第30話

 一番を目指すように求める母に対して、わたしは今のままで十分だと口答えを続けていた。わたしは十分に優秀で、それ以上を求める必要はないのだと。

 だがそれは常に一番である妹への劣等感の裏返しでもあった。これで良いのだと思い込むことで敗北感を埋め合わせていた。そうすることで自らが妹に敵わず母の期待に応えられないことから目を背け続けていたのだ。

 しかしわたしより優れたれもんはいなくなった。鈍臭くて泣いてばかりの可愛いれもんが、わたしの元へと戻って来たのだ。

 「おいハルマゲ」

 そう言ったのは牛糞だった。同じく亀太郎の家に遊びに来ていた牛糞と黒鈴は、わたしと亀太郎が話をしている間、猫を殺す為のタイル張りの部屋で虐殺を愉しんでいた。

 「俺らもう帰るから、今からおまえを家まで送る」

 「なんで言いきりなんですか? というかハルマゲってもうちょっと可愛い略し方が」

 「良いから来いよ」

 そう言って牛糞は平気でわたしの髪の毛を引っ張って連れて行く。こういうこと平気でする無神経さがあるからモテないんですよオジサン。なんて思ったけど、そんなこと言ったら年甲斐もなく顔真っ赤にして怒るからなこの人。

 「またいらしてくださいね」

 そう言って手を振る亀太郎に見送られ、わたし達は牛糞の車に乗り込んだ。

 「痛いですよ。髪引っ張るなんて酷いです」

 後部座席に放り込まれたわたしは文句を言った。自分より頭一つ分大きな人にそうされると痛いし怖いし息苦しい。

 「非紳士的ね。そんなんだからモテないのよ」

 当たり前のように助手席に座っている黒鈴がわたしの言いたいことを代弁してくれた。牛糞は案の定「なんだと?」とキレ始める。

 「おまえだって止めなかっただろうが」

 「あたしは痛くないんだから当たり前じゃない」

 「だったら文句を言うな」

 「そいつの髪を引っ張ったことに文句を言ったんじゃなくて、単にあんたを罵ったのよ」

 「なんでそんなことをするんだ?」

 「罵らない方の理由がなかったから」

 「性格の悪い女だ。どうせおまえだってモテないんだろう」

 「ホストみたいな顔の彼氏がいたことがあるわ。それによしんばあたしが世界一モテない女だとしても、あんたよりは余程上等な人間よ」

 後部座席のわたしを無視して掛け合いを始める二人。いっつもこんなふうに喧嘩してる癖、だいたい一緒に行動してるんだから、仲が良いんだか悪いんだか分からない。

 喧嘩がひと段落して(相変わらず牛糞が言い負けていた)、牛糞が黒鈴に言った。

 「ハルマゲはY町の方だったか? 近いな。そっちから先で構わないか?」

 「別に良いわよ。つか今日あんたの家泊まって良い?」

 「あ? 別に良いが、着替えとかどうすんだ?」

 「あんたが取りに行くのよ。あたしをあんたの家に送った後で」

 「なんでだよ。途中で実家寄れば良いだろ」

 「家に顔出したくないのよ。車で待ってるからあんたが取って来て」

 「おまえの部屋から下着やらなんやら取って来いってのか? 変態呼ばわりされかねんな」

 「元から変態でしょ」

 「黙れ」

 え、ちょっと何この会話。「あの、お二人はどういうご関係なんですか?」

 「兄貴だ」「妹よ」

 マジかーっ!

 「どうして言ってくれないんですかっ?」とわたし。

 「隠す程のことじゃねぇけど、言う程のことでもなかったからな」と牛糞。「訊かれたら言うけど、訊かれてもないのにわざわざ言わない」

 「亀太郎は知ってるけどね。教えた訳でもないのに、三人で顔を合わせてすぐに見抜いたわ」と黒鈴。

 「洞察力が高いんだ。あの女に隠し事ができるとは思わない方が良い。もっとも、余程の敵対行動を取らない限り、何を知っていたところでそれをどうする訳でもないから、問題はないがな」

 「敵に回すと地獄だけれど、仲間内には異様に寛容なのよね。あたしなんかチャンスがある度財布から一万抜いてて多分バレてるけど、ずっと見逃してもらってるわ」

 「俺なんか家に来るたびゴミ箱からストッキング盗んでて多分バレてるけど、ずっと見逃してもらってるぞ」

 「謝った方が良いと思います」わたしは亀太郎のおだやかな笑みを思い出しながら言った。あの人が怒ったところをわたしは見たことが無い。そこに付け込むだなんて酷い兄妹だった。「というか、わたしの前で言うなんて、チクられたらどうするんですか? バレてると分かってやってるのは本当なんですね……」

