第35話

 その日は土曜日だった。正午、郊外のすすけたワンルームマンションに辿り着いたわたしは、チャイムを鳴らす。

 反応がない。

 約束をすっぽかされて留守なのかと思いつつも改めてチャイムを鳴らす。それでも出ないのでとうとう諦めたわたしはポケットから携帯電話を取り出した。

 コール音が十回近く続いた上で、ようやく通話が成立した。

 「…………もしもし」

 「……かに玉です。あの、牛糞さん、約束」

 「鍵ならチャリの空気入れン中に入ってるから勝手に開けろよ」

 「空気入れって……これのどこに入ってるんですか?」

 「解体しろ。切るぞ」

 で本当にプッツンされる。なんてことするのそれ女子社会だとムラハチだよ? この人本当、他人に対してぞんざいだよなぁ……。友達いなさそう。

 などと思いながら、玄関に転がっている自転車の空気入れを解体にかかる。仕組みはぼんやり想像できるし、一分もせずに鍵を取り出すことが出来た。言われた通り、開けて中に入る。

 そこは小汚い……というか普通に汚い部屋で、角っこにはゴミ袋が七つも八つもぞんざいに積み上げられていて今にも崩れそうになっていて、台所にはでろでろの食器が積みっぱなし、床は衣類や書籍が散乱し面積の大部分を隠してしまっている。ゴミや食器以外の臭さがあると思ったら、なんと猫の死骸が普通に床に転がっていた。

 こんなんウチのママが見たら発狂するなぁ……っていうか。

 「……何普通に部屋で寝てんですか」わたしは敷布団の上に転がっている牛糞を見下ろして言った。「ってか、なんで一緒の布団で寝てんですか」

 チャイムを鳴らしても出てくれないと思ったら昼間まで惰眠を貪っていただけらしい。しかも一枚の布団の中に牛糞だけじゃなく黒鈴もいた。わたしのこと等気付かないような態度ですやすや寝てる。傍若無人にも程がある……。

 「だから何だってんだよ」布団転がってウザそうにする牛糞。まだ眠そうだ。「悪いか?」

 妹と寝るとかきっしょ。「いえ、兄妹で仲が良いのは素敵だと思いますよ。だけれど、男女齢七つにして、とも言いますし、普通に別々に寝た方が良いんじゃないでしょうか?」

 「なんで俺が自分の布団から追い出されにゃならんのだ?」

 「予備の布団出してくださいよ。ないんですか?」

 「ねーよんなもん。つか、この部屋のどこにもう一組布団敷くスペースがある?」

 「……さっきからうるさいのよあんたら」黒鈴が気だるげに起きだして布団から這い出す。身に纏ったぶかぶかでうす汚れた白いシャツが誰の物かは想像に難くない。「ただでさえおっさんの悪臭に包まれて寝苦しいって言うのに」

 「だったら外で寝やがれ」と牛糞。

 「あんたが外で寝なさいよ」

 「ここは俺の家だ」

 「そうね。通常、その家で寝る権利はその家の持ち主にあるわ。でもあんたにその通常は当てはまらないの。何故ならあんたは汚物だから。汚物であるあんたが人間らしい権利を主張することはおかしいの。あんたにはこの薄汚いアパートだって不釣り合い、路上生活すら贅沢品、お似合いなのは精々肥溜めに浸かって眠ることでしょうね」

 「こんなのがしょっちゅう泊まりに来てただ飯食らって文句ばっか言って来て、場合によっちゃ小遣いまでせびるんだ。下手になんて出やしない。なあ、どうにかしろよハルマゲ」

 「……良いですね仲が良くて」わたしは肩を落として溜息を吐く。「相談したいことがあると伝えたら、昼頃にこの家に来るようにと言われたと思うんです。すいませんが起きてくれませんか?」

 「昨日は夜中までスマブラしてたからまだ眠いんだ」

 「ホムヒカとか使いそう」

 「使うわよ。横B振りすぎてよわよわだけど」と黒鈴。「お腹空くからピザでも取りましょう。こいつの金で。ゲドンは食べる?」

 「食べて来たんで良いです」

 「半分はジャーマンスペシャルにしろ」牛糞はのそのそと布団を起き上がる。「Lサイズだ。残りの半分はおまえの好きにしろ」

 黒鈴が全部ジャーマンスペシャルで注文をしていると、立ちっぱなしのわたしに「座ったらどうだ?」と牛糞が促した。

 「相談したいことがあるんだろ?」

 この散らかり切った床のどこに座るんだ……と思いつつ、わたしは床に落ちていたエッチな本やよれよれのコートや使い終わったティッシュがきちきちに詰め込まれたティッシュ箱を蹴散らし、その場に腰かけて言った。

