第28話

 れもんは休学して家に引きこもるようになる。

 じゃあその間何をしているのかっていうと、たいていはベッドの上にいてぼーっと壁や天井を眺めている。本を読んだりスマートホンを触ったり、勉強も時々やっているようだ。

 元々できるお子さんなのだし焦らずしっかりと欝を治し、後のことはゆっくりと考えましょうとお医者さんはそう語った。場合によっては、留年させることも視野に入れるようにと。

 それでもママは一刻も早く復帰させようとしているらしい。留年なんて世間体が悪い、なんてお決まりな文句を口にしている。

 そりゃあれもん本人にとっても留年はショックなことだろうし、進んでやることじゃあないにせよ、でも今一番大切なのはれもんの欝を治すことじゃなかろうか? それこそれもんくらい優秀だったら帳尻合わせはいくらでも効くのだ。世間体を気にするのなら転校させてしまえば良い。ダブったことなんて隠して何食わぬ顔で一つ年下の子達に混ざって勉強すれば良いのだ。そしてれもんに相応しい大学に入れば、学年が一つずれる以外は元通りになる。

 なんてこと言ったらママに溜息を吐かれた。

 「れもんはずっと一番だったのよ? 私達に相応しい優秀な子供だった。それがどうして留年とか転校とか、いきなりそういうことにならなくちゃいけないの?」

 現実を見なよ。「それが今のれもんには必要だからじゃないのかな? 悪いことでも恥ずかしいことでもなんでもないと思う。立派な選択肢でしょ」

 「他人事だからそんな風に言える」

 カチンと来た。「れもんのことがわたしにとって他人事な訳ないじゃない。ちゃんと考えてから物言ってよ」

 「親に向かってその態度は何?」

 「相手が親でも許せないことはあるでしょ。今のはママが悪いと思う」

 「やめてください二人とも」れもんが頭を抱えて言った。「どちらも悪くありません。二人ともわたしのことをよく考えて下さっています。わたしが悪いんです」

 そう言って心底つらそうな顔で机をじっと見つめるれもんを見て、わたしはいたたまれない気持ちになる。

 ママはすっかり癖になった溜息を吐いて立ち上がる。「りんごはれもんと良く話もしてくれるしそれは助かっているけれど、でもれもんの進路に口出しはしないで。自分のことを考えなさい。獣医を目指すっていうのは本当なの?」

 「今のところ、それでほぼ決まりかな」わたしは答える。でもなんでわたしの話なんか?

 「パパの影響?」

 「それもある」ちょっとはね。

 「がんばりなさい」ママはわたしの肩に手を置いた。「大学は今の志望校より上を目指した方が良いと思う。英会話は昔習わせたわよね? 海外の名門校だって射程圏内だわ。あなたはしっかりしているから一人暮らしもさせられそうだし生活費は十分な額を仕送りするわ」

 「嫌だよ海外なんて。れもんの状態だってあるし実家からあまり離れたくない」

 そう言うと、ママはわたしの目をじっと見つめる。深い知性を湛えつつも傲慢さや癇癪も併せ持つという、良く見慣れた痩せた中年の顔。

 「あなたには期待しているのよ」

 わたしは驚いた。もっとしっかりしなさいと言われることはあっても、こんなふうに言ってもらえることはわたしにはなかった。期待されるのはいつもれもんで、わたしは物足りない出来栄えの長女だったのだ。

 「がんばりなさい。……妹の分までね」

 そして、ママはわたしの傍を離れた。


 〇


 限られた時間の中で競争を続けねばならないのが学生時代というもので、我が子を本当のエリートにしたい親にとって、精神病治療の為の数週間から数か月、または一年間というロスはその子供を諦めるのに値することらしい。

 れもんが寝込んでいるしわ寄せでママは余計にわたしに小言を口にし、成績やスケジュールの管理をしたがり、強迫まがいの激励や洗脳まがいの説教を駆使して、わたしの学力を向上させようと一生懸命だ。

