ハルマゲドンかに玉編

第20話

 どんなに強い愛情を持って大切に庇護していたものであっても、いつだって奪われうるし八つ裂きにされてしまいうる。自分は絶対にこの子を守るし、誰にも傷付けさせないといくら誓ったところで、世界はどんな抵抗も許さずにその誓いごと大切な物を粉々に打ち砕いてしまうのだ。


 小学校四年生の時、わたしは夕暮れの街の中でれもんを探していた。

 れもんっていうのはわたしの一つ年下の妹で、門限の六時を回っても家に戻らなかったので心配になったのだ。もしも母親よりもれもんが遅く帰宅するようなことがあれば、れもんは酷く叱られてしまう。何か理由があって家に帰れなくなっているのなら、すぐに駆け付けてその理由を取り除き、連れ帰ってあげなくてはならなかった。

 何軒かの遊び場を回るとれもんは見つかって、真っ白い猫を抱いて公園の土管の中で泣いていた。

 「大丈夫?」

 れもんは顔をあげてわたしを縋るように見詰める。

 猫と一緒に身体を丸めて狭い土管の中で小さくなっているれもんの姿を見るに、その猫に対して強い愛情を抱かされてしまっているのは簡単に察せられた。

 「その猫、気にいったの?」

 れもんは目に涙を溜めて小さく頷いた。

 庇護することのできる小さき者に対し強い執着心を植え付けられることは誰にだって起こりうる。捨て犬や捨て猫の類に心奪われる子供は珍しくないしその幼い魂に何一つ罪はない。

 しかし困った。れもんはこの猫に愛着するあまり、全身で抱き締めて庇護しながら土管の中に隠れ潜んでしまっている。れもんは良い子で今まで門限破りなどしたことがないのに、帳が降りようとしている空の下で家に帰ろうとする様子を全く見せない。この猫を取り上げられない為なら今のれもんはなんだってしてしまうだろう。

 白猫は小さな子猫で子供のれもんとお似合いだった。れもんに馴れた様子でちろちろと小さな舌を出して手の甲を舐っている。土管の中にすっぽりと納まった小さなれもんの小さな胸の中で、心を許した様子で丸めた身体を押し付けている白猫の姿に、わたしの心はあっけない程簡単にノックアウトされてしまった。

 「その子、連れて帰ろう」

 わたしが言うと、れもんは驚いた様子で目を大きくした。

 「勝手に動物連れて帰ったらママに怒られちゃうでしょ?」

 「うん。でもお姉ちゃんが連れて帰ったことにしてあげる。それでわたしが代わりに説得する。ウチは大きいし多分猫の一匹くらい飼えるでしょう?」

 れもんは土管を飛び出して救世主を見るようにわたしを見詰めて、そして猫と一緒にわたしの胸の中に飛び込んで来た。ひんやりとした土管の中の空気を纏ったれもんは抱きしめると心地が良くて、わたしは良きお姉ちゃんとして振る舞えている自分を誇らしく感じた。

 白猫を抱いてれもんと一緒に家に帰る。もうママは帰って来ていて、わたしの抱いている白猫に睨むような視線を送った。

 「帰るのが遅れてごめんなさい、ママ」わたしはまずは謝って頭を下げた。「相談したいことがあるの。この白猫なんだけど……」

 ママの手の平がわたしの頬を激しくひっぱたいた。

 「自分のしていることが分かっているの?」

 当時のママの身長はその時のわたしと比べて数値としてどのくらい高かったのだろう? 首を限界まで傾けなければその顎先も捉えられないような位置にあったことだけは、良く覚えている。

 すっかり鼻白んでいたわたしの髪の毛を掴んで、ママは庭の方へ向かった。何か騒いでいるれもんに「中で反省してなさい」と冷たく告げると、庭のベンチにわたしを座らせてママはこう告げた。

 「あなたの所為でこの猫は死ぬことになる」

 どうして? わたしは意味が分からない。

 「今から私が言うことを、今のあなたは全ては理解できない。あなたはとても悲しむし傷付くし、理不尽に感じるし、怒りや憎しみを私に向けるでしょうけれども、でも今はそれで構わないわ。ただ、ここで私がどうしたか、何をやらせたか、それをしっかり覚えておいて、少しずつその意味を理解してくれればそれで良い」

 ママの剣幕にわたしの腕の中の子猫が身を固くした。でもそこでするりと腕を抜け出して逃げ出さなかったのは、それ以上に怯えたわたしが子猫を固く抱きしめていたからだ。自らを庇護しようとする存在から、生物は簡単には離れない。たとえそれがどんなに脆弱な庇護であったとしてもだ。

 「猫というのは害獣で、本来人間の街にいて良いものじゃないの。本当のことを言うなら、見つけ次第保健所に連絡して、ガス室で処分してもらわなくっちゃいけないものなの。でも実際にはいちいちそこまでする人はいないし、そこまでの責任もない。通常ならね。でもあなたはその猫を自分の腕に抱いて家にまで連れて帰ってしまった。責任が生じている。それを野に放ちなおすことは、道義的にもおかしいことなのよ」

 そう言ってママはわたしと子猫を車に乗せて保健所まで向かった。ガス室がどういうところなのかこの猫がこれからどういう目に合うのか説明されて、わたしは泣きじゃくりながら猫の助命を乞うた。

 「あなたの所為なの」ママはわたしの声に耳を傾けず、繰り返しそう突きつけた。「生き物に責任を持つというのはこういうことなの。責任を持てない人間が、中途半端な力で生き物を庇護しようとしても、結局はその生き物を不幸にすることになる。あなたはそういう経験をするべきだし、それはあなたの為になるのよ」

 そうして白猫は他の無数の犬猫とごっちゃにされてぎゅうぎゅう詰めのガス室に送られ、じわじわと充満する死の空気にゆっくりと蝕まれ汚物をまき散らしながら死んでいった。実際にその白猫の最後を見た訳ではないけれど、保健所の犬猫がどういう風に死ぬのか後から繰り返し繰り返し調べたわたしには、それは鮮明にイメージすることができる。

 保健所の職員に猫を奪われて帰宅したわたしを、れもんは目を真っ赤にして待ち受けた。震える声で顛末を説明するわたしを、幼いれもんは泣きじゃくりながら責め立てた。

 ……お姉ちゃんの所為で子猫は死んだんだ。

 もちろん否定はしない。責めたれもんに文句を言ったりもしない。


 あれから時間がたって、わたしは十七歳になり、当時の母親がわたしと子猫に施したことの意味を繰り返し考える。

 けれど、あの時の経験が今のわたしにどんな成長をもたらしたのか、それは今一つ理解できないままでいる。

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