 「……翔平くんのこと、どう思います?」

 牛糞は「ああん?」と面倒そうに小首を傾げると、わたしの方を睨むように見ながら答える。

 「その場にいたおまえが一番良く知ってるだろ?」

 「運転手の顔は見えませんでした」

 「その内捕まるさ」

 「捕まらないと思います。捕まるような人があんな殺意しか感じられないような轢き殺し方を、容赦も躊躇もなく遂行できるとは思いません。翔平君を轢いたのはプロの殺し屋です」

 「なんであんなガキをプロの殺し屋が狙う理由がある」

 「翔平は姫島という探偵に猫を殺しているところを見咎められた。それから付き纏われ続けて、繰り返し尋問を受けていた。あたし達のことを吐くのも時間の問題だと判断できた」注文を終えていた黒鈴が寝癖の付いた長い髪を手櫛で整えながら言う。「姫島に見付かった時点で翔平にシャバで暮らすという道は絶たれた。少なくとも、亀太郎の中では。しかし亀太郎は翔平をいきなり見捨てることはせずに、保護してやるから一緒に暮らそうと最後のチャンスを与えた。それを拒んだ翔平を待ち受ける運命は、死による口封じしかなかった」

 「……やっぱりそうなんですかね?」わたしは俯いて言う。「わたしもそう捉えるしかないと思うんですけど、でも、あの優しい亀太郎さんがそんなことをするだなんて、信じられなくて」

 「亀太郎は運転が下手だ」牛糞は吐き捨てるように言った。「客観的に言ったとしても、人を轢き殺して逃げ果せる程上手くはない」

 「誰か他人を雇ったとか?」と黒鈴。「ちょっと尋常じゃないくらい金持ちよ、あいつ。医者なんてバイトだって思えるくらい、動物密売の収入があるから。殺し屋雇うくらいの余裕は実際あるのよ」

 「わたしはどうするべきなんでしょうか?」わたしは眉を顰める。

 「おまえは亀太郎を信頼していたんじゃなかったのか?」と牛糞。

 「友情は変わりません。優しくて、わたしを理解してくれて、素敵な人です。一番のお友達なんです。亀太郎さんも同じように思ってくれていると信じています」

 「なら何が不安だ?」

 「……現実に、翔平くんの……二階堂司という中学一年生の少年の死には、高い蓋然性で亀太郎さんが関わっています。亀太郎さんへの気持ちに変化はありませんが、しかし彼女が切り捨てると決めた相手にはどんな仕打ちも厭わないことは理解しました」

 亀太郎さんは身内にはとことん優しい。怒ったところは見たことがないし、願い事は何だって叶えようとする。

 けれどそれは仲間だと思われている内の話なのだ。失敗をした人間にはチャンスを与え、傍を離れようとする人間のことは引き留めようとするが、しかしそのいずれをも拒んだ人間には容赦がない。

 「それでもわたしはそんな亀太郎さんと向き合いたいんです。それによって自分自身がどうなるのだとしても、あの人に寄り添って友達でい続けて、あの人の気持ちを必ず理解したいんです」それは偽らざる本心だ。しかし。「それでも……れもんをあの人の傍にいさせる訳には行きません」

 わたしが亀太郎さんに殺されることはないだろう。逆鱗に触れないよう振る舞うことは出来る。決定的な裏切りを犯さない限りあの人は安全な存在なのだ。それでもれもんがそうとは限らない。

 れもんを亀太郎から逃がさねばならない。その為には、まずわたし自身が亀太郎から距離を置く方法を考えなければならないのだ。

 「おまえの考えは分かった。だがしかし、だからどうするのかと言われれば、俺達にだってどうしようもない。おまえが大人なら引っ越しでもして亀太郎から行方をくらますのも一つの手だが、高校生のガキじゃあそうもいかない」

 「……そうなってしまいますよね」

 「良いじゃねぇか? 黒ムツを辞めない限り亀太郎はおまえらに牙を剥かない。万一黒ムツがバレて捕まりそうになったとしても、亀太郎はおまえらのことを匿おうとするだけでいきなり殺しにかかったりはしない」

 「……それでもあの人はちょっとおかしいです。牛糞さん達は、怖くないんですか?」

 「おっかねぇ女だよ。でもな、じゃああの女の傍にいる以外に、俺達に他にどんな居場所がある?」

 そう言うと、牛糞は目を細め、自分の前髪をかき上げて額のキズを露出させる。幼い頃に猫に引っかかれて出来たという、良く見なければ分からないような小さな小さな傷だった。

 「全ての猫は俺の敵だ。猫は俺の人生のすべてを奪った。もちろん、俺は一人でも猫を殺し続ける。だが、そんな俺の為に安全な殺害場所を提供してくれたり証拠隠滅を手伝ってくれたり、万が一バレそうな時に警察にまで口を効いてくれるような奴が他にどこにいる? 悪党以前の愚者でしかない黒ムツの寄せ集めを、一つの仲間同士としてまとめて居場所を作ってくれる奴が他にどこにいる? 俺達の居場所はあの人の傍でしかない。それはおまえも同じじゃないのか?」

 そうだ。これまではそうだったのだ。あの人の傍にいることで、日常の中で感じ続けて来た息苦しさを一時忘れることが出来ていた。

 人間の心はストレスを感じると、それを何らかの対象に転移することで精神防衛を試みる。これは医学的にも正しいことである。だがしかし自分よりも弱い動物をいじめることでそれを達成するだなんてのは、恥ずかしく卑劣で、一人ではずっとは続けていられないことだ。自分を客観視してさらなるみじめさや孤独を味わう時が必ず来る。

 でも亀太郎さんがいれば違う。あの人はこんなにも愚かなわたしを肯定してくれる。理解してくれる。猫を殺す手伝いをしてくれ、一緒に猫を殺してくれる。

 「このキズの所為だ。このキズの所為ですべてが上手く行かなかったんだ。小学生の時からずっとバカにされ、いじめられ、その所為でまともに自分の顔を他人に見せるのも怖くなった。人と話すのも億劫で、接し方も分からなくて、恋人は愚か友達もいなくてしょっちゅういじめられるような学生時代だった。社会人になってからも、似たようなもんだ。自分に自信を持てなくて、本来持ってる力の半分も発揮できない。俺は、俺は本当なら、もっとまともで立派な人間になったはずなってたはずなんだよ!」

 違う。そんなキズは全然大したことじゃない。そんなキズ良く見なければ分からないし、分かったとしても本人が堂々としていれば誰もそのことをバカになんてしなかったはずだ。それに、よしんばバカにされることが回避しえないことだったとしても、牛糞が不遇な学生時代を送りそれの経験が現在まで糸を引いていることの原因のすべてがそのことにあるはずがない。誰の目にも明らかな責任転移だ。聞いていて恥ずかしくなるくらいに無茶苦茶で見苦しい、良い大人が口に出すにはあまりにも愚かなくだらない言い訳に過ぎなかった。

 それでもそのことをわたしが指摘することはなかった。常に牛糞には悪口を言ってばかりの黒鈴も、この時ばかりは口を閉ざして兄の方に静かな視線を注ぐだけだった。

 「俺の人生は復讐の為にある。俺をこんな目に合わせた猫共に報復する為に、俺はどんなことだって出来る。亀太郎のような悪魔に魂を売ることだって辞さない」

 「……マインドコントロールができるのよね、亀太郎は」黒鈴が言った。「でもまあ流石に精神科医よね。それによって人の精神を安定させもするんだと思うわ。昔あたしを画家としてプロデュースしてくれるとか言う詐欺師に騙されて借金したりもして、精神が病んでた時があったんだけれど、その時亀太郎には色んな意味で助けてもらったのよね」

 「…………」覚えがある。亀太郎は確かにそういうことが出来る。人の心の隙間に入り込み、心を癒し、それによって人を強烈に引き付け離れがたくしてしまう。

 「まあでも、あんたは隆夫やあたしと違って、そんなんに頼らなくても何とか生きて行けるんじゃないかと思うわ。あんたの妹だってまだ亀太郎と会って日が浅いんでしょ? 引き返すなら早い方が良い。……ただじゃ済まない覚悟があるならね。言えるのはそれくらいかしら」

