第36話
使われていない倉庫のような殺風景な部屋で、わたしは目を覚ました。
床は随分とひんやりしていて、頭上の蛍光灯は毒々しい灯かりを降り注がせていた。どこにも窓が見当たらないのを見るに、ここは地下室なのだろうか? 床を舐めるような体勢で転がされていたが埃っぽさや砂っぽさはなく、掃除が行き届いていることを伺わせる。
わたしの人生に睡眠薬を注射されて誘拐されるなんてことがあるとは思わなかったし、わたしの人生に両手足を縛られて床を転がされるなんてことがあるとは思わなかった。そういうのは全部ドラマや漫画の中だけの話であって、自分とは縁がない物だと根拠もなく確信していた。
しかし虚構の中に存在する行為というのは人間の想像力の及ぶ範囲ということであり、ならば現実で行われうることでもある。目を覚まして手足を縛られていたわたしは最初パニックになりかけたが、すぐに唇を結び直し眉間に皺を寄せて平静を取り戻した。
……しっかりしなければならない。
「おはようございます。ハルマゲドンかに玉さん」
姫島がわたしの目の前にいて、柔らかな笑顔を浮かべてわたしを見下ろしていた。その薄っぺらい笑顔の裏側に隠された感情を読み取ろうとして見たが、しかしその心の中身は本当に空っぽなのではないかと思わせるくらいに何も分からなかった。
「状況は理解できています? 無理かもしれませんが、どうか取り乱さないでくださいね。……黙らせる為に余計な暴力が必要になりますから」
「これ誘拐ですよ。拉致監禁、下手をすると実刑判決です」わたしは姫島を睨み付ける。「今すぐ開放してください。これ以上わたしの心証を悪くすると良くないですよ」
「平静でいらっしゃるなら煩わしくなくて助かりますが、そんな怖い顔をしても無駄ですよ。ぼくがそんな脅しが通用するような相手なら、拉致監禁なんて真似はしないとあなたも分かってらっしゃるはずです」
その通りだ。姫島は一線を越えた行動に出ている。そのようなことをするからには、刑事罰を受けること等恐れていないと考えられる。受けることを覚悟しているのか、或いは受けないと思っているのか。おそらく後者だろう。それは何故?
「……わたしをどうするつもりですか?」
「それを説明する前に、あなたにお見せしたい人がいます」そう言って姫島は部屋の扉の方を向いて、声を上げる。「ハルマゲドンが目を覚ましました。入ってください」
そう言うと、しばらくして扉が開かれて、目を真っ赤にして憤怒の表情を浮かべた麻原晶子が部屋に入って来た。
「……晶子……ちゃん?」
れもんの友人で自分の飼い猫をわたしに殺され、その犯人を捜そうと姫島を雇った張本人。
わたしの誘拐をこの子も承知しているのか? しかしこれはチャンスだ。姫島よりよほどこいつの方が御しやすい。
「ねぇ晶子ちゃん、こんなことに関わったらいけないよ!」わたしは叫んだ。「あなたの人生まで無茶苦茶になっちゃう。分かるでしょう? 人を浚って縛り上げたりしたら、少なくとも高校には通い続けられなくなってしまう。こんなことやめさせて?」
「ふざけるな!」晶子は叫ぶ。「ダンゴはあたしの家族だった。友達のいないあたしのたった一人の遊び相手だったんだ。その復讐の為なら、そんなのは全部くだらないことだ! 黙ってろ!」
「……それは分かるよ。晶子ちゃんは猫をすごく大切にしていたんだ。それは分かるんだけど、でもだからってどうしてわたしにこんなことするの晶子ちゃん。何か酷い誤解があると思うんだ。それについて話をさせて欲しいな」
「誤解なんかじゃない。あんたは実際にハルマゲドンかに玉だ」
そうだけど。「違うよ。何の根拠があってそんなことを言っているの? わたしは猫なんか殺していない。そこの探偵があなたに何を吹き込んでいるのかは分からないけれど、わたしはあなたのお友達でしょう? 信じて欲しい」
