第3話

 高校を卒業してから俺はフリーターだった。母子家庭で大学進学は経済的に厳しく、奨学金を借りたりして苦学生をやってまで勉強するほどの脳味噌も向上心もない。かと言ってテレビをつければ不況がどうのブラック企業がどうのと言われるこのご時世、まともに就職する気にはならない。近所のスーパーでレジ打ちと品出しのバイトをしながら、パートタイマーの母親のやせ細った脛を齧り抜いていた。

 「あんたがまともなところで働いてりゃ、少しはマシな暮らしができるのにね」

 顔を合わせりゃ当然そんな嫌味も言われる。穀潰しだのぷー太郎だの落伍者だの酷い言われようだ。だが俺は苛立ちを飲み込んで母親と二人暮らしを続けている。家賃と光熱費だけ出してりゃそこそこ小遣いが残る今の暮らしは捨てられない。母親の方だって自分の稼ぎだけで生きていけないのは同じだから、どれだけ脛を齧られても嫌味を言う以上のことはしてこない。

 で、その日の昼間にその母親からたたき起こされたかと思ったら、でかい鍋を持たせられる。

 「なんだよこれ」

 「カレー。あんたこれ紫子ちゃんたちのところへ持ってってあげて」

 「眠いんだけど」亀太郎の家で朝方までいてから寝ていたところである。

 「あたしだって忙しいんだよ!」

 じゃあ持ってくのやめりゃいいじゃんって思う。鍋がでかいので原付にも入らない為、俺は間抜けにもカレーの鍋を両手で担いで近所の西浦家まで歩くことになった。

 この近所に住んでいる西浦紫子、緑子の双子姉妹は俺の遠縁の親戚にあたる。二人とも女子高生で二人暮らしなのだが、姉妹で力を合わせてどうにか生きている。

 俺の親父のはとこ、つまり西浦姉妹の父親にあたる人物は去年の三月に通り魔に殺されており、当時中学三年生だった西浦姉妹を親類たちは酷く持てあますことになった。だが彼女らがもうすぐに高校生になるということ、西浦家には姉妹が成人するくらいまでならつつましく暮らせる程度の財産があること、何より姉妹が残りの子供時代を二人で力を合わせて生きることを望んだ(ということに誘導尋問でされた)ことなどによって、親類たちは西浦姉妹を誰も引き取らずに済んだという次第のようだった。

 そこまでならまあ俺に関係ないところで俺に関係ない力学が働いたというので済む話だ。だがどういう訳なのか、俺の母親は夫のはとこの娘という遠縁も遠縁の西浦姉妹に何故だか妙に同情的で、何かというと土産を持たせて俺を派遣するのだ。かわいい姉妹だし、俺も多少は情が移ってはいたが。

 歩いて十分ほどの距離の西浦家にたどり着き、俺はチャイムを鳴らす。姉の紫子が出た。

 「兄ちゃん、ひさしぶりやな」紫子は角型の眉を歪ませて、くっきりとした笑い方をした。「話はおばさんから聞いとるで、ありがとうな」

 紫子は身長の低さを気の強さで補ったような性格の少女で、腰までの長い髪のあちこちに赤いメッシュを入れるという特徴的な髪形をしていた。お気に入りのロックバンドの影響で、本人なりに突っ張っているつもりらしいが、素材が幼顔のチビなので俺にはなんかのコスプレに見える。

 「いやまあ、散歩のついでのただのお使いだよ」俺は言う。「そんじゃ俺はこれで。容器はまた今度取りに来るよ」

 「まあまあお兄ちゃん、そない言わんと上がっていき。これから昼なんや、カレーの代わりに、なんかご馳走するで」

 「いや、悪いって」

 「緑子がな、兄ちゃんに会えるいうてよろこんどったで」紫子が言う。「兄ちゃんどーせ暇なんやし、ええやん」

 そう言われれば断ることは難しい。どうせ暇だと言い当てられて腹が立たない程度には、俺はこの姉妹に好意を感じていた。上がらせてもらう。

 リビングルームには、妹の方の緑子が猫を抱えてじっとしていた。「あ、お兄ちゃん」緑子は俺に気付いて微笑みかける。双子の姉貴との違いは気弱そうな細い眉と、腰までの髪が漆黒であることだ。

 「ひ、ひさしぶりだね」おどおどとした声で、二の句を探す。「あ、これ、この子。トマトっていうの」

 「三毛猫か」俺は言う。猫の扱いには(虐殺で)慣れていた為、俺は緑子からトマトを取り上げる。「ミャーオ」と鳴いて、こちらを睨むように見たかと思ったら、初対面の俺に物怖じした風もなくくつろぎ始めた。

