第31話
牛糞の車で帰宅した、その翌日。
学校から家に戻ると、客間の前を通る時、中に亀太郎がいるのが見えた。
「お帰りなさい、かに、か、か……」亀太郎はわたしのことを『かに玉ちゃん』と呼ぼうとして舌を噛む。
「か?」向かいのソファに腰かけていたれもんが訝る。
「かに玉の好きなりんごちゃん」
誤魔化せてるんだかなんなんだか。「こんにちは如月さん。どうしてれもんと……」
「お父さんの知り合いから、腕の良い精神科医がいるって紹介されたら、それが如月さんだったのよ」ママが言う。「これかられもんのカウンセリングをして下さるそうだから、あなたはお部屋に行っていなさい」
「う、うん」わたしは亀太郎に会釈する。「失礼します」
心臓がバクバク言っている。亀太郎がれもんに接触? わたしのパパを通じて?
パパの職場は大学の動物病院で、大学の方にも度々顔を出しているようだから、そこに席を置く医者とも親交がある。その中の誰かが如月医院の跡取りである亀太郎をパパに紹介した……というストーリーは納得がいく。
だが亀太郎はれもんがわたしの妹であることや体調を崩していることを知っていたはずだし、その上でれもんに接触するのなら、それはわたしに対して何らかの意図があるんじゃないか……。
しばらくすると、亀太郎はわたし達の家から出て行った。
れもんに話を聞きにリビングに行く。
「ただいまれもん」
「姉さん」れもんはどこか呆然とした、付き物の落ちたような表情でわたしの方を見る。「姉さんの知り合いなんですって、あの先生」
「うんまあ。お友達だよ。……どうしたの?」
「……不思議な人です」れもんは下を向いて、雲の裏の天界か、或いは深海の静かな暗闇を見て来たかのような表情で言った。「カウンセリングをしてもらって、気分は良くなりました。それは確かなんです。あの人と話をして、わたしが何を教わった訳でも、何を変えてくれた訳でもないのに、ただ、気分だけがびっくりするほど良くなったというような」
「それは、上手に話を聞いてもらったってことなんじゃないの?」カウンセリングってそういうものなんじゃないか?
「でもなんだか変なんです」
「変?」
「ええ」れもんはそこで顔を上げ、どこか悄然とした様子で言った。「なんというか、魔法でも使われたような気分なんです。それも、とても強力な、恐ろしい魔法を。その魔法にかけられた人間は、例え目の前であの人に家族を殺されていようとも、一切の恐怖心や敵愾心を抱くことができなくなって、むしろ安心させられてしまうと言ったような、そんな魔法です」
〇
それからも何度か亀太郎は家に訪れ、その度にれもんと話をし、仲良くなっていった。
わたしと交えて三人で話をする機会も増える。家族ぐるみの付き合いと言って良く、両親ともにそのことを酷く歓迎していた。
「如月さんって、あの如月医院の跡取りなんですよね」
れもんが亀太郎にそう問いかけると、亀太郎はニコニコとして答える。
「そうして欲しと父には言われますねぇ」
「お父様がそう勧めるんですか?」
「ええ。それか婿を取りなさいって」
そんなこと言われてるのか。「良い人はいないんですか?」わたしは言った。
つい不躾なことを言ってしまったが、亀太郎は気にした様子もなく「昔ちょっと気になった男の子はいますよ」と答えた。
「そうなんですか?」わたしは身を乗り出す。「え、詳しく訊きたいんですけど」
「女の子みたいな顔をした、なんというか、すごい美少年でしたね。あなた達と同じか、ちょっと年上くらいの子で。わたしはその時まだ大学生だったんですけど、わたしも彼と同じように……」
と言って、それからふとわたしの母親の方に視線をやると、悪戯っぽい視線をわたしにだけ送って
「この話は今するにはちょっと照れがありますね」
と続けた。
今は話せない? 同じ黒ムツだったのか? また今度必ずその話の続きを聞くことをわたしが決めていると、れもんが口を開いた。
