どうこうと


「あなた、ご飯できましたよ」

「おお、今行くよ」

 リビングに作った料理を並べ終え、夫の茶碗にご飯をよそう。

「大盛で頼むよ」

「分かってます。あなたったらいつまで経っても食いしん坊なんだから」

 山のように盛ったご飯を手渡し、向かい合って座った。

「いただきますっと」

 祈りもそこそこに夫はトンカツにソースをかけて食らいつき、飲み込むことなくご飯を掻っ込んで口の中でクッチャクッチャと混ぜていく。

「うーん。毎日食べているのにお前の手料理は美味いな。ほんと美味すぎるよ」

 一塊になったカツと米を嚥下した喉がカエルのように膨らむ。

「毎日お礼言ってくれてありがとうございます」

「いやいやお世辞じゃないぞ。お前の愛情たっぷりの料理のおかげか、この前の健康診断で再検査の通知が来なかったんだからな」

 思わず箸に力を込める。

「それは、良いことじゃないですか」

 おかしい。毎回消費期限を切れた物を使っているのに。

「本当、いいことだ」

 夫はキャベツを食べながら喋るので、口から緑の切れ端がいくつも落ちていた。

「どうした? お前も食べなさい。この後のために体力をつけないと」

 手の骨が近くの茶碗とぶつかり、リビングに乾いた音が響く。

「ええ、そうですね。食べておかないと、身体がもたないですもの、ね」

 箸を手に取り、米を口に含み、不審に思われないように細心の注意を払い、下を向いたまま視線を避けて、粘土をぬるま湯で流し込み、卵鞘を噛んで溢れる粘液を無理矢理飲み込んだ。

 完食した夫が不審がらないように、出来る限り早く食べ終え食器を片付ける。

 洗い物を終えて振り向くと、夫の口がぶつかってきた。

 食べたばかりのトンカツと口臭が混ざり合った吐息と唾液が流し込まれ、逆流させないよう必死に喉に言い聞かせながらすぐさま舌を絡める。

「もう我慢できないんだ。今日はここでしよう。エプロンをつけたままね」

 蝿も群がるような息が首筋を舐めていく。

「ええ。いいですよ。あなた」

 夫の熱を満足するまで受け止める。それが妻となったの日常。


 母さんは美しい人だった。息子のぼくでさえ近づかれると動悸が激しくなることがあった。

 思い出して見てほしい。

 幼稚園や小学校で女性の先生に惹きつけられた事はないだろうか? 

