第5話

 お互いに結構腹を割ったことを話したおかげか、沢村とはすぐに打ち解けた。二人でテキトウにビール飲みながらくだらない話をした。

 「ぼかぁ実は童貞でね」酔っ払った沢村はそんなことまで口走った。「その気になりゃいくらでも女に困らない自信はあるんだけど、最初に抱いた女がブスだと、その先一生射精のたびにそいつのことを思い出しそうで嫌なんだ」

 「ああ。そりゃ正しいぞ」俺は高校の頃言われるがまま付き合った、黒峰とかいうこの先輩のことを思い出す。顔はまあまともだったにしろ、あのヒステリックな声と態度は呪いのように俺の心に染み付いている。「あんたはスポーツマンで良い男なんだから、当然の権利として、えり好みができるってもんだ」

 「もうスポーツマンじゃねぇし」沢村はけらけら笑う。「でも確かに高校の頃は本当ウザいくらいだったな。あの時は野球しかなかったから女なんて興味もなかったが」

 「今からでもそいつらに連絡したらどうだ?」

 「いや。惜しくなるような女はいない」沢村は不敵に笑う。「せめて、君くらいは面が良くないと。初めて会った時は女と思って惚れそうだったくらいさ」

 「気色悪いなあんたは」俺は身を退いて言う。ジョークにしてもきつかったので、俺は話題を反らした。「でも美人といや、俺が見た中じゃ亀太郎さんが一番だな。ありゃ相当だぜ?」

 あんなにすらりと背が高く、肌の透き通った人はそうそういない。化粧っ気がない癖に何もかも綺麗で、絵に描いたみたいに上品で屈託のない笑い方をする。

 「ああ。あれは別格だ」沢村は言う。「二人で襲っちまうか?」

 「は?」その表情は酔いの混じった屈託のない笑みで、俺は反応に困る。「襲う? あの人を? 俺たちで? いやいやいやそんな度胸ねぇって」

 「冗談に決まってんだろ」沢村は腹を抱えて大笑いする。「言っとくけどさ、あん人は僕が見てきた中で、一番敵に回したらダメな人間だ」

 「そ、そうか?」

 「ああ。手先は器用で知識は豊富。行動は綿密で徹底的。倫理観はないも同然で、目的のために労や消費を厭わない。顔の入れ墨と一緒。ありゃ悪魔だよ」

 沢村はもう少し落ち着いた奴の印象だったけど、酒の飲み方も酔っ払い方も結構荒っぽくて、なんというか体育会系だ。その内冷蔵庫の酒を飲みつくしてしまうが、それで飽き足らずに近所のコンビニへ買い足しに行くと言い出す。

 「まだ飲めるのかよ」

 「序の口だろ?」

 沢村は野性的に笑うとしっかりした足取りで歩き出した。腕力で負け学力で負け肝臓の強さでも負けては形無しなので、俺はとことんまで付き合う覚悟を決める。

 外は灼熱で三歩進めばもう汗が噴き出す。とっととコンビニへ着いちまおうと足を速めたところで、聞き覚えのある声が耳朶を揺さぶる。

 「ほやから相手しとれんいうとるやろ! しつこいやっちゃな」

 俺はつい足を止めた。キンキンと響く高い声。昔西日本で済んでいた時の訛りが西浦家でただ一人抜けていない。紫子だ。

 「だからこの目で見たと言ってるでしょうに! 写真だってケータイで撮っている。どうあったって責任はお宅にあるんだ、でかい声で騒げば逃れられる訳じゃない。せめて素直に謝罪をするべきじゃないのかねぇ?」続くこの声にも聞き覚え。あの時西浦家を訪問して来た若い男だ。

 「なんだなんだ?」沢村は足を止め、振り返る。「喧嘩か?」

 俺は声のした方に視線を送る。道路の向かいで、一台のスポーツ・カーの傍で二十代程の男と背の低い女子学生が何やら言い合いをしていた。

 「せやからこんなピンボケじゃ話にならんいうとるやろうが! ウチら猫を放し飼いにはしとらへんし、だいたい百歩譲ってこれがウチの猫だとしても、こんなクルマから逃げていく時の写真じゃ証拠にならへんのちゃうんか?」

 「この目で見た。確かに、お宅らの猫がこの傷をつける瞬間を、俺のこの目でね。お宅だって本当は心当たりがあるんだろう? エアコンのダクトを通す為にガラス窓に穴をあけてるが、結構荒っぽい工事だぞ? きっとそこから野外に出てるんだ」

 「……なるほど、そこか」

 「ああ? 今、なんて……」

 「なんでもあらへん。つかあんたいい加減しつこいわ。これ以上言いがかりをつけるようなら警察呼ばせてもらうで?」

 「ああ上等だ。呼んでもらおうじゃないか!」

 「ちょっとちょっと。どうしたの?」沢村がその場に駆けつけて、間に入る。「お兄さん、何があったか知らないけど、こんな小さな女の子を相手に大声で怒鳴りつけるのは良くないよ。きちんと話がしたかったら、学校なり保護者なりを通さないと」

