第7話
猫を殺している間だけは、殺しの興奮以外のすべてを忘れていられる。学生の頃から、嫌な事や逃避したい現実があると、決まって猫を殺しに出かけたもんだ。
待ち合わせは亀太郎のマンションの前とした。全員にとって距離の負担の少ない場所を選ぶとそこになるのだ。俺たち三人のリアルでの交流が成り立つのは住んでいる地域が近いからだが、これ程近距離に黒ムツが三人も密集するというのは、黒ムツの絶対数からしてそれなりに珍しいことだと思う。
待ち合わせ場所に付いたので、俺はメッセージを送信する。亀太郎から返信。
『少し早いですし、よろしかったらウチへ上がって行ってください』
確かに時間は早い。というより早すぎる。今は一時三十分。ネット上での交流で分かっている傾向としては、沢村は待ち合わせ時刻ちょうどに来る人間で亀太郎は早かったり遅かったり安定しない。最低でも三十分待たなくてはならない計算だ。
『いいんすか?』
『構いませんよ。いっそ今度からわたしの部屋を待ち合わせ場所にしましょう。そしたらわたしらくちんですしぼーっとして遅刻したりしなくなります』亀太郎はなんてことを言い出す。
でエレベーターに乗って亀太郎の家の前に来る。チャイムを鳴らすと「はいはーい」と亀太郎が出た。寝間着姿でポンポンの付いた緑色の三角帽子をかぶっている。スリープカービィみたいないわゆるナイトキャップだ。
「寝てたんすか? その恰好」俺は思わず口にする。
「寝てないですよ。なんでですか?」亀太郎は首を傾げる。
「いや、その服装」この人が普通の常識の世界で生きていないだろうことはなんとなく察していたけれど、いくら何でも男を部屋に招いてこの服装はどうなのだろう。
「お風呂あがったらこうですよぅ」亀太郎は屈託なく笑った。風呂上りって化粧落としてそれとかやっぱこの人とんでもない。「それじゃあ、上がってってください。沢村くんも直接ここに来るそうです」俺と沢村がお互いを呼び捨てるのに伴って、亀太郎の俺たちへの敬称も『くん』になっていた。
猫の処刑室みたいなタイル張りの部屋を通過して、亀太郎のコレクション・ルームに通される。四方の壁には大量の動物の陰茎と分厚い書籍が棚に詰まっている。医学か生物学っぽい小難しいタイトルのものが多く大半は洋書。こないだ来た時は多種多様なペニスに目を奪われて本には注目しなかったけど、医大生ってくらいだし、相当、学はあるのだろう。
「なんか英語の本多いっすね」俺は思ったまま口にした。「読めるんすか、英語」
「読めますよ」亀太郎はニコニコして言った。「お勉強しましたのでっ。小学生の時お家に帰るといつも英会話の先生が待ってたんです。すごく厳しいんです。それが嫌でわたし家に帰らず野宿しようとしたことありますよ。零時ごろメイドさんに見付かりましたけど」
「へぇ。お嬢様暮らしなんすね」
「そうですねぇ……」この時の亀太郎の笑顔には、なんだか少し陰りがあった。「習い事が多くて、お父さんが認めてた子以外とお友達になったら怒られるしで、つらかったです。だから今こうしてのびのびできて、CKくん達と仲良くなれたのは、すごく嬉しいんです」
「そりゃ光栄ですね。俺も亀太郎さんみたいに綺麗な人と知り合えて嬉しいですよ」アタマは大分おかしいけど。亀太郎は「えへへ」と頬に手を当ててあからさまに照れた。
「あの、一つ聞いても良いですか?」俺は意を決して、これまで気になっていたことを尋ねる。「その顔に付いてるのってなんなんすか? シール……には見えないですけど」
「え? シール?」照れるのに夢中であんまり話を聞いてなかったのか、亀太郎は自分の顔をぺたぺた触る。「わたしの顔、シール付いてます?」
「あ、いや、そうじゃなくて……。その悪魔ですよ」俺は亀太郎の頬を指さす。左目の下に、黒い小悪魔が槍を持って裂けるような笑みを浮かべている。言動こそアレだが外観や物腰からはたおやかで上品そうな空気が漂っている亀太郎だが、その全体の印象を目の下の悪魔だけが裏切っている。
「この子がどうかしましたか?」亀太郎は自分の目の下を指さす。悪魔がいない方の右目の下を指したので、俺は「逆」と一言指摘する。亀太郎は何食わぬ顔で指を差し替えた。
「それ、本物の入れ墨ですよね?」
「そうですよー」亀太郎はニコニコして言った。「『オーディオ』言います。わたしの好きな絵本に出て来るんです」それから、亀太郎はぱたぱた席を立って、壁の棚の中でも特に小さな、子供部屋に置いてありそうな扉付きのファニーなデザインの棚を開いて、中から一冊の絵本を取り出した。「はい、読んでみてください」
いきなり絵本を渡されて俺は面食らう。読めばいいのかと思ったが全部アルファベットなのでは俺にはお手上げだ。表紙には真っ黒い悪魔を大事そうに(というより、それに執着したように)抱きしめているしわくちゃの老婆の姿が描かれている。
