終わりから始まる物語
塩
そうして人類は永遠の眠りについた。
そうして人類は永遠の眠りについた。
句読点を含むこの十七文字の一文を前にして、俺はこの日数百回と何回目かになる呻き声に似た溜息をついた。カウンターに置かれた灰皿はそんな溜息を具現化したかのようにタバコが山と積み重ねられている。俺はそこに新たな墓標を立てるがごとく、今しがた吸いきったタバコを乱暴にさした。
「ずいぶんとお悩みだな」
呆れたように笑ったコウジは、入れ直してくれたコーヒーをテーブルに置いたあと、新しい灰皿と交換したあとに俺と向かい合わせに座った。
町の片隅にある古びた昭和レトロな喫茶店は、この時代にあって喫煙OKなのもあっていつもの時間ならば近所の常連さんが何人かお茶を飲んでいる。だが、この日は珍しく店内にいるのは俺とコウジの二人きりのようだ。
「どうした? 借金の督促状でも届いたか?」
冷やかすように言うコウジを手で掃いながら、俺は次の煙草をくわえて頭を抱えながら、左手に持つ数枚の紙きれとにらめっこしていた。
「督促状なら良かったけどさ……。っていうか、俺は借金してねぇから」
そんな「はぁぁっ」と深い溜息を追加した俺の手から、シュッと悩みの種がすり抜けた。
「あっ、ちょっとっ……!」
「なになに? 『そうして人類は永遠の眠りについた。』ってなんだこりゃ」
「おいっ、返せって!!」
手荒に紙の束を奪い返した俺は、二度と獲られないように紙の束を胸に抱いた。それまで冷やかすように笑っていたコウジは、俺のあまりの必死な様子にびっくりして表情を硬くした。
「……わるい」
「あ、いや、こっちこそごめん……」
俺たちの間にはなんとも言い難い沈黙が流れた。
ややしばらくして謝罪を切り出したコウジに、俺もオウム返しのように謝罪の言葉を口にした。気まずそうに姿勢を変えたあと、俺は胸に抱いていた紙の束をカウンターに置いて、ついでにもうひとつ溜息をついた。
「で、どうしたんだよ。その紙について、俺に相談しにきたんだろう? なにか言ってくれないと俺もなにも言えないぜ?」
山盛りに盛られたタバコをゴミ箱に捨てて、灰皿を流しで洗い始めたコウジに、俺は「あぁ、まぁ、ちょっと……」と背中を丸めたままごにょごにょと歯切れの悪い言葉を吐き出した。
俺が祖父の代から続く不動産会社を引き継いだのは二十歳の頃だ。
それまでの俺の人生については、特段語ることは無い。
世間一般のいわゆる平均的な大学生生活を送り、わりと平々凡々とした毎日を送っていた。そんな傍から見ても当たり障りのない俺の人生が、まさにある日突然一変してしまったのだ。
わりと強めの雨が降っていたとある日曜日。家族は遠くの町までドライブに出かけていた。その帰り道のことだ。雨水でタイヤがスリップ、父の運転する車はカーブを曲がり切れずにそのまま断崖絶壁の崖から海に向かって豪快にダイブ。家族はみんな揃ってゴートゥーヘブン。
俺はいきなり天涯孤独の身になってしまった。
なぜ俺だけが家に残っていたのか、そのあたりの記憶はほとんど俺の頭には残っていない。ぼんやりと覚えているのは、いま目の前にいる幼馴染のコウジが、事故の話を聞いて俺の家に飛んできたということくらいだ。俺はコウジに言われるがまま葬儀を執り行い、通う意味の無くなった大学を辞め、問答無用で押し付けられた家業を継いだ。
なぜこんなにもコウジの手際が良かったかというと、コウジ自身も高校生の時に両親を相次いで病気で亡くしているからだ。良いのか悪いのか、とても手慣れた様子でコウジは葬儀を執り行ってくれた。そして、一緒に泣いてくれた。
この人生最大(であろう)ビックウェイブが去った後の俺の人生は、家族がいなくなっただけでまた波もなく差し障りのない毎日を繰り返すようになった。
思い出の詰まる家は処分した。
