第14話
「百合ちゃん?」
葬儀会場で。たいして交流のない親類たちと一緒にいるのが気まずくなり、外で一服していた俺に声をかけた奴がいた。
「あ? おまえ、どうして……」バイト先の高坊で名前は確か三島。レジ打ちの高校生の中じゃリーダー格で、要領の良い遊び人ってな印象の男。先輩の俺のことを平気で『百合ちゃん』呼ばわりして舐め腐っているので、正直いけ好かない。何故こいつがここに?
「『どうして?』はこっちっすよ。先輩、まさかユカリンの親類すか?」
「ゆ、ゆかりん? 紫子のことか」
「そっすけど」
「まあそうだけど。じゃあおまえはなんだよ? カレシか?」テキトウに言ったがもしだとすればちょっとショックかも。
「なんつーか、交際はしないけど苦労人であるユカリンを影から見守る先輩というか? 良き理解者というか? 男女の仲に発展する可能性もなきにしもあらずの関係というか? そんなノリで?」
「どんなノリだよ」
「今のスーパーの前にやってたバイトの同僚っすよ。高校も一緒なんで、多少は話すんす」ああそういう接点。「かわいいすよね、ユカリン」
「まあ、そうだな。なに? 唾付けたりしてたの?」
「いやー。なんせユカリンいつも余裕なさそうにしてますからねー? あんま遊んだりとかは、そのね、別にあしらわれてたとかじゃなくてですね、オレも空気読んでた的な?」
「そうかい」まあそうだろうな。あいつは高校じゃ結構突っ張ったキャラらしいがバイトに家事で忙しいだろうし、それに冷静に考えればこういうのは紫子のタイプじゃないだろうし。
「……センパイ」
「あんだよ?」『百合ちゃん』じゃないのか。
「なんでユカリン死んだんすか?」
「は?」俺は素っ頓狂な声を出す。
「なんか知ってんすか?」
知ってるも何も、当事者も当事者だ。三島の表情が真剣に思えたので、俺は少しだけ話すことにした。
「本人が少し短絡的だったのと、周りの大人もアホだった。あとはまあ……運だな。運が悪かった」
「…………そんなんで、ユカリンは死んだんすか?」
「脳みそがちょっと揺れたら死ぬんだよ人間なんてな」俺は溜息を吐く。「詳しいこと知りたかったらニュース見ろ。それか新聞読め」
「ユカリンのブログに、妙な書き込みがあったんですよ」三島はそこで思わぬことを言い出す。「それ、関係してるんじゃないかなって」
「は? なによそれ」
「妹さんと運営してる飼い猫ブログっすよ」
「知らないな。おまえ、それ紫子から聞いたのか」
「いえ、本名でググってツイッターとかから辿って行き付いたんですけど」
「あーやるやる」こいつマジで紫子のこと気になってたんだな。相手にされてなかったんならざまぁみろだ。「それで? なんだよその書き込みってのは?」
「『人の車を引っ掻くようなバカ猫は始末した』って」三島は嫌悪感に、少しの恐怖を滲ませて言った。「一時停止してたゆかりんのブログに書き込まれた文章なんすけどね。今は削除されてるんですけど、とにかく酷い書き込みだったんすよ。なんかグロくて。猫を捕まえて来て風呂場に沈めて、追い炊きしてジワジワ殺す様子が書いてあって……すげーリアルなんすよ」
「……ふーん」
おそらく、誰か性質の悪い黒ムツの悪戯だろうな。黒ムツの中には猫や猫飼いに対して強い嫌悪感を持っている人物もいる。猫ってのはふつうに見れば害獣だから、猫自体や猫好きに憎悪を向けるという訳だ。猫飼いのブログを荒らしたり、心を傷つけるような書き込みを行う輩もいる。そういう連中の誰かが、嫌がらせとしてトマトの悲惨な死を想起させる内容の書き込みを行ったものだろう。
「トマトちゃんは、人の車を引っ掻くようなことがあったんですか?」
「あ? ブログに書いてなかったのか?」
「いや、特にそういう話は……」
「そうか」まあ近隣の住民との間のトラブルなんて、わざわざブログに書くようなことではないかもしれない。
でもだとすれば妙な話ではある。だってトマトのことを『車を引っ掻くようなバカ猫』と表現できるのは、例のトラブルを知っている人間に限られる。順当に考えれば高垣が書き込んだということになる訳で、紫子がそう思ったのならあの激高ぶりも頷ける話だ。しかし逮捕される前の高垣の様子を思い出しても、奴がそんなことをしたように思えるだろうか?
憎しみあっていた二人の間に誤解があったとすればそこだ。しかしどうしたってその書き込みをした黒ムツは、『車を引っ掻くようなバカ猫』なんてことが書けたのだろうか?
