第26話

 朝一番に一年生の教室に向かったわたしは、れもんから聞いていた松本千鶴代の人相と一致する女生徒を真っ先に見つけ出す。

 「おはよう松本さん」

 声をかける。松本は二年生の腕章を付けたわたしに怪訝そうな視線を向ける。

 「誰ですか?」

 「この背中の痣が誰のか分かる?」

 そう言ってわたしはスマートホンを取り出して昨日撮影したれもんの背中の写真を見せる。

 松本は写真とわたしの顔との間で視線を行き来させる。昨日自分が蹴ったのと同じくらいの場所に痣の或る背中と、姉妹故それなりにれもんに似た容姿を持つわたしの顔とを見て、人並の敏さを持つ松本はわたしの正体に気付いたようだ。

 「神園……れもんの姉ちゃんかなんか?」

 「そう。ところでこの写真、警察に持ってったらどうなると思う?」低い声が出た。「れもんはわたしの言うこと何でも聞くよ。病院には今日行かせるつもり。診断書貰うから。あんたの態度次第じゃ被害届とか出しちゃおうかなって」 

 虚勢って訳じゃないんだろう。堂々とした態度で松本はこちらを睨みつけている。状況不利なのは分かっているけど無暗に怯えて屈従する必要はないと分かっているらしい。アタマは良い、でも利口な訳じゃない。そのアタマの良さをちゃんと使えるなら痣ができる程他人の背中を蹴ったりしない。

 「退学になりたくなかったら付いて来て」

 そう言って黙って教室を出ると、松本はむすっとした顔をして付いてくる。

 そうそう。あんたはこっちの出方伺うしかないんだよ。こっちにどういう準備があってどれだけする気があるのかまずは探るしかないんだよ。

 わたしはれもんがリンチされたのと同じ女子トイレに松本を連れて行く。わたしは奥の個室に先に入って松本にも来るように促す。

 松本の表情に安堵が浮かぶ。こちらの人数が一人であることと、トイレでのリンチをやり返すという高校生的な復讐で済ませる気があることが分かってほっとしたのだろう。

 気を緩ませた表情で個室に入って来た松本のみぞおちに、わたしは力一杯自分の膝を叩き込んだ。

 松本が信じがたいと言う顔でその場で蹲る。

 こいつが本当に度胸のある人間だったらわたしに殴り合いを挑んでくる可能性もあった。こちらとしては端からそのつもりで先制攻撃を仕掛けた訳だが。何の話もせず何の予兆も無しにいきなり繰り出される膝蹴りに対応するのは容易ではない。簡単に決着がついた。

 「トイレに呼び出された時点で、頭の中をもっと暴力に対応できる状態にしておくべきだったね」言って、わたしは混乱した様子で蹲る松本の腹を全力で蹴っ飛ばす。「こっちだって何も賭けない訳にはいかないしさぁあ? もっと泥臭い喧嘩になる覚悟はしてたのに、あっけなかったね」

 わたしは繰り返し繰り返し全力で松本の腹を蹴っ飛ばし続ける。本気の苦痛を与えるなら腹だ。痛いだけでなく身動きが取れなくなるのだ。れもんの背中に刻まれたのと同じくらいに深刻な痣を、こいつの腹に少なくとも十数個は刻み込んでやる。

 「徒党を組んで弱い者イジメするしか能がない時点で底は知れてたかもしれないね。こんなくだらない奴にれもんがいじめられてたっていうのも、腹の立つ話じゃあるけどさ」

 蹴りつけた自分の脚に鈍い衝撃を感じる度、松本は力なく身を捩る。子供に木の枝で叩きのめされる芋虫と同じくらいには、みっともなくみじめな抵抗だ。こっちの息が上がるほど繰り返し繰り返し蹴りつけていると、松本は痛がる力も失って同じ重さの置物のような反応しか寄越さなくなる。

 女の子だって別に喧嘩をしない訳じゃない。むしろ暴力を振るうことに対する覚悟みたいなものは二つある性別の中でも強い方だと思う。わたし達は血に怯えないし傷に怯えないし相手の痛みに怯まない。いつも猫にしているのと同じことを人間相手にできる自信もある。鉄串で尻から喉までを文字通り串刺しを、表情一つ変えないままで。まあそれはわたしだけかも知れないけどさ。

