第38話
わたしが誘拐されていたその部屋は、姫島の探偵事務所の地下室だったらしい。拷問やえげつない尋問などの荒事向きに使われている部屋だそうで、ある種の犯罪屋がこうした空間を持っているのは珍しいことではないのだそうだ。
地上に出たわたしは鎮痛剤と抗生物質を亀太郎に飲まされた。車内にいつも常備している薬箱に入っているのだいう。
「わたし猫を捕まえる時にしょっちゅう転んだり引っ掻かれたりしちゃうんで、持ってなくちゃいけないんですよね」結構ぼんやりしたところもある亀太郎は照れたようにそう言った。「これからわたしのお家に向かいますので、そしたらその目、きちんと治療してあげますよ」
「……病院に行った方が良いんじゃぁ」とわたし。
「わたしだってお医者さんですからご安心ください。ヤブ医者に任せるよりは絶対に良いです。それに、かに玉ちゃんにはこれから大事な話と、して欲しいことがあるんですよ」
そう言って亀太郎は有無を言わさず自分の車の助手席に押し込んでしまう。後部座席に牛糞と黒鈴が乗り込んで、そのまま亀太郎宅に向かった。
玄関をくぐる。コレクションルームのソファに転がされる。ここで治療が行われるらしい。麻酔薬が入っているという注射器を持って来た亀太郎に、わたしは念を押すつもりで言った。
「ほ、本当に信頼して任せて良いんですよね?」
「そんな不安がらないでくださいよぅ。わたしお医者さんですよ?」
「だけど精神科医なんでしょ?」
「お父さんの病院で一番暇な科がそこだったってだけです。だいたい何でも看れますのでご安心ください」亀太郎はにっこり笑う。「それでは、しばらく意識を失います」
焼かれた右目の治療で意識が失う程の麻酔が必要なのか、という疑問を口にする前に、わたしの静脈に麻酔が注射された。
〇
目が覚めた。
「もう大丈夫ですよ」わたしの手を握って傍にいた亀太郎の笑顔が目に入る。「ちゃんと義眼も入れて置きました。後は安静にするだけです」
ガーゼと包帯でがっちりと右目を固定される。本当に気が付いたら治療が終わっていた。滞りなく終わったのならとりあえず一安心。
「一生視界が半分なんですねぇ、わたし」
「ごめんなさいね。もっと早く助けてあげられれば良かったのですが」申し訳なさそうに亀太郎。
「いえ、そんなことは良いんです。というか、良く義眼なんてありましたね」
「いやぁ。わたしが子供の頃遊んでたスーパーボールです」亀太郎はこともなげに言って笑った。「マーカーで『まりあ』って書いてますが、洗浄しておいたので即席には十分です。今度もっと綺麗なちゃんとした義眼を作ってあげますね。大丈夫、可愛いお顔が少しでも損なわれるようなヤブな治療はしませんから」
スーパーボール入ってるのか今わたしの右目。何が『ヤブな治療はしません』だ。思わず溜息が出る。わたしの体育の選択科目はバスケで、チームでは一番のポイントゲッターだったのだが、今日からはそういう訳には行かないだろう。
「さてかに玉ちゃん。手当が済んでいきなりで申し訳ないんですが、ちょっと見て欲しいものがあるんですよね」
「……なんですか?」わたしはグロッキーな気分で身体を起こして答えた。麻酔も切れたところで正直体の調子も良くはない。安静にしていたい。でも恩人の話はちゃんと聞かなくちゃいけないだろう。この人はまともじゃないだろうが、わたしにとっては命を助けてくれた大切な友達に違いはないのだ。
「こちらへどうぞ」
亀太郎はわたしの手を引いて、普段猫を殺しているタイル張りの部屋へと誘導した。
れもんがいた。
そこにいるれもんは尋常な様子ではなかった。さっきまでわたしがそうされていたように、両手足を縛りつけられて床に転がされていた。暴行された形跡が見られ、全身のあちこちに痣がある他、鼻血でも出したのか床に血液が飛び散っていて、れもん本人も息も絶え絶えで泣きっ面だった。
「れもん!」わたしは叫び、そして亀太郎の方を見た。「これはどういうことなんですかっ?」
「あなたにとってはやはり、大切な妹でもあるんでしょうね」亀太郎は溜息を吐く。「ですがわたし達にとっては裏切り者……いえ、最初からわたし達を騙すつもりで近づいた憎むべき敵です」
「で、でも……いつの間にこんな」
「おまえが麻酔で気を失っている間に捕まえた。おまえのスマホ借りておまえを装ってこの家に呼び出したんだよ」
振り向くと牛糞がいた。隣にはどこか哀れむような表情を浮かべた黒鈴が兄の傍に立っている。
「ロック画面は!?」
「長い付き合いだ。後ろから覗き見てればそんなもん余裕で覚えるよ」
「れもんを……れもんをどうするつもりなんですか?」わたしは懇願するように亀太郎に問う。
「……あなたに殺してもらおうと思うのです」
そう言われ、わたしは氷を飲み下したような感覚を覚えた。
亀太郎の目は本気だった。どこまでも無慈悲な表情でわたしを見詰め、頬にだけ柔らかな微笑を浮かべる。そして淡々とした口調でこう続けた。
「その子はわたし達の信じる気持ちを裏切りました。せっかくお友達になったと思ったのに、最初からわたし達を嵌めるつもりでいたのですから。それは万死に値する罪です。かに玉ちゃん、あなたもそう思いますよね?」
何も言えなかった。亀太郎の言い分を否定しない訳じゃない。ただ、彼女の恐ろしい言い分に背いたが最後、この魔女がわたしに牙を剥くであろうことは想像に難くなかった。