〇
葬式から二日がたって、俺は西浦姉妹のブログを覗いていた。
紫子は止せばいいのに例の『車を引っ掻くようなバカ猫』という書き込みに対してレスポンスをしていたようだ。『トマトを殺したのはあんたか?』と追及する内容の。そのブログの中では結構な騒動になっていたようで、痕跡がまだ残っていた。
すでにそのブログの更新は途絶えている。文体から察して紫子の更新と緑子の更新は半々なのだが、緑子だって姉貴が死んでブログなんかやっていられないだろう。
紫子はアクの強い性格をしていたが緑子にとっては間違いなく良い姉貴だったと思う。いつだって妹を守り妹の為に戦おうとしていたし、それでいて妹の長点は誰よりも認めて頼りにしていた。見た目はともかく性格や得意分野の似ない双子だったが、それは二人で生きる上で自然とそういう役割分担になったのだと思う。お互いの存在が生きる前提で、どちらが欠けても成り立たないように、力の足りない子供でしかない二人はそういう風にしか生きられなかったのだ。
部屋の扉がノックもなく開け放たれて、部屋にずんずんと押し入った母親がタッパーの詰まったビニール袋を俺に差し出した。
「あんたよいきなり」
「これ、緑子ちゃんのとこ持ってってあげて?」
「あ? こんな時に差し入れかよ。だいたいさ、前から言おうと思ってたけど、緑子は飯くらい自分で用意でき……」
「こんな時だから差し入れなのよ。ずっとお姉ちゃんと一緒だったのに、ごはんも一人でしなくちゃいけないんじゃつらいでしょ。あんた、これ持ってって一緒に食べて来てやりなさい」
母親はお節介な人間だけれど、これでも緑子にとっては数少ない、彼女を想っている人間の一人ではあった。引き取って育てたり、金銭的に援助できる訳ではないにしろ。俺は仕方なくタッパーの詰まった袋を下げて西浦家へ向かった。
チャイムを鳴らす。返事がない。俺は仕方なし、ポストの裏にセロテープで張り付けてある合鍵を手に取った。紫子の方が良く鍵を失くすので、こうしているということは聞いていた。
しかしその合鍵を使う必要はなかった。鍵は開いていたのだ。怪訝に思いながら俺は中に入る。家の前には俺の原付があるから、帰って来た緑子に泥棒と勘違いされることはない。タッパーは机の上にでも置いておこうと思った。
屋内は以前までより少し散らかっていた。テーブルの上など最たるもので、ほとんど手を付けていない食事が無残に散乱するありさまだった。流し台の様子も酷く、洗濯物も詰みっぱなしだ。普段の緑子ならまず考えられないことで、姉貴の死が彼女の心に残した爪痕を感じさせた。
テーブルにタッパーを置こうとして、俺は一枚の紙きれに気付く。紙切れの傍には、三枚の一万円札が置かれていた。書置きがある。
『お兄ちゃんへ。建て替えていただいたお金をお返しします。ありがとうございました。
高垣さんと警察の方へ。お姉ちゃんは何も悪いことはしていません。
迷惑かけてごめんなさい。さようなら』
強い胸騒ぎを感じて、俺は室内を見て回る。風呂場の扉が開きっぱなしなことに気が付いた。覗き込む。そこに緑子がいた。
服を着たまま、浴槽の外で足を延ばして座っていて、片腕だけを水を張った浴槽に突っ込んでいた。既に冷たくなった浴槽の水は赤く濁っていた。足元にはカッターナイフが転がっていて、周囲には点々と赤い滴が渇いていた。
「……おい。おい、おい!」
俺は緑子の肩に手をかけた。肌からは血の色が失われていて、ぞくぞくするほど絶望的に冷たかった。頬には涙が伝ったような跡がある。目は閉じていて、薄い唇は何かをささやくように僅かに開いていた。
長い髪を垂らして目を閉じた少女の姿は綺麗だった。小さくて華奢で、あらゆる力が失われたその存在は、あまりにも純粋で静謐だった。何故こんなにも綺麗なのだろうと考えて、それが既に生きていないからだと気が付いた。
緑子は手首をカッターナイフで切ってから湯船に手を突っ込んだのだ。書き置きまで残して、手間のある確実な方法で、確信をもって緑子は自殺した。衝動的なものではないことは明らかだった。緑子は確かに姉貴のいないこの世界に絶望して命を絶ったのだ。
「……バカだろ、おまえ」
俺は言った。だが心のどこかでは、それも怪しいなと思っていた。自殺した緑子が愚かだったかと言えば正直良く分からない。生きてさえいれば楽しいことはあったはずだなどと俺には言えない。彼女の周りにはクソみたいな大人しかいなかったし、彼女にとってもっとも大切なものはろくでもない原因で失われていた。
そうでなくとももともとこの子は、誰かに依存し誰かのすぐ後ろにいなければ歩くことのできない少女だったではないか。父親がいなくなれば姉貴に、姉貴がいなくなればあろうことかこの俺に、依存しようとした。一人で生きられる程この子は強くなかったのだ。
だったら……俺の所為なのか? 縋りつこうとするこの子を俺が拒絶したから、この子はこんな選択をしたのか? だが俺なんかを頼ってこの子にいったいどんな未来があったっていうんだ? 俺なんかに何ができたっていうんだ? でも俺に何もできないならじゃあこの子はどうするべきだったんだろうか。やはり死ぬしかなかったのだろうか。それはあんまりではないのか。この子の命は、存在は、いったい何だったというのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます