第10話
寝て起きると雨が上がっていた。とは言えまだ空は曇っていて水たまりが写すのは灰色一色の空で、空気にはまとわりつくような湿り気があった。
昨日体を冷やした所為か鼻が出て来て体も重い。今日は一日家でいようかと算段を付けたところで電話が鳴る。俺はこの音が嫌いだ、バイトの呼び出しとかあるし。
「あいもしもし」
「ああ百合山さん? 今日の午前中って時間作れる?」聞き覚えのない声。
「は? すんません誰でしたっけ? 何の用ですか?」
「高垣だよ」
「えーと……」
「覚えてないの? お宅の親戚の子の飼い猫に車傷つけられたモンだよ」あーあのクレーム男か。高垣っつったな確か。
「あ、はい」
「あ、はいじゃないよまったく。それで今日時間作れる? できれば午前中、ほんのちょっとしたやり取りだからすぐ終わるんだけど」
「時間ですか? ええ、作れますけど」というか暇だ。ものすっごい暇。
「じゃあ今から指定するところに来て。時間は……」
というので、俺は憂鬱を抱えながら高垣氏ご指定の喫茶店に向かうことになる。徒歩で二十分、原付ならその半分。俺は原付で行くことにした。
一応存在は知っていたが入ったことのない店だ。入ったことない理由は出入り口に掲げられている掲示板に書かれている軽食だのコーヒーだのの値段が高いことだ。一杯850円って、美味いコーヒーってそんなに出さなきゃ飲めないもんなのか? 高校の頃から良く通ってる『君のウソ』の198円のコーヒーで十分濃いし美味いと思う。
原付を二輪車置き場に停め、その掲示板の前までたどり着く。950円にアップしているコーヒー代に一瞥をくれ、携帯電話で時間を確認する。待ち合わせにはまだ時間があった。俺は早く来すぎる癖がある。
「CKくん?」
そこで背後から声がかかった。俺のことをそう呼ぶのは一人しかいない。振り返る。案の定、亀太郎がニコニコと笑っていた。
「おはようございますCKくん。偶然ですねぇ」
「そうっすね。亀太郎さん。この喫茶店すか?」この人の金持ちぶりならこういう店でブレイクしていてもおかしくはなさそうではある。俺は缶コーヒーの下男、この人は950円の令嬢。
「いいえ。ここはあんまりおいしくないので」
亀太郎が悪意もなくそう言ったので俺は水だけで済ませることを心に誓う。
「これから電車に乗ってちょっと空港まで」
「旅行っすか? にしちゃ軽装ですけど」手提げ袋一つだけだ。女の人がこんな荷物で旅行できるとは思えない。
「旅行と言えば旅行ですけど、宿泊まではしませんので」
「そっすか。どこまで?」飛行機で日帰り旅行なんて良く行くもんだ。
「おーすとらりあ」マジかよ……。「帰りの飛行機で眠れば大丈夫です。というかそこでも寝るか分かりません。最近不眠気味です。いんそむにあです」
「何しにいくんです?」
「内緒ですけど……」亀太郎は指先を唇に当てて俺の鼻先まで顔を近づける。近い。髪の匂いがしてすげぇ照れる。「カンガルーのおちんちんを買いに行くんです」
「……良くそんな金ありますね?」カンガルーって億の金で取り引きされる動物じゃないのか?
「わたしが欲しいのはおちんちんだけなので」亀太郎は内緒話をするようにさらに声を潜める。「おちんちんを切り取ったら付属する身体は他所に売っちゃうんですよ。交通費とか生活費もいるし、マネープール維持するにはがんばって安く買って高く売らなくちゃいけません。生殖能力がないと価格が落ちる場合もあるし……少しでも利益を出すために世界のあちこちに行くことになって、けっこうたいへんなんです」
「それって密売とかじゃないすか?」
「そうですねぇ。見付かったらおまわりさんに怒られちゃいますよぅ」亀太郎はそう言って笑った。マジかよ。がっつり犯罪者だった。絶対怒られるじゃ済まない。「あ、今の内緒にしてくださいね」
「ええ、そりゃまあ」俺はひきつった笑みを浮かべる。「あ、そう言えば、あの三毛猫はどうなったんですか? ちんこ切って、体の方は?」
「剥製にします」亀太郎はこともなげに言った。「おちんちんだけあってもオスの三毛猫って分からないですからね。本体も一緒に所持しておこうと思います」
「そうっすか」俺は内心の落胆をどうにか覆い隠し、接客で鍛えた作り笑いを続ける。「そういや亀太郎さんって、なんで黒ムツなんすか? 別に亀太郎さんって、その、ペニスのコレクターってだけで動物虐待が好きってんじゃないですもんね」
「そういう方とお付き合いしていると、おちんちんが手に入りやすいので」亀太郎は言う。「でも、最初は実益だとしても、特に親しくなったCKくんや沢村くんのような方は、とても大切なお友達です。ところで、こないだはあの三毛ちゃんをいただいてありがとうございます」
「俺がお礼言う話ですよ、それは」俺は言う。「でもその、変わった趣味じゃありますよね。猫殺すのが好きな俺が言うこっちゃないっすけど」
「昔、ちょっと嫌なことがあって、その所為で性的に不感になっちゃって、すごく悩んだことがあるんです」亀太郎はこともなげにそんな話をし始めた。「そんな時、病院の周りを散歩してたら犬がいて、かわいいなあって見てたら、これならいけるかもって思っちゃったんです。自分でも変だとは感じたんですが、でも暑そうに舌を出して涎を垂らして喘いでるのを見てたら、なんだか無償に試してみたくなって、バター犬をやってみたんです」
小声で話してるとはいえ、ここは喫茶店の真ん前だ。バター犬なんて単語出されると色んな意味でドキドキする。亀太郎は回想するように目を閉じると、ほんのり赤くした頬に右手を当てて、左手は股間に当てがえて身もだえるような仕草をした。
「それがすごく良くて」マジかよ。「それからですね、わたし『そういう趣味』になっちゃったんですね。そういうことしてる間だけ、女の子になれるんです、わたし」
「ドっ変態じゃないっすか」俺は思わず身を退いて言った。
「やっぱりそうですよねぇ」亀太郎は顔を赤くしたまま目を伏せ、唇をなめる。「すいません。なんでこんなこと話しちゃったんでしょう」
「ま、まあ、別に隠したり遠慮したりするようなもんじゃないでしょ。そりゃ仕事の付き合いとかでそんなこと言うのはまずいかもですけど、俺らあけっぴろに友達なんですし。亀太郎さんがすっごい変人なのはもともと知ってますから、大丈夫ですって」
一般の尺度から考えたら相当な変人で危険人物ではあると思う。だが俺にとってそれは今更のことだった。感じ良いし美人だし気前良いしで、俺にとって良い人には間違いない。
「ありがとう。優しいんですね」控えめに微笑んで、亀太郎はふと時計を見た。「あら、お話ししてたら、もうこんな時間」
「飛行機、間に合いますか?」
「それは大丈夫だと思います。それじゃあCKくん、また今度」
「はい、また今度」俺は手を振った。
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