 「……ありがとうございます」わたしは言って、立ち上がった。「参考になりました。一人でじっくり考えたいので、今日はこれで」

 そう言って背を向けて玄関へ向かうと、背後から「おいハルマゲ」と牛糞の声がかかり、強く服を引っ張られた。

 「あ、痛っ」わたしは後ろ向きに転げそうになり、振り返る。「なんですか? 牛糞さん?」

 「服にゴミ付いてるぞ?」

 は?「だからって引っ張ることないじゃないですか」

 「知るか。でももう取れた」そう言って牛糞は両手をぴらぴらと振る。「いいか? 良く考えろ。滅多なことはするな。分かったな?」

 警告するようにそう言って、牛糞は『帰れ帰れ』とばかりにわたしにぴらぴらと手を振った。


 〇


 アパートの階段を降りて外に出ると、輝くような青い空が目に入った。空の青色というのはひたすら非物質的で、それでいてくっきりとしていて、先を見通そうとも思えないのに、どこか透き通るようでさえある。

 自宅への道すがら、わたしは青空を見ながら考え事をしていた。

 牛糞たちと話すことで亀太郎への疑惑はより強固なものとなった。翔平の死と亀太郎とを結びつけるのがわたしの考えすぎなのではないかという一抹の期待は、あっけなく崩れ去ったと言って良かった。

 それでもあの二人は亀太郎を慕い、傍にい続けることを選んでいるらしかった。というよりあの二人の場合、その魂が既に亀太郎の側にあるのかもしれない。人間を強引に『まとも』と『まともでない』に分類した時に、亀太郎のいる向こう側に。

 わたしはどっちにいるのだろう?

 今どっちにいて、この先どっちに向かうのが正しいのだろう?

 わたし一人であればどこまででも亀太郎のいる方へと堕ちて行けると思う。『まとも』という息苦しさをわたしはこれまでの日々の中で吐き気を催す程存分に味わって来た。そんなのに付き合い続けるくらいなら、外道に落ちてどこまででもその深みに身をゆだねた方が、いっそ幸福なのではないかと考えることはしょっちゅうある。

 しかし、れもんだ。

 わたしが外道に落ちればあの子も同じところに付いて来るかもしれない。一度同じ深みに足を踏み入れた以上、そこから袂を別つことが出来ない程度には、姉妹の糸は深く結ばれていると思う。

 れもんだってわたしを置いて自分一人でまともになろうだなんてことはしないだろう。そもそも、あの子一人だけを亀太郎という暗黒から遠ざける上手い方法が、わたしにある訳でもないのだ。もしもあの人から距離を置こうと思えば、それはあの子の手を握って強引に引き離すより方法はない。

 ……れもんに相談して、警察に自首しよう。

 両親にも全てを話そう。そしてわたし達を守ってもらう。亀太郎にも、わたし達にも、然るべき裁きが降り注いで……そして亀太郎と袂を別って『まとも』に戻る。

 わたしはそう考えた。それが一番良いとそう確信した。

 その時、背中から何か小さな針のようなものを差し込まれる、ちくりという感触があった。

 「あ……っ。は?」わたしは驚いて振り返る。男がいた。

 「こんにちは神園りんごさん。偶然ですね」

 サマーコートを着て茶色い帽子を被った若い探偵の姿がそこにはあった。薄手の手袋を嵌めた指先に小さな注射器を握り込んでいる。あの先端がわたしの背中に付き刺されたのだということは容易に推測出来た。

 「……姫島……道太郎?」

 「ええ。探偵の姫島です。あなたのような素敵なお嬢さんに名前を憶えていただいて光栄です」

 姫島は小さく会釈して、それからわたしに一歩、近づいた。

 「わたしに何をしたんですか?」

 「強力な睡眠薬を注射しました。静脈に打ちましたからすぐに立っていられなくなりますよ。気を付けてください」姫島は少年のように高くやわらかな、しかしどこかに威厳のようなものも併せ持った独自の声音で、落ち着いた様子で話しかけて来る。「大声を出しても無駄ですよ。周りに人がいないことは確認しましたから。あなたにはこれからわたしの事務所に来てもらいます。……ハルマゲドンかに玉さん」

 「なん……」でわたしがハルマゲドンだと分かるんだと言おうとしたところで、わたしの足元が崩れて正面から地面に倒れ伏しそうになる。

 姫島はそんなわたしをそっと抱きとめて、地面にキスをする羽目になるのを防いだ。

 「倒れてはいけませんよ。体中が砂塗れになってしまいます。それでは、車の中が汚れてしまうではありませんか」

 その言葉を聞き終える前に、わたしの意識は暗転してかき消えた。

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