第2話.灰霞の道を、売られていく

 くぐった霞の先は、薄く煙が漂うようなところで。


 冷たく肌を撫でる空気は、まだこの季節には肌寒く。


 しかし芯の冷えるような、凍えは覚えず。



 このような温度だと、傷に染み入るものですが。


 むしろ癒されるようにすら、感じます。


 あたたかい。



 不思議な、場所です。


 ツンと少し鼻にくるような、どこか懐かしい香りがして。


 耳に痛いくらい、静かで。



 わたくしが降りたところは、小舟のようで。


 少しの揺れがあり、白く……あるいは灰色に濁った水面が揺れているのが、見えます。



 小舟はその大きさに似合わず、揺らぎが少なく。


 立っていて、不安がありません。



 船首には、先ほどの使者の方。背を向けておられる。


 小舟の周りには……やはり先ほどみたような、式とやら。


 浮いています。人ならざることが伺える。



「しばし、精霊しょうりょうの道を行きます」



 静かなのに、とても響く、美しい声。


 霞の向こうに見える、しだれた木々のようなものも相まって。


 とても……幻想的、というのでしょうか。



 木々の向こうにも、何か、動くものがいて。


 そっとそれらに、視線を向けていると。


 誰も漕いでいないのに、舟がゆっくりと進み始めました。



 水音もしない。


 ただ、灰の水がかき分けられるとき、香りが、少し広がります。


 華やかで、固い、香り。



「お聞きしても、よろしいでしょうか」



 わたくしが、尋ねると。


 彼女は、ほっそりとした首と、滑らかな肩を回し、こちらを向きました。


 その横顔の口元が、唇が、薄く広がって。



「何なりと」



 お答えは、簡潔で事務的。


 なのに不思議と――――私への関心を、感じます。


 意識が、確かにこちらを、向いておられます。



 ……どちらか、判断がつきません。


 まずはそこから、ですね。



「お名前を。何とお呼びすれば」



 彼女は、体ごと向き直って。



「キキと、お呼びください」



 頭を下げました。


 ……お顔が、見えません。



 直った彼女には、何の色も、表情もなく。


 やはり、わからない。



 この方は、かつてこの道に迷い込み、共に過ごした方に違いありません。


 間違いない。


 ですがこの道は、いる間は外のことを。外では道の中のことを、あいまいにします。



 忘れられてしまって、いたら。


 わたくしは……どう生きていけば。



「分かりました。しかし東国でも、珍しい響きに思います」



 キキの顔が、少し変わりました。


 意外そうに。そしてまた唇が、横に薄く広がります。



 あまり動かないそこから、また綺麗なお声が聞こえました。



「我が国の文化にはお詳しいようですので……そうですね。


 奇妙な鬼、と書くのです」



 そう。


 奇鬼キキ、と。


 そう名乗られて、いるのですね。



 これは本名では、ない。


 彼女は式紙を使った。


 ということは。



「道士の方の、まじない避け、ですね」



 わたくしが応えると。


 キキは今度こそはっきりと、笑顔に、なられました。



 切れ長な目、端正な顔立ちに似合わず……優しく、柔らかで、とても穏やかな。


 ほほえみ。



「本当にお詳しい。その通りです」



 ころころとした笑い声が聞こえてきそうなくらい、うれしそうな、お顔で。


 そのようなお顔を急にされ、少し、耳のあたりが熱くなるのを感じます。



 …………変わらない。間違いない。


 心が、揺さぶられます。



 漕ぎ手のいない舟。


 水音のしない灰色の川。


 ただ浮くだけの式たち。



 静かな霞の中で、ここにだけ、温度が灯ったかのようです。


 わたくしと、彼女の間に、ほんの少しだけ。



 口元を隠し、咳払いとも言えないような息を吐き。


 キキが続けます。



「ご質問、まだおありかと思いますが。直出ますゆえ、先に」



 彼女が服の袖を翻し。


 また、静かなお顔に戻られ。


 淡々と、告げる。



「本日すぐ、成婚の儀となります」



 結婚。他の方に、そのお約束を破られ……その日のうちに。



 それを素晴らしいものだと言った母は、いなくなり。


 残された父は、ろくなものではないと言い。



 ────わたくしはもう、それに期待が、持てません。


