第12話
高垣と再会したのはそのほんの数日後の話だった。
「なぁお宅。これを見てくれないか?」
バイト帰りの俺を捕まえるなり、高垣は俺を貸家の駐車場まで連れて来た。そこには高垣の愛車であるスポーツ・カーが、無残な姿を晒していた。
「うぁー」俺は首を振る。「こりゃ酷いっすね」
ボンネットに大きく『猫殺し』と彫られている。十円玉で擦ったらこういう風になるのだ。俺もガキの頃やったことがあるから分かる。これは流石に『擦ったら直る』という訳にはいかないだろう。
「これ、流石に笑えないぞ。それこそ、五万十万で済む傷じゃない」
「まさか、俺に請求するって訳じゃないでしょうね」
「請求したいくらいの気分だが、何の証拠もなしにそういう訳にはいかない」高垣は溜息を吐いた。「こんなことをする理由があるのはあの姉妹くらいだろう。お宅、彼女らを尋問してくれないか?」
「えぇー。気が重いっすよ」
「お宅には如月の件で一つ借りがあるが、この件については別の話だ。彼女らの保護者を自称したからには、そのくらいは引き受けるのが道理というものじゃないかね。あの子らにとっても、おれが直接文句を付けに行くより、間にお宅を挟んだ方が良いだろうしな」
いちいち理屈っぽい野郎だよ本当に。まあワードが『猫殺し』なんだからつまりそういうことだろう。高垣に悪意を持つものが他にいたとしても、『猫殺し』なんて単語が浮かぶのはあいつらだけだ。俺はやむを得ず西浦姉妹の家に向かう。紫子の方が出た。
「ああ、兄ちゃん。こんちは」紫子は心なし暗い顔をしていた。
「なぁ紫子。おまえ、性質の悪い悪戯してないか?」俺はやんわり尋ねる。「なるだけ悪いことにならないようにしてやるからさ、正直に話してくれないか? 俺は何があってもおまえらの味方だ」
「は? 何の話やねん?」紫子ははてと両手を晒した。
「心当たりはないのか?」
「何の話か分からんのに、心当たりとか言われてもなぁ?」すっとぼけてんのか本当に知らないのか判断が付きにくい。というより、女が嘘吐く時の態度って俺には良く分からないのだ。
「高垣さんの車の件」俺は核心を話す。
「知らん」紫子は即答した。「高垣って? あのクレーマー男か? もしかして、またウチらに言いがかりつけてきよるんか? それも、兄ちゃんを使うなんてやり方が陰湿な……」
「いや、言いがかりとかじゃなくて、俺はあくまで確認に……」
「確認いうならウチらがもうあの人に迷惑をかける可能性はないよ」紫子は悲し気に目を伏せた。「トマトはもう、おらんのや」
「……戻ってこないのか」なんてどの口が言うんだろう。
「せや。車にでも轢かれたか、悪意のある人間に捕まったか」紫子は暗い顔をする。「考えるんは悪いことばっかりや。ウチの所為やろなぁ。あんなトラブルまであって、兄ちゃんにも注意されとったのに、トマトが外に逃げていくのを止められへんかったんやから」
「おまえの所為じゃないよ」
過失はあったかもしれない。紫子は客観的に見て完璧な飼い主ではなかったと思う。だが自分を責める程じゃないのだ。ちょっとした不運が重なっただけで。
「あと、その悪戯ってのにトマトは直接は関係ない。とにかく、知らないならいいや。緑子はどうしてる?」
「あの子? バイト。人見知りやけど今度のは頑張って続けとる。偉いこっちゃで」紫子は言う。「兄ちゃんがやらされとるんは、その『悪戯』の犯人探しやろ? せやったら緑子はないと思うで。ウチはムカつくことがあったら多少の報復はするけど、でもあの子がそういうことする性格に見えるか?」
「見えないな」俺は納得する。「分かった。高垣さんにはお前らじゃないと伝えて置く」
「そら頼んます。ほな」
ってな会話の内容を高垣に報告する。高垣は腕を組んで、「うーん」と唸り。
「蓋然性から言っても、その二人の犯行に間違いないと思うんだがな?」
「追及して答えないなら俺からはもうどうしようもないですよ」
