第29話

 黒ムツなんて無理に続けることではない。猫を殺すだなんて行いがつまらない偽悪で、何の自己主張にも自己証明にもなりはしないことは分かっている。黒ムツ仲間との関係だって他で代替できない代物ではない。そりゃあ『ハルマゲドンかに玉』として有名人になることは嬉しかったけれど、しかし知らない人にどれだけ騒がれたところで本質的に意味のあることではないのだ。

 自分の中で何かしらの心の整理に役立つからやっているだけで、つまらないと感じ始めたらとっととおさらばすることに躊躇はない。何せ猫を殺すのは犯罪で、それはリスクのある行いなのだから。

 けれど本当にそう思えるのは、自分の中にある、わたしに猫を殺させ得るだけの鬱憤に確かな決着をつけた場合だ。

 自分のことも分からないまま、ハルマゲドンかに玉というもう一人の自分をただ漠然と失うのは、なんだか良くないことのような気がする。

 どうしてわたしは猫を殺しても楽しくなくなった? どうしてわたしは今まで猫を殺して楽しかった?

 そうした悩みをありのままわたしは亀太郎にぶつけてみる。

 「そうですねぇ」

 亀太郎は深刻そうな表情でわたしの話を熱心に聞いてくれ、自分のことのように真剣な表情で考えてくれる。普通に考えればとんでもない人だけれど、『ハルマゲドンかに玉』としてのわたしにとっては最も信用できる頼もしい大人だった。

 わたしは今亀太郎の自宅の、最も奥にある最も綺麗に整頓された部屋にいた。

 二十畳くらいはある広々とした部屋だった。四方の壁を覆いつくすようにして大きな棚が設置されていて、それらには所狭しと本やホルマリン漬けの瓶、生物の剥製や怪しげな実験器具と言ったものがずらりと並んでいる。数えきれない程の瓶の中に漂っているのは近くで見るまでもなく動物の陰茎で、多種多様なそれらには几帳面にラベルが張られている。

 亀太郎は動物のペニスのコレクターで、ここはそのコレクション・ルームなのだ。

 「わたしのように、はっきりと『この為に猫を殺している』というのがある人では、かに玉ちゃんはありませんものねぇ」

 部屋の中央に置かれたソファでテーブルを挟んでわたしと向き合うと、亀太郎は自分のコレクションに視線をやりながら答えた。馬やウミガメやセイウチ、カンガルーにキリンと言った動物のおちんちんに囲まれたその部屋は、亀太郎が黒ムツをやりながら、つまり実際に自分でそれらの動物を殺害しながら集めたものだ。これの為に亀太郎は世界各国を巡って様々な動物を買いあさり、或いは捕獲している。ペニスを切り取った後は残った身体は高く買ってくれる場所に売るらしく、たいていの場合それは『医者をやるのがバカらしくなる』くらいの利益を生むのだそうだ。平たく言うと動物の密売人である。

 「ええその……漠然とこう、憂さ晴らしというか、ストレスを逃がす為のスリルのあるゲームみたいな感覚があったんですけど……」

 わたしは答える。亀太郎はふむと思案顔をして、わたしの顔を覗き込みながら言った。

 「逃げていくべきストレスがなくなった、という可能性はありませんか?」

 「……自分でも分かりません。相変わらず母はうるさいし、父は黙っていてもなんか怖いし、学校の勉強は難しくて人間関係も煩わしい。全部が全部人並の悩みでしかありませんけど、それでもしんどいことには変わりないはずなんですよね」

 「かに玉ちゃんは真面目なんですよ。色んなことを真正面から攻略しようとしすぎています。なまじそれができるだけの知性や忍耐力があるからなんでしょうね。そして、それらの能力は日々向上しているように見受けられます」

 この人わたしに対する評価高いよね。いや誰のこともその人が望むように褒める人だけど、わたしに対する言い様はあんまりお世辞って感じがしない。それともそう思わされているだけなのか?

 「ただいくらかに玉ちゃんの能力が高くても、それは決して無敵ではなかった。勝てない相手もいた。果たせない目標もあった。そこにストレスがあります。どれだけ頑張っても、人がうらやむような結果を残しても、それでもかに玉ちゃんが満足できない理由が常にあったのです。だから暗い鬱憤が溜まっていた……それが解消されたということではないかとわたしは思います」

 亀太郎は透き通った大きな瞳をこちらに向ける。底なしの暗闇のような深く黒々とした瞳は、わたしという人間の隅々まで見通しているかのようだった。

 「……どういうことですか?」

 「妹さんが学校を休んでいると前に伺ったかと思います」亀太郎は薄く微笑んで言う。「お母様の期待はいつも優秀な妹さんに向けられていたと、いつかあなたは打ち明けてくださいました。もちろんあなたも十分に優秀ですし努力もしていますが、それでも人が二人いれば必ず比較され優劣は生まれます。あなたは常に強力な劣等感を隠し持っていました」

