第34話

 「翔平さんって、どうして黒ムツをやっているんですか?」

 帰り道を共にしている途中、れもんが翔平にそう尋ねた。

 亀太郎は自宅に残り、黒鈴は牛糞の運転する車で送ってもらうようだ。直接自宅に徒歩で向かう翔平と、バス停へ向かうわたし達は途中まで帰路が同じである為、数百メートル程の道を並んで歩くことになる。前を歩いていた翔平は(歩くのがちょっと早い)、れもんの方に振り向いて

 「敬語もさん付けも良いです。君付けでも呼び捨てでもどっちでも良いっすよ」

 と言った。

 「まだ初対面ですから」とれもん。

 「俺は気にしないっすよ」

 「わたしはこっちの方が楽なんです。このままでいさせてください」

 翔平は『変わってるなぁ』という顔をしながらも「そっすか」と返してそれ以上言及しなかった。

 れもんは誰にでも敬語を使うことを自身に化している。そこだけ言えば亀太郎さんと同じだが、誰のことも尊重しようとする亀太郎さんとは違い、れもんの場合単に相手によって振る舞いを別けることが出来ないから低姿勢で通しているだけだ。目上への正しい接し方が分からない人間と同じくらいに、対等以下の相手への接し方が分からない人間も世の中にはいる。

 「俺が黒ムツをやってる理由っすよね」と翔平。

 「はい」とれもん。

 「……俺のハンネなんすけどね。さっきも言いましたけどこれ、兄ちゃんのを参考にしたんすよ」翔平は訥々と語り始める。「『沢村栄治』ってぇハンドルだったんす。兄ちゃん本人から聞いたんじゃなくて、亀太郎さんから教わったんすけど」

 「お兄さんも黒ムツだったの?」わたしは目を丸くした。「それも、亀太郎さんの仲間だったんだ?」

 「そうだったらしいっすね。詳しいことは何も、俺は誰からも教えてもらってないんすけど……」

 「詳しいことは分からないの?」

 「なんか複雑みたいなんすよ。でも一つ言えることは……兄ちゃん達があんな風になったのは、猫の所為だっていうことっすね」

 翔平はそこで俯いて奥歯を嚙合わせる。忌々しさを滲ませた表情で地面を睨み付けると、すぐに表情を消して続きを喋り始めた。

 「俺には兄ちゃんが二人いて、上の兄ちゃんは絶対にドラ1でプロになれるって言われてたくらい有名な高校球児だったんす。一番すごい時はもう本当、毎日ってくらい家にスカウトがやって来て。その時の俺はそのことの意味も良く分かってなかったっすけど、でも兄ちゃんはすごいんだってことは分かって、誇らしくて。……でもその兄ちゃん、猫に目ぇ引っ掻かれて片目の視力失って夢を絶たれたんすよね」

 れもんは絶句して息を呑みこんだ。なんて言葉を返して良いのかも分からず、思わず沈黙したようだった。

 「それは残念だったね」わたしは素直な感想を言った。「そのことが、お兄さんやあなたが黒ムツであることと関係しているの?」

 「ええ。でもそれだけじゃないです。……その上の兄ちゃんの目ぇ引っ掻いた猫っていうのが、下の兄ちゃんの飼い猫だったんすよね。しかも、その目ぇ引っ掻いた状況っていうのが、下の兄ちゃんの不手際と言って良いような形だったみたいで」

 「それは……」

 気まずい、なんて物じゃないか。自分のミスで家族の夢を奪ってしまったというのであれば、その自責の念は相当なものだろう。まともに相手の顔も見られなくなるに違いない。

 「上の方の兄ちゃんはしばらく意気消沈して、ほとんど笑顔も見せなくなって、そのまんま大学進学を期に一人暮らしを始めたんす。結構、荒れた暮らしをしていたみたいで……色々あって兄ちゃん今刑務所にいます」

 「えぇ?」話がいきなり大きく動いたので、わたしはついそう言って身を乗り出した。「なんでそんなことになったの?」

 「人を殺したそうです」

 「いったいどうして?」

 「……姉さん。そこはあんま突っ込まない方が」れもんがそんなことを言ってわたしをいさめようとする。相手に踏み入りすぎることをれもんは恐れる。

 「正直、俺もそこは良く分かってないんす。俺はその時小学校上がりたてとかだったんすけど、でも人を殺したってことはテレビのニュースとか見てたら流石に分かりました。……ただ、動機とかは良く分かんなくて、報道も曖昧で、親も話してくれなくて」

 「……そうなんだ」

 亀太郎はどうなんだ? 話を聞く限り、あの人なら何か知ってそうではあるけれど……しかしあの人があえて話していないのだとすると、それにはそれなりの訳があるんじゃないかと思う。何せ精神科医だ、いくらしっかりしていると言っても十三歳のこの子の情緒面に気遣って、余計なことは教えないというのはあるだろう。

 「上の兄ちゃんがそんな風になったの、下の兄ちゃんは全部自分のことだと思ってるみたいでして。上の兄ちゃんが刑務所行ったあたりから、下の兄ちゃん自暴自棄になって、今も生活が無茶苦茶なんすよね。性格もどんどん荒んで行ってますし……もう見てらんないくらいで」