「わたし達の為に妹を殺す……それが、かに玉ちゃがわたしの素晴らしい友達であることの証拠になります」亀太郎はそう言って、机に置いてある鉄串をわたしに持たせた。「どうぞ」
わたしは咄嗟にそれを受け取ってしまう。先のとがった銀色の鉄串。わたしがいつも猫を刺し殺し、無慈悲な串刺しの刑に合わせている残虐な凶器。
「かに玉ちゃん。どうかわたしを信じさせて欲しいのです」亀太郎は縋るような視線をわたしに注ぐ。「わたし、ずっと不安だったのです。かに玉ちゃんは本当に素敵なお友達でした。高潔で純粋で、思慮深く優しく、それでいて、いつだって抱きしめてあげたくなるような大きな痛みと暗黒の心も抱えていて……。そんな素晴らしいあなたがわたしから離れていくだなんて、考えられなくて。ずっとわたしの傍にいてくれる証が欲しいと、そう思うんです。だから……」
亀太郎は視線をきりりと細くする。
その真珠のような瞳は氷のように冷たかった。
「選んでください。妹さんか、このわたしか。今、ここで」
わたしはれもんの方を見る。ボロボロになって俯いて、虚ろな表情でひたすら床を舐めるように見詰めている。泣きじゃくったり狼狽えたりするほどの気力や体力すらも奪われていることが伺えた。しかしわたし達の会話は聞こえている証拠に、『殺す』などの刺激語が出る度に身体のどこかが震えている。
れもん。わたしの大切なわたしの妹。ずっと同じ家に暮らして来た同胞で、最も気心の知れた相手であり、わたしのことを慕ってくれた大好きなわたしの妹。
それをわたしは殺さなければならない。殺さなければどうなるかは想像に難くない。亀太郎は危険な狂人だ。気に入った相手を徹底的に支配しようとし、それが叶わないとなると、子供がおもちゃを捨てるみたいにあっけなく相手を消し炭にする魔女だ。盾突くべきではない。
……しょうがないじゃないか。わたしは思った。どっちにしたってれもんは助からない。わたしが手を下すか、亀太郎たちが手を下すかの問題だ。だったらわたしが保身のためにれもんを殺すのは間違ったことではない。命は惜しい。
そう思い、鉄串をぎゅっと握りしめた、その時だった。
「……殺してください」
か細い声が聞こえた。
「そして、姉さんは生きてください。どんな卑劣な犯罪者としてでも構いません。とんでもない悪党に支配されて離れられなくなっていても仕方がありません。わたしの知っている姉さんとは違ってしまっていても……それでも、姉さんは生きてください。だから、その為に」
れもんは顔を上げる。真っ青になった顔が、震える唇が、充血した目が、全てが強い恐怖を感じていることを示しながらも、しかしれもんはありったけの覚悟を振り絞ってわたしに告げた。
「私を殺してください」
わたしは息を呑みこんで鉄串を床に落としてしまった。
捧げてくれた。れもんが、たった一つの命をこんなわたしに。
腹の底がひっくり返るような衝撃を覚えてわたしは思わず口元を抑える。震え始めた両手に視線を向ける。わたしは今この手でれもんを殺そうとしていた。こんなにも献身的で高潔な妹を、他でもない我が手で。
自分のしようとしたことが恐ろしく、わたしは顔を覆って嗚咽してしまう。膝を折りたたみ、顔を床に伏して動けなくなる。全身が震え、息が出来ず、意識が遠ざかるような心地さえする。
くぐもった声を上げながら泣きじゃくるわたしに、れもんが鋭く声を上げた。
「何泣いてるんですか? 今から殺されるっていうわたしがこれだけ覚悟を決めたのに、生きることのできる姉さんが何を泣いているんですか?」れもんは食って掛からんばかりの勢いでわたしに叫ぶ。「失うんですよ! 姉さんは、わたしを! 報いなんです! 動物の命を粗末にして、悪い人間と関わって、そんなことで憂さ晴らしをして来た報いを受けるんです! 覚悟を決めてください!」
「だって、だってぇ……」
出来ない。出来る訳がない。
今までどれだけの動物を虐め殺して来たこの両手でも、最愛の肉親に手をかけることには、恥知らずにも恐怖を覚えた。亀太郎への恐怖と残忍な己の記憶に麻痺した心が、れもんへの愛情を思い出し悲鳴をあげている。
わたしにはれもんを殺せない。れもんを生かすことを諦めることは出来ない。
それが理解できた。できてしまった。
「あのぅ」
そう言って、亀太郎がわたしの肩に手を置いた。
「どうしてもですか? どうしても無理ですか? ……それならそれで仕方がありません。無理強いはしません。そんなことをしても何の意味がないことくらいは分かります。選ぶのはあなたです。……どうですか?」
「……ください」
「は?」
「少し時間をください」
そう言うと、わたしは立ち上がって泣きはらした目で亀太郎を見た。
「少しの間れもんと二人にしてください。最後の時間を持ちたいです。だから……」
「…………それが終われば、決断してもらえますか?」
「はい」わたしは頷いた。「二人だけにしてください」
「……良いでしょう」そう言って、亀太郎は牛糞と黒鈴に視線を向ける。「いったんこの部屋を出ましょうか?」
「良いのか?」と牛糞。
「ええ。……どれだけ迷おうとどれだけ時間がかかろうと構いません。最後に私を選んでくれれば、それで良いのです。わたしはかに玉ちゃんを信頼します」
「そういうことじゃなくて……いや」牛糞は溜息を吐く。「分かったよ。行くぞ、鈴子」
「ええ、隆夫」
そして三人は部屋を出た。
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