いまは、コウジが経営するこの喫茶店ちかくのマンションに引っ越し、日がな一日ぼんやりとして過ごしている。ありがたいことに家族が残してくれた遺産で生活に困ることは無く、年に一度だけ三月末の確定申告の時だけ悲鳴を上げるだけの日常、これが俺の新しい生活だった。そんなたいした物語にもならない俺の人生が今、突然の窮地に立たされていた。
「とにかく、これが問題なんだ」
先程コウジから力づくで奪い返した紙の束を目の前に出しながら、観念するように俺は言った。当然のことながら、コウジは俺と紙の束を交互に見た後で「はぁ」と返事を返した。
この俺にとって爆弾並みの破壊力を持つ書類を、俺の会社で事務をしている女の子から渡されたのは今朝のことだ。名前をミコちゃんといって、もとはこの喫茶店でアルバイトしていた女の子だ。
ミコちゃんは控えめに言ってもとっても地味な子で、俺好みのナイスバディなどまったく持ち合わせていない、極めて普通の女の子だ。近くの大学に通いながら簿記の勉強もしている勤勉家で、確定申告で吐きそうになっている俺を見かねて書類作成を手伝ってくれたのが、俺の会社で事務を任されるきっかけになつた。
ドアを開けると、足の踏み場もないほどに書類が取っ散らかった状態の事務所を掃除してくれたのもミコちゃんだ。家業は押し付けられたようなものだったし、そもそも仕事をする気などさらさらなかった俺は、書類は右から左にただ置きなおすだけでそれはそれは酷い有様だったのだ。
そんな、まるで泥棒が入ったかのような社内を一週間かけてなんとか会社らしい状態にまで戻し、なんとか税務署の提出期限に間に合うように書類を作成して出してくれたミコちゃんに、俺は心から感謝した。
そうして確定申告が終わった後、「放っておいたらまた元に戻るのが目に見えているので、良かったらここでアルバイトさせてもらえませんか?」と、ミコちゃんのほうから願い出てくれたので、そのまま俺は彼女を事務として採用したのだ。
……といっても、俺の会社はハッキリ言ってまったく忙しくない。
なんせ、社長である俺が日がな一日パチンコ屋に行ってはタバコをふかす時間があるような会社だからだ。なので彼女には、その日届いた郵便や簡単な事務処理をしてもらうという大事な仕事以外は、夕方まで適当に店番をしてもらっていた。
そんな彼女が、どうやら小説家志望だというのを知ったのは、なにかのときに彼女の机の上に公募のチラシを見た時だったと思う。コウジの喫茶店を辞めて、俺の会社にアルバイト先を変えたのも、勤務時間を終える十九時まで適当に時間をつぶしながら店番をしてもらうという条件が、彼女にとっても都合が良かったらしい。
確かに暇な時間に、アルバイト料を貰いながら小説を書くことが出来るなんて、彼女からすると天国のような職場なのだろう。
そんな彼女から、「社長、良かったらこれを読んで率直な意見を聞かせてもらえませんか?」と、十枚ほどの紙きれを唐突に渡されたのは、今から三十分ほど前の事だ。
「今度はSF小説に挑戦してみました」と、少々恥ずかしそうに言ったミコちゃんからゲラを渡された時、俺は週刊誌のいかがわしい写真が載っている袋綴じを開けようとしている時だった。
そして、あの一文と出会ってしまったのである。
「まさか禁断の言葉をこんなところで言われるなんてさ……」
グッとカウンターの上で拳を強く握りカタカタと震えている俺に、やはりコウジは意味が分からないという様子で「はぁ」と同じ言葉を繰り返した。
「なぁ、まったく話が見えないんだけど。頼むから、ちゃんと順序立てて話してくれよ」
ごもっともだと頷いた俺は、これまで誰にも言わずにずっと心に秘めていたことを大恥を忍んでコウジに言うことにした。
あれは、家族の初七日法要を終えた晩のことだった。
俺は、この喫茶店の同じカウンターの席で、見えない明日をぼんやりと見つめていた。
「とりあえず飯を食えよ」
コトンと皿が置かれた音に気付いてカウンターを見てみると、目の前にはケチャップがたっぷりとかかったオムライスが置かれてある。それが食べ物である……と理解したのは、たぶん五分くらい経ってからだったと思う。