「あたしだって……道太郎さんが調べたって言うだけだったら、りんごちゃんが犯人だなんて信じなかったよ……」晶子は怒りで赤くしていた瞳に涙を滲ませる。「でも……でも違うんだ。だって……」
だってなんだ?「教えて晶子ちゃん。何を根拠に、わたしがあなたの飼い猫を殺しただなんて思い込んでいるの?」
「調べるべき標的がいる時、もっとも効率良くその情報を獲得する方法は何だと思いますか?」姫島は静かな声でわたしに語る。「いえ、もちろんいろんな方法があると思います。しかし手間やリスクは度外視して、大量のしかも確実な情報を手に入れようと思ったら、標的の周囲の人間をスパイに仕立て上げるのが一番です」
「……スパイ?」
「そうです。スパイです」
姫島は口を開いたまま頬を大きく捻じ曲げた。その瞳に浮かんだ笑みはどこまでも薄っぺらいのに、そのねじ曲がった頬に浮かぶものには少し本心が混ざっているように感じられた。嘲笑、愉悦、傲慢、挑発、蔑みをおおいに滲ませたような憐み。
「亀太郎こと如月まりあの主催するペット大嫌い板のオフ会に、一人こちらの密偵を紛れ込ませました。あなたがハルマゲドンだというのはそのスパイによる情報です。それが誰なのかは、あなたにも分かりますね?」
「……誰だと言うの?」
「分かっていらっしゃると思います。もっとも最近、あなた達の仲間になった人物に決まっています」姫島は細くした瞳でわたしを見下ろして言う。「あなたの妹、神園れもんさんです」
「信じない!」
わたしは叫んだ。
「なんてことを言っているのあなたは? 嘘でしょう? そんなことがあり得て良いはずがない! どうしてれもんがわたしを騙して売るような真似をするっていうの? ふざけるのもいい加減にしてっ!」
「はい。スパイからの密告に加え、本人の自白も取れました。もう完全に、疑いようもなく、ぼくの調査結果が正しいと信じていただけますね?」
そう言って姫島は証拠の方に視線をやる。晶子は姫島の方を一瞥してから、真っ赤な瞳でわたしを見下ろして、小さく頷いた。
「今の反応は動物虐待グループの一員でなければできません。……冷静さを欠きましたね。易々とスパイに忍び込まれてしまったことと言い、妹さんが弱点ですか」
そりゃあ混乱もするだろう。何せれもんはわたしがもっとも信頼する妹だ。そんな彼女が裏切り者……いや、最初からわたしと敵対するつもりで黒ムツグループに忍び込んでいただなんてこと、易々と信じられるはずがない。
しかし状況から言って、それは姫島がほらを吹いているとも言い難いのだ。わたしをハルマゲドンかに玉として拉致監禁するほどに疑っているからには、何らかの根拠を彼らは得ているのだろう。その根拠として姫島がスパイの存在を語るなら、それは真実であるに違いがない。
「元々、ぼくがれもんさんに頼んでいたことは、姉であるあなたの部屋に出入りして動物虐待の証拠を掴んでくれという程度のことでした。そっちは上手く行っていなかったようですが……しかし幸運にもグループのリーダー格と思わしき如月まりあが、彼女に接触して来てくれたのです。その機会を逃す手はありませんでした」
「……どこまで分かってれもんをスパイに仕立てたの?」
「大したことは分かっていませんでした。ただ、過去に猫を殺しているところを発見し、しばらく泳がせていた二階堂司という少年……あなたもご存知の大谷翔平くんですね……彼の行動を追っていればある高級マンションの一室に頻繁に訪れていることが分かりました。その部屋に住むのが如月まりあという精神科医であることも。後は彼女の交友関係を調べて、その関係者からスパイになりうる人物達に声をかけて回り、何人かを実際にスパイに仕立て上げたという訳です。これだけいれば誰かは情報を得られるだろうという人数から、協力を得ることが出来ました」
「……そんな簡単に行くものなの?」
「もちろん、手間もコストもかかることです。お金で雇ったり、秘密を握って脅したりと言った方法が必要でしたが……しかしれもんさんに関しては完全に無償で引き受けてくれました」
「どうして?」
「あたしが頼んだの」そこで晶子が声を発した。「りんごちゃんが怪しいかもしれないって探偵が言っている。何故なら、動物虐待グループの一員かもしれない人と、すごく仲良くしているからって。お姉さんについて調べて欲しいって、そう頼んだの」
「……れもんはそれを引き受けたの?」
「すぐには引き受けてくれなかった。あたしに対して、すごく怒った。……でも、姫島さんが調べた疑いの根拠を全部話したら、れもんの見方も変わったみたい。あの子、頭が良いからね。実際にりんごちゃんが犯人だった以上、客観的な根拠を見せられたられもんはりんごちゃんに何かがあることは察するよ。あくまで『疑いを晴らす為』ってことで、お姉さんを監視して怪しい動きがあれば報告することを約束してくれたの」
「どうか妹さんを憎まないであげてくださいね」姫島が嗜めるような口調で言うが、それはどこかしら胡散臭かった。「れもんさんはあなたが犯罪者かもしれないという不安とストレスで、鬱病まで発症していたのですから。それでもあなたの無実を信じ、それを証明する為に調査に協力し続けた。……それを裏切ったのは他でもないあなたなのですよ」
「あんたにわたしとれもんの何が分かるの?」わたしは姫島を睨む。
「あなたが卑劣な犯罪者であることと、それによって妹さんを深く傷付けたことは分かります」姫島はしゃあしゃあとそう言った。
「わたしを誘拐することはれもんは承知しているの?」
「いいえ、それは伏せてあります。あなたの身に何が起きてもそれをれもんさんが知ることはありません。彼女の出番はもうここまで、ここから先はぼくの仕事ですね」
そう言って、姫島は歩き出してわたしの真横を通り過ぎ、背後から物を拾い上げるような音を立ててから、わたしの視界に戻って来た。
「見てください」
姫島はいくつかの道具を手にしてそこに立っていた。半田鏝、ファイティングナイフ、そして二メートルはあるかという様な細長く、それでいて丈夫そうで鋭い鉄串。
「ぼくは探偵であると同時に、復讐屋の仕事もしていましてね」姫島はこともなげに言う。「本来、『探偵』なんて肩書の人間に対した依頼なんて来ないんですよ。解決してほしい事件があったら警察に頼むのが世の常識ですからね。だからこそ、警察にはできないようなサービス価値を付加しなければならないのが常なのですが……ぼくの場合、捕まえた犯人に対する報復の代行をしているという訳です」
それらの凶器でわたしに何をするつもりなのかは一目瞭然だった。しかも悪魔的なのは、それらを最初からわたしに見せておくのではなく、程良く場が煮詰まって来たタイミングで初めて見せびらかすことで精神的に追い込んで来たそのえげつない手口だ。
わたしは自分を人よりも気が強い方だと認識している。それは他者からの客観的な評価でもある。たいていの状況では動じずにいられる自信はあったが、しかしたった今から拷問され殺されるのだという状況を前にしては全身が震えあがるのを抑えることは出来なかった。
「あなたは麻原さんの愛猫の『ダンゴ』に対し、まずナイフで喉を潰して声を出せなくした上で、両目に半田鏝を押し当てて失明させ、両耳をナイフで切り取った後、まだ生きて暴れるダンゴの尻から鉄串を突き刺して頭まで貫通させて殺しました。あなたにも同じ目に合ってもらいます。それがぼくが雇われた理由であり、報酬の対価としての労働なのです」
冷静になれ。冷静になれ。足元をガクガク震わせたって涙を流したってしょうがないじゃないか。確かに状況は絶望的。しかしだからこそ自身の能力を最大限度動員して助かる方法を考えねばならないはずだ。
諦めるな! わたしは串刺しになんてなりたくない! そこまでされる謂れはないのだ。なんとしてでも助かって見せる!