 亀太郎は淡々と、それがまぎれもない事実であるかのように語り始める。

 「もともと妹さんはあなたにとって愚鈍な存在でした。要領が悪く洞察力や行動力に欠け度胸もなく、困っていたり泣いていたり癇癪を起したりして、手のかかることの多い存在でした。そんな妹が自分よりも優秀な学習能力を持っていることにある日気付いて、あなたは強い衝撃を受けたのです。両親の関心が妹に集中し始めたことに、真っ暗な喪失感を持つようになりました」

 亀太郎には色んな相談事をしているが自分のことをここまで話したことはない。これまでに話して来たわたしの言葉の断片から亀太郎が推測した物語に過ぎない。しかしそれは驚く程に正鵠を得ていた。心臓を掴まれているかのように感じる。亀太郎はそんなわたしの様子に気付いて優し気に微笑むと、わたしの震える指先をぎゅっと握ってこう言った。

 「でもそれはもう終わりを告げました。勉強ができるだけの愚鈍な妹はその愚鈍さ故に過失を犯し、それによって自身の才能を沈黙させた。対してあなたは何も変わらずに気高くそこに立っている。あなたが妹よりも優秀な存在だったことが証明された。だから、あなたはもう大丈夫なんですね。黒ムツをする必要がなくなった……楽しくなくなったんです」

 「……なんで」わたしは震えた声で言う。「なんでそこまで分かるんですか?」

 「これでも精神科医です。それに、かに玉ちゃんはわたしと精神構造が良く似ています。わたしにきょうだいはいませんでしたけどね」

 この人がここまで他人の内面に踏み込むことは今まで全くなかった。一度仲良くなると、距離感というものを意識しない人懐っこさを発揮する人ではあったけれど、それでも一緒に笑いながら猫を殺すことだけがわたし達には必要で、私生活や内面に踏み入ることは今までなかった。

 けれどもこの人を不躾に感じることはなかった。むしろ自分にも分からない自分自身を理解してもらえたことに喜びを感じる程だった。そして亀太郎もそれを分かっていてわたしに踏み込んだ。そういうことのできるわたし達は親友だった。

 「わたしは……れもんを疎んじていたんでしょうか?」

 「あなたは妹さんを愛していました。ですが、自分よりは劣った人間でいて欲しかったんです」

 当たっている。「れもんへの屈折した感情がわたしを黒ムツにしていた?」

 「そうではないかとわたしは思うのです。少なくとも理由の一つです。あなたは妹に対して強い庇護欲を持っています。かつては気弱で手のかかる妹に対しその庇護欲は満たされていましたが、しかし妹は次第に大きくなり自立して行きます。さらに妹が自分よりも優れた才能を示すようになったことで、あなたの欲求は満たされなくなり、その自尊心は深く傷付いたんです。よって代替となる行為が必要となりました」

 「それで、黒ムツを……?」

 「庇護欲は多くの場合支配欲で代替できます。あなたは本当に勝ちたい相手に勝てなくなり、本当に認められたい相手から認められないようになりました。その喪失を、小さな猫を意のままに痛めつけその生命を支配し、その力を誇示することで埋め合わせていたんです。しかし……」

 亀太郎はそう言って細長い人差し指をピンと立てる。

 「一つ不思議なことがあります。かに玉ちゃんは明らかに優しい人です。その気高さに見合うだけの強い同情心と責任感を持っている人で、だから誰にでも親切に接することができて、誰からも愛されている人気者です。そういう人って、多くは猫とか動物を殺すことを好まないはずなんですよ。それがどうして……」

 「猫はいくらでも殺して良いって教えてくれた人がいるんです」

 わたしは答えた。

 「そんな人がいたのですか?」亀太郎は意外そうにする。「どなたですか? どういうことをすれば、あなたのような人にそんなことを教えられるというのでしょうか?」

 「それは、小さい頃……いえ、その、これは」

 「口に出したくない程つらい思い出なんですね。分かりました。訊きません」亀太郎は優しく頷いた。

 「ごめんなさい」わたしは軽く頭を下げる。

 「黒ムツを辞める気はありますか?」

 亀太郎は静かな表情で言った。そしてそのまま沈黙し、わたしの答えを待っている。

 わたしが答えるまで何時間でも何年でもその姿勢で待ち続けるように亀太郎は見えた。わたしも自分なりに誠実な答えを探した。目の前にいる人は干支一回り歳が違っても確かにわたしの理解者で親友だった。嘘や欺瞞はなしにしたい、そう思った。

 「やめるかもしれません。でも」わたしは強い口調で付け足した。「亀太郎さんとは、ずっと仲の良い友達でいたいです。これは心から本当にそう思います」

 「…………そうですね。それが一番困る答えなんです」亀太郎は小さく溜息を吐いた。「どうしましょうか?」

 意味も分からず沈黙したわたしの前で、亀太郎は顔に刻まれた悪魔の入れ墨に手をやった。

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