 「謝った方が良いのはハルマゲ、おまえだぞ」牛糞はそこでわたしの方を真面目な顔で見る。「おまえ、このままだとあの人に殺されかねん」

 耳を疑った。

 「大丈夫なんじゃない? ゲドンは亀太郎のお気に入りでしょ」と黒鈴。

 「逆噴射の可能性があるから警告しているんだ。その為に同じ車に乗せた」と牛糞。

 「どうしてそこまで心配してやるの? JKだから?」

 「同じ黒ムツだ。全ての猫の敵は俺の味方だ」

 「JKだからでしょ? ゲドンは特にルックスが良いし、有名私立に通ってるしってんで、オッサンの湿った情欲が暴発してるんでしょ?」

 「ゲドンってなんですかもっと可愛いところで呼んでください」わたしは文句を言った。ハルマゲのがまだマシだ。「というかなんですか、わたしが亀太郎さんに殺されるって……」

 「ありうる話なんだ」牛糞は表情を険しくする。「おまえ、黒ムツをやめるかもしれないんだろう?」

 「そうですけど……。それがどうかしましたか?」

 「亀太郎は裏切り者を許さない。だから、おまえは危険だ」

 「……殺される、ってのは何かの比喩ですか?」

 「いいや殺される。言葉通りだ」牛糞は昏々と言い聞かせるような口調でそう断じた。「大昔のことなんだがな、黒ムツ仲間の中に、突然『自分のやってることの愚かしさに気付いた』とか言い出した奴がいたんだ。二十歳そこそこの若い男だったかな? 毎晩殺した猫に噛み殺される夢を見てしまうとかバカげたことを言って、警察に自首をするとか寝ぼけたことを抜かしやがったんだ」

 「そういう人もいるでしょうね」わたしは頷く。「それで、どうなったんですか?」

 「亀太郎はそいつのことを必死で引き留めようとした。悪夢を見るのなら自分がいくらでも相談に乗るし、法の裁きが怖いのなら、大病院の娘で親類に政治家も法律家もしこたまいる自分が必ず守り抜くと。だがそいつはそんな亀太郎を睨み付け、おまえがそそのかすから自分は罪を重ね続けてしまった、きっとどこかで脚が付くはずだ、おまえの所為だと罵った。その次の日、そいつは轢き逃げ事件の被害者として報道され、犯人は未だ逃走中だ」

 「…………その方の気持ちは余程参っていたんでしょうね」

 猫を殺すだなんて行い余程のヘマをしなければバレるはずがないのだ。死骸の処分にさえしくじらなければ基本的に何も起こらないし、死骸を発見されたとしても飼い猫でなければ警察も碌な捜査は行わない。余程はっきりとした目撃証言が無い限りまず捜査の手は伸びないだろう。

 そんなことも分からない程その人は混乱していたし、余計なことまで疑って不安を募らせていた。そして臆病な人間程、亀太郎のような優しい相手に攻撃的に振る舞うのだ。

 「亀太郎さんがその人を轢き殺して逃げ果せたみたいな文脈ですけど……。でも猫を殺しているのを警察に知らされたくないが為に、人を殺すなんていうのは、リスクとリターンが噛み合っていません。亀太郎さんはそんな頭の悪いことをしませんよ」

 「無論、不幸な事故の可能性もあるんだが……」牛糞は頭を抱えて溜息を吐く。「どうもあの女は底が知れん。何を考えているかも分からないし、何をやらかすかも分からない」

 「けれども黒ムツ同士の集会だなんてもの、抜けようとする者を殺すくらいしないと成立しないと思うのよね」黒鈴が口を挟んだ。「一人警察に密告する人間がいたらそれで芋蔓式に全員お縄な訳でしょう? 正直あたしは死んでくれて安心したけどね、そいつについては」

 「……いえでも、そもそも亀太郎さんのオフ会に呼ばれたわたし達っていうのは、黒ムツの中でもマニアな存在っていうか、引き返せるところにいない人間でしょう? 黒ムツをやめてオフ会を抜けようっていうところまでならともかく、自首しようなんていうのはただのイレギュラーなんじゃあ」

 亀太郎のオフ会には正真正銘本物の黒ムツであることが証明できる人間でなければ参加できない。ハルマゲドンかに玉として一年近く活動していたわたしでさえ、参加には入念な審査があったし、初めて亀太郎と顔を合わせる時も猫の死骸を必ず一つ持っていくことを要求された。どうやら、警察やら私立探偵やらが黒ムツの仲間を装って近づいて来ないとも限らない、ということらしかった。念が入りすぎだと言いたいくらいだ。

 「まあそうね。確かにその男は滅多に見ない腰抜けだった」黒鈴は頷く。「ただあたしの知る限り、引っ越しやらなんやらで物理的にオフ会に参加できなくなるケースを除けば、集まりから抜けようとしたのはその男の他にはあんたが初めてよ。タカオが杞憂するのも分からなくもないのよね」