「許して晶子ちゃん! あなたの飼い猫だなんて知らなかったの!」わたしは御しやすそうな方……晶子の方を向いて説得を試みた。「大切なお友達のあなたの猫だって知っていたら殺したりなんかしなかった! 許して、許してよ晶子ちゃん」
晶子は真っ黒な憎しみを秘めた瞳でわたしを見下ろしている。だが彼女のそんな憎しみなんて紛い物であることをわたしは理解している。だって原因は猫だ。動物を殺された腹いせで人間を殺すだなんて、ちょっと冷静にさせてやれば釣り合わないと分かるはず。
「こんなことしたらあなたが余計に苦しむだけなんだよ。人を拷問して殺すだなんてこと、将来発覚しないはずがない。その人、いつも仕事でこんなことしているんでしょう? いつか絶対捕まるよ。そしたら晶子ちゃんも道連れになって殺人教唆罪で刑務所から出られなくなる。バカげてるんだ。あなたの大切な猫を殺しちゃったことは全身全霊で謝る。だから、だから許して……」
「取り合う必要はないでしょう」姫島が冷静に言った。「このお嬢さん、腹の中で舌を出しながら話しています。あなたなら簡単に騙せると心の中でバカにしているんでしょう。聞き入れてはいけませんよ?」
あんたは黙ってろ!「ずっと後悔していたの。猫を殺すのだなんて金輪際やめるしあなた達がわたしを誘拐したこともきっと明るみにしない。お互いに秘密を握る形になるからそれは本当に守る。何なら半殺しにされるくらいの罰なら甘んじて受ける。だから、だからどうか命だけは助けてよ! お願い!」
「下らない命乞いが聞きたい訳じゃない」
晶子は静かな声で言う。その言葉にはより研ぎ澄まされた怒りが込められているのが感じられ、わたしは息を呑みこんだ。
先ほどよりも憎しみと怒りが増している。わたしの言葉で暗い感情がさらに煮詰まっている。
「一つだけ聞かせて。何故、ダンゴを殺したの? りんごちゃんはどうしてそんなことをする必要があったの?」
何故? 何故なんて……そんなの説明できるような理由なんてあるはずがないじゃないか?
面白半分だと言ってしまうのは簡単だ。それも一つの真実ではある。しかしそんなことを言ったら逆上させるだけだし、そもそもそれはある一面を正確に言い表してはいても、やはりわたしにとってはそんな単純な話じゃないのだ。
「……黙らないで! 正直に話してくれれば良い。嘘や誤魔化しを言ったら道太郎さんがすぐに見抜くから」
そう言われ、わたしは必死で言葉を探す。自分の中にある黒ムツをやっていた理由を、それを言い表す確かな言葉を、これまで何度も何度も心の中に浮上しそうになっては深層心理の中に沈め込んでいたその言葉を、わたしはこの極限状況で引っ張り上げることが出来た。
「……助けて欲しかった」
言った。言ってから、そうだったんだな、とわたしは気付いた。
「……何それ?」
「助けて欲しかったんだ。色んなつらいことから。苦しくて悲しくて不幸な色んな物事から、魔法みたいにわたしを助け出して、優しく抱きしめてくれる人と出会いたかった」わたしは続ける。「こんなにもわたしは傷付いているんだと言いたかった。こんなことまでしてしまう程、わたしは追い込まれて壊れかけて助けを求めているのだと気付いて欲しかった。ずっとずっとそれを願ってそれだけを願ってわたしは猫を殺して串刺しにして、皆に分かるように色んなところに突き立ててたんだ」
そうだ。わたしは助けて欲しかったんだ。日常の中で決して声に出すことの出来ないSOSの意思を、それでもどうにか言葉にしたくてたまらなくて、お腹の底から最大限大きな声で叫ぶ方法を考えたのが、猫を殺して死骸を晒すという行いだったのだ。