「お宅が舐められてんじゃないの? だいたい姉貴の方にだけ尋問して、妹は性格で除外って、調べた内に入らないと思うんだがね」
「高垣さんは、俺があの姉妹を良く知ってると思うから尋問を頼んだんですよね? その俺が緑子はないというなら、そういうこととして受け取ってもらえないですか?」
「口の減らないねぇ。まあいいや、お宅にはこれ以上求めないよ。ご苦労だった、ありがとう」
ってな訳でそれでその話は終わる。
事態が急展開したのはさらにその数日後のことである。バイトを上がって家で夕寝しようと横になっていたところ携帯電話が鳴り響き、手に取ったら緑子の悲壮な声が聞こえた。
「お兄ちゃん……助けて」
「どうした?」
「高垣さんが家にやって来て……お姉ちゃんが対応したんだけど、すごい言い合いになってるの。すごく大きな声で、酷い言葉で、このままだとつかみ合いになるかもしれない。私じゃ何もできなくて……」
やむを得ず、俺は最悪警察を呼ぶことも視野に入れつつ西浦姉妹の家へと向かう。家の前では、烈火の如く怒り散らした二人が互いの人格を全否定するような言葉で応酬していた。
「もううんざりだ! あの猫に何があったのかはだいたい察しがつくが、そんなのはお宅の責任だろう? 碌に責任もとれないガキ二人の分際で、猫なんか飼うなんかいけないんだ。その逆恨みをお宅らの無責任の被害者であるおれにぶつけるなんて、なんて迷惑なガキなんだ」
「ようそんなこと言えますわホンマに! あんたがトマトを殺したくせに! その上あんな酷い書き込みまでして、果てはろくでもない言いがかりを何べんも何べんも! ウチら姉妹をどんだけいたぶったら気が済むねん! 緑子は毎日泣いとるんやで?」
「何が言いがかりだ。『猫殺し』なんて車に彫れる人間は、おれと猫の件でもめていたお宅らだけなんだが?」
「大方あんたトマト意外にも何匹も似たようなことはしとるんやろ? そんで猫を殺された被害者の誰かしらがやったんや、それだけの話やろ? 良い気味やでホンマに、そのまま殺されればええんやあんたみたいなキチガイは! 死ね!」
「ムチャクチャなことを言いやがる。職場の人間の車にまで悪戯しやがって。何が『猫殺し高垣』だ! お宅のやったことは列記とした犯罪だ、少年院にぶち込んでやる! ガキだからってなんでも許される訳じゃないぞ?」
強く憎しみ合う二人の激しい言い争いに、口を挟むのは容易ではない。本当に警察を呼ぼうか一瞬迷ったが、そんなことをして近隣の猫の不審死について本格的な捜査が始まったら詰むので、俺はやけくそ気味に二人の間に入る。
「何があったか知らんがいったん落ち着けよ! 尋常な目ぇしてないぞ、あんた達」
「黙れ役立たず!」「首突っ込まんといて邪魔や!」
ひっでぇ言われようだ。俺は眼中に入れてもらえずその場で肩を落とすしかない。
「あんた。良くもトマトを殺したな? なんぼクルマを傷つけられたから言うたかて、一匹の生き物なんやで? それをあんな……あんなむごいやり方で……地獄に落ちろや」
「黙れ妄想癖! 良いから一緒に警察に来い! こっちはおまえの所為で職場にいられなくなったんだ。やっと見つけた職場だったのに、ようやく立て直せそうだったっていうのに、おれの人生、どうしてくれるんだ?」
そう言って、高垣は紫子の腕を強引につかむ。紫子の軽い肉体は少し引っ張っられただけで簡単によろけたが、すぐに体制を立て直し、細い足を蹴り上げて高垣の股間を一撃した。
ついに暴力沙汰だ。俺は脂汗を浮かべる。苦悶の表情で膝をたたむ高垣の髪の毛を、紫子が掴む。
「死ね! 死ねキチガイ! 死なんのやったらウチが殺したる! ウチらにとってトマトがどんだけ大事だったか分かっとるんか? あんたが面白半分に殺したトマトがどんだけ大切な命だったか分かっとるんか? それも分からんような人間の屑は殺したる!」
