の裂け目に構築された超時空不変体から。
光は深紅のシグナルとなって、男の目と目の間で明滅する。
──記録にも残っていない真に最初の古代オリンピックの優勝者がどのような人間で、どのような生涯を歩んだかは誰も知らない。
シグナルは黄色に変わる。
──しかし抱いていたものだけは分かる。望んでいたものだけは分かる。
そしてシグナルが緑色に点灯する。
──もっと速く、誰よりも早く走りたい。
そして
GT 茂木英世 @hy11032011
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