 「……言われたことはアタマには入れておきますよ。ところで、タカオってなんですか?」

 「そいつ」黒鈴はタカオこと牛糞を指さす。

 「黙れスズコ」タカオこと牛糞はスズコこと黒鈴を指さし返して言った。「本名を言うな、本名を」

 「それ本当に本名なんですか?」

 「まあね。黒峰鈴子ってんのよ。だから『黒鈴』」黒鈴が少し得意げな口調で言う。

 「スズコさんが黒鈴になるのは分かりました。タカオさんは……あまり関係なさそうですね」

 「おまえの名前は玉子か蟹子なのか? ハルマゲ」牛糞はそう切り返す。

 「かに玉が好きなだけです。本名はりんごです、ひらがなで『りんご』」

 「りんご!」黒鈴はおかしそうに笑う。

 面白いらしい。「妹は『れもん』です」

 「れもん!」黒鈴は尚も笑う。

 「おまえの親八百屋かなんかか? 男だったら『レタス』にされてたんじゃないのか?」牛糞が妹に釣られて笑いだす。

 「レタスはちょっと……」どうして男だとレタスなんだろう?「父は獣医で、母は動物学者です。わたし達の名前が果物なのは、母が『桃子』だからで……」

 「なんだそりゃ。偉そうな職業の親だな。どうせ金持ちなんだろう? それでエリート私立に通ってるって訳か。気に入らねえな」牛糞は『けっ』って感じで顔をしかめる。

 「ウチなんて牛丼屋の店長と警備員だもんね」黒鈴が自嘲するように言った。

 「職に貴賤は無いと思いますよ」とわたし。

 「どっちも夜いなかったのよ。あたしが物心つく前から既に」

 「だな。ありゃネグレクトだ」と牛糞。

 「別にいなくても良かったけどね。親なんてウザいだけだし」

 「おまえの面倒看さされてた俺の苦労を知れこの愚妹め」

 「あんたなんてあたしがいなきゃ女と同じ空気も吸えない癖に。そんなんだから童貞なのよ」

 「どどどど童貞ちゃうわ」

 この兄妹はどう見ても十歳近くは歳が違う。黒鈴の幼児期牛糞は多分思春期あたりだろう。少年牛糞が幼い妹の面倒を見ながら両親の帰りを待っている姿を、わたしは夢想した。その妙に牧歌的な景色と、今の兄妹の関係性を照らし合わせると、その二つは奇妙なまでにしっくりと噛み合うのだった。

 やがて車はわたしの家の前に来る。

 「ありがとうございました」

 バス代浮いたこと自体はラッキーだった。牛糞と黒鈴の意外な関係も知ることができたし、少し、楽しかったかもしれない。

 「感謝しろ。それと、さっきも言ったけど、黒ムツをただでやめられるとは限らないってことは理解しとけよ」牛糞は忠告するような口調で言う。

 「わたしは亀太郎さんを信頼しますよ」

 あの人はわたしの敵に回ったりしない。

 「あんたは亀太郎に気に入られてるしね」と黒鈴。「でもだったら、間違いなく引き留めて来るような気がするわね。それも、ものすごいやり方で」

 「だな。そっちの方がありそうだ」と牛糞。

 「……どういうことですか?」

 「ハルマゲ。おまえが黒ムツを続けるとしたら、それはどういうことがあった時だ?」

 「どういうことって……」わたしは首を捻る。「また何かわたしの中で猫を殺す理由が産まれた時か……それか」

 「それか?」

 「……お二人って、その、どちらが先に黒ムツを始められたんですか?」

 「俺だけど」と牛糞が手を挙げる。「この顔のキズが出来てからだから、十代の頃にはもうやってた」

 「黒鈴さんはその影響を受けていますか?」

 ありうる話だと思った。この二人は喧嘩するほど仲の良い兄妹に見える。親代わりの兄がやっていることを幼い妹が模倣するというのは自然な流れだ。

 「こいつ、あたしが大人になるまではそれ隠してたから」黒鈴が首を横に振った。「影響を受けたっていうなら高校の頃の彼氏ね。そいつが黒ムツで、あたしはそいつが殺した猫の絵を描いていたの。で、その絵がこいつに見付かってね。そしたらタカオも黒ムツだっていうんだもの」

 「そうなんですか」わたしは頷く。

 「なんだ、今の質問がなんかあるのか?」と牛糞。

 「いえ……」わたしは曖昧に笑う。「でも、猫を殺して遊んでるみたいな、自分の愚かしいところまで仲の良い家族と共有できるのは、素敵なことかもしれないですね」

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