「私も母と同じ動物学者になりたいんです。跡を継ぐ……っていうんじゃないですけど、でも、影響はあって。街で見かけるような動物の生態と、人間とどう共存していくかっていうテーマに、すごく興味が」
あれ、れもんあんたそんなこと考えてたの? いや学者目指してるのは知ってたけどさ。でもそれはガリ勉の行き付く先として得意科目の生物を極めようとしている、くらいのもんだと思っていた。
そんな具体的にやりたいことがあっただなんて、お姉ちゃんに言ってくれたら良かったのに。
「それは素敵ですね。お母様も喜ばれるでしょう」と亀太郎。
「でもその為にはすごくたくさん勉強をしなくちゃいけなくて……正直、それには今のままだと」
「何も焦ることはありません」亀太郎は優しく言った。「わたしも医大生時代は何度か休学をしたものです。他の人より三年遅れて卒業しました。当時としては、色んなアクシデントが重なって思い詰めた結果のことではありましたが、今にしてみると若い時間をお勉強だけに費やさずに済んで、むしろ幸運だったとさえ思っています」
「……そんな風に思えるものなんでしょうか」
「ええ。その三年の間に成すべきことを成したからこそ、今まで知らなかった様々な世界がわたしの目の前に開けて、色々な人と出会うことが出来たのです。ですのでれもんさん、あなたにとって今過ごしている時間は、今まで出来なかったことにチャレンジする良い機会でもあるのです」亀太郎はすべらかな口調で、れもんの顔をじっと見つめて語りだす。「目標の為求道者のように努力するあなたの姿はご両親の誉れであり、あなた自身の誇りでもあったと思います。しかしそれはとても苦しくてつらいことだったと思うのです。妨害をする者、攻撃を仕掛ける者もいたでしょう。そうではないですか?」
唐突に饒舌になった亀太郎に、れもんは目を丸くして困惑したようだった。しかし亀太郎の言葉がれもんの心に深く刺さり、内側から蝕んでいることもまた確かではあるようだった。
亀太郎は畳みかけるようにして言う。
「日々に退屈したことはありませんか? 同じ苦痛をただ反復する日常に、窒息しそうになったことはありませんか? そんな毎日を強いる様々な物を憎悪したことは? それらはごく普通の感情ですが、しかし粗末に扱ってはいけません。目を背けたり、抑圧したりを繰り返すからこそ、人はその精神を病むのです。研ぎ澄ました憎しみや悲しみで、この世界に反逆する機会を得ることこそが、人の心が真に救済される唯一の方法なのです」
隣で聞いているだけでも、腹の中がしくしくと痛んでくるような言葉の数々だった。それらは確かにれもんを説き伏せ、捻り潰し、屈服させているように見えた。
れもんにルサンチマンがないはずがない。言いたいことも言えない気弱な性格で、人に助けを求めることさえできない。それでいて、自分は優秀であり確かな努力を積み重ねて来たという自負が、内向きにばかり強い歪んだ自我を作り出し、世界との折り合いを失って、反発する。
亀太郎はそんなれもんの内面を見抜いている。そこに対して、何かを訴えかけている。
「仰ることは、分かってしまうかもしれません。しかし……」
言いよどんだれもんに、亀太郎はただ沈黙してれもんの次の言葉を待ち続ける。
れもんは言う。「……それとは別に、勉強は、きちんとやらなくてはならないことです。私には夢があるんです」
「大丈夫です」亀太郎は断言する。「すぐにどうでも良くなります、『そんなこと』。わたしを信じてください」
「信じる?」
「ええ。信じて下さい。あなた自身の全ての憎しみに、退屈と苦痛に満ちた現実に、反逆する機会をわたしが与えてあげましょう。それが救済です」
亀太郎はそう言ってにっこり笑って、立ち上がった。
「少し二人で出掛けませんか? お見せしたいものがあるんです」
〇
さらに数日が経過する。