 「お兄ちゃん、上手だね」緑子は意味もなくえへへと笑う。媚びたような笑みが板についているのは、ガキの頃から気の強い姉貴の後ろでいつもこの顔をしていたからだ。

 「前からウチが飼いたかったんや」紫子が言う。「家の庭に住み着いとったんや、こいつ。緑子と相談して飼い始めたんやけど、かわいいもんやで」

 「つかこいつオスじゃん。珍しい」俺は気が付いて言った。

 「そ、そうなの。すごいでしょ」緑子が言う。その柔和な笑みに、少しだけ誇らしそうな表情がにじんだ。

 「確か百万匹に一匹くらいだろ? すごいな」

 「は? 嘘やろ?」紫子がでかい声で言う。「そない珍しいんか、こいつ。つか、オスがそない少ないのに、交尾はどないするんや! 三毛猫のメスはどないしてタネを見付けんねん!」

 「お姉ちゃん、お兄ちゃんの前でそんな大きな声で……」緑子は頬を赤らめた。「こ、交尾とか、タネとか、言っちゃだめだよ」

 「交尾いうたら交尾やろ! 他になんていうねん」紫子は妹に向かって取り繕うように言う。「無駄におぼこいんや、あんたは」

 「あ、ごめん」緑子は言う。

 「なんで謝るねん」紫子はふうと息を吐く。「まま、お兄ちゃんも来たことやし、ごはんにしよか。緑子がお兄ちゃん来るいうて気合入れて作ってくれたんやで」

 「そうなのか」俺は言う。帰らなくて良かった。緑子を傷つけていたかもしれない。

 「そうや。緑子の料理は世界一や」紫子は自分のことのように胸を張る。双子の割に性格はまるで違う二人だが、それだけにお互いの長点は強く認め合っている。絆も強い。

 それから三人で食事をする。確かに緑子の料理の腕はかなりのものだ。正直俺の母親の大味なカレーなんか貰ってもありがたくなんかないに違いない。そのことを緑子に話すと、「あ、いや、お気持ちが嬉しいです」と小さな声で答えた。

 「あかんで、緑子。失礼や」紫子が眉を顰める。「そこはちゃんと『いえ、おいしいです』言わんとあかん。嘘も方便いうてやな、世の中には……」

 「お姉ちゃんの方が失礼だよ」緑子はますます声を小さくする。この会話は母親には言わないでおこうと思った。

 料理を緑子がしたら洗い物は紫子の仕事らしい。手伝いを申し出たが却下された。「お兄ちゃんはお客さんやで。緑子の相手したってな」とのこと。言われたとおり、緑子と近況を話し合う。

 「緑子は最近どう? 高校は楽しい?」「楽しいよ。お姉ちゃんもいるし。クラスは違うけど」「姉貴と仲良いよな」「お姉ちゃんのことは好き」「そうか。その猫いつから?」「一か月くらいかな? 初めて会ったのは、まだお父さんが生きてた時で、庭に良く遊びに来てたの。でもお父さん猫は嫌いだから、だから飼い始めたのは……」そこで緑子は自分で口にしながら表情を暗くする。俺はいつものひきつった笑顔で口を挟む。「最近か。でもあんまり外には出すなよ。最近近所で猫の死骸が見つかったとかで騒ぎになってるし」俺が殺して始末をさぼった奴だから、気を付けるのは俺の方なのだけれど。「大丈夫、出してないよ。だから……」そこでチャイムが鳴る。

 「お兄ちゃん、トマトのこと見てて」言われ、俺は三毛猫を受け取ってぼんやり天井を眺める。

 手持無沙汰だった。眠気が復活してうつらうつらしていると、トマトが「ミャー」と鳴いて俺の腕の中で暴れ始める。目を開ける。何やら騒ぐような声が聞こえてくるので、俺はトマトを抱えたまま玄関の様子を見に行く。

 「だから、お宅の猫がウチの車のボンネットに乗ってたのよ」二十台半ばくらいの男だった。神経質そうなごつごつし顔をしていて、冷静に威圧するように感情を乗せた声で話す。「あの三毛猫、お宅らの猫でしょ」

 「あ、あの。えっと」緑子はあからさまにびびって狼狽える。「私たち、猫は、その、外に出さないようにしていて……」

 「でも実際にボンネットに乗ってるところを見たのよ」男は見せつけるように溜息を吐く。「いっとくけど、他所の猫とかじゃないからな。はっきりと見分けは付いてる。間違いなくお宅の猫だった」

