第16話

 連絡をすると亀太郎は清く俺のことを家に招いてくれた。

 「おひさしぶりです、こんばんはぁ」パジャマ着てナイトキャップ被った姿で亀太郎は俺を出迎える。彼女はいつものようにニコニコしていた。「いやぁ、最近CKくんと会えてなかったから、ひさしぶりに楽しいですねぇ」

 夜の九時である。沢村とテキトウにはしゃいで家でちょっと酔いを醒ますとそんな時間。数日ぶりに見る亀太郎の姿はとてもつややかだった。肌は白くてとても綺麗な笑い方をする。上品に洗練されているようでもあり、少女のように屈託なく微笑んでもいる。そんな笑み。

 いつものように例のコレクションルームに案内され、しばらくするとコーヒーサーバーを持った亀太郎がやって来る。

 「CKくん、コーヒー好きですよね」

 「ええまあ」豆の種類はほとんど言えないが、ディスカウントストアで缶コーヒーケース買いする程度にはカフェイン中毒だ。

 「本当はわたし、カフェイン入ってるのあんまり飲んじゃいけないんですけどねぇ」亀太郎はニコニコしながらサーバーからカップにコーヒーを移す。「でも今夜はCKくんいますし、良い豆もあるので久々に飲んじゃいます。わたしけっこーコーヒー詳しいんです。違いの分かる女なのです」

 「そりゃすごい」俺は笑った。

 「それでCKくん、お話ってなんですか?」亀太郎は頬に手を当てて言う。「夜にこうやってお話するのってわくわくしますよね、何か秘密のお話ですか?」

 「いやその、実は……」俺は首を捻って、どう切り出すかを悩みつつ、言った。「俺、もしかしたら黒ムツやめるかも」

 亀太郎の表情が笑顔のまま固まって、サーバーを傾けたままカップからコーヒーがあふれ出すまで停止し続いた。テーブルを伝ったコーヒーが亀太郎の足元にかかる。

 「あうぅっ!」亀太郎は熱そうにサーバーを投げ出した。「熱い、熱いよぅ」苦しそうにパジャマのズボンを脱いでむき出しの白い足にふーふー息を吐きかけてる。元医大生の癖に大した応急処置だ。

 「なにやってんすか」俺はコーヒーサーバーを起こしてタオルと氷を取りに部屋を出た。

 亀太郎の火傷を手当てしてやり机を拭く。亀太郎はふうと息を吐いてソファに座り直す。

 「……どうしたんですか? なんでそんなこと言うんですか? わたし寂しいですCKくん黒ムツじゃなくなるの。わたしとお友達じゃなくなるの寂しいです」

 「やめる『かも』知れないって話ですよ。やめたとしても俺らの交流が無くなる訳じゃありませんし……」言いながら、俺はどうだろうなと思っている。この動物のペニスが脳みその大半を占めている動物密売人との交流を絶たないことには、黒ムツを卒業するというのは空論かもしれない。

 「なにかあったんですか?」亀太郎はコーヒーサーバーを持って立ち上がる。「ちょっとこのコーヒー淹れ方おかしいみたいなので淹れ直してきます。そしたらお話ししてくださいね」

 「分かりました」俺は言う。「あと、万に一つあり得るから言いますけど、ちゃんとズボンははいて来てくださいね。絶対に」何がとは言わないがピンクだった。尻は小さくて形ははっきりしていて脚は白くて華奢。亀太郎は少し恥ずかしそうにして部屋を出て行った。

 話をまとめる時間をくれたのかなぁ、とか考える。俺はどういう順序で話をしてどんな風に亀太郎から真実を聞き出すか、検討しながら彼女の到着を待った。

 本当に亀太郎が西浦姉妹と高垣を憎しみ合わせたと思っている訳ではない。ただ沢村はアタマの良い奴だ。そのあいつが『自分の中では結論が出た』とまで言ったのだから、俺の中にも疑念が生まれる。それを払拭しないことには、心の整理が付きそうになかった。

