第13話

 高垣はあれからしばらく泣きじゃくり、それが終わると魂の抜けた表情でただ紫子を眺めていた。放っておいたら永遠にでもそれを続けていそうな様子で、ひたすら自らが殺した少女を凝視していた。その目は現実を見ているようで何も見ていなかった。だから結局俺が警察を呼んだ。

 高垣はもちろん俺も取り調べを受けて家に帰れたのは深夜だった。今後高垣の裁判が行われる際、間違いなく証人として呼び出されることになるらしい。酷く憂鬱な気分だった。

 紫子の死体は警察の手に渡り、事件の捜査の為にいじくりまわされることになった。紫子は死んだ。十五歳で。バカみてぇな大人達に囲まれて笑っちまうくらい間抜けな死に方で、涙が出るくらいあっけなくくたばった。

 高垣も俺も、紫子の親類も、彼女の周りの大人は皆愚かだった。まともな人間が近くに一人でもいたら、彼女はあんな滑稽な死に方をしなくて済んだのだ。短気な彼女を抑え込んでやれるような人間も、無力な彼女を守ってやれるような人間も、彼女の周りにはいなかった。間違いなく紫子は不幸だった。

 そもそも、どうして高垣と紫子の争いは、あんなに激しいものになったのだろう。

 高垣は自分の車を傷つけられたことで紫子に怒っていた。職場の人間の車にも同様の悪戯をされて、退職せざるを得なくなったという憎悪をもぶつけた。俺は高垣の車について紫子に尋問をしたが、実際に彼女がそれをしたかどうかは分からなかった。

 紫子はトマトを殺されたと思い込んで高垣に怒っていた。だが実際には高垣はトマトを殺してなどいない。俺が捕まえ、180万の腕時計と引き換えに亀太郎に差し出したのだ。この件については完全に紫子の誤解である。

 いくら紫子が短絡的だからと言って思い込みが激しすぎやしないだろうか? どうしてこんな誤解が生じたっていうんだ? どうしてこんなひどい結末を迎えたというのだ?

 そんな疑問を引きずりながら、バイトも碌に手に付かず数日を過ごす。

 ようやく死体が帰って来る。通夜の日になって俺はなんとなく緑子が心配で出席する。親類たちは皆厄介ごとを嫌って緑子を腫れもの扱いするだろうから、気の弱い彼女は針の筵の気分を味わっているはずだった。罪深い俺だが、せめて様子は見ておきたい。

 緑子の様子は悲惨そのものだった。布団をかけられて寝かされている紫子の傍で正座して、ただ表情を失って姉貴の顔を覗き込んでいる。緑子の意識はそこになかった。通夜からも親戚たちからも姉貴が死んだという現実からも背を向けて、横たわる姉貴の顔を覗き込みこみながら、自身の内側にある姉貴の存在と向き合っていた。今の緑子にとって優しいのは最早それだけで、彼女の周りの大人も死んでしまった姉貴の死体も、彼女にとって何一つ優しくはなかった。

 「こら緑子。参列者の方々にきちんと挨拶をしたらどうだい?」

 俺の親父の大叔母の娘、つまり緑子の祖母がそう言って緑子を叱った。緑子は微動だにしない。そのはずだった、世間体しか考えないこの老婆の冷たい言葉が、緑子の閉じた心に届くはずがない。

 「暗い子だねぇ、本当に」老婆は溜息を吐く。

 そう思うのはあんたが緑子にきちんと接したことが一度もないからだ。冷たくあしらい支配して搾取しようとしか考えていないから緑子だって心を閉ざすんだ。緑子は確かに気弱な性質だが笑う時はとても愛らしく笑うのだ。

 「大人の男に殴りかかって、返り討ちにあったんだと?」親類の一人がささやくようにして言った。

 「生意気なガキだったからねぇ。でもバカだねぇ」自分の孫娘のことを、老婆はそんな風に言ってのけた。

 「声がでかいんじゃないのかい? そっちの子、緑子ちゃんだっけ? 聞こえちまうよ」

 「この分じゃ何も聞いちゃいないさ。あたしはね、紫子のことは最初から気に食わなかったんだ。小娘の分際で一丁前な口を聞きやがるからね。その点緑子は愚鈍で毒にも薬にもならない分扱いが楽だよ」

 「ははは。あんた息子の財産で随分良い暮らししてるもんな。まったく羨ましいよ」

 「まあね。しかしうるさい方が死んで清々したってもんだ。女だてらに喧嘩なんかやるからくたばっちまうんだ。ホント良い気味……」

 頬をひっぱたく音がした。

 聞くに堪えない会話に背を向けていた俺は弾かれたように振り向いた。緑子が表情を失ったまま立ち上がり、祖母の顔面を力いっぱい叩いている。老婆はその場で腰を抜かしてあっけにとられて緑子の方を見詰めていた。

 ふうふうと、緑子は息を吐きだした。それから「ああ」だの「うぅ」だの声にならない唸り声みたいなものを挙げて、そのまま老婆に殴りかかる。老婆は汚い悲鳴をあげた。

 俺は横から緑子の身体を羽交い絞めにしてどうにか静止する。緑子は凄まじい力で暴れていた。抑え込むのも一苦労な程に。普段の彼女からは考えられない激しい感情を発散させている。

 「お姉ちゃんを……お姉ちゃんをよくもそんな風に……そんな風に……っ!」

 老婆は憤怒を露わにして孫娘をにらみつけた。

 「この……小娘がぁ……ただで済むと……っ!」

 「あんたが悪いよ!」

 俺は叫んだ。

 「冷静になれよ! あんたこいつの姉貴のことなんて言った? 死んだ人間のことなんて言った? そりゃ怒るよ! こいつだって怒るよ、当たり前だろ、分かるだろ?」

 「……あんた、典明のとこのガキだったね? 何を生意気に……」

 「黙れよ! あんた何年生きてんだ? 大人だろ? 自分が何言ったか、こいつがどう思うか考えろよ! 頼むからいったん消えろよ、消えてくれ」

 俺が懇願するように言うと、老婆は不平不満と言った様子で取り巻きを連れてその場を立ち去っていく。慌てて、俺の母親が謝罪の言葉を口にしながら飛んできた。淡々と速足で歩く老婆に、縋りつくようにして頭を下げている。母親のそうした姿を見て、俺は泣きたいくらいの気持ちになった。

 緑子の身体からは力が抜けていた。ただ目からは涙があふれだしていた。尋常な嗚咽ではない。とめどなくあふれ出してくるような、ふつうの精神状態にないことを容易に想像させる泣きっぷりだった。

 余計な親類たちが老婆と共に消えたことは救いだった。俺は緑子を壁の傍に座らせて、自分も胡坐をかく。

 「お姉ちゃん……死んだんだよね」

 緑子は呟く。

 「……そうだな」

 「あたし、一人だもんね」

 「……クソみてぇだもんな、親類共」

 「お兄ちゃん」

 「なんだ?」

 「一緒に暮らそう?」

 ……は?

 何を訳の分からないことを……? 緑子は尋常じゃない表情でそう言うと、俺に縋りついて気味の悪さすら感じる声音でまくしたてて来る。

 「私、なんでもするから。本当に、本当になんだってするから。お兄ちゃんは何もしなくていいから、私が全部するから。お兄ちゃんの言ったとおりにするから、お兄ちゃんの為に私どうなってもいいしなんだってするから。……だからお兄ちゃん、私と一緒にいて。お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃん……」

 ……クソみてぇだ。

 俺は思う。こいつにはもう俺みたいなクズしか縋る心の依り代がないのだ。そんなになるまでこいつは追い込まれているのだ。こいつの周りにはクソみたいな大人しかおらずこいつの周りではクソみたいなことしか起こらない。親父は死んで、あんな老婆に支配され財産は搾取され、唯一味方だった姉貴もゴミみたいな死に方をした。希望も尊厳すらもなく、挙句俺みたいなクズに縋りつくしかない。

 「緑子」

 俺は緑子の肩を掴んで言う。

 「おまえはそんなことしなくていいんだ。そうやって誰かに媚びたり縋ったり、そんなことしなくて良いんだ。おまえは今日まで良くやって来たよ。姉貴もお前に感謝してるよ。立派だよ。料理上手いしちゃんと働けるしすごい奴だよおまえは。だから俺なんかに諂ったりすんなよ」

 緑子は生気のない目で俺の言葉を聞いていた。

 その瞳の奥にある真っ暗な孤独が俺なんかで埋まるはずがない。嗚咽する彼女を抱きかかえても、俺が与えられるぬくもりは彼女にとって何の代替にもなりはしない。

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