 俺はその後ろを引け腰で歩いてきた。紫子と目が合う。苛立った様子で俺の方を睨むように一瞥するが、すぐに相手の男と向き直る。

 「この子供の家の猫が俺の車に傷をつけやがったんだ」男は興奮してポケットから携帯電話を取り出す。「ここに証拠もある」

 その写真に写っていたのは車から飛び上がる三毛猫の画像だった。俺はそれに近づき、凝視する。そして恐ろしくげんなりとした気持ちになった。

 ピンボケの画像だったがそれは確かにトマトだった。黒ムツの俺でなくても簡単に見分けが付く。一目見てぼんやりとだが模様が一致するし、逆にトマトにない特徴をいくら探しても見付からない。まず間違いと言って良いレベルだった。

 「こちらは再三に渡って注意と警告をしたはずだよねぇ? それなのにそちらは猫に対する監視の目を怠った。その上で車が傷つけられたからには、責任を取ってもらうしかないんじゃないのかね?」

 「性質の悪い言いがかりはやめてもらえんか? そんな逃げていく時の画像じゃあ話にならんと何万回言わせます? びた一文払いませんのでお引き取り下さいな」

 「……君じゃ話にならないな。そこの彼の言う通りだ。保護者の連絡先を言ってもらおう。そちらと話をさせてもらう」

 「そら申し訳ありませんね。ウチの身内は妹の緑子だけや。姉妹で力合わして生きてますねん」

 「……あ? なるほどなるほど。常識もわきまえない子供だけの二人暮らしって訳か。そりゃあ猫も放し飼いになる訳だ。こいつはまいったね、どうも」嫌味たっぷりに男は言った。ちょっとその挑発は酷いんじゃないかと俺が思うくらいだから、短気の紫子はもちろんすぐにぶっつんと来たようだ。

 「アタマ来た! 確かにトマトはたまに逃げ出しますけど、本当に猫が来るのが嫌ならあんたの方から対策すりゃええ話ちゃいますか? 車にカバーつけるなり忌避剤使うなりな? それせんといてようウチらに文句言いに来れるわ。アタマおかしいんとちゃうか?」

 「だからなんでおれがお宅の猫の為にそれをしなきゃいけないんだ?」

 「あんたがどんくさいんがすべてやろ? 猫なんてその辺におるし車の上におるんもごく当たり前に見る光景やろが。それで汚れた傷がついた騒いでいちいち飼い主から金を巻き上げんと気が済まんなんて、あんたもたいがい心が貧しいなぁ? あんたみたいなアホがおるけん猫飼っとる人間が窮屈な思いするんや。猫もかわいそうやで、家ん中にずーっと閉じ込められとかなあかんのやけんな。虐待みたいなもんや。ほんま迷惑な話やで」

 「ちょっと待って。君、それは違うよ」沢村が口を出す。「気持ちは分かるけど、この男の人が言ってることは正しいんだ。法律的にもペットが他人に与えた損害は飼い主の責任ってことになってる。実際に猫が外に逃げ出すことがあって、車を傷つけられたと主張する人がいるのなら、これはもう飼い主が責任を取らなくちゃいけない問題になってしまうんだ」

 「せやからウチのトマトがやったという根拠は所詮どこにもないやろ? 動かぬ証拠って奴がいるんとちゃいます?」

 「だからこれは言い逃れるか認めるか、君自身のモラルの問題っていうのかな。君自身、本当は車を傷つけたのが君の猫であることを理解してるんじゃないかな? これだけ状況が揃っていて言い逃れるのは感心しないし、飼い主として少し無責任だよ」

 口調はおだやかだが言っていることは重かった。だがそれは飼い猫の所為で夢を諦めた人間の言葉というよりは、猫を飼う人間側に立って良識を問う言葉のようにも思えた。紫子はふてくされたように押し黙る。

 「君、ご両親はいないんだって? だとしても、子供だけで暮らしているなら誰か援助をしている人がいるはずだよね? その人に連絡して、どうするかを話し合うべきなんじゃないかな?」

 ……ああ、沢村、それはダメだ。ダメなんだ。俺は棒立ちのまま頭を抱えたくなる。

 「なんやねんあんたら。こんな小娘相手に寄ってたかって」紫子はふてぶてしい表情を装おうとするが、その握った拳は震えていた。「言うたやろ。ウチらは姉妹だけで生きとるんや。ウチらを助けてくれる人間なんて、ただの一人もおらへん」

