第25話
「先湯船使っててください」と言われたので遠慮なくお湯に浸かる。家のお風呂は広いし、わたしもれもんも掃除は得意なのでピカピカとしていてとても居心地が良い。
「ああそうだ姉さん。報告したいことが」
れもんはお風呂場の椅子に腰かけたまま何をするでもなく話しかけて来る。
「どうしたのれいちゃん」
「晶子さんとのこと、解決しました」
……解決?「それは良かったね。えっと、仲直りできたって意味?」
「ええまあ。結論から言えば、私の一方的な誤解だったようで」
「誤解?」
「晶子さんは猫の写真を撮ってはいましたが、それはおもしろ半分ではなかったようです」
あの昼休みの痕、麻原晶子は自分かられもんのところに出向いて無視されている訳を尋ねたらしい。そこでれもんはわたしからの説得を少しは思い出してくれたようで、自分が晶子に幻滅した訳を昏々と言い聞かせるように話したらしい。
しかし晶子が死骸の写真を撮っていたのには理由があった。
「晶子さんのお家はお金持ちでお手伝いさんがいるくらいなのですが、お母様が猫アレルギーだそうで家の中で猫は飼えないんだとか。そこで一年くらいずっと庭に遊びに来る野良猫を可愛がっていたそうなのですが、それが『ハルマゲドンかに玉』に殺害されてしまったようなんです」
「……そうだったんだね」
「正式な飼い主ではない晶子さんでは、警察に被害届を出すこともできません。しかし何もしないでいるというのも晶子さんにとって耐えられることではなく……お家に頼んで探偵を雇ってもらったんですね」
わたしは息を呑みこんだ。なんだか、話が繋がって来たような気がする。
さっき公園で遭遇した端正な顔立ちをした私立探偵のことを思い出す。姫島道太郎。老獪な振る舞いと、それに似合わぬあどけない顔立ちをしたあの不思議な青年を。
「ハルマゲドンが残して行った猫の死骸と犯行声明を見て、晶子さんはその状況を撮影して手がかりとして探偵に見せるべきだと考えたそうで。それで写真を撮ったということのようなんです。ちゃんと納得のいく理由があったと言うことで、私の方から早合点したことを深く謝罪しました」
「それで、仲直り出来た訳なんだね。良かったよ」
「はい。……姉さんの言う通り、もっと早く、きちんと話をしておくべきだったかもしれません」言いながら、れもんは報告は済んだとばかりに頭を洗い始めた。
れもんはアタマを洗う時目と口を閉じる。頭の洗い方を教わったその日から、克服することをどうやら諦めてしまったらしい欠点だ。会話が途切れたので、わたしは自分の手の甲にある猫の引っかき傷をじっと見つめていた。
すぐにお風呂に入るだろうと思ったので、抗生剤だけ付けてもらって絆創膏は張らずにいたのだ。最近のがだいたい水に強く作ってあると言っても、絆創膏を付けたままお風呂に入るという行いをわたしは好きではない。姫島道太郎と名乗る探偵はわたしのこの傷跡に嫌な視線を注いでいたが……怪しまれているというのは考えすぎだろうか?