「俺、日本語しか分からないですよ」俺が言う。
「じゃあわたし読みますね」亀太郎は言った。そして、本が俺の手元にあるまま、目を閉じて読み聞かせを始める。幼稚園にいた時好きだった若い先生みたいな丁寧な話し方で、俺は思わずそれに引き込まれていった。
アーデルハイトっていう良家の娘がいてそれなりに幸せに育つんだけど、十八歳のある日に村の男に強姦されて妊娠をしてしまう。なのにアーデルハイトの父親は強姦魔たちを憎むどころか、アーデルハイトに一方的に勘当を告げる。高貴でない血と交わったアーデルハイトは、父親にとって既に忌むべき存在へと成り下がっていたというのだから、酷い話だ。
で不幸なアーデルハイトは粗末な小屋の中でただ一人孤独に赤子を身ごもる。腹の中の子供にアーデルハイトは『オーディオ』と名付け、十月十日を過ごし陣痛を迎える。
生まれた赤ん坊は悪魔だった。真っ黒い肉体をして、小さな杖を抱えた小悪魔だった。小悪魔は人間の子供が泣きじゃくる代わりに、アーデルハイトに不敵に笑いかける。
『お乳をちょうだいよママ。そしたらママの望みをかなえてあげる』
乳を与えると命をも吸われたかのようにアーデルハイトは一気に二十歳も老けた。対価として小悪魔はアーデルハイトの父親を殺す。
『お乳をちょうだいよママ。そしたらママの望みをかなえてあげる』アーデルハイトはさらに二十歳も更けた。対価として小悪魔は村の男たちを殺す。
『お乳をちょうだいよママ。そしたらママの望みをかなえてあげる』アーデルハイトが乳をのませると、とうとう彼女は今にも死にそうな老婆になった。対価として小悪魔は父親以外のアーデルハイトの家族を皆殺しにする。
最早分け与える命もなくなって、アーデルハイトはオーディオを胸に抱きながら粗末なベットに横たわる。アーデルハイトはもうほとんど見えない目でわが子を見詰め、しわくちゃの手でわが子を撫でた。
『お乳をあげましょうオーディオ』アーデルハイトはわが子に向けて優しく言った。
『そんなことをしたら、もうママの命は亡くなっちゃうよ』オーディオは言う。
アーデルハイトは優しく微笑む。『良いのよオーディオ。私の可愛い宝物』
悪魔は、吸いつくした母親の魂と共に、暗闇の底へと消えて行った。
「……おしまい」
物語が語り終えられる。亀太郎は俺の透き通った目で俺の方を見詰めた。
「どうですか? おもしろかったですか?」
「いやなんというか」キモい話だなあとしか思ってなかった俺は反応に困る。「これ本当に子供向けの絵本?」
「お父さんの本棚にあったんです!」亀太郎は拳を握りしめる。「絵本なんて買ってくれなかったので、これを見付けた時はうれしかったんです。内容は良く分からなくて、だから絵をいつも眺めていました」
絵だけなら、優しそうな笑みを浮かべた母親が黒い悪魔を抱いているイラストが多いだけに、子供が読んでもこの残酷な内容には気付かないだろう。アーデルハイトの家族や村の男たちが殺されるところも、単に悪魔が悪さをしているという、絵本では良くある画でしかない。ただ、最後に悪魔がアーデルハイトの力尽きた魂を地獄へ連れて行くところは、真っ黒な悲しさに満ちていた。
「内容分かった時は、どんな風に思ったの?」俺が質問をすると、亀太郎は少し考えてから、答えた。
「怖い話です。でも優しい話です」
「どうして?」優しい要素どこだよ。
「自分の命を吸わせながらオーディオを大きくしたアーデルハイトは優しいお母さんです」亀太郎は強い口調で言った。「オーディオを抱きしめるアーデルハイトの表情は、とても優しく描かれています」
「でも、最後は地獄に落ちてるじゃん」
「アーデルハイトは一人で地獄に落ちたわけじゃありません。だから、これは優しい話です」そう言った亀太郎の表情は、これまでに俺が見て来た亀太郎の印象をすべて裏切る程真剣だった。
その時、チャイムの音がした。亀太郎ははっとして、自分があんまり力強くその絵本について語っていたことに気付いたらしく、いつものふにゃふにゃした表情に戻って「えへへ」と照れ笑いを浮かべた。
「沢村くんですね。出てきます」
立ち上がってぱたぱたと玄関の方へ消えていく。俺はなんとなし、絵本をぱらぱらとめくる。そこに描かれている小悪魔は、確かに亀太郎の顔にいる奴と一致した。あれは確かにオーディオなのだろう。だがいくら好きな絵本だからといって、なんで自分の顔に入れ墨なんて彫る気になったのか、亀太郎という人物のことは相変わらず分からなかった。
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