亀太郎にどんな意図があるのだとしても、すでにわたしにはどうすることもできなくなっていた。わたし抜きでも亀太郎と我が家の関係は強固に成立してしまっていて、れもんは度々亀太郎と会話をし行動を共にして家に戻って来た。
れもんは余計に思い詰めたような表情を浮かべるようになり、一人で何か考え込んでいることが増えた。それでいて、外出や誰かとの通話など以前より積極的な行動も増え、カウンセリングの効果もあってか症状事態は少しずつ寛解の状態に近づいているようだった。
そんなある日の夕方、わたしの携帯電話が鳴った。
亀太郎だ。
「はいかに玉です」
「かに玉ちゃん?」亀太郎は声を弾ませている。「お見せしたいものがあるので、どうかわたしの家に来ていただけませんか?」
「良いですけど……あの、れもんを知りませんか」
昼頃に誰にも告げずに家を出て、連絡しても通じない状態が続いていたのだ。母親が騒ぎ出すのも時間の問題だ。
「れもんさんならこちらにいます」
「そうなんですか? ……あの、見せたいものっていうのは」
「お楽しみです。それでは」
通話が切られる。
バス代がもったいないと感じたので、わたしは自転車に跨って家を出る。亀太郎の家は半時間も漕げば辿り着く距離だ。
玄関のチャイムを鳴らすと、亀太郎が出た。
「どうもぉ」亀太郎はニコニコしている。「では、入られてください」
そう言っていつものタイル張りの部屋に案内される。
血だまりの中に妹の姿があった。
血肉と臓物があたりに飛び散っている。その真ん中に、一糸まとわぬ白い肌を赤い血液に塗れさせたれもんが、ぺたんと座り込んで虚ろな表情を浮かべていた。その手には大きなナイフが握られていて、目の前の惨状を作り出したのだと一目で察せられる。
「……姉さん?」
猫の死骸が一二三……四つある。その真ん中でれもんがナイフを握りしめてこちらを見た。幼い頃悪戯がバレた時に浮かべた表情と似ていて、でもはっきりとした違いがある。
「どうしてここに姉さんが……あの、まさか」
れもんは戸惑った様子で立ち上がる。信じがたいと言った顔色でわたしの方を覗き込み、じっと反応を伺っている。
どんな顔をしようか迷った。
それを教えてもらいたくて、わたしは亀太郎の方を見る。
「わたし達の新しいお友達です。以前から勧誘し続けていたのですが、今日やっと、初体験です」
亀太郎はニコニコしながらそう言って、一歩一歩わたしに近づく。近くで見る程驚く程整っているその面貌が、吸い込まれてしまいそうなほどの僅かな距離まで近づいた。そしてわたしの肩に両手を回し、正面から抱きしめた。
「妹さんと仲が良いんですよね? 一緒に黒ムツをやれたら、きっと楽しいんじゃないでしょうか? ……だからかに玉ちゃん、どうかこれからもわたし達と一緒に遊びましょう。れもんさんだって、その方がきっと嬉しいですよ。ねぇ?」
心臓の音が聞かれている。わたしは直感する。このまま抱きしめられるままに亀太郎に全身を飲み込まれ、わたしは彼女の一部分にされてしまうのだ。そんな錯覚すら覚えながら、しかしわたしはこう答えることしかできなかった。
「はい。分かりました、亀太郎さん」
その言葉を聞いて、亀太郎はわたしから手を離し、じっとわたしの表情を伺う。
「黒ムツ、続けますか?」
「はい」
わたしの返事に虚偽がないことを見抜いたのだろう。亀太郎は満足げな表情で、瞼をすっと細めると、薄い唇を小さく持ち上げる。細められた目の中に覗く真珠のような黒い瞳には、普段の彼女が決して見せない凍えるような怜悧さが備わっているようだった。
「ありがとう。そう言ってくれると信じていました」
普段亀太郎が浮かべている慈母のような微笑みとは全く違う表情。しかしこれこそが彼女の本当の笑い方なのかもしれない。わたしは魅入られたようになる。
猫の血と臓物の臭いが漂う薄暗い部屋で、わたしはいつまでも動くことが出来なかった。
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