第3話.カーラ・クロウブの白い結婚
婚儀は……滞りなく終わりました。
いえ、わたくし何もしてませんが……本当に、滞りなく。
その日に入ったばかりのわたくしに、何かするべきことなどあろうはずもなく。
ひたすらに、きつく締まる胴回りに耐え。
促されるままに歩き、礼をし。
酒、らしきものに口をつけ。
着物、というらしい、あの折り重なったような服。
豪奢ではあるのですが、重く……本当に重く。とても厚手で。
王国よりもひやりとすることのある、この帝国で。ただいるだけで汗をかこうとは。
様式の異なる家屋。
キキに似た服で……もっと派手な装いの方々。
珍しい、食べ物の数々。これから、わたくしが口にすることになるだろうもの。
目に映るものを眺める暇も。
食事をする余裕もなく。
ただただ、流されていきました。
着せられた重く、白い派手な着物。
他人事なれば、楽しめたかもしれませんが。
鎧、と呼ぶにふさわしい重量感で。辛抱することしかできませんでした。
幸いなのは、傷の処置をいただけたことでしょうか。
傷口にキキが紙を貼ってくれまして。血が滲んできません。
しかも肌の色に合わせて変色するそうで、まったく目立たない。すばらしい御業です。
そのせいかどうかはわかりませんが、人前に出ても、今回は何も言われませんで。
少し、胸が暖かくなりました。
しかしそれとこれとは別、と申しますか。
あれは、苦行です。
わたくしにとっては、結婚、そのものを示しているかのよう。
ただひたすらに重く。苦しく。わたくしを縛り付ける。
式次第が終わり、解放され、薄手の衣に袖を通したときは。
誰もいなくなってから、そっとため息をついてしまいました。
その呼気には、これから起こることの予感に対するものも……少し混じっていました。
床……たたみ、というんでしたか。
そこに直に引かれた、広く、薄い布団に言われるまま膝を折って、座り。
待つこと、しばし。
靴がなく素足なのは、少々落ち着きません。
この正座、という座り方も、慣れません。
作法とのことですので……守らねば、なりませんが。
これまでの暮らしと、違いがとても多く。
気持ちが、胸の内が、ざわつきます。
一度王城で引かせた涙が、そっと思い出されるくらいには。
引き戸、というのでしょうか。
その扉を開け、男性が入ってきて。
しかし私の心は、動きません。
覚悟していた……わけではないのです。
ただもう、気持ちがついていかなくて。
父の死に目にもあえず。
婚約者には裏切られ。
わたくしを引き留めるのは、私欲に濡れたものばかり。
あの子の縁は、時間を感じさせるほどには、遠く。
遠く東国は馴染みもなく。
わたくしはここで……無理やり、女にされる。
現実味が、どこにも、ありません。
ですがはて。
この方は……長身、鋭利な刃物を感じさせるお顔の、その方は。
確かにわたくしの夫となられた方、のはずですが。
その。寝巻のようには、見えない装いです。
少し羞恥を覚えるくらいの薄布のわたくしとは、だいぶ異なります。
まるでこれから執務にでも、赴かれるような。
「お前の暮らしの面倒は見よう」
およそ初めて聞く、わたくしの夫の、低い声。
「だがそれだけだ。関わりは持たぬ」
ぇ。
「仕事を与える。私の代理として、表に立て」
「トライ様、それはいったい……!」
「名を呼ぶことを許した覚えは、ない」
ぴしゃり、と言われ。
身が竦み。
わたくしは二の句が、継げなくなりました。
「キキを通し、追って知らせる。休むがいい」
わたくしの夫となられた方は。
そう仰られるとすぐに、去られてしまいました。
閉められた扉の音を最後に、静寂が訪れ。
わたくしは一人、呆然とするしか、ありませんでした。
どういう、ことでしょう。
結婚、しました。なぜか仕事を、言い渡され。
それは、いいのですが。
伽もない。かかわら、ない?
それは、よいのでしょうか。許される、のでしょうか。
信じられま、せん。
いまさら、覚悟の定まらぬ心に、怯えがきたようで。
俯き、思わず部屋の隅の、闇を、見て。
見て……おや?
目の端、部屋の外……確か中庭に出られる側。
いま、何か動くものがあったような。
そちらは薄い引き戸ゆえ、少し光の揺らぎが見えるのです。
思わず、寄って。戸を引きますと。
「……キキ?」
小一時間ほど前、反対の戸から退出していったはずの、彼女が。
なぜここに。
黒い、着物。祝いの席とは違う、わたくしを迎えに来た時と、同じ姿の。
木造りの床に、片膝を少し上げて座していた彼女は。
ほっとしたような、罰が悪そうなお顔をしていて。
月光に晒される、その白い肌が、きれいで。
「まって」
立ち上がろうとするのを、思わず素早く袖をつかんで、止めてしまいました。
「……奥様」
わたくしの、なまえすら、よんでくれないの、ですか?
「カーラと呼んで」
恥ずかしながら。少しすがるように、彼女の目を、覗き込んでしまって。
でも言葉がするりと出て。止められなくて。
「お「お願い、ハル」」
袖をつかむ手に、力が、入って。
瞬きをするのも。
息をするのも。こわい。
これすら、拒絶、されたら。
わたくしは。
――――否。こわくとも。ここは、前へ。
わずかに瞠目し。
息をはき、すい。
力をこめて、目を見開いて。
彼女を、見据えます。
先ほどは決まっていなかった、覚悟、が。
おなかの底から、遅れてやってきた、ようで。
少し、時間が流れて。
彼女の、ため息ともつかぬ、息の漏れが、見えて。
「……キキと、呼んでいただけるのなら」
顔を伏せ、目も伏せて、そっと呟く彼女の顔は。
下から見上げる、そのお顔は。
少し、朱が差していました。
横に薄く引き伸ばされる、それではなく。
緩んだような、お口元。
「キキ」
わたくしも、つられて。ほころんだ口から、彼女の名がもれました。
「カーラ、様」
少し、口の中で笑ってしまいました。
それでよしと、しましょう。
……かつても、そう呼ばれていたのですから。
ああ……このほんの少しのつながり。
わずかな熱であっても。
生きている、心地がします。
ん……これはいけません。
少し、おなかに力を入れます。
気が緩んできたようです。
「傷は、どうですか?」
私が力んでるのをどう見たのか。
キキがそっと、頬を撫で。
彼女の貼ってくれた、紙のあたりを、撫でて。
……ぞわぞわ、します。
「痛みも、疼きも、ありません」
「それはよかった」
呟く声が、ちかい。
いくつか貼ってくれたところを、月明かりにさらして見ている、ようです。
息がかかって。
ぞわぞわが、止まりません。
これは、もぅ、だめ、かも。
「こちらは貼り直したほうが……ぁ」
おなかが、なってしまいました。
お恥ずかしい……。
「お夜食を、ご用意いたしましょう」
そっと見ると。
キキの目元、口元、そして頬が。
ふっくりと和らいで……とても楽しげな笑みを象っていました。
うれしいのと、はずかしいので、顔に。熱が昇るのを、止められません。
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