「なんか……、ごめん」
「いいから、とにかく食えって」
そう言って、俺に押しつけるようにコンソメスープが入ったカップを置くと、コウジは今しがた店に入ってきた客の注文を取りに行った。
笑いを交えながら客とやり取りしているコウジに、疲れた様子は微塵も感じられなかった。とても、俺の代わりに他人の葬儀を手配し、俺の記憶に全くない顔も名前も知らない親戚と知り合いをキレイさっぱり追い返してくれたとは思えないほど、普通に元気だった。
対して、俺といったらただそこにいるだけのマネキンのように、この一週間ただこの星に居続けた置き物だった。この時の俺は人間ですらなかった。人でもロボットでもなんでもない、ただ、そこにいるだけのなにか。心臓が動いて血管に血が流れているという以外はただ呼吸を繰り返すだけの存在。ろくに食事をとっていないので腹は減っているはずなのに、目の前のオムライスを見ても食欲はわかなかった、生物ですらないなにか。
どうにか腕を動かしたものの、スプーンはすぐに指から滑って皿に落ちた。
どうやらこの体は食べ物を欲していないらしい。
それならばと俺が手に取ったのは、席のすぐ隣に置かれていた棚に置かれたある漫画の本だった。日に焼けてさらにタバコのヤニが染みついたそれは、十分に古さを感じる一冊だったが、ぼうっとしたまま開いた最初のページが、ようやく俺を現実に戻した。
199X年 世界は核の炎につつまれた!!
錯乱していた俺の頭でも、なんて一文だと思った。
そのまますぐにクライマックスを迎えて世紀末に突入したその漫画では、胸に七つの傷がある男が、これまたガタイの良い男たちに鉄拳制裁を加えるというなんとも荒唐無稽でありながら血沸き肉躍るストーリーが展開されていた。
気付けば俺は、左手で本を読みながら、右手にはスプーンを持ち、話を追いながら漫画の中で所狭しと飛び散る血のような、真っ赤なケチャップが付いたチキンライスを口に運んでいた。
「面白いか?」
どうやら俺はわりかし真剣な眼差しで漫画を読んでいたらしい。ちゃんと食い物を口に運んでくれている様子にもホッとした様子で、コウジが話しかけてきた。
「面白いっていうかさ……」
「うん」
相槌を打たれて、俺はようやくコウジといま会話しているということに気が付いた。思わず顔を上げた俺を不思議そうに見ているコウジに、俺は自分がいまなにを言いたかったのかわからなくなった。まさに頭が真っ白になっているなかで、不意に口からは「なんていうかさ」と勝手に思ってもみなかった言葉が出てきた。
「終わりから始まる物語もあるんだなって思ってさ」
俺の言葉にコウジはまた「うん」と頷いた。
「そうだな。終わりから始まる物語もあるよ」
いつのまにか空になっていたコップに水を注ぐと、「よかったら全巻あるから読んでけよ」と言い残してコウジはキッチンに向かった。
「終わりから始まる物語もある……か」
ひとり呟いた俺に、ある思いが閃光という名の如く、光の様な速さで思考を貫いた。
そうだ、終わりから始まる物語もある。なんだったら今、はっきりいって俺の人生は『終わって』いる。だったら、いつかまた始まる日が来るかもしれない。この終わりから始まる物語のように。
そうだ。
俺もこの漫画のように、人生を再スタートするスイッチになる一文を決めよう。
もしその一言を人生で言われた日がきたら、そこから俺は再び人生を始めていこう。
「それが……『そうして人類は永遠の眠りについた。』って言葉だったわけだ……」
震えた声を出して俺を見たコウジは、頬をヒクヒクとさせながら崩れそうになる表情を必死にこらえて涙目で俺を見ていた。
「笑いたかったら笑えよ」
憮然として言うと、爆発するようにコウジが噴き出すと腹を抱えてその場で笑い転げた。
「ちゅ……、中二病……っ!」
「しょうがねぇだろ! そん時はマジでそう思っていたんだからよっ!!」