わたしは嘘や隠し事が苦手な方ではない。むしろどんな状況でもかなり堂々と振る舞える方だ。あの時だって気取られるような態度や表情をしたつもりはないし、こちらから探りを入れた台詞にしたって、犯人でなくても十分に口にし得る内容ばかりだったはずだ。
そうとも。わたしは息を吐きだす。悪戯に悲観的になることに意味なんてないし、元々警察なんかに追われる身には違いないのだ。私立探偵とやらが追手に加わったところで大差はない。これまで通り用心して置けばそれで問題ないはず。むしろ探偵の存在に気付けたことは、こちらに有利なことのはず……。
なんて考えて安心して油断してたのが良くなかったのだろう。
「ちょっと姉さん。何やってんですか?」
ぎくっと表情を引きつらせてわたしはれもんの方を見た。れもんも同じように顔を引きつらせている。
わたしは湯船に浸かりながらつい自分の膣の中を洗ってしまう悪癖がある。もちろん湯船を共有する人にとって嬉しいことではないので人前ではやらないようにしていたが、最近はれもんともあまり入浴を共にしていなかったのでつい油断していた。
「何マンコ洗ってんですか?」れもんは本気でキレそうな顔をしている。
「ごめんれいちゃんつい魔がさして」わたしは両手を擦り合わせてえへえへ謝る。
「魔がさしたって……。いやその自然な手つきから考えて姉さん普段からそれやってません?」
「逆にれいちゃんはこれやらんの?」
「湯船でやる訳ないでしょう? 汚いしみっともない。ちょっとは他人の迷惑考えてください」
「何さ何さ!」妹に叱られて悔しかったわたしは顔を赤くして指を突きつけた。「昔はその流しからおしっこしてたくせに良く言うよ!」
桶で殴られた。
二人っきりになるとちょっと乱暴だよねこの子。わたしが怒んないからだろうけど。こういう甘え方なのは知ってるけど桶は痛い割とマジで痛い。わたしが頭を抱えて目に涙を溜めていると、れもんは唇を尖らせたままボディタオルにボディソープを馴染ませ始める。桶で殴っておいてまだちょっと怒ってる。しょうがないっちゃしょうがないけど。
「ごめんってれいちゃん。背中洗ったげるから許してよー」
なんて言いながらわたしは湯船から出た。仲良く振る舞うことで相手の怒りを有耶無耶にしようという作戦である。れもんは表情を険しくしたままどこか投げやりに「じゃあお願いします」とボディタオルを渡して来た。
れもんはわたしと比べて小柄で色白で体格もかなり痩せている。その背中はすべすべとしてそれでいて柔っこくてとても綺麗なのだ。
丸っこくて華奢な肩とかくっきりしたくびれとか背骨の凹凸とかを眺めていると、妹も随分娘盛りになって来たよねと素直に思う。亀太郎や黒鈴を見ていると、別に今が一番綺麗な年頃って訳じゃないんだろうけど、これからもっと綺麗になるならそれはそれで楽しみだ。れもんのことも、自分自身のことも。
「……? 洗わないんですか?」
手が止まっていた。わたしは「ごめーん」と言ってれもんの背中を洗いにかかる。
背骨のあたりに赤黒い痣があるのに気が付いた。
お風呂場特有の湯気の所為で今まで気付かなかったけど、結構大きいし深刻な痣だ。それも多分ごく最近にできたもの。背中のこんな位置、ただ転んだとか打ち付けただけでこんな風には滅多にならない。
「れいちゃんこれどうしたの?」
反射的に訊く。自分の声が少し震えていたのが分かる。れもんはこともなげな口調で「背中の痣のことですか?」と問うてきた。
「そうだよ。かなり酷いよこれ。痛いんじゃなぁい?」
「まあ多少は。でもちょっと打っただけですよ?」と言って、れもんは一瞬言い訳を考えるような間を置いてから「ちょっと後ろ向きに転んで、その時に、その……」
下手くそな作り話に興味はない。
「れいちゃんちょっと立って」
「は? どうして」
「良いからさ、立ってみて欲しいの。お願い」
れもんは怪訝そうに言う通りにする。わたしは背を向けたれもんに対して自分の右足を振り上げてみる。相手を蹴りつける動作をゆっくりと行ってみると、つま先がちょんとれもんの痣に触れた。
「ちょっと姉さん……何をふざけて」
