第4話

 その日は朝からバイトだった。通勤は徒歩で十分、家に近いというだけで決めた近所のスーパーだ。

 夏休みということもあり、休憩室兼ロッカー・ルームには、普段より多くの学生バイトが駄弁りながら始業を待っている。俺はそれには加わらず、とっとと着替えを済ませて一足先にロッカールームを出た。

 「あ、百合ちゃん百合ちゃん。ちょっといいすか?」学生バイトの一人が俺の背中に声をかけた。こいつらの中じゃリーダー格で、名前は確か三島。

 百合ちゃんというのは俺のあだ名で、由来は単純に俺が百合山だからだ。高校生のバイト連中から気安くそう呼ばれている。親しまれてるのではなく、単に舐められているのだ。

 「あんだよ?」

 「今日、何の日か分かります?」バイトの三島は携帯電話を弄り回しながら、視線をこちらに向けもせずに話す。

 「さあ。なんかあったかな?」

 「日曜日だから、青果の早朝販売っすね」

 「ああ。あれかー」毎週日曜日は青果コーナーの担当者が、店の前、つまり野外で野菜の早朝販売を行うのだ。かんかん照りの太陽の下で立ちっぱなしで野菜を売るのだから重労働である。「このクソ熱いのに、大変だよな」まあ俺は青果担当じゃないので他人事だ。

 「それ、百合ちゃんにやってもらうことになりましたから」三島はこともなげにそういう。

 「は?」俺は素っ頓狂な声を出す。

 「青果の担当の奴が病欠するみたいで。それでまあ代役が一人いるってことで。さっき話し合ったんすけど、百合ちゃんにやってもらうことになったんすよ」

 「いや、勝手に決めるなよ。俺、嫌なんだけど? クソ暑いのに」

 「あのね『先輩』。嫌なのはみんな一緒なんですよ」三島は携帯電話から顔をあげて、眉をひそめて俺を見詰めた。「役割分担があるじゃないすか。急に欠員が出たってんで、皆で相談して人員を調節して、ようやく決めたことなんですよ。それを先輩のわがままでまた決め直すのなんてできないんすけど」

 「いやだから、肝心の俺に相談無く決めるのはおかしいんじゃないの?」

 「別に俺ら、百合ちゃんに隠れてこそこそ決めてた訳じゃないですよね? 普通の声でここで話し合ってましたよね? いつもいつも話し合いに加わらない百合ちゃんが悪いんじゃないすか? それで決まったことに文句言われても困るんですけど」

 正論のように聞こえなくもないがようは仕事の押し付けだ。周囲は同情するように、或いは嘲るように俺を見詰めている。どうもこいつらの中で俺が貧乏くじを引くことは決定事項らしい。

 「……分かったよ。やればいいんだろ」逆らっても無駄のようだ。俺は観念した。

 「おなーしゃーっす」三島は唇の端を持ち上げてそう言って、仲間を引き連れて涼しい店内へ出て行く。俺は溜息を吐いてから青果部長のところへ行き、仕事内容を聞き取る。急な欠員が出たせいで青果部はどたばたしていて、俺は野外販売に備えた水分補給手段の確保をする時間すらなかった。野菜の詰まった段ボールを台車で汗だくで運んで野外に並べ、番重を逆さにして釣銭箱を置いただけの会計所に立った。

 「わかんないことあったら聞いてね」言い残し、青果部長は俺を一人残して立ち去った。

 「……クッソ熱い」

 熱いだけでなく蒸すので不快指数はうなぎのぼりだ。玉のようにあふれ出る汗が全身に引っかかりシャツはびしょ濡れで肌に張り付く。今朝店に来るときに、道路の温度計が朝から三十二度を示していたことを思い出す。ここからさらに五度あがるという予報だったはずだ。何も訊かされていなかったので冷却用品一つタオル一つなく、愚か水分補給の用意すらない。

 鬼のように押し寄せるジジババが怒涛の勢いで野菜を買っていく。普段より十円や二十円安いだけで必死である。俺は常に二、三人が順番待ちをする中で休む暇なく手計算で会計をしなければならなかった。

 「……あー、流石にしんどい」

 昼が近づけば人数が減るが気温は上昇してくる。疲労と同時に押し寄せるのは脱水で、俺の意識は朦朧とした。持ち場を離れられないので一、二分歩いた先の自販機に飲料を求めることもできない。せめて誰か様子を見にきてくれれば、嫌な顔をされても一時的に売り場を任せることができるのだが、それがなかなかやって来ない。

 「俺、ずっとこんな感じなんかねー」気が付けば、そんな独り言を言っている。「バカにされてさー。味方はいなくて容量悪くて、あんなガキに良いように使われてさー。文句も言えないまま動物に当たり散らして、なーんにもできないまま年食って死ぬんかねー」

 自分で言いながら悲しくなって来た。さらに致命的なことには、こうして軽んじられているのが俺にとって気楽ですらあるのだ。面倒な対話や人付き合いをするくらいなら、怠惰なはみ出し者として侮られるポジションに安住していたい。そしてその事実を振り返っては、己のダメさ加減にほとほと嫌気がさしてくるのだ。