 「淹れ直しましたよぉ」亀太郎は言って、コーヒーサーバーとカップを盆にのせてやって来た。カップには既に湯気の立つ液体が入っていた。そして下半身は相変わらずむき出しだった。

 「ズボン履くの忘れてます」

 「あ、うっかりしました」えへへ、と亀太郎は笑ってカップを俺の前に置く。「ごめんなさいわたし二つのこといっぺんにできないんです。コーヒー淹れようって思ったらそれしか頭になくなっちゃって……。あ、でも濡れたお洋服洗濯籠に入れるところまではやったんですよ本当ですよ?」

 「頼んますから早く履いて来てください」

 亀太郎はおとなしくズボン履いて戻って来た。「それで、どうして黒ムツをやめようなんて?」

 俺はコーヒーを一口呑んだ。上手に淹れてあることはなんとなく分かる。とても澄んでいて、ものすごく濃厚でもあり、同時に、その奥に何かコーヒーが持つもの以外の不思議な苦みも感じた。

 俺は自分が経験したことを一つずつ順番に話していく。西浦姉妹との関係と、彼女らと高垣とのトラブル。最後に紫子が高垣に突き飛ばされて死んだこと、緑子が後を追ったこと。さらには、喫茶店で高垣から亀太郎の過去について聞いたことまで話した。

 「……そうでしたか」亀太郎は少し暗い顔をした。「それなら、わたしはその女の子達には酷いことをしたんですね。わたしも色々殺してますし、今更ではあるんですけど」

 「トマトが死んだ件は、あいつらの猫って分かってて差し出した俺が悪いんで、亀太郎さんが気に病むことじゃないですよ。亀太郎さんはいつものように動物のちんちん収集したってだけです」

 「それはそうですけど」

 「後はその、すんません。亀太郎さんの昔のこと、勝手に知っちゃって」

 「いえいえそんな」亀太郎は両手を晒して同時に左右に振る。「あえて話すようなことじゃないかなぁって思ってるだけで、知られたくないとかそういうんじゃないですから、気にしないでください」

 「俺と高垣さんがその話してたの、亀太郎さん、聞いてました?」

 「その……実は」亀太郎はどういう訳か少し恥ずかしそうな顔をした。「だから、その、お声かけしづらかったんですよね。あそこで出てったら、高垣くん多分悲鳴あげちゃうかなって。わたしのこと怖がってたっぽいですし……」

 「酷い人っすよねぇ」俺は話を誘導する。「亀太郎さんを騙して酷いことするために連れて来て、それを黙ってるなんて」

 「…………そうですね」亀太郎はその一瞬、表情を消した。だがすぐに笑顔になる。「でも、とてもつらくて怖い目にあいましたけど、今わたし、それなりに楽しいです。たまにフラッシュバックとかしますし、昔よりちょっとばかになりましたけど、今はもうこんな風に男の人と二人で会うのも平気です。とても楽しいことも見つけましたし、CKくん達お友達もいます。幸せです」

 両手を握りしめて言う亀太郎はとても純粋で無邪気に見える。輪姦というのはおそらく地獄の苦しみだ。弄ばれ人格を踏みにじられるショックはどれほどか、抑え込まれなぶり者にされる痛みはどれほどか、生命すら保証されない時間が延々と続く恐怖はどれほどか……。それを経験した上で、『今は楽しいから構わない』なんて心から言えるものなのだろうか?

 品行方正なことを口にしているようで、本心から言っているようでもある。そんな言葉だ。この人は嘘がつけないか、或いは究極的に嘘が上手い。それを判別する糸口がどこにも見付からないところが、沢村の言う『得体の知れない人に見える』ということなのだろうか?

