第8話

 寝間着姿の亀太郎には沢村も退いた。恰好以上に、本人がなんで退かれるのか全く理解していない「お風呂あがったらふつうこの恰好ですよね?」ことにドン退きだった。

 「お外に出かけるなら、ちゃんとした格好に着替えなきゃですよね」

 と言って別の部屋に引っ込んで行った亀太郎を見届けて、耳打ちするように沢村は俺に言った。「あの人、一回医者に診てもらった方がいいんじゃないか?」

 「そんなレベルか?」

 「僕らみたいな年下の男部屋に招いて、あえて無防備に振る舞って楽しんでるとか、そういうのならまだ理解できるんだ。でもアレは違う。そんなんじゃない。ただパジャマパーティしてるだけなんだよあの人のアタマん中じゃ」

 「世間知らずなんじゃないか? お嬢様育ちらしいぞ」

 「箱入り娘で片付けられるレベルか? あの人年は見た感じ23から5ってとこだ。学校行かない働かないでこんな高級マンションで高等遊民って、ホント何者なんだ?」

 俺はこの面だから声をかけられるだけなら色んな女に声をかけられてきた。だがその誰と比較しても確かに亀太郎という女性は異質だった。他のどの女が身にまとおうとしても決して身にまとえない、何か常軌を逸した気配を亀太郎は自然体で発しているのだ。

 「でも俺あの人結構好きだよ。年上で女なのにあんま緊張しないで済むんだ。気は優しいし親切で美人だ」

 「僕らにとって良い人なのは間違いないよね」沢村は難しい顔で首をひねる。「詮索しようとした僕が余計だし失礼だったな」

 「気持ちは分かるよ」

 「お待たせしましたぁ」着替えを済ませた亀太郎が現れた。その表情はニコニコしている。「行きましょう行きましょう」

 それから黒ムツ三人で町に繰り出す。暗闇に紛れ、猫たちにとっての悪魔が世に解き放たれるのだ。

 こうして獲物を探しに行くときも、仲間が二人いるとやっぱり頼もしさがある。俺は黒ムツの中でもいわゆる右翼で、害獣を駆除するとかそういう大義名分を掲げるつもりはなくて殺しはあくまで快楽の為だ。それだけに非人道的なことをしているという自覚はあるので、やっぱり後ろめたさから緊張してしまう部分が普段ならあるのだ。しかし亀太郎や沢村が一緒にいるとそれもかなり薄れて、心地よい高揚と連帯感を楽しんでいられる。ようは犯罪者同士群れてるってことなんだけど。

 「俺、こないだ町に捕獲機設置したんだよ」ふと思い出して口にする。「亀太郎さんに教わった製法を、試してみたくてさ」

 「じゃあ早速、見に行ってみましょう」亀太郎は両手を合わせてニコニコ笑う。「上手くかかってると良いですねぇ」

 ってな訳で俺は自分の仕掛けた捕獲機のところに案内する。猫の良く集まる公園の茂みの中だ。虫のたかった蛍光に照らされた薄暗い公園には既に猫がたくさん散らばっていて、俺たちの方を注意深くじっと見つめている。

 「こっちだこっち」言って、俺はいつもの手袋をして捕獲機を仕掛けた茂みをあさる。捕獲機に手をかけると、にゃあという声と共に、中で何かが暴れたみたいにメッシュネットが揺れた。成功だ、思いながら俺はわくわくしながら捕獲機を引っ張り出す。

 見覚えのある三毛猫だった。

 三毛猫は捕獲機の中から憎悪したようにこちらを睨みつつ、爪を立てた手でネットを叩いた。威圧するような激しい唸り声もなんだか悲痛に感じる。こいつはもうこの中から逃げられないし、黒ムツの仕掛けた捕獲機に捕まった者の運命は死と決まっている。

 俺はぞっとしていた。その体の模様、顔の感じ、耳の形、表情の作り方、すべてに見覚えがあったからだ。俺は必死で、アタマの中に浮かんだ疑いを打ち消す要素を探した。しかし探せば探す程確信は強まっていき、俺は絶望したような気持になった。

 「わあ。すごい!」亀太郎は興奮した声で俺の隣に駆け寄り、一目で見抜いた。「すごいすごい! この子オスじゃないですか! すごおい!」

 「え? オス? 三毛猫のオスってそれ、すごいなんてもんじゃないでしょ」沢村が驚いたように言う。

 「おちんちんもらっていいですか?」亀太郎は俺の身体を揺する。「おちんちんもらっていいですか? おちんちんもらっていいですよね? ねえ? おちんちん!」

 「ちょっと亀太郎さん。女の人がこんな真夜中にでかい声でおちんちん連呼しないでよ」沢村があきれ顔で止めに入る。

 俺は、一人、パニックになっていた。

 みゃあみゃあと激しく鳴きながら、檻から出ようと死にもの狂いでやみくもにネットを叩くその三毛猫が、間違いなくトマト……紫子と緑子の飼い猫であることは間違いなかった。

 何故こいつが外に? 紫子の奴まだ学習していないのか? それともこの猫が度を越してやんちゃなのか。どっちにせよ、黒ムツ集団に捕まったこいつの命が風前の灯であることは間違いなかった。

 「お願いしますCKくんおちんちんください」

 「あははひっでぇセリフ。……とにかくCK、いったんこの人を連れて帰ろう」

 興奮しきった様子の亀太郎を連れて、沢村はマンションの方へ歩いていく。俺はというと、ただ普段の習慣通り、黒い袋に捕獲機ごと猫を入れ、ただ漠然とその後ろを付いて行った。内心の混乱を悟られないように必死で、前を歩く二人とは目を合わせられなかった。

 例のタイル張りの部屋に戻って、テーブルの上にトマトの入った捕獲機が置かれる。俺は焦りを感じた。手を打たなければまずい。亀太郎に陰茎を引きちぎられ、殺される。

 「物は相談なんだけどさ」俺はひきつった作り笑いで提案した。「こいつ、殺すのやめにしない?」

 「え? なんでですか?」亀太郎が目をぱちくりさせる。「殺す為に捕まえたんですよね? わたし、この子のおちんちん欲しいです」

 「いやその……」

 俺は必死で頭を働かせ、どうにか言い訳を考える。俺は黒ムツだ。これまでに野良猫も飼い猫もなく何匹もの猫を殺して来た。そんな人間が『知り合いの飼い猫だから』なんて理由で猫の助命を訴えても傲慢なだけだ。それよりもっと俗な理由の方が良い。

 「いや、俺実はちょっとした額の借金があるんですよ」俺は本当のことを言った。「見てくださいよこの顔のアザ。借金取りに殴られたんだ。もうそろそろ返さないと、マジでやばいんす。オスの三毛なら売ればそこそこ金になるんじゃないですか? こいつが捕獲機にかかったのは、俺にとっては蜘蛛の糸で、だから、喜んでる亀太郎さんには悪いんだけど……」

 良いんじゃないか? 俺は思った。売っぱらったことにして西浦姉妹のところへ返せばいいのだ。問題は亀太郎がこれに納得するかどうかである。

 媚びるような口調で言う俺に対し、亀太郎は人差し指を頬に当てて思案するような表情を取った。それからちょんと頷いて見せると、屈託のない笑顔で俺に言った。

 「だったら、わたしがその三毛ちゃんをCKくんから買い取りますよ」

 「は?」俺は素っ頓狂な声を出す。

 「ちょっと待っててくださいね」

 そう言って亀太郎は部屋の奥へと引っ込んでいく。俺があっけにとられていると、亀太郎は手に何か握りしめて戻って来る

 「はいこれ、どうぞ」亀太郎の白い手が俺に何かを差し出す。それは小さなアナログ式の腕時計だった。一見して、何の変哲もない。ベルトはシルバーで、良く分からないメーターがいくつも付いている。まあまあ一見して安物ではなさそうな感じ。

 時計なんぞ持ってきていったい何するするつもりなんだ……なんて思ってると、「あぁーっ!」と絶叫するような声が聞こえて来た。沢村だ。

 「CK、それスウィンドラー」沢村はそれがとてつもなく重大なことであるかのように言う。

 「は? なに? ス、スイ、なんだって?」俺には何のことか分からない。

 「スウィンドラーだよ! マジ? 知らないの?」沢村は信じられないというように口をぱくぱくさせる。「ちょっと見せて」

 俺はおとなしく沢村にそれを差し出す。沢村はそれをやけに慎重に手の平に乗せて、見分する。

 「本物じゃん。うわー、ありえねー、すげぇ」沢村は目を丸くして亀太郎の方を向いた。「亀太郎さん、なんでこんなもん持ってんの?」

 「お父さんが誕生日にくれました。価値は分からないですけど、名前はいいですよね。でもわたしこんなのいらないですからCKくんにあげます」

 『こんなのいらない』と言った亀太郎の口調には、何か彼女が普段見せることのない、憎悪のような感情がほんの微かににじんでいたような気がした。

 「いや、俺も時計の価値なんて分からないけど……。どんくらいすんの、これ?」俺は問うた。

 「百五十万」答えたのは沢村だった。

 俺は耳を疑う。高級時計という文化が存在しているのは知っているが、俺には縁がないものとして興味を持ったことは一度もなかった。「は? え? なにそれ、マジ? くれるのこれ、亀太郎さん俺に?」

 「あげます。というか、その三毛ちゃんをこれで買い取らせ欲しいです」亀太郎は拳を握りしめて訴える。「足りなかったら他にも何かあげます。それとも現金が良いですか?」

 「い、いや、ちょっと、ちょっと待ってくれ」時間だ、時間がいる。考える時間が。流されてしまったら絶対に後悔する。ちゃんと考えて決めよう。俺はなおさらパニックになりそうなアタマを強引に落ち着けながらどうにか思考する。

 ……金を受け取れば佐藤に殴られなくて済む。借金も消える。

 ……でもトマトは紫子と緑子の愛猫だ。殺せない。

 ……だがここで金を受け取りそこなえば一週間後必ず後悔する。佐藤から殴られながら自分の選択に納得できるとは思えない。

 人間の脳みそってのは不思議なもので、相反する二つのことを同時に感じたり考えたりできるようになっている。それらはお互いに干渉せずにそれぞれに増幅するのだが、最終的にどちらかを選ばなければならないとなると、当然争い打ち消し合うことになる。漫画の表現にある心の中の天使と悪魔みたいに、情と合理の二つの考えが混乱するアタマの中でせめぎ合う。

 ……こんな俺に懐いてくれる二人。裏切れない。あの子らを泣かすのは俺には無理だ。

 ……そんなのはただの良心の問題だ。自分を高等な人間だと思っていたい一時の気の迷い。それに引き換え、殴られる痛みも残る負債も、現実の中の大きな問題だ。

 ……俺自身が高等か下等かというのはどうでもいい。あの姉妹を傷つけてしまっていいのか?

 ……そんなことを言ってこれまでに何匹の猫を殺して来た? これまで自分の快楽の為だけに何人の飼い猫を葬った? 知り合いの愛猫だからと言って手心を加えるのは傲慢じゃないのか?

 ……それは……。

 ……俺は屑の黒ムツだ。これまでと同じようにしてするだけだ。

 「そうだな」俺は呟いていた。「そうだな、そうだよな。俺は黒ムツなんだ。今更だよな」

 「CKくん?」亀太郎はいぶかし気な表情を浮かべる。俺ははっとして、誤魔化すように作り笑いを浮かべた。 

 「あ、いや、なんでもないです。ホント助かります亀太郎さん」言いながら、トマトの入った捕獲機を差し出した。「どうぞ、好きにやっちゃってください」

 「わぁ!」亀太郎は両手を合わせて歓喜の表情を浮かべた。「ありがとうございます! わぁい! わぁい!」

 世にも珍しい三毛猫のペニスが手に入ると歓び以外、すべて吹っ飛んだみたいだ。引き出しから注射器を取り出して、腕利きの医者みたいな手つきで薬品を入れ猫に向かって注射する。メスを取り出し、捕獲機から引っ張り出したトマトの股座に丁寧な手つきで添える。

 陰茎が切り取られる。とげとげにざらついた柔らかいピンク色のペニスを大事そうに抱え、ホルマリン漬けの容器の中に放り込まれる。亀太郎は狂ったように瞳孔の開いた目で陶酔したようにそれを眺める。顔を真っ赤にして自分の全身を抱いて荒い息を吐く。その姿は魔女のようにしか見えなかった。美しい悪魔のような魔女だ。

 「ほらよ、CK」沢村は時計をこちらによこした。「良かったな、これで借金返せそうか?」

 「余裕」俺は笑おうとした。「スウィンドラー? 最高じゃん。亀太郎さんには感謝しないとな」

 これが正解なんだ。もともと俺は動物がどれだけ苦しんで死のうとも、それによってどれだけ人が傷つこうとも、そんなことは一切気にしない黒ムツだ。その黒ムツの俺が、あの子らの家族を悪魔に差し出すことにためらいを覚える理由など一つもない。だから何も間違っていない。今は地獄みたいな気分でも、紫子と緑子の泣きじゃくる顔が頭に浮かぼうと、こんなものはただ一時の胸の痛みで、すぐに俺は救われる。救われるはずなんだ。俺はそう言い聞かせた。

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