 「あれ、CKさんじゃん?」

 薄らぼんやりネガティブなことを考えていると、聞き覚えのある声がかかった。

 顔を上げる。そこにはかごの中にじゃがいもとゴボウとキャベツを詰めた見知った青年が立っていた。黒い右の義眼は正面を向きっぱなしで動かず、色素の薄い左目だけが驚いた風にこちらを見ている。

 「沢村さん?」

 俺は呆けた声を出した。沢村は「ここでバイトしてんの? つか大丈夫、顔色おかしいよ?」と心配げに尋ねる。

 「助かった……」俺は安堵のあまりへなへなと倒れこみそうになる。

 「どうしたの?」

 「すまん」俺は財布から千円札を差し出す。「なんか飲む物買って来てくれないか? 喉が渇いてやばいんだ」

 「う、うん。お安い御用さ」沢村は野菜の詰まった籠をおいて、俺から千円札を受けとって店内へ入り、一分ほどで戻って来た。ふつうのスポーツドリンクの他に、経口補水液と冷却スカーフを買って来てくれていた。

 「恩に着る」俺は経口補水液をがぶ飲みする。甘露のように感じられた。

 「こんな炎天下で飲み水なしに店番とか、死ぬよ?」沢村は呆れた風に言う。「なんで店の人が注意してくれないかな?」

 「てめぇのことはてめぇで面倒見ろってことさ」俺は息を吐いてひきつった笑みを浮かべた。「ちょっと朝、どたばたしてな。これをやるって分かってたら、飲み水くらい用意したんだけど」

 「大変だね」沢村は目を丸くする。

 「使いっ走りにしてすまんな」俺は言って、沢村から受け取った釣銭を会計箱に入れる。「その野菜は俺が奢るよ」

 「まずいんじゃないの、そういうの?」沢村が言う。

 「ばれなきゃオッケー」俺は笑う。無償提供した訳でもないし、ばれてもまあ注意だけで済む。

 「そうか。ありがとう」沢村が笑う。「CKさん、いつ上がり?」

 「四時だけど」

 「暇だったら家に来ない? ビールくらいなら出せるよ」

 「そりゃ良いな」俺はほほ笑む。

 「んじゃ、後でな」そう言って沢村は野菜を持って立ち去って行った。俺はものすごくひさしぶりに誰かと約束をしたことに喜びを感じつつ、元気を貰って残る仕事を乗り切った。


 〇



 裏口から出ると、沢村が待っていてくれた。

 「待たせたな」

 「良いってことよ」沢村は笑う。「じゃあ、行こうか」

 沢村の家はこの近所のアパートだった。もしかしたらあのスーパーも頻繁に利用するのかもしれない。お互いの顔を知って初めて意識したというだけで。

 流し台の付いている四畳半と風呂とトイレという安アパートで、部屋の真ん中には四角のテーブルが置かれている。テーブルには教材が隅に追いやられた代わりにビールの空き缶と灰皿、それにノートパソコンが中央に鎮座している。まさに一人暮らしの大学生の部屋だったが、何もかもがぴかぴかに掃除されている訳ではない代わりに必要なだけの整頓はされていて、不潔な感じはしなかった。

 「沢村さんは大学生?」俺は尋ねる。正直、ちょっと憧れる暮らしだ。

 「まあね。Y大学さ」へぇ、国立じゃん。「公務員志望でさ。将来は保健所の職員になって猫という猫を殺しまくるんだ」

 「そりゃいいや」俺は笑う。でもちょっとマジで言ってんのかなって思う。黒ムツも良いけれど、それは仕事にしてまでするようなことなんだろうか。

 「CKさんは? 何してんの」

 「俺か? 俺は……フリーターだ」俺はついひきつった笑みを浮かべる。「なんかやる気が起きなくてさ。やりたいことも見付からなくて、毎日だらだら」

 「別にいいじゃないの。正社員で働いたり、大学に行くことだけが正しくて優れている訳じゃないんだし」沢村は屈託なく言った。「やりたいことができたらやりゃいいんだ」

 「それがその『やりたいこと』とやらを見付けたいとすら思えないんだがな」俺はアタマをかく。「毎日怠けながら、猫でもいじめてるのが気楽なんだから」

 「ないならないでそれでいいんだ。目的を持って生きなきゃいけないってのもおかしな話だよ」

 「そうかな」

 「そうそう」沢村は笑う。「東大出て一流の企業に勤めてる人の全員が、何か強い目的意識を持って生きてる訳じゃないじゃない? ただ生きる手段として有利そうなのを選択した結果として、他よりかは東大を選んで他よりかはその企業を選んだってだけの人が大半だろ」

 「確かにそうだろうけど」

 「人間なんて畜生と同じさ。犬や猫と変わらないよ」沢村はそう断言する。「生きてるだけで丸儲けっていうじゃん。やりたいことがありゃやればいいけど、ないならないでいいんだ。だらだらして猫でもいじめてる毎日でも、そこに良し悪しなんかないんだよ」