 嫌でも勉強する羽目になる。

 「りんごちゃん、最近昼休みいつもここに来てるよね?」

 昼休み、図書室で予習復習をしていると、れもんの友達で図書委員の麻原晶子ちゃんがわたしにそう言って声をかけて来た。

 「ああ晶子ちゃん」わたしは笑顔を返す。「話すのはひさしぶりかな? れもんのことはごめんねぇ。あの子、ちょっと早合点なところあるから、晶子ちゃんのことを誤解しちゃってたみたいで……」

 「うん。解けたならまあ、良いんだけどね。あたしはれもんと仲直り出来ればそれで良いっていうか……」

 晶子は独特の煮え切らない話し方でそう言った。いつも俯きがちにこうした口調で話すのであまり友達が多い方でなく、だからこそ同じく孤立しがちなれもんと一緒にいるのだろう。

 それと同時に、友達や動物に対しては強い愛着を抱く性質でもある。だからこそ、自分から離れて行こうとしたれもんを姉のわたしに縋ってでも繋ぎ止めようとしたり、気に入っていた猫が殺されれば探偵を雇ってまで報復を試みたりするような、そういう執念深さも持っている。悪い子ではないんだけどな。

 「そう言えば晶子ちゃん。ハルマゲドンかに玉を捕まえる為に探偵を雇ったんだって?」

 わたしは興味を隠さずに訊く。まさかわたしが真犯人だなどと夢にも思わないだろう。

 「れもんから聞いたの?」

 「そうだよー。ちゃんと捕まえてくれると良いねぇ」

 「うん。そうだね」晶子はそう言って視線を鋭くする。「ダンゴはあたしの一番の友達だった。中学の時からずっと」

 「ダンゴって名前なんだ?」わたしは腹の底で笑っておく。串刺しになるのには相応しい名前だ。

 「うんまあ。……絶対に許さない。同じ目に合わせて殺してやる」

 物騒なことを言う。しかしそれは虚勢や偽悪でそんなことを言っているのではなくて、本気の憎しみから出た言葉らしかった。確かに晶子は犯人に……つまり目の前にいるわたしに対して心底の殺意を抱いている。

 「怖いなぁ」わたしはそう言って苦笑した。

 「……ずっと可愛がってた猫が殺されたらこのくらい思うよ。ペットって、そんくらい人間にとって大事なものなんだよ? それが原因で自殺する人もいるくらい」

 「うん。そうかもしれないね」わたしはそう言って笑みを引っ込めた。「本当に、ちゃんと捕まえてくれると良いね」

 「うん。ところで、れもんの調子はどう?」

 「良くない。薬を飲んでいたら結構元気そうだし、ちょくちょく外出もしてるんだけど、学校に行くのは怖いみたい。何をしていても不安な気持ちになって手がつかないみたいで、家で勉強しようとしても続かないって言って、たまに泣いてる」

 「……そうなんだ」

 「あなたはいじめられてるれいちゃんの友達として、寄り添って励ましてくれてたんだよね?」

 「……そんな良いもんじゃなかった。そりゃれもんがどんな状況だろうと友達には変わりないけれど、でも自分がターゲットになるのが怖くって、松本とかには逆らえなかった」

 「それでもれもんにとってあなたは救いではあったと思うよ。お姉ちゃんとしてお礼を言います。ありがとう」

 晶子は照れたようにそっぽを向く。「いや、うん。まあ、友達だから……」 

 その友達をれもんは自分から遠ざけてた訳だ。はっきり言っていじめられるような性格はしてる。人間ってものをちょっと舐めてるんだ。生きて行くのに勉強だけしていれば事足りると勘違いしていた報いを受けた。

 それで晶子とは別れて勉強を済ませ、午後の授業も受け終えてわたしは放課後に猫を殺すことにする。最近ハルマゲドンかに玉としての活動をサボっていたことを想いだしたのだ。