「……ちょっと。ごめん、意味が分からない」晶子が言う。
「そんなものです。人の本音だなんて、矮小で無様で他人からしたら意味不明です」姫島が笑みを浮かべる。
「黙れ! 何も知らない癖に!」わたしは叫ぶ。
「知らなくても分かりますよ。あまりにも薄っぺらくてちっぽけな動機ですからね。すぐに全部理解できますとも。つまりそれは子供の癇癪と変わりません。嫌なことや願いの適えられないことがあると、大声で喚いて暴れ、迷惑を振りまいて駄々をこねるのです。ちっぽけな猫殺しに相応しいくだらない動機。あなたバカですね」
「この……この……っ。このぉ……っ!」
わたしは涙を流していた。打ちのめされて、見透かされてバカにされて悔しくて悔しくて、でも全身が縛られてどうにもできず、弄ばれるままでしかいられないという地獄を前に、わたしはただただ子供のように泣きじゃくるしかなかった。
「待ってよ。それ、おかしいよ」晶子は震える声で言う。「りんごちゃんが何でそんな自分は不幸みたいに言うの? りんごちゃん何でも人より出来るじゃない? 家だってお金持ちな方だし、それだけ綺麗に生まれて友達も多くて……むしろ羨まれる人間だよ? それがなんで?」
くだらないことを言うな。おまえに何が分かる? 何が分かる?
「……わたしはぁ、頑張った。頑張ってたんだぁ。ふす、うぅ、ふうう。ママにもパパにも、れもんにも、認めてもらおうって、ちゃんと成功した人生を歩もうって、頑張ってたんだぁ。でも、でもぉ、上手く行かなくてぇ。勉強は大変で、ずっと甘ったれだったれもんは高校入ってわたしの成績追い抜いて。誰にも褒めてなんて貰えなくて……だから、だからぁ。ぐす、うぅ、うぅうう……。ふぁああ……」
痴愚魯鈍の有象無象のおまえに何が分かるんだ? わたしは一番でありたかった。昔はわたしもそうだった一番に。れもんだけがそうで、わたしだけがそうでなくなった一番に。口先で何を言っていたって心の奥底ではずっとそうだった。そうでなければ認められないということを、わたしは常に理解していたんだ。
家族の目は冷たかった。失望の溜息と叱責の悪罵がわたしの全身に降り注いだ。自分が無価値な負け犬であることを認めたくなくて、賢明ぶった負け惜しみを繰り返しながら、手元に残ったガラス玉の数を数え続けていた。
……まだこれだけ残っている。これは人より多い。だから大丈夫。
そう言い聞かせて来た。でも本当は違うんだ。それは全然大丈夫なんかじゃない。最初に砕け散ったあの綺麗な宝石を、自分は特別で何だって出来るんだと疑わなかった儚い自尊心を、誰かに取り返して来てほしかったのだ。
「誰だってそうですよ。腹の底では、人間誰だってこのくらい愚かでみっともない倒錯を抱えているものです」姫島は愉快がるように言った。「避けられないものであると同時に、場合によっては必要なものでもあるのでしょうね。時にはそれを向き出しにすることもあるでしょう。しかしながら、それを制御できなかった結果として道を踏み外せば、その人はもうお終いなんですよ。みじめな負け犬に過ぎません」
姫島は半田鏝を取り出して、わたしの顔の前に突きつける。機具が発する熱を間近に感じて、わたしは息を呑んだ。
「この人の内心は然程重要ではないのです。どんな背景があろうとも、一言で言えば身勝手な憂さ晴らしに違いがありません。それとも、今の喚き声のどこかにでも情状酌量の余地が感じられますか? そうはならないでしょう。ねぇ晶子さん?」
そう言われ、わたしの様子に狼狽えていた晶子は……放心した様子で姫島の言葉に小さく頷いた。
……殺される!