 「あんた良い人だな」俺は心から思った。こいつの言ってる理屈の是非は分からないが、言葉を選んで俺の気を楽にしようとしてくれる心遣いは嬉しかった。「なんであんたみたいな良い人が黒ムツなのか分かんねぇよ」

 「良い人は止せよ。気まずいって」沢村は面食らった表情をする。照れているようだ。

 「沢村さんは……」

 「沢村でいいよ。リアルで会ったら友達ってことで」

 「じゃあ俺のことはCKだな」

 「オッケ」

 「沢村は、猫いじめてる時どんな気分なんだ? やっぱり、スッキリする?」

 「正直、なんも感じない」沢村は言ってから、少し目を伏せる。

 「え? じゃあなんで殺すんだよ」

 「単純に、憎いんだよな。猫が。だから殺す」そう言って、沢村は自分の右目に手を当てる。「気付いてるだろ。これが義眼だってこと」

 「まあな。良くできてんな」

 「いやいや安物だよ。本当に良い奴は、上下はともかく左右にはもうちょっと動くんだ」

 「へえ。そんなもんか」確かに沢村の義眼はずっと正面だけを向いている。そのことが少し不気味にすら感じることもある。「なんで義眼なのか訊いてもいいか?」

 「遠慮するようなことじゃない」沢村は頬を持ち上げる。「聞いてくれるか?」

 そう言ったとき、沢村の表情はいつもの柔和な好青年のものではなくなっていた。ただ、強い憎悪と、漠然とした憂鬱のような感情がその表情ににじみ出ていた。

 「僕はね、昔高校球児だったんだ」沢村は何か、いっそそれがバカらしい話であるかのように話し始める。「プロを目指してた。それは夢とか空想じゃなくて、現実の中の進路志望として、高卒でプロ野球選手になる人生設計を思い描いていたんだ」

 「もしかして、それで沢村栄治か」

 「そうそう。そういうこと」

 確かにこの男の身体つきはスポーツマン特有のものだ。しなやかで、筋肉質でありながらそれがとても自然な、一見してスマートな身体をしている。

 「二年の頃にはもうエースで四番ってやつでさ。球速なんか145キロ出てたからな。将来自分がプロになるって疑わなかったもんだよ。夏の大会が終わるとキャプテンだ。秋の地区大会は無失点のまま優勝して、神宮でもそこそこ勝ち進んだ。オフには春の甲子園で活躍するために猛練習さ」

 「すごいなんてもんじゃないな、それ」

 「でも、甲子園に出ることは適わなかった」沢村は右目に手を当てる。「正月にな。寮から実家に戻った。実家には猫がいたんだ。弟が飼っていた奴がね」

 「もしかして……」

 「ああ、そうだ」沢村の瞼が細められる「弟は当時十歳でな。猫を持ったままじゃれて来た。兄ちゃん、兄ちゃんって。僕はその時猫のことが好きでも嫌いでもなかったんだが、でもなんとなくその時は疲れていて、相手をする気にはならなくて……。でも弟はじゃれて猫を押し付けて来て、それでつい振り払ったら」俺は息を飲み込んだ。「このザマだよ。あの畜生、やりやがった」

 野球ってのはかなり視力に依存するスポーツだ。片目を潰され、遠近感を失ってできるようなものではないだろう。増してプロ入りの可能性なんぞ残るはずもない。

 「弟のことは憎んじゃいない。許した、家族だからな。その時まだ十歳で、何の悪意もなくやったことに責任を求めたりはしない。一言だって責めたことはない」沢村は息を吐き出す。「けどまあ、小学校の一年からずっと追い続けた目標を失って、それを『仕方なかった』で諦めるなんて、僕には無理だったんだ」

 「それで、黒ムツに」

 「町中で猫の姿を見かけるたびに、全身がむかむかしてきて仕方がないんだ。むかむかして、泣きたくなる。その姿を追いかけて蹴っ飛ばしたくなる。首根っこを掴んで死ぬまでぶん殴りたくなる。だからやる。何匹でも何匹でもそうやって殺すし殺して来た」

 沢村はやけくそみたいに笑った。

 「十年間野球だけしてたからね。それを奪われたんだ。奪われたことに対する腹いせのことしかもう考えられないんだよ。わかっちゃいるんだ、何の意味もないこと。猫なんてのは本物の畜生なんだから、自分のことを払いのけて来る奴を引っ掻くのはただの本能だ。そうでなくたって関係のない猫を殺すのは本当にただの時間の無駄だ。分かってる。でも分かってるからってやめられるような、人間の心ってそういう風にできていないんだよな」

 俺はスポーツなんかしたことがないので分からないけれど、でも本気でプロを目指している人間にとって、学生野球というのは命がけなんだと思う。その命がけでやって来たことを奪われて、つらくて理不尽でどうしようもなくて、そのつらくて理不尽でどうしようもないということを喚き叫ぶそのためだけに、沢村は黒ムツをやっているのだろう。俺は彼の気持ちの全てを知り抜くことはできないまでも、そういうものなのだなと理解することはできた。

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