 「……そうなんだね」

 「それもこれも全部、全部猫の所為なんす」翔平は語る。「上の兄ちゃんも下の兄ちゃんも元はすごく良い人で俺の自慢の兄ちゃんだったんす。だから、二人は絶対に悪くないはずで、悪い奴がいるとしたらそれは絶対に猫なんす」

 例え誰も悪くなかったとしても、何も悪くなかったとしても、それでも不幸や破滅は起こりうる。だがそんなことを十三歳のこの子は多分理解していないのだろう。二人の兄が破滅の道を辿っているのは二人の兄以外の何かが悪いからだと、彼は思いたくて仕方がなくて、それで憎む対象として見出したのが猫という動物だった。

 「だいたいおかしいじゃないですか? 引っ掻きも噛みもする、時には人を傷つけたり、大事なものを奪ったりするような生き物が、平気で野放しにされて可愛がられてるだなんて。猫なんて飼うべきじゃないし、街に存在するべきではないんです。だから……この街から一匹でも多くの猫を排除することは、俺は正義だと思います」

 憎しみのぶつけ先にしているだけじゃないのか? とは言わなかった。猫が本来害獣で、ペットにするには大きな責任を伴う生き物であることは確かなことだし、出来る限り数を減らそうとするのは良いことで実際に行われていることでもある。餌やりの禁止。去勢。そして、ガス室による駆除。

 しかし愛護動物でもある猫を殺傷する権利を持っているのはそれを生業とする一部の職業の者だけだ。そうでなくても、この少年が一人でどれだけ殺したところで全体の数からすれば微々たるもので、およそ無意味だと言って良い。

 この少年は許されないことをしているし、そのことで両親を悲しませているし、本人も苦行に立たされることになっている。でも、だとしても。

 「それで翔平君の気持ちが少しでも癒えるのなら、それは良いことだとわたしは思うよ」わたしはそう言って微笑んだ。「わたしは翔平くんの味方だからね。あなたが自分の気持ちに何かの決着をつけられるようになるまで、ずっと一緒に猫を殺していてあげる」

 「……あざっす」

 翔平は儚げな笑みを浮かべる。元がそこそこ美少年なだけに、夕日を背負って憂いを秘めた笑みを浮かべたその様子は、ちょっとドキリとするほど綺麗だった。

 「それじゃ、二人とも、俺はこっちなんで」そう言って翔平は横断歩道の前に立つ。「お二人が黒ムツやってる理由も、また今度聞かしてくださいね」

 「うん、いいよ。ばいばい」わたしは翔平に手を振る。

 「……さようなら」れもんは軽く会釈した。

 それかられもんと二人で並んで数歩進む。れもんは何か物思いにふけるように上の空で、電柱にぶつかりそうになるなんて漫画みたいなことをしていた。

 「大丈夫?」わたしは薄く笑って言う。

 「……すんません」

 「何か思うところでもあったの?」

 「いえその……。あんな良い子そうな男の子でも、あんな風に心の歪みや憎しみを抱えているものなんだなって」

 「誰だってそうだと思うよ? でも翔平くんは優しいからね。人間を相手にそれをぶつけたりは絶対にしないの」

 「……姉さんもそんな感じですか?」

 「そうだね。黒ムツじゃなかったられいちゃんいじめて発散してたかもよ?」

 「…………姉さんはそんなことしませんよ。だからこそ……」

 背後で重たい物同士が激しくぶつかるような強い音がした。

 一拍遅れて、バンと地面に大きな物が落ちるような音が響き渡る。わたしは弾かれたように音のした方を振り返る。

 そこには既に、アタマから血を流した翔平が、両目を虚ろに見開いた状態でぐったりと地面に転がっていた。

 近くには正面が大きくへこんだ自動車が翔平の方を向いて停車していた。眼鏡とマスクを身に付けた性別すら不明の人物が、車内から翔平の方をじっと見降ろすと……足元を動かすようなそぶりを見せた。

 何かを感じ取ったように、れもんが咄嗟に翔平の方に駆け寄ろうとする。

 「やめてっ!」

 危機を感じたわたしは腕を掴んで強引にれもんを停止させた。れもんがわたしの方をふり向いて何かを言おうとしたその時、アクセルを踏み込んだような激しい音が鳴り響く。

 急発進した自動車が翔平くんの身体を轢き潰しながら、わたし達のほんの数十センチ隣を走り抜けていく。

 走行する自動車が発した煙と砂塵を全身に浴びて、轢かれかけたことに気付いたれもんは思わずと言った様子でへたり込む。わたしは息を吐きだしてから、れもんの頭を両目を塞ぐようにして両手で抱きしめた。

 「……姉さん?」

 「見ちゃダメだよれいちゃん」わたしは言った。「グロいのは猫で慣れてるって言ってもね、わざわざ見るようなものじゃないからさ。……車に轢かれてぺしゃんこの知り合いなんてね」

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