第32話

 「これを見なさい」

 今よりもずっと若いパパがわたしの目の前にいて、わたしの頭を掴んでテーブルの方に向かせている。

 テーブルには林檎が一つ置いてあった。丸々としていて、表面は鮮やかで、大きくてどこかずっしりとしている。

 「綺麗な林檎に見えるだろう?」

 わたしは頷いている。頷かされてもいるが、パパの言うことに納得もしている。

 「だが、本当は違う」

 そう言って、パパは包丁を取り出すと、真横にした林檎を真っ二つにする。

 中はほとんど真っ黒に変色していて、悪臭と粘り気を帯びた果汁が糸を引いていた。果肉はぶよぶよのじゅくじゅくで、触るのは愚か見るのもおぞましくなるようなおぞましい見た目をしている。

 腐敗している。

 「表面がどれだけ綺麗に見えたって、中身がぐちゃぐちゃに腐ってしまうと言うことは必ずある。というより、物事や人間が悪くなる時は、まず内側から腐り始めるんだ。それも、本人にしか分からないような、奥の奥からな」

 パパはそう言って、凄むようにしてわたしの顔をじっと見つめる。

 「おまえは自分がそうならないように常に己を監視せねばならないし、そうなりそうな時はすぐに気付いて自らを正さねばならない。それができるのは自分一人だ。そして、内側が腐っている人間を見掛けたらすぐに気付いて、相応しい処置を施さねばならない」

 「相応しい処置っていうのは、何ですか?」

 パパは答える。

 「捨てるんだ。一緒にいたら自分も腐ってしまうから。だから、捨てるんだ。二度と関わらないようにするんだ。逆に言えば、人に分かってしまうくらいに内側が腐ってしまったら、おまえ自身が周りの人間達から見捨てられることになる。分かったな?」

 「……はい。パパ」

 わたしはそう答えた。答えさせられただけだったけれど、多分今でも、パパのこの言い分に反論する言葉は思いつくことが出来ないと思う。


 〇


 目が覚めた。

 時計を見る。午前二時。汗だくで口の中が粘々して気分が悪かった。乱れた布団の上で身体を起こし、意識が濁っているのを振り払うように頭を振った。

 昔のことを夢に見ていたらしい。

 人や物事は内側から腐る。ある地点までは、そのことに外側からは気付くことが出来ない。故に自分が腐らないように律することが出来るのは自分だけ。

 パパは様々な説教をわたしに対してしたけれど、その中でもこれは特に印象に残っている。的を射ていると感じたのではなく、あの時見た腐った林檎の姿が忘れられないのだ。

 あれはいつ、どういう時に言われたことなんだったか? 多分何かやらかして叱られたんだろうってのは推測できるけど、ええと。

 ……なんて思い出そうとしたのは間違いだった。

 ぎゃーっ。これ思い出したくない奴だ。やらかした。うわーっ、ってわたしは顔を枕に押し付けて両足をバタバタやる。子供の頃ってのは何かしら失敗を良くするものだけれど、その中でも特に記憶の底に沈めたいことっていうのはいくつかあって、これは中でも特級の禁忌だ。パンドラの箱に沈めておきたい。

 こりゃ気晴らししないと寝られそうにない……っていうところで、今日は両親が揃って外泊していることを思いだす。都合が良い。わたしはのそのそと起きだして着替え、外へ出かけた。

 深夜外出なんてまるで不良少女ではあるが、普段抑圧されている分両親の目を盗んでそういうことをするのは楽しい。大きな見返りもなく無暗に禁を犯すのは愚かだけれど、わたしは別に根っこが利巧な訳じゃないからこういうこともする。