「誰かに蹴られたらこの位置だよね」わたしは脚を降ろして言う。
「……たまたまじゃないですか?」
「あなたが誰かに背中を蹴っ飛ばされたことに、わたしが気付いちゃったってことは分かるでしょう? このまま白を切られる方が、わたしにとって心配でつらいことなんじゃなぁい?」
「…………」
「ねぇれもん。言いなよ」
自分から入浴に誘って来て置いて本気で隠す気がある訳がないのだ。深層心理的には気付いて欲しいくらいに思っているに違いない。土壇場で言いにくくなって白を切っているのか、反射的に隠そうとするパフォーマンスをしているのか分からないが、いずれにしてもいつか聞き出すことになるなら今言わせた方が良い。
「……クラスメイトに蹴られたんです」
れもんは言った。
全身の筋肉がきりりと引き締まる。自分の眉間に皺ったのにわたしは気付く。
アタマに来た。
「なんて子?」低い声が出る。
「松本千鶴代って子です。クラスでは派手な部類の子で……。あと何人か……」
「何人か? 囲まれてリンチされたとか?」
「ええまあ。トイレで」
いじめか? れもんみたいな大人しくて物静かな子をわざわざいじめるだなんて卑劣な連中だ。卑劣だしバカだ。いくら他人に言い出せないタイプの子を狙ったって、服に隠れている個所を狙ったって、痣が残る程蹴ってしまったらバレる確率は十分すぎる程あるっていうのに。
「もともと細かい嫌がらせはあったんですよ」れもんは溜息を吐く。「持ち物隠すとか壊すとか陰口とか紙の礫とか。無視するようにしてましたしこれからも無視しますけど、でも大っぴらにリンチを受けたのは今回が初めてです」
「れいちゃん学年一位だもんね。僻まれてたんじゃない?」
「私の態度も悪かったんじゃないですか? 姉さんだって、それだけ綺麗で成績も良いですけど、必要なら道化染みた真似ができるから他人に嫌われないでしょう? 滅多に表に出さないだけで無茶苦茶気が強いですし……。でも私はどちらかというとシャイで、その癖自分で言うのも難ですがむすっとしてますから、きっと鼻持ちならないんでしょう」
自己分析ができている。れもんは取り澄ました振る舞いをしたがるところがあって、お利口な自分と比べて周りがバカに見えるのを無理には隠すことをしない。わたしに対する生意気な態度も別に姉に対して甘えているっていうだけじゃなく、割と誰に対してもあんな風に正直なのだ。おまけに可愛くって優等生なのだからそりゃ鼻に付く。
だが何より良くないのは人間関係を軽視し過ぎることだ。自己研鑽の努力を無心で続けれていれば生きて行くのに足りると信じているその高慢さがいけない。友達とか仲間とかそういう概念を悪戯に高尚に考えているその妙な純真さがいけない。心を開けて信頼できて、尊敬に値する相手としか仲良くなるべきではないと言う、その甘えた認識が間違いなのだ。どんなにくだらない人間でも敵に回す理由がないなら付き合いはしておくべきなのだ。本当に汚いケツの穴を舐めたくないのなら。
リンチを受けたのだって、晶子を自分で遠ざけた所為で、なけなしの防波堤を失っていたからだ。それだけお利口な頭を持っていてそうなることが分からないくらいに、れもんは他人を舐めている。だからいじめられるのだって初めてじゃない。
でもわたしはそんなれもんの最大の味方だ。
「一人で頑張ってたんだね。偉いよ。でももう大丈夫お姉ちゃんが気付いたから。安心して」
「……どういうことですか?」
「無視できてたならそれはれいちゃんが偉いけど、でもね相手が飽きるまで我慢しなくちゃいけない理由なんかないから。それに大勢から攻撃されて完全に無視するなんて普通は無理だから。ちゃんと回りを頼った方が良い。あなたに落ち度は一つもないのだから声を出せれば助けてもらえる。わたしが助ける」
「助けるって……」
「明日学校休める?」
「……無理ですね。遅れて行くくらいはできるかもしれませんが……」
「分かった。じゃあ、朝一番で話を付けておくから」
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