そんなことを思い浮かぶほど、この時の俺の頭の中は相当イカレポンチになっていたわけだが、とにかくそう思った俺は、普通の人生を送っていたら絶対に人から言われないであろう言葉を禁断の呪文として自分にかけたのだ。
更に俺は呪文の負荷を勝手に増した。
人生でもしその言葉を自分に投げかけられた時は、とにかく目の前にいる女に愛を誓い全身全霊をかけて彼女の生涯を守ろうと、これまた仏頂面の世紀末覇者も大爆笑の恥ずかしくて逃げ出すような誓いを心に立ててしまったのだ。
「おまっ……、そんな、目の前の女って……っ。それが人妻だったらどうするんだよ。略奪すんのか? ミコちゃんに彼氏いたら奪うってことか?!」
ヒーヒー言いながら涙目で俺を見ているコウジに、俺は猛烈に湧き上がっていた恥ずかしさが、ストンと急速落下した。
「おい、どうしたんだよ」
顔を真っ赤にしていた俺が急に黙り込んだのを見て、怪訝そうにコウジが訪ねてきた。俺はというと、手に持っている紙の束に視線を落として、久しぶりに自分の頭が混乱し始めているのを感じた。
「……だよな」
「あ?」
「いや、ミコちゃんに彼氏がいるってことも……あるよな……。ミコちゃん、ナイスバディじゃないし、近寄る男もいないだろうって思っていた俺、マジ最低」
項垂れて力なく肩を落とした俺に、冷やかしていたコウジもさすがに口をつぐんだ。
「お、おい。急にどうしたんだよ。普通に失礼なこと言っているけれど、大丈夫か?」
「いや、ほんと、俺、自分の事を自分勝手だとは思っていたけれど、いまほど強烈に思ったことないわ……」
お世辞でも、大袈裟に言っているわけでもなく、ミコちゃんは絵にかいたような地味な子だ。俺好みのナイスバディでもないし(むしろ凹凸具合で言うと胸は洗濯板のようだ)、きゃぴきゃぴもしていなければ、ネイルもしていない。スニーカーばかり履いているし、化粧っ気もない。だから俺は、こんな女に生涯を懸けなきゃならないのかとげんなりしていたのだ。
彼女の気持ちなどまるでおかまいなしに。
彼女が俺の求愛を受けて、すんなり受け入れられたら『俺が』困ると思っていたのだ。彼女がいなくなれば俺の会社はすぐに立ち行かなくなる。彼女がいなくなれば本当の意味で困るのは俺のほうなのに、ずっと助けてもらっていたのに、ミコちゃんが一生のオンナになってもらっては困ると、彼女を人間としても女性としてもかなり下に見ていたのだ。
「最低だ、オレ……」
はぁぁぁっと深く溜息をついて、カウンターに倒れ込むように項垂れていたところ、カランコロンと玄関につけられているベルが鳴った。
「ミコちゃん……」
あきらかに動揺しているコウジの声を聞いて俺は飛び起きる、玄関を見て体を強張らせた。対して、ミコちゃんも俺たち二人のただならぬ様子を感じ取って顔を引き攣らせて、しばらくその場に立ち止まっていた。やがて意を決したように俺たちのもとに歩み寄ってきた。
「シャチョー……」
「ミ、ミコちゃん」
「それ、どうでしたか? つまんなかったですか?」
「え……、あ……、いや、その」
明らかに手に持っている紙の束を面倒くさそうに持って、返事にまごついて戸惑っている俺を見て、ミコちゃんは見る見る間に泣きそうな顔になった。
「シャチョー、才能が無いならハッキリ言ってください。そのほうが踏ん切りがつきますから……!」
突然泣きだした彼女に、情けないことに俺はオロオロとした。
「は? 踏ん切りって……。いや、その、才能っていうか、なんていうかさ」
「親から実家に戻ってこいって言われているんです。ここでシャチョーが白黒つけてくれたら、私、夢を諦められますから!」
まさに意を決して言ったミコちゃんに、俺とコウジは口を揃えて「はっ?」と言った。
「ま、待ってよミコちゃん。実家に戻ってこいってどういうこと?」
「え……、だって私の作品、つまらなかったんですよね? だから、私はもう実家に帰ろうかって……」
「いやいや、待ってよ。なにそれ、初耳だよ」