 「亀太郎さんふぁ……」俺は自分の呂律が回っていないのを自覚して、言い直す。「亀太郎さん、は、高垣になんか仕返ししようとか、そういう、気持ちって、あるんすか?」

 「高垣くんはもう刑務所の中です。これ以上いじめるのはかわいそうです」亀太郎はにっこりと言った。

 「そうです、か。あの、沢村、が、言ってたんですけど……」なんだかアタマがぼうっとして来た。おかしい。「あの、高垣が、紫子を殺したの、って。あの、トラブル、って。裏で誰か糸を、ひいて、る、かもって」

 酔いは醒ましてきたはずだ。なのに奇妙な浮遊感がある。水の中を自由に漂っているような。それでいて息苦しさはなくむしろ胸の中が限りなくすっきりしている。幼い頃雲の上に寝ることを想像したことがあるがあれに近い。蛍光灯の白く蒼い光が妙に強く近く感じる。まるで太陽が頭上まで降りて来たみたいな感じ。どこかから美しい音楽が聞こえて来る。

 なんだっけ? 俺は考えがまとめられなくなる。何か大切なことを聞きに来た気がするけれど思い出せない。何か快適な酩酊感があって、今はこれに身を任せることだけに集中したかった。

 「はい。糸をひいたのはわたしです」亀太郎は笑った。何を言っているのか聞き取れたけど、それが何を意味するのか、何かを意味するのかその時の俺にはもう良く分かっていなかった。「だって、酷いんですもん高垣くん。わたし、ずっと信じてたんですよ。ずっとずっと、高垣くんはわたしと同じ被害者だって、信じてたんですよ? それなのに、それなのにそれなのに……」

 亀太郎はすべらかな手で俺の頬を包み込むように撫でた。なんだか憂うような表情をしていた。

 「だから復讐しました。と言っても刑務所から出た主犯の男にしたようなことはしません。そこまではしません。トラブルを煽ったり生活を邪魔するくらいの、低能な嫌がらせでした。それがああいう結果になりました。復讐という意味なら成功なんです。でも女の子達には、CKくんには、酷いことをしました。ごめんなさい、ごめんなさい。こんな風にしか懺悔できなくてごめんなさい」

 亀太郎は俺の頬に唇を押し当てる。ほのかに湿っていてとても柔らかかった。

 「お薬効いてますね。何も分からないでしょうね。でもとても幸せな気分のはずです。酷いことしたお詫びです。気持ちいいでしょう? ものすごく気持ちいいでしょう? そのまま忘れてください、つらいことも苦しいことも、黒ムツをやめるなんて言ったことも……」

 俺はだらんと口を開けて全身の力を抜いてなすがままだ。亀太郎はほほ笑んで俺の髪を払い、今度はおでこに唇を当てる。とても気持ちがいい。

 「あは。CKくん。本当に女の子みたいなお顔をしてますよね」亀太郎は頬を赤らめる。「かわいいです。すごくすごくかわいいです。男の人じゃないみたい」亀太郎は己の股間に手を添える。「お人形みたい。なんだかいけちゃいそうな気がしてきましたよ」

 亀太郎はパジャマのボタンに手をかける。真っ白な肌が露わになるのを俺は見つめていた。

 「あ、動かないでくださいね?」亀太郎は真っ赤な顔でほほ笑んで、俺の身体に手をかける。服のボタンが外れていく。「なされるがままでいてください。でないとわたし多分だめなので。怖くなってしまうので。麻酔した動物みたいに、じっとしててください。これは儀式です、わたしが失ったものを取り戻す為の……」

 福音が聞こえて来た。俺の感じられる世界は脳という器の中にだけあって、それがとろけてしまったとたん、この世界は脆く崩れてしまう。ただ女神に抱擁されながら天国の音を聞き続けることだけが俺の世界にはあった。

 音と光に包まれながら、おぼろげに思考が戻って来る瞬間がある。自分が何者で世界が何なのか観察できる時間がある。そんな時俺の目に映るのは決まって槍を持った真っ黒な悪魔の姿だった。

 「もしできちゃったら……」笑い声が聞こえて来る。「剥製にしましょうか? 男の子が良いですね。大丈夫、きっとかわいい子が産まれますよ……」

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