 とは言え、身の安全の為にもあんまり遠くに行くつもりはなかった。家を中心とした半径百メートルを脱さない範囲を十分ほど歩き回り、すれ違った猫を捕まえた。

 わたしの腕に抱かれて大人しくしている猫を庭へと連れ帰る。

 れもんがいた。

 「姉さん?」

 れもんは庭のベンチに腰掛けて空なんか見上げていた。そしてわたしに気付いて抱きかかえた猫を見詰めた。

 「……殺すんですか?」

 「まあね。ちょっと嫌な夢見ちゃって、すかっとしたい」

 そう言って、外に出る時に庭に持って来て置いた鉄串を掲げる。

 「じゃじゃじゃーん」

 そして庭の土に尖った方を上にして串を埋めると、自分が何をされるのかも分かっていない猫のお尻を串の先端に突き刺した。

 「ナァアアーっ!」

 なぁんて悲鳴をあげてじたばた暴れ出す猫。こうした死に際の猫の動きを黒ムツ達は『ブレイクダンス』と呼ぶ。わたしは力任せに猫をどんどん押し込むが、串の固定が甘い所為で上手く行かない。

 「れいちゃん串持っててよぉ」

 というと、れもんは言う通りに串を両手で固定してくれる。その手伝いの甲斐もあってか、尻から頭までを串が貫通した猫の死骸が出来上がった。

 「ウラド三世ですか」

 れもんがコメントする。わたしは自分の仕事を誇るように「えっへっへ」と笑う。

 「まさか姉さんがハルマゲドンだとは思いませんでした」

 「わたしもれいちゃんが黒ムツになるだなんて思わなかったよ」

 「しかしなんでまた? 姉さん、猫とか動物はどちらかというと好きじゃないですか? 獣医を志しているくらいなんでしょう?」

 「動物は好きだよ。でも動物を殺すのも好き。それは特に矛盾しないと思うよ?」

 本当に嫌いならこんな殺し方はしないのだ。痛めつけたり、駆除したりすることはあっても、串刺しにしたのをうっとり眺めるなんて行いは嫌悪と言う感情から結び付かない。支配して破壊することが楽しいのは対象に愛情を感じるからに他ならない。

 壊れる程に激しい暴力を振るい、しかしその対象を深く愛するということは、人間の心の仕組みの中で確かに存在しているのだ。そういう部分がなければ生き物同士の関係性は成り立たない。

 愛故に人は支配するし、支配すれば傷付けたがる。

 わたし達の両親はわたし達を確かに愛しているが、同時に、自分達の次女を鬱病に追い込む一因になりもした。それは思いやり故の厳しさではなく、れもんを思うがままの存在にしようとした支配欲故だ。

 「れいちゃんは、どうして?」

 「……なんでなんでしょうね」れもんは膝を持ち上げて、自分の顔をそこに埋めた。心理的防御を試みる時の癖だ。「単純に、もうどうにでもなれ、って気分で。とことん卑劣な行いに身を落としたいのかも……。でもグレるって柄じゃないし、グレてる人と気が合う訳でもないので、まあ、そこで依り代になったのが亀太郎さんだったんじゃないですかね?」

 結局あの人か。あの人が道を作った。抑圧された魂の逃げ道を。

 この子がどういう理由で黒ムツになったのかは、これからじっくり向き合って行けば理解できるようになると思う。その間中、わたしは同じ黒ムツという立場でこの子に寄り添ってあげなくちゃいけない。脇の甘いところのあるこの子が犯行に失敗しないように見守るべきだし、自分だけ黒ムツを辞めて安全地帯に逃げるだなんて真似はするべきではない。

 「そっかぁ」わたしは理解したように微笑んで、れもんの手を握る。「自暴自棄になってる時って、無理矢理立ち直ろうとして立ち直れるもんでもないからねぇ。今のあなたには、今のあなたに寄り添える人がいるんだと思うし、わたしが亀太郎さんと一緒にそれになれたら素敵だと思う。猫なんていくら殺したって良いんだし、一緒に黒ムツをやろう」

 「…………」れもんはわたしから目を反らして下を向いた。

 「どうしたの?」

 「いえその……」れもんはますます自分の膝の中に頭を深く埋める。「昔っからすごく思うんですけど、姉さんって教育的な意味で私に対して甘いんですよね、ものすごく」

 そりゃそうだ仕方がない。こいつには戒めるべき点もやるべき説教もたくさんあるが、そんなことしたってなにも楽しくはない。わたしにとって妹は可愛いし、可愛いだけで良い存在だ。好きに甘やかすよ。

 「わたしまで厳しかったらあんた欝んなるよー?」

 「もうなってます」

 そうねそういうジョークだし。

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