宥めるように言うコウジに、どうも会話が噛み合っていないとミコちゃんのほうも気が付いた。「えっと……」と言うと、彼女は聞き耳を立てないと良く聞こえないくらいの小さな声で、自分がいま置かれている状況を話し始めた。
「うち、実家が商売しているんですけど、ずっと経理をしていた事務員さんがちょっと前に体調崩して辞めちゃって。それで、父親が大学辞めて帰って来いって言っているんです。経済学部で学ぶよりも、実地で経済学んだほうが手っ取り早いとか、資格は働きながらでも取れるとか言われちゃって……」
「無茶苦茶だな」
「そうなんです。うちの父親って、本当にワンマンで。それが嫌で遠く離れたここの大学に来たんです。大学だって本当は国文科に行きたかったのに、父親が経済学部に強引に決められちゃって……。私、本当は小説家になりたいんです。いま、シャチョーのところでアルバイトさせてもらいながら、小説書けているこの環境が最高に幸せなんです。離れたくないんです。お金も稼げるし、自分の夢にも目指せるし……。でも、全然賞には引っ掛からないし、私……、才能無いのかなって……」
涙をいっぱい目に溜めたミコちゃんは、うぐっと声を詰まらせると「シャチョー! ハッキリ言ってください!」と判決を受け入れる罪人の如くに俺に向かって頭を下げた。その姿に、コウジはどうしたものかと俺に視線を投げかけてきたが、俺はなお一層自分が猛烈に恥ずかしくなった。
「……ごめん」
長い沈黙が続いた後、ポツリと俺から出た一言を聞いて、ミコちゃんはグッと唇を噛むと勢いよくその場から立ち去ろうとした。
「待って、ミコちゃん!」
咄嗟に手を掴んだ俺に、「優しくしないでください!!」とミコちゃんは潤みがかった大きな声を出した。
「違うんだ。ミコちゃん」
「なにが違うんですか! もう、ダメダメってことじゃないですかっ!」
「そうじゃなくて! まだちゃんと読んでいないだ!」
おもわず振り返った彼女は真っ赤な目で俺を見ていたが、それ以上に動揺している俺もまた、ムズムズと痛痒い鼻を腕で擦ると、申し訳なさそうに彼女を見た。
「…………え?」
「まだ、ちゃんと読んでいないんだ。その、俺の超個人的な都合で、この小説が、あの、ちょっとビックリする内容だったから。ごめん、そっちに動揺しちゃってきちんと目を通していないんだ」
「そう……なんですか?」
「あぁ」
気まずそうにしばらく俺たちは見つめ合っていたが、神妙な空気を蹴散らすように「んんっ!」とコウジが喉を鳴らした。
「とりあえず二人とも座りなよ。美味しいコーヒー淹れてあげるからさ。とっておきのケーキもサービスで付けるから。とりあえず二人とも、まずは落ち着こう」
そう言うと、カウンターの向こうからミコちゃんに歩み寄ったコウジは、俺の隣にミコちゃんを座らせた。そんなコウジの姿を俺は黙って見た。
ほんと、お前っていっつも救世主のように俺を救ってくれるのな。
コウジがコーヒーを淹れてくれている間、俺は自分が家族を亡くした後にこの店で立てた誓いについて(言われた相手を生涯大切にするという部分は伏せて)ミコちゃんに話をした。
「なんか……、現実で真面目に中二病的な誓いを立てている人、初めて見ました」
笑い転げたコウジと違って、普通に関心しているミコちゃんを見て、俺は今更になってなんて良い子なんだと思った。いや、彼女のことはずっと良い子だとは思っていたが、それは俺にとって『都合が』良い子という話で、さらに俺はいたたまれない気持ちになってしまった。それから改めて彼女の小説を読み直した。
作品は彼女の一生懸命な思いが伝わる話だった。
ただ、一生懸命だからといっても、それが報われるほどこの世は優しい世界ではない。もしこの世がそんな優しい世界ならば、野球少年は全員今頃メジャーリーガーになっているはずだ。けれど、例えこの世が夢追い人に冷たい世界であっても、俺は今日この瞬間だけはちゃんと誠実に生きようと思った。ミコちゃんのために。これまでずっと不誠実に生きてきた反省を踏まえて。
「……どうですか?」