 れもんのことでそれどころじゃなかったというのもある? いやどうだろう。れもんの今の状況はわたしにとっても不安なことで、不安というのはストレスでもあり、だから本来ならより黒ムツ行為に対する意欲は増してくるはずだ。なのに猫を殺すのを忘れていたというのは、我がことながら少し違和感も覚える。

 まあ良い。とにかく色んなうっ憤を晴らしてやれ。

 わたしは近所の公園のベンチに座り、お弁当の残りをいくつか地面にぶちまける。猫が寄って来る。その中から身体が一番白くて可愛らしい子猫を掴み上げると、そのふっくらした頬っぺたを両手で覆って話しかけた。

 「にゃー」

 「みゃぁああ」猫が言い返して来る。

 「にゃぁー」

 「なぁあ。なぁああ。みゃぁあああ」

 「にゃぁあああーっ!」わたしは迫真の表情で猫に迫り、顔を近づけながら強く訴える。「にゃぁああああーっ!」

 そして一人と一匹きゃっきゃと笑い合うと、わたしは猫のお腹やら喉やらを無茶苦茶に撫でまわしてやる。

 これから殺すことになる猫と仲良くなって遊ぶのがわたしは好きだ。懐いて従順になれば扱いやすいと言うのもあるし、不思議な背徳感があるというのもある。そもそもいじめ殺すと楽しいというのを知っているだけで、猫という生き物自体をわたしは割に好きなのだ。

 十分に満足するまで遊んでから、わたしは念入りにあたりを見回して人がいないのを確認すると、常備している丈夫な手提げ袋の中に子猫を放り込んだ。なーなー言って身を捩る猫を抑え込みながら口をくくると、それを持って公衆便所の障碍者向けの大き目の個室に入った。

 猫を袋ごと壁に叩きつける。

 どすんと重いものを叩きつける時の鈍い衝撃に恍惚する。まだ中からもぞもぞと猫が暴れる感触がしているので、わたしはさらに地面に叩きつけた猫入りの袋に踵を振り下ろす。

 猫が袋の中で足掻くたび袋はごそごそとその場をみじめに這いまわる。そこへ繰り返しスニーカーの踵を押し付けるわたしはまるでSMの女王様。踏みにじられるのがお似合いよ下賤な豚めが! おーほっほっほ。相手猫だけどね。

 猫の動きが鈍くなるまでそれを繰り返し、元気がなくなって来た猫を袋から引っ張り出す。片目を潰し背中の皮膚がめくれ上がり全身をぴくぴくと痙攣させているその猫をぼんやりと眺め、わたしは思った。

 ……楽しくない?

 いや待て。わたしは首を捻る。良心の呵責なんてものを今更感じたりはしない。動物なんてものいくらでも傷付けても殺しても良いというのは当たり前の倫理観に過ぎないはずだ。傷だらけの身体や垂れ流される血液に怖気付く程、わたしは臆病な訳でもない。

 でも何故かつまらないのだ。ずっとずっと楽しくて興奮してたまらなかったその行為が今回ばかりは退屈なのだ。自分が何か無意味で無価値でばからしいことをしていて、そのばからしさを恥じるかのような、そんな気持ちすら胸の奥から沸き上がって来る。 

 何故だ? 

 今更わたしに何が起こった?

 などと呆然としていると、油断も隙も無くその白猫はわたしの腕から逃げ出した。トイレの窓に飛び掛かり、外へ飛び出そうとする。まだそんな体力があったのか? 

 わたしは猫の尻尾を掴み、引っ張ってから地面に叩きつける。そしてそこに踵を強く振り下ろしてから、言った。

 「楽しいかどうかってことと、あんたを逃がすかどうかっていうのは、別だよね」

 背骨を折るつもりでぐりぐりと力を籠めると、猫は悲鳴をあげてから激しく痙攣し、のたうち回りながらやがて絶命した。

 猫の死骸を手提げ袋に詰め込みなおし、用意しておいた雑巾で床を掃除しながら、わたしは思った。

 何かが起きている。

 わたしの中で。

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