 それは人生の不自由。墓穴の別名。地獄の鎖の、ような。


 わたくし自身を縛る、昏い未来。



 手を尽くし、やっと逃れたと思ったのに。


 ……帝国に渡る手筋としては、よくないものを掴んでしまいました。


 奇縁の糸はつながったとはいえ、障害は多いようです。



「支度は向こうの下女が。お世話は私がいたします」



 わたくしは首肯し、理解を示しました。


 キキは現在、帝国の使者、というお立場のはずですが。


 わたくしの、世話、ですか。



 外交使者が、そこまでやるとも思えません。


 わたくしの世話をするような……そちらのお役目が、彼女の本来の。


 今の立場を示すもの、ということでしょうか。



 そう。あなたはわたくしのそばに、いてくださるのですか。


 突然のことが続き、わたくしの心は、今一つついてきませんが。


 誰も彼も知らぬ方、というよりは。きっと不安も、和らぐでしょう。



 ……もし、あなたがわたくしのことを、忘れてしまっているのであっても。


 きっと。



「質問は、ほかにございますか?」


「いいえ」


「……お相手のお名前は、お聞きにならないのですね?」



 確かにわたくしは、身の丈に余る婚姻のお約束を急に破談にされ。


 そのまま遠く東の国に、その身を売られようとしている。


 そんな哀れな、傷だらけの女ですが。



 先のように、帝国のことには少し。ほんの少しだけ、詳しいのです。


 たくさん調べ、たくさんの方に教えていただきました。



 呪われた女を欲しそうなお方で。


 妃を持たぬ方は、およそただおひとり。



「御高名な方ですので。トライ様は」



 皇帝陛下のご子息、第三皇子の虎居トライ様。


 道士様方の統括に関わっている、と聞きます。



「ご存知、でしたか」



 彼女の言葉は、肯定のものと受け取ってよさそうです。


 そこに少しの、躊躇いのような色が、見えました。



 どういう、ことでしょう。


 その躊躇いはトライ様個人に対するものか。はたまた。


 どうにも気にされているようなので、別のことを尋ねましょう。



「あなたもわたくしのこと、聞きませんのね。キキ」



 切り込んだものの。


 彼女は口元ではなく。


 また目元で、柔らかく笑いました。



「存じておりますので」



 呟くように言う彼女のそれは。


 どちらでもとれるようでいて。


 わたくしを見ているようでいて。



 直に、と言っていた通り。


 彼女の後ろで舟が、濃い霧をくぐっていきます。


 ここに入ったときのような、白。



 わたくしもまた、飲まれるようにその白の中に入り。


 出て――――思わず目を細め、そして見開きました。



 世界が、白寄りの灰から、鮮明な赤に。



 川の両岸には、赤い葉と花を多くつけた、木々。


 しだれかかるように、それが川の奥までずっと、続いて。


 水面は落葉落花で埋め尽くされ、赤く。



 川土手の上の柵、あるいは先の橋の欄干は朱塗りで。


 目に痛いくらい、艶やかで。



 土手や橋、その向こうに家屋。そしてさらに向こうに見える、山。


 おそらく川辺のそれと同じような木々が、びっしりと生えた、山。


 そんな山が、右を見ても、左を見ても、幾重にも見えます。



 家屋の屋根は……かわら、というんでしたか。


 青が多いその屋根が、赤く照らされていて。


 振り向くとそこには、灰の霞ではなく。



 川の果て、大きな山の斜面から覗く、夕日が。



 ぐるりと見回し、また正面を向くと。


 キキと、目が合いました。


 その瞳も仄かに、赤が差していて。



 唇は、もっと朱に染まって見えます。



「ようこそ、日照ヒデラシへ。


 カーラ様」



 目元は涼やかに。


 口元だけ、薄く伸びて。



「カーラと呼んでください、キキ」



 わたくしがそういうと、彼女は瞠目し。



「いえ。カーラ様」



 開いた目を合わせず、答えました。



 ……そう。



 この奇縁をすら、袖にされるのならば。


 情を交わすことすら、許されないのならば。


 人と差向うことに、どれほどの意味があるのでしょう。



 一人、紙に向かい。


 ペンを走らせたい。


 しかし筆を求める指先は、空を切るばかりでした。

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