うかがうようにたずねた彼女に、俺は小首を傾げた。
「正直言うと、わからない」
「ダメ……ってことですか?」
「それもわからない。俺が良いと思ったからって賞に入るわけでもないから。でも、さいごまで普通に読めたよ。とくに読みにくいと思わなかった。字も間違っていない」
俺の曖昧な返事に、ミコちゃんは困った顔をした。
「それでさ、ひとつ提案なんだけど、うちの物件使っている人に確か編集者の人がいた気がするんだ。その人に見てもらったらどうかな?」
「え?」
俺の思いがけない提案に、ミコちゃんは目をまんまるくした。
「その人だったら、俺よりも建設的な話が聞けると思う」
俺は初めてこのとき、自分の商売に感謝した。この管理人という武器を手に、これまでの恩返しも兼ねてミコちゃんの役に立ってあげたいと思った。
「それはありがたいですけれど……」
「こういうのはズルじゃないと思うよ。俺たちに意見を聞くのと一緒。あとさ、実家に帰らないで、ずっとウチで働きなよ」
続けてボソッと言った言葉に、コウジとミコちゃんは揃ってオレを見た。二人に凝視されて、自分でもわかるほど肌がピリピリと痛い。きっと、俺の顔はいま真っ赤に染まっている事だろう。そんな自分にしかわからない肌の痛みに、俺はいま自分が人間なんだと、ちゃんと生きているヒトであるのだと突然自覚した。
「シャチョー……?」
「もしオヤジさんが怒鳴り込んできたら防波堤になるから。仕送り止められて家を追い出されたら、それこそウチで面倒みるし。俺の会社、ミコちゃんいなくなったら本当に困るんだ。っていうか、ミコちゃん以外の事務の人なんて考えられないし、ミコちゃんじゃなきゃダメだし」
真剣に一言一言を置くようにして話す俺を見て、口元に手を当てているコウジの体が必死に笑いをこらえて震えているのが分かった。
ぶっちゃけ言うと、いつか出会うかもしれないナイスバディな彼女のことは諦められない。けれど、ミコちゃんも失うわけにはいかない。最悪、ナイスバディだけなら金で解決できる。
まるで愛の告白というより哀願に近かったが、ミコちゃんに彼氏がいないという保障が無い以上、自分で自分の傷を広げるわけにはいかないのだ。これ以上、自分から踏み込んでダメだったら、俺は一生立ち直れそうにない。
ゴートゥーヘルだ。
「今まで通り、空いている時間は小説書いていいし。大学辞めさせられたら、それこそ事務所でずっと書けばいいし……」
「食事のほうは俺が面倒をみてあげるよ」
「コウジさん……!」
俺たちを面白そうに見ていたコウジの思いがけない一言に、ミコちゃんの声はさらにクルッと裏返った。
「店が忙しくなった時に手伝いに来てくれたらそれでいいからさ。っていうか、その作品を俺にも見せてよ。俺がなんかの意見は参考にもならないけど」
「い、いえ。まだ締め切りまで時間があるんで、どんどん気になるところを言ってください」
あたふたしている彼女は気が付いているだろうか。
あの時、俺の前から家族が突然消えたあの日のように、彼女の人生もまた唐突に新たな扉が開いたことを。そして、俺の人生もまた止まっていた時計が動き始めて、新たな扉が開かれたことを。
つまらねぇと呟いて、機械のように過ごしていた毎日がまるで違う世界に見え始めたことを。
数年後、ミコちゃんはこの作品とは別の作品で小説家デビューを果たした。俺は記者会見の場で「奥様はこの作品で人生が変わったとおっしゃっていましたが、御主人はどうですか?」とインタビューを受けていた。
俺は言った。
「俺自身はずっと機械じみた非人間的な暮らしをしていました。それが、彼女と彼女の作品のおかげでふたたび人間として目覚めることが出来たんです。そのきっかけの一言はこの言葉でした」と。
そうして人類は永遠の眠りについた。
終わりから始まる物語 塩 @sio_solt
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