言って、紫子は高垣の顔をぽかぽか殴る。チビのメスガキの分際で大人の男に勝てるわけがないのに、感情的になったら冷静な判断力を失って歯止めが効かないのが紫子だ。
「いってぇな! このクソガキ!」
言って、高垣は紫子の胸を大きく突いた。顔を殴られての反射的な行動だろう。紫子は大きく吹っ飛び、家の周囲を囲うコンクリートの壁の角にぶつかった。
小学生みたいに華奢で軽い身体は、投げつけられた人形がそういう挙動を取るように激しく跳ね返ると、鈍い音と共に地面に転がった。
「大人をなめるなよ! こうなったら何がなんでも洗いざらい白状させてやる。起きろ!」
高垣は吠えた。紫子からの反応はない。
「起きろ!」
紫子はぴくりともしない。
赤のメッシュの入った髪を広げた小さな身体が、道路に転がっているその光景に、俺は奇妙なアンリアルさを感じていた。物言わず転がる紫子はまるで捨てられたおもちゃのようだ。寝ているのでも、気を失っているのでもなさそうで、ひょっとしたら『これはもう人間ではないのかもしれない』。
「お、おい」俺は言う。「これ、まずいんじゃないのか?」
高垣は表情を失っている。彼にも同じ予感がしたのだろう。恐る恐る、現実を認識することを恐れたように、高垣はじりじりと紫子の身体に近づく。
高垣は小さな体を抱き上げる。その顔に鼻血も出てなきゃ傷もついてない。ただ少し泥が付いてる程度だ。手足も髪も頭も重力に従うままだらりと垂れ下がっていて、目を閉じたその表情はぞっとするほど静謐で可憐だった。
「……どうなんだ?」俺は恐怖に縛られて動けない。「息は?」
「……してない」高垣は言った。その表情にあったのは絶望だった。「死んでる」
頭を打ち付けられたような心地がして、俺はへなへなと腰を抜かす。高垣は悲鳴のような金切り声をあげ、頭を抱えてうずくまった。
それからどのくらいそこで立ち尽くしていただろう。俺はほとんど永遠のような時間をその場に縫い付けられたような心地でいた。実際の時間経過はほんの数十秒程度でも、止まった時間の中に取り残されたように感じる衝撃というのは確かに存在する。
「救急車」
俺はようやくそう言った。
「呼んだ方がいいんじゃないか?」
「バカ言え」高垣は紫子を抱いたまま言った。人間が話しているとは思えないひきつった声だった。「もう死んでる。無駄だよ。もう終わりだ、終わり……」
「だから量刑」俺は高垣にかぶせるように言った。「つい手が出て救命措置したけど助からなかった、なら『殺人』ってのじゃなくなるかもしれないだろ。やることはやっとけよ」
「間違いなく死んでる。もう助からねぇよ。……それに今更どうしたって実刑は」
「免れないだろうがそれはもう仕方ないだろ。あんたは間違いなくその女の子を殺したんだから」
「おれじゃない」
高垣はしゃっくりをあげて泣き始める。
「おれじゃない。本当におれは殺していないし、何もしていない。全部このガキの言いがかりなんだ。それなのに、なのに、どうしておれがこんな……。うぅうう」
幼稚な言い訳めいた言葉を吐き散らしながら無力に泣き続けるその姿は、大の大人とは思えない程哀れでちっぽけだった。結局この男は主体性なくレイプ計画に加担した過去と比べて、根本的な部分ではあまり変わっていないのかもしれない。人を殺したという状況に飲まれ、ただ絶望するままに膝を折って自分一人の為に泣き続けるしかない。醜くて愚かで弱くて……でもそれは別に、この人に限ったことじゃないんだと思う。
緑子はどうしているのだろう。家の中で一人怯えて姉貴が戻って来るのを待っているはずだ。だが生きた姉貴と会うことができないという事実をあいつはどんな風にして知るのだろうか。その瞬間のことを思うと、俺はゲロを吐きそうな心地になった。
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