 「そ、そんなはずは……」緑子は怯えた声を出す。

 「あのねぇ!」男が威圧するような口調で言うと、緑子はひ、と沈黙する。男は続けてまくしたてた。「あなたらが動物を飼うことにどういう意識でいるかは知らないけど、もしも猫が車を引っ掻いたりしたら、その時はきっちり請求させてもらうからな。そこはちゃんと親御さんに伝えておけよ」

 そう言って男は乱暴にドアを閉めて立ち去っていく。向こうの男は俺には気付かなかったらしかった。

 「ど、どうしたの?」

 俺が声をかけると、緑子は泣き出しそうな様子で言う。「わ、私は、トマトのことはちゃんと家で飼ってて。だから、多分、さっきの人が見たのは他所の猫で……」

 「そ、そうだな。そうだよな」俺はとにかく緑子を慰める為に言う。だが内心では、別のことを考えていた。

 猫というのは身体能力が高い上、体も柔らかい生き物だ。人間がとうてい意識しないようなほんのわずかな隙間を潜り抜けて、脱走することにかけては一枚上手である。また、いくら繊細な緑子が気を使っていても、比較的おおらかな紫子の方がどうしているかは分からない。

 「トマトは……」緑子は嗚咽するように言う。「トマトは、とても大切な家族で。お姉ちゃん、お父さんがいなくなってから時々ベットとかでふざぎこんでたんだけど、トマトが来てからそれがなくなって。だから、トマトは、トマトは……」

 「うんうん」俺は笑いながら緑子の頭をなでる。「そいつは悪い子じゃないから。だから、大丈夫、大丈夫だから。な?」

 「どないしてん緑子。お腹痛いんか?」そう言って、洗い物を終えた紫子が台所から出て来る。玄関からは遠い部屋なのと、流水の音で、騒ぎには気付かなかった様子だ。

 「あ、いや。その、ちょっとこっち」そう言って、俺はひきつった笑顔で紫子に駆け寄り、隣の部屋に連れ込んだ。

 「なんやお兄ちゃん突然に。ウチにエロいことでもするんか、その顔で」と言って紫子は俺の並の女より女らしい顔を指さす。

 「なあ紫子。トマトがなんかの拍子に家の外に出ていくことって、あるのか?」

 「たまにあるで」紫子は飄々とした声で言う。「すばしっこいからなぁ。窓開けた隙とかにちょいと出ていくんや。ま、その内庭に戻って来るから、ウチがまた家の中に戻すんやけどな」

 俺は先ほどの来訪者について話した。近所の人間との交渉事や人間関係のトラブルなどは、西浦家では彼女の担当だったはずだ。

 「ほんなこと言うたかて、証拠はない訳やろ? 三毛猫なんてそこらじゅうにおるのに、全部トマトの所為にされたらたまりません」紫子は堂々とした声で言った。「それより、緑子をいじめたことが許せんわ。何様のつもりやねん、そいつ」

 「いや、でもまあ、トマトが家の外に出ないように注意するくらいはしろよな。緑子はいつもそうしてるだろ?」

 「兄ちゃん。そんなもん気を付けたって一緒やで。どーせそいつは三毛猫がなんかしたら全部トマトの所為にするんやから、ウチらが努力したって無駄無駄無駄。そら常識の範囲内でウチかて気を付けるけど、世界中の三毛猫からそいつの車を守るなんてできません。忌避剤でも買って来て、自分で守ってくださいな……」そう言って、紫子は細い腰に手を当てる。「次来たらウチがはっきりそう言うたるわ」

 「あんまり揉めるようなことはやめろって」

 「兄ちゃんはチキンなんや。こういうのは毅然としとらなあかんのや」

 「ヤバくなったら、誰か大人に相談を……」

 言ってから気付いた、この子らには頼る大人なんて一人もいないことを。俺が自分で自分の失言に気付いたのを見抜いたのか、紫子はふんと鼻を鳴らした。

 「余計なお世話やで」

 「お兄ちゃん、お姉ちゃん、何の話してるの?」隣の部屋から、緑子がおずおずとやって来た。「喧嘩とかしてないよね?」

 「してへんしてへん」紫子はニコニコ笑って言う。「それより緑子、変な奴が来たらウチを呼ばへんと。緑子はおとなしすぎるんやから。ウチががつんと言うたるで」

 いくら気が強いと言ってもそれだけではどうにもならないこともある。向こうが明確な証拠を持って、法律を持ち出して筋を通して来たらどうするつもりだ? この子らにはそれに対応するための何の知識も手段もない。代わりに解決してくれる大人もいない。

 誰かが彼女らにとっての命綱にならなければならない。だがこの子らの近い親類たちは皆この子らを見捨てたのだ。

 黒ムツである俺はペットがらみのトラブルはいくらでも知っている。でかいことにならないことを願うしかなかった。

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