 「……いいから保護者の連絡先を言え。親戚でも教師でもなんでもいい。そういう人間がいないはずがないんだ」

 男が紫子ににじり寄る。紫子はつんとして沈黙を貫く。絶対に言ってたまるかというように。

 「言え!」男は怒りを強く表情ににじませて、紫子の目をしっかりと見てどう怒鳴りつけた。

 「ま、まあ。まあまあまあ、まあ」俺はそこでようやく首を突っ込んだ。「まあまあ。お兄さん。保護者ていうなら、お、俺。俺がそうなんで。ええ」

 びっくりするほど情けないひけ腰とひきつった笑みで話に入って来るキョドりまくりの俺に、男は怪訝な視線を向ける。「あ? 誰ですお宅は?」

 「この子の父親のはとこの息子だ。百合山ってんだ」俺は舌がもつれそうだった。「その、お兄さん。傷はどんなもんですか? 修理費はどんなもんで?」

 「……言っとくが五万や十万で済む問題じゃないからな」言いながら、男は車のボンネットを指し示す。一見して猫のものだと分かる傷が、結構目立つ大きさで刻まれていた。結構な高級車であることだし、これは確かに怒り出すのも無理はない。

 「パーツごと買い換えなきゃ気が済まないぞ。こっちは再三警告してるんだからな」

 「う、うん。うーん?」確かにこういう車はパーツも高いが買い換える程か? いや、でも、はっきりとこちらに責任がある訳だし……。

 「はっきりしないな! お宅が代わりに責任をとるんじゃなかったのか!」

 「わ、分かった! 分かったって」俺は財布の中に折りたたんで入れておいた給料袋を取り出す。中には十万円強が入っていた。今日は七月の三十一日、スーパーからさっきもらったばかりの俺の月収全てである。

 「これで勘弁してくださいよ。俺フリーターで貯金なんざないも同然なんです。この子らには俺が良く言っておきますんで」

 男は黙って給料袋を受け取る。そして中を確認することはせず、自分のポケットにねじ込んだ。

 「……連絡先」

 「へ?」

 「お宅の連作先!」

 「あ、はい」

 携帯電話の番号を教える。男はふんと鼻を鳴らしてそれを自分の携帯電話に打ち込むと、俺を一瞥し、次に紫子の方をぎろりと睨んでから言った。

 「おれは高垣だ」

 「は、はあ」

 「百合山さんだっけ? …………言っとくが二度はないからな。次があったらこんな金額じゃあ済まさない。いいな」

 そう言って、車の止めてある傍の民家に入っていく。俺はへなへなとその場で座り込んだ。

 「おいCK?」沢村が心配げに声をかける。「良かったの?」

 「過ぎたことだ」俺は溜息を吐く。「あー。でもやばいかも。いややばいなこれ。やばいわ。うん」

 「あの。兄ちゃん」紫子が、珍しくその表情に狼狽を浮かべてこちらに歩いてきた。そしてあわあわと震えながら、これ以上下がらないという程頭を下げた。

 「ホンッマごめん!」紫子の声は震えていた。「ホンマ迷惑かけた。お金も借りてもて、ごめん、ホンマごめんな」

 「ああ、いいよいいよ。俺が首突っ込んだんだ」腰抜かしたまま俺は手をふるふる降る。「もうトマトは外に出さないようにな。それだけは気を付けろよ」

 「う、うん」紫子は困ったように目を閉じる。「あの、兄ちゃん。その、ホンマ悪いんやけどな、その、お金なんやけどな。すぐにはその、払われへんねん……」

 この子らの預金、つまりこの子らの父親が残した財産は、俺の親父の大叔父の娘つまりこの子らの祖母が管理をしている。管理というか事実上搾取みたいなもんで、その癖この子らの世話はせずに元の家に放っといているんだから酷い話ではある。とにかく面倒ごとを嫌う性格だから今回の話を聞けばトマトは保健所に連れて行かれるに間違いなく、となると紫子の方から祖母へ金の無心などできるはずがないのだった。

 「ウチ、バイト増やすけん。どうにかお金拵えるけん、どうかちょっとだけ待ってくれへんか?」

 「別に返さなくていいよ。おまえらから金なんてとれないし」

 「そうはいかへん。必ず拵えるけんな」

 俺は考える。どうせ紫子はこういう時に折れないだろうし、それが紫子の長点ではあるのだが、しかしどれだけ無茶をしてバイトしだすか正直分かったものじゃないので、うかつには頷けない。

 「分かったよ」俺は少し考えて言った。「三万だ。ゆっくりでいいからな。金があるときで。それじゃ、兄ちゃんは行くとこあるから……」

 それで紫子とは別れる。コンビニの方へ行く気にもならないまま、沢村と二人町をテキトウにふら付く。

 「なあ、あの封筒結構分厚かったぞ?」沢村は怪訝そうに言う。「あのスーパーの応募チラシ見たことあるんだが、七時四時って描いてあった奴だろ、君の勤務形態。三万って、そりゃ嘘だろ。高坊のバイトでももう少し……」

 「いいんだよ。もうしゃーない」俺はげっそりとしていう。「すまんが、ちょっと用事ができた。もうちょっとあんたと飲みたかったんだが」

 「ああ。それはしょうがないよ」沢村は言う。「またな。それと、今日の君は少し良い男だったと思うよ」

 「ははは」俺は乾いた声で笑う。自嘲の笑みだ。良い男ってんなら迷わず他人の喧嘩の仲裁に入れるあんたの方だよとか思いつつ、俺は手を振った。「どうだかな。とにかく、また今度な」

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