「やめて! わたしの所為じゃない! わたしが猫を殺したのは、わたしが悪いんじゃない! 周囲がそうさせたんだ、そうさせるようにわたしを追い込んだんだ!」
「くだらない。例えそうだとしても実際に殺したのがあなたである以上、ぼくの依頼人の復讐対象はあなたでしかないのです。覚悟しろとは言いませんよ、無理でしょうからね」
姫島はわたし首根っこを肘で押さえつけながら、人差し指と親指でわたしの右目を開かせた、そして半田鏝を容赦なくわたしの目の中に挿入する。
眼球の焼ける音が頭蓋を通して伝わって来た。
「あぁああっ!」
視界が大きく目減りしたのが分かった。強い衝撃が眼球の正面を焼いたと思ったら、今度は目の奥が冷たくなって、しかし最後には耐えきれない程全身が熱くなった。これまでずっと自分に寄り添って来た、あって当たり前の光の半分が、小さな焦げる音一つであっけなく閉ざされてわたしに激しい苦痛を齎した。
「いや。いや……いやぁああっ!」
わたしはやみくもに暴れるが姫島の力は強かった。わたしが女であることを差し引いても、その華奢な身体からは想像できないくらいしっかりとした腕力がわたしの全身をねじ伏せていた。このまま成されるがまま苦痛を与えられ光を失い、全身から血を流しながら死んでいくのだと言う事実が、わたしの魂を食い尽くして慟哭を上げさせた。
「あああぁ! ああぁああああ!」
叫んでも暴れても無駄だった。今に次の苦痛がやって来る。そしてそれはわたしの光を奪うのだ。わたしは全てを奪われ何の尊厳も残らないまま死んでいくのだ。わたしが殺した猫達のように。
その無残な最期を思って絶望していた時……わたしは姫島の動きが止まっているのに気が付いた。
「……なんですか、これは」
そう言って、姫島はわたしの背中から服の中に手を突っ込み、何かを引きはがすような動きをする。服が引っ張られ、そこに付いていたモノが剥がれ落ちる感触があった。
残った左目で、姫島の指先にあるものを見る。それは小さな機械のようだった。マジックテープの付属しているそれは、確かにさっきまでわたしの背中に張り付いていたことが想像できる。余程目を凝らさなければ目立たない程小さく、それでいて見るからに精密そうな黒く小さな機具だった。
「……発信機か、盗聴器? 或いはその両方? ……りんごさん、あなたこの機械に心当たりはないですよね?」
……心当たりは。
いや、待て。そう言えばさっき牛糞の家を出る時に、妙なことがなかったか?
そうだ。牛糞が玄関に向かうわたしの背中を唐突に、ゴミが付いているとか言って強引に引っ張ったのだ。ああして服を引っ張った際、さりげなく服の内側にこれを張り付けられていたということは、考えられることじゃないだろうか?
「今気付いた、というような顔ですね。……こんなに小さくて軽い物なら肌に張り付いていても分からなくても仕方ありませんか。しかし、いや、これはまずいですね」
「どういうこと?」晶子が言う。「何なのその機械? それってまずいの?」
「まずいです。しかし、気付けたのは本当に幸運ですね。これが発信機であれ盗聴器であれ、封じる方法はいくらでもあります。それからじっくり逆探知をすれば良い。問題は……今からそれをしたので間に合うかどうか、ということです」
その時だった。
部屋の扉の向こうから、階段を降りる足音のような物が聞こえて来る。
それが救いの足音であることは、わたしの想像にも難くなかった。
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