第9話

 翌日の午前中、沢村の知っている時計屋に持っていったらマジで高値で売れた。値段交渉は沢村にやってもらった。沢村は腕時計についてそこそこ詳しいようで、安く買い叩こうとする店主の企みを器用にかわし、百八十万円という予定以上の金額で商談をまとめてくれた。

 「昨日改めて調べたんだけど、最近だと値段がやや高騰気味みたいなんだ、スウィンドラー。もっとうまくやれば二百万くらいで売れたかも」

 「いや、百八十万って時点で俺の手には余るよ。まさかこんな大金を一時でも俺が持つことがあるなんて、とても思わなかったな」

 「ははは。バカなことに使うんじゃないよ。あとCK,約束の」

 「ああ。ありがとな」そう言って沢村に二万円を握らせる。どうせ俺が交渉しても買い叩かれるのは目に見えていたので、相場以上で売れたら1パーセント出すという条件で沢村に交渉を任せたのだ。

 「サンキュ」沢村は白い歯を見せて金を受け取る。「せっかくだ。これからどっか飲みにでも行くか?」

 「そりゃ魅力的な提案だが、すまんがこれから用事があってな」俺は言う。「借金を返さなきゃ落ち着かなくてさ」

 「なるほど。そりゃそうだ」沢村は頷いた。「じゃ、また連絡するよ」

 「おう」俺は沢村と分かれ、携帯電話を取り出して佐藤に連絡する。暇をしていたようで、高校の頃良く一緒にクダを巻いた『君のウソ』とかいう、センスが良いのか悪いのか分からない多分悪い名前の店で会う約束を取り付ける。冷房が効きすぎているだとかテーブルが汚いとか欠点は多いがとりあえずコーヒーは美味い。十倍にしたインスタントコーヒーみたいな味と泥水みたいな舌触りが最高に良い。あと安い。

 銀行に寄って金を口座に預けてから佐藤のところへ向かう。店に入ると、奥のテーブルに座る佐藤と目が合った。

 「よう」俺は向かいの席に座る。

 「ああ」佐藤は目を丸くしてこちらを見た。「金、用意できたんだっけ? 昨日の今日で、良くなんとかなったね?」

 「宝くじに当たったんだ」俺はへらへら笑いながら言う。「持つべき友達は変態の金持ちだな。おまえみたいな暴力男じゃなくてよ」

 「なんだよ」佐藤は不満げな表情を浮かべる。「自分で言うのもなんだけど、おまえみたいな信用ならない人間に、ポンと二十万も出せるボクは良い友達だと思うよ?」

 「暴力男ではあるだろ? 良くでかいけがしなかったよ、俺。それに信用ならないってのは余計だ。俺は本当に、返す為のやりくりはしていたんだよ。聞いてくれよ」

 俺はことの顛末を話す。もちろん、トマトが最後に亀太郎によって殺されたことは伏せてだ。

 「なんか想像できるね」佐藤は笑う。「百合山は結構バカのお人よしのとこあるよな? 昔から」

 「お人よし? まさか俺が? ありえねー」

 「そもそもボクから二十万借りることになった理由がそうじゃない? あんなヒス女のことなんて見捨てておけば良かったのにさ?」佐藤は肩をすくめた。「気は優しくてお人よしなんだけど、その癖倫理観なんてほとんど持ち合わせがなくて、善人でも増して正義の人でもない。悪人ですらない。よーするにただのどんくさい奴なんだけどね?」

 「ひでぇ言いようだな、おい。金は返すんだからもう俺達は対等なんだ、怒るぞ?」

 「ごめんごめん。でもボクはそんな百合山を昔っからなんだかんだ憎からず思ってるんだよ? だから金貸してやったんじゃない?」

 「へいへい。感謝してますよ。返済遅れたのも悪かったと思ってる」

 「そういうところだよ、ボクの言いたいのは」佐藤は言う。「ふつう、あんだけボコボコに殴ったら、金を貸してもらった感謝とか全部吹っ飛ぶと思うんだよ。友情もね? ところが百合山は本気でまだ感謝してるし返済が遅れたのも悪いと思ってるんだ。お人よしでどんくさいってのはそういうところ。美点って言いたいんじゃないよ? 単にプライドがないだけだ」

 俺は氷をぶん投げてやった。

 それからとっとと金を返して、俺達はどちらからともなく昔話を始めた。まあこれまでは二人の間に借金があったし、顔は合わせてもこういう話はできなかった。俺もこいつも高校時代は浮いてたもんだから、昔話のできる相手は限られている。金を返して俺のところへ来る理由もなくなった訳だし、貴重な機会であることをお互い分かっていたのだろう。

 話し込んでいると雨が降り始めた。ガラス窓を這う雨粒の向こう側に灰色の空が見える。灰色というかもうほとんど闇みたいな薄暗さで完全に雲が空を覆っていた。

 「洗濯物取り込まなくちゃ」俺は言った。母親はパートに出ているので俺がやらなきゃいけない。「それじゃあな」

 「ああ。今度貸す時はトイチだからな?」佐藤は言って、伝票を手に取る。

 「二度と借りるかよ。バーカ」俺は笑った。


 〇


 喫茶店から外に出る。なんだか夏とは思えないくらい寒かった。

 まだ午前中なのに夜が来るのかと思うくらい真っ暗な空で、大粒の雨がひっきりなしに体に打ち付けて来る。空気は洞窟の中か何かみたいにひんやりと冷たくて、歯がかみ合わずにカチカチと鳴りだす始末だった。雨が体温を奪うという以上に、単純に気温が低いのだろう。

 曇天を濃く深く煮詰めたような独特な薄暗さの中で、灰色に濡れそぼった景色は異世界のような様相ですらある。空が一瞬金色に光ったかと思ったらどこかから雷の音が聞こえて来た。傘もないしこんな時はとっとと帰ってしまうに限る。

 傘を持った少女が目の前をぶつかりそうに横切った。

 転びそうな焦った足取りで実際に転んだ。傘と一緒に倒れこんでずぶぬれで手を付き、はあはあと倒れこんでいるその女の子に思わず俺は駆け寄った。

 「緑子?」

 バキバキになった透明傘を握りしめ、長髪を濡らした小柄な少女は、間違いなく西浦姉妹のおとなしい方だった。緑子は「お兄ちゃん?」と呟いて、蒼白な顔でこちらに助けを求めるように言った。

 「お兄ちゃん、お兄ちゃん大変なの。トマトが……トマトが……」

 トマトと聞いて、俺は胸に重たい岩を詰め込まれたような息苦しさを感じる。「ああー、トマトな。トマトがどうした? また脱走か? 大丈夫すぐに帰って……」

 「昨日からなの。昨日からいないの」

 「トマトだって野生動物なんだ。たまにはちょっとくらい旅行に行きたくなることだってあるさ」俺はひきつった笑顔で言う。

 「でも!」緑子は珍しく声を張り上げた。悲痛の叫びと言うほかない、聞いているだけで胸が痛くなるような声だった。「でも、今までこんなに長く帰ってこないことなんてなかったし! 車に轢かれてるかもしれないし、誰か悪い人に捕まってるかもしれない!」

 緑子は膝をついてしゃっくりをあげる。

 「怖いよ……お兄ちゃん。どうしよう、このまま見付からなかったら、どうすればいいんだろう」

 「……見つかるよ」見つかるわけがない。「きっと雨にびびってどっかで雨宿りしてるんだ」そんなことはない。「きっと生きて帰って来る」既に殺されている。陰茎を引きちぎられ皮膚を切り裂かれ剥製になっている。もうこの子らがトマトを抱くことは適わない。

 「……そうだね。そうだよね」緑子は涙をぬぐい。へし折れた傘を無理やりたたんで手に携えた。「でも探さなきゃ」

 「今日はもう帰れ。おまえが風邪ひいたら姉貴が迷惑するだろ」

 「でも……」

 「紫子はどうした?」

 「今はバイト。でも、気が気じゃないと思う。お姉ちゃん、真っ青になって心配してたから」

 「……そうか」俺は頷く。「とにかく今は帰れ。トマトは俺が探しておく。見付けたら電話するからさ」

 「もうちょっと探す」緑子は言った。そして、ふらふらとした足取りで雨の中を歩き出す。

 一度はっきりと決めてしまったことは簡単に曲げないのは姉貴と一緒だ。俺は溜息を吐いて後ろを続く。絶対に見付からない愛猫を探してずぶぬれになって歩く緑子の後ろを、ただ漠然と、いったい何のためにそうしているのかもいま一つ理解していないまま、雨に打たれながらただ付いて歩く。

 「酷いことしたんだなあ、俺」

 俺は呟いた。だがそれは雨音にかき消されて、緑子には聞こえなかったらしい。


 〇


 パートから帰って来た母親がわぁきゃあ言いながらベランダで洗濯物と格闘しているところで、ずぶぬれの俺が帰って来た。「手伝えよこくつぶし!」という情け容赦ない罵声が背中から浴びせかけられ、俺は溜息を吐きながらしぶしぶ従う。実家暮らしってのもたいがい恰好悪い。

 「俺やっとくから母さん風呂行って来いよ。どーせもう間に合わないんだから」俺はびしょ濡れの洗濯物をひたすらひっぺかしながら言う。

 「誰がほっつき歩いてた所為だと思ってるんだい? 今日はバイトもなかったんだろ?」

 「俺だって一つの人格なんだからバイト以外にもやることの一つ二つあるっつの」

 「今月の家賃まだ入れてない分際で良くそんなことが言えるね」

 「すぐに払うからさ。あんたがずぶぬれになって風邪ひいても、看病なんて死んでもしねーぞ」

 「自分の身体の心配をしたらどうだい? 軟弱物の癖に」

 「はいはいそうですね。誰かさんが貧弱に生みやがりましたからねぇ」

 なぁんて憎まれ口叩きながら、自分の体調についてはもうほとんど諦めている。緑子が諦めるまでずっと後ろでいもしない猫を探していたのだから、体を壊すっていうならもう手遅れだ。

 しかしあんなことに何の意味があったのだろう。怒鳴ってでも緑子を家に連れて帰るのが俺にできるせめてもの行動だったんじゃないのか? 呆けの案山子みたいにただ後ろを付いてって突っ立って、俺は本当に半端者だ。自分の利益の為にトマトを殺したのに、緑子のことは一丁前に心配なんだから酷い傲慢さだ。もう兄貴面なんて一生涯出来やしないはずなのに。

 尋常じゃなくもやもやした。金を佐藤に突っ返してスッキリすれば、何のかんのと言っても気分は晴れると思っていた。ただ実際は逆で、金を返せるという喜びと安堵が消えてなくなってしまった時点で、俺の心に残ったのは酷い罪悪感と自己嫌悪感だけだった。

 「中途半端だよなぁ、俺」

 猫なんて何匹だって殺して来たし、その猫の飼い主たちを何人だって泣かしてきたはずだ。俺は黒ムツの中では右翼で別に猫や猫飼いに何の悪意もない。ただ殺すのが楽しいから殺すだけだ。それなのにいざ自分の幼馴染の猫を殺してしまったら一丁前に気が重いんだから、本当に半端者だ。悪党ですらないただのどんくさい卑怯者。流石に佐藤は旧友だけあって俺のことを良く見てる。

 まあこれ以上このことについて自問していてもげんなりするだけだ。所詮良心の問題で本来こんなことで悩むことに利益などない。忘れちまうのが正解。考えたくないことを考えない為に普段俺がやることは一つでそれは猫の虐待なのだが、しかし今日は酷い雨で外出もままならない。

 俺はシャワーだけ浴びて部屋に引っ込むと、ベットの下に隠してあるこれまでの『戦利品』を引っ張り出した。殺して来た猫の印刷した写真だの付いていた首輪だのぶち込んで箱の中にまとめて突っ込んである。

 今じゃストレス解消にただ殺してそれで満足って感じの俺だけど、昔はこんなものを集めて喜んでた時期もあって何となく今も捨てていない。証拠品というならこれ以上なく証拠品なのでその内処分しなければいけないとは思ってはいる。

 その中に手を突っ込んでいると、一つの首輪が目に入った。何の変哲もない茶色の首輪でそれ自体は特別な代物ではないのだが、そこに書かれている文字が気になったのだ。

 『沢村栄治』

 俺はこの名前の人物を一人知っている。いや正確には二人。一人は戦中の大投手でもう一人は俺と同じ黒ムツ。まあこれが『あの』沢村栄治を示している可能性はまずない。アイツは個人情報の管理についての意識は高く、本名は愚か余計な情報は一切ネットに乗っけない奴だから、あのハンドルネームがそのまま本名ってことはありえない。『沢村栄治』なんてありふれた文字列だ。

なんて考えているとふと思い出す。そういやあいつが『沢村栄治』なのは、昔甲子園クラスのピッチャーで元プロ志望の高校球児だったからだ。んで飼い猫に目を引っ掻かれて野球を断念したんだと。

 俺は企む。俺と同い年ってことは分かってるから、調べたら本名が分かるかもしれない。探偵気分で調べ物を楽しんでいれば嫌なことも忘れるだろう。どうせ聞けば教えてくれる程度の信頼関係はあるんだから、分かったら分かったで本人に答え合わせすればいいはずだ。

 思いながら調べたら数十分で簡単に見つかった。俺が高二の頃の甲子園特集系の記事を回ってたら『注目株』として今より少し幼い沢村の顔があったのだ。記事を読む。

 本名二階堂巧。身長177センチ、体重75キロ。Max147キロの剛速球と大きく曲がるカーブが持ち味。高校通算防御率0.51を誇るプロ大注目右腕。キャプテンでエースとして出場した秋の地区大会では無失点でチームを優勝に導くなど、抜群の安定感を持つ。持ち球はカーブの他にはスライダー・チェンジアップ・スプリットフィンガーファストボールなど。四番打者としても大会最多の六本塁打を放つなど、春の甲子園でも投打に渡る活躍が見込まれる選手である。

 ……なんだこいつ。パワプロじゃないんだからって感じのプロフィールだ。こんな奴がちょっとした不注意で飼い猫に目を潰されて、野球をやめたのか。そう考えると奴が黒ムツになるのも頷けた。

 「……というかこいつ」

 俺の地元の代表じゃねーか。一人暮らししてるくらいだから他県から来たのかと思ったらそうでもなかったらしい。どおりで個人情報の管理に慎重になるはずだ。

 今度会ったら二階堂って呼んでやろう。思いながら、俺はプラウザを閉じた。

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