 「すいませんでした……セン……パイ」二十三発目の蹴りをお見舞いして疲れたわたしが膝を畳んで息を吐いていると、松本はそんなことを言って詫びを入れて来た。「もう……妹さんにちょっかい出しません……。舐めてました……すいません」

 表情には媚びと怯えが滲んでいる。こっちの息が上がってるのを見て、ここらで許してもらおうっていう魂胆なんだろう。実際、高校生同士の小競り合いとしてなら落としどころはもう過ぎている。

 でもどうしよう? こういうのは報復する気も起らないくらい徹底的にやるべきっていうのは世の常識と言って良い。後からこいつが自分の仲間と徒党を組んでわたしに歯向かってきた場合、一人では対応しきれなくなる。

 そりゃわたしにだって喧嘩ができるタイプの友達はいる。わたしのことを大親友だと思っているような類の人間も。でもその子達に貸しを作るような面倒は出来たら避けたい。れもんのストレスを素早く取り除く為にも、今この場で松本の心を圧し折るべきなのだ。生意気な奴は許してあげられる。愚かな奴は優しく包み込んであげられる。でもはっきりと敵対して来る相手に容赦するのは得策ではない。

 「済まさないよ。こんなもんじゃ」

 わたしは松本の腹をさらに十発蹴って身動きを取れなくすると、隣の男子トイレの便器から水をバケツに汲んできて松本の前に置いた。生徒に掃除させている程度の衛生状態の男子トイレの水は、淀んだ色をしていてつんとした不快な臭いがする。

 「これ全部飲んだら許してあげる」わたしはそう言って松本の髪の毛をひん掴んだ。「まあ嫌だって言っても飲ませるんだけど。そのバケツの中に顔を突っ込んで何分でも十何分でも息を止めさせてあげる。その水を全部飲み干して空にするまで、ずーっと」

 松本の表情に絶望が浮かぶ。

 わたしは自分の言ったとおりに松本の顔をバケツの中に顔を突っ込んでやる。松本はみじめにもがき始めるが、後ろから羽交い絞めにして離さない。

 「これに懲りたらもう二度といじめなんてしないでね。クラスメイトにもちゃんと辞めさせるんだよ。れもんに降り注ぐ苦しみは例えそれが何であれ十倍になってあなたに返って来ると思って。あなた自身が与える者はもちろん、あなたのお友達からのものもね。今度わたしを怒らせたら、自分の目玉を抉って食べてもらうから」


 〇


 「どうだったれいちゃん?」下校時間、校門の前でわたしは優しいお姉ちゃんの顔でれもんを待ち受けた。「大丈夫だった? もういじめられなかった?」

 「……え、ええ。大丈夫でした」れもんは阿るような怯えるような複雑な表情を浮かべてわたしに近づいた。「その……姉さん、松本さんのことをやっつけたんですか? 姉さんにトイレに連れて行かれて、そのまま泣きながら早退したって……」

 「そうなんだよ。うんと叱りつけてやった。それでもまだ心配で……。いじめられなかったなら良かった」わたしはれもんに抱き着いて頭を撫でる。「いつだってお姉ちゃんが付いてるからね」

 幼少期気の弱いれもんはいじめられ体質で、泣いてばかりいた為にそれを守る為かつてのわたしはわんぱく少女だった。男子にだって喧嘩を挑み、負けることも多かったけれど、生傷を作りながら最後の最後まで膝を折らずに妹を庇護し続けた。たびたび神童扱いを受けるれもんに平凡なわたしが気後れしないで済むのは、その頃培った姉としての誇りがあるからでもある。

 しかしこんな校門の前なんかで正面から抱き着いたりしたら、羞恥心の強いこの子は嫌がるだろうか……なんて思っていると、れもんの肩が震えているのが分かった。

 れもんがこちらにしがみ付いて泣いている。プルプル震えながらわたしの胸に顔を押し付けて嗚咽している。

 わたしは全身を突き抜けるような愛情を覚えながられもんの身体を強く抱き替える。

 「もう大丈夫」れもんの身体は柔らかい。「何かあったらまたわたしに言うんだよ」

 こくこくと頷いているれもんのつむじの大きさは十六歳という年齢相応だけれど、その体温の儚さは小さな頃とまったく同じで、わたしは心臓を優しく絞られるような幸福感を覚えていた。

 この悦びは多分、弟妹のいる人間にしか分からない。

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