 あの初恋とは言えないけれど、それに限りなく近い気持ちを母さんに抱いていた。

 それに比べると父は男性の象徴のような人だった。

 肩幅は広く鳩胸という言葉は彼のためにあるくらい胸板が熱く、スーツはいつもオーダーメイド。

 父が母さんを愛するように、ぼくにも愛情を注いでくれた。

 忙しい時でも休みをとり三人でドライブ。その後にふらりと立ち寄った定食屋で夕飯を食べる。

 一人で三人前を頼むのに、食べ終わるの一番早くて、ぼくと母はその早業を見ていつも笑っていた。

 父は仕事に行く前、角張った大きな手でぼくの頭に手を置く。

「今日も愛しているぞ」

 そう言ってぼくの頬にキスをしてから仕事に行く。みんなから母さん似と言われるぼくの頬に。

 永遠に幸せな毎日を送れると、ぼくは思い込んでいた。生きている限りそんな事あり得ないのに、ずっと幸せだと思っていたんだ。


 その日も父が休みをとって三人でドライブに出かけた。いつも行かない方向へ行こうと峠を走る。

 グネグネと蛇の上を走るようなカーブを連続で曲がり続けていると、カーブの出口から対向車線にはみ出したトラックが現れる。

 父はそれを危なげなく回避した。トラックは停まるそぶりも見せずに行ってしまった。

 父は悪態をついていたみたいだけど、母に宥められて機嫌を直したんだと思う。

 その時のぼくは連続のカーブとトラックを避けた時の不意打ち気味な動きで気持ち悪くなってしまったから。

 助手席の母さんがこちらを向く。父も心配そうに運転しながら後ろに首を動かす。

 ずっと二人の方を見ていたぼくが先に気づいた。

 ガードレールの白いお腹が迫っている。

 二人はぼくの体調を気に掛けるばかりに全く気づいた様子がない。

 ぼくは危機を教えたかったけど、胃袋から登ってくる酸っぱいものを吐き出すだけで声が出なかった。

 二人が気づいたのはガードレールと車が激突した直後だった。

 衝撃で目の前が真っ白になって真っ暗になって気づいたら後部座席の下で自分の吐瀉物に塗れていた。

 痛む身体に鞭打って前を見ると運転席にはぐったりしている父がいた。

 頭から血を流し苦しそうな呻き声を上げているが生きているようなので、ぼくは母さんの無事を確かめて凍りついた。

 助手席はもぬけのから、ドアは開いておらず、外に出た気配はない。

 フロントガラスの助手席側に、人一人が飛び出したような穴が空いている。

「そんな!」

 ぼくが動く前に、父がシートベルトを引きちぎるように外して外に出ると、ぶつかって変形したガードレールの向こう側に首を出して下を見る。

 そして何度も母さんの名前を呼んでいた。


 母さんと最後のお別れをしてから、父は家にいる時だけ変わった。ぼくが自室で寝ていると、父が母さんの名前を呼びながら部屋に入ってきた。

 そしてぼくの手を引っ張って寝室に連れて行くと……。

 何度ぼくが言っても父は止まらず、退いてくれた時にはカーテンの隙間から陽射しが差し込んでいた。

 それからぼくは家では父の妻としての役割を与えられた。

 息子の存在は完全に忘れてしまったようで、家では母さんの事を呼んでいたように、おまえとしか呼ばない。

 けれど、仕事に行くときは母さんが死ぬ前の父であり、そのときだけ、存在を思い出すように息子として接してきた。


 外ではいつも通りなのに、家では豹変する父。

 父は幸せそうでもぼくは押し付けられる二重生活に耐えられず、母さんが死ぬ前から信頼していた担任の女性教諭に相談した。

 話を聞くうちに女性教諭の顔から笑みが消え血の気が引いた顔には、吐き捨てられたガムを見るような表情に変化していた。

「あなたのお父様は我が校の校長先生ですよ。私が尊敬する校長先生は絶対そんな事しません」

 こうしてぼくの信頼は砕け散った。

 更に担任は周りに言いふらしたらしく、クラスメイトから虐められる。

 父が校長だと知っているから、近すぎず遠すぎずの距離を保っていた。

 例えば

 教科書がなくなる。机の中に食べ終えたゴミが溢れるほど詰め込まれる。

 鞄がなくなっていたので、探すと窓の下に落ちている。

 体育倉庫に入ったら外から鍵を閉められる。

「よく、外に出れたわね」

「授業終わっても帰ってこなかったので、担任とクラスメイト全員が探しにきてくれたんですよ」

「みんな優しいのね。なんて、みんなグルなんでしょ?」

「はい。ぼくを発見した担任とクラスメイトは口から心配した旨の言葉を吐き出していましたが、みんな薄ら笑いを浮かべていました」

「それはそれは……何とも嫌な話ね」

 ぼくが見上げる中、彼は立ったままストローでアイスコーヒーを吸い込む。

「でも、もうそんな日々も終わりよ。あなたの力が必要としている人達のところに私が連れて行って上げましょう」

 大好きな母さんの声で勧誘される。


 また父の相手をしなければならない。沈み込んだ気持ちのまま歩いていると、爪先にソレが当たった。

 ぼくのスマホだった。

 でもそれはあり得ない事だった。

 妻の役割を押し付けられてからスマホは取り上げられ、父だけが行方を知っているはずなのに。

 何故ここに?

 見間違いかと思ってロックを解除すると待ち受けには幸せだった頃の両親とぼくの写真。

 父も母も歯を見せた笑顔でその真ん中にいる幼いぼくは無邪気にヒーローの必殺技を真似ている。

 見ていると両目が熱くなってきた。

 着信が入る。

 一瞬父かと思って放り投げようとしたが、それは登録してある番号だった。

 母さんの携帯からだ。

 それを見た途端、ぼくは迷う事なく電話に出た。

「母さん!」

『今日は』

 天国の母さんに全てをぶちまけたかった。今の地獄のような日々を。

 でも声は母さんなのにまるで初対面かのような言葉遣い。

『もしもし、聞こえている?』

 母さんの声をした何者かが問いかけてくる。

「はい。聞こえています」

『それは良かった。突然電話してごめんね。驚いたでしょう』

「いえ。それでぼくに何の用ですか」

『私は依頼主に頼まれてあなたをスカウトしに来たの。そうね、私の事は〈どうこうと〉と呼んで。周りからもそう呼ばれているから』

 母さんの声だからか、次第に緊張が解れていく。

「どうこうとさん。スカウトって」

『スカウトとは優秀な人材を探し出し引き抜く事です』

「いえ、スカウトの意味ではなく」

『ふふふ。分かってます。冗談ですよ。でも緊張は解れたでしょう』

「言われてみれば確かに」

『いきなりスカウトと言われても混乱するのは当たり前よ。今から言う場所で話しましょう。ね』

 歩いて数分の場所だったので了承する。

『待ち合わせ場所に着いたら、こちらから電話するわね』

 どうこうとさんからの電話が切れる。ぼくは父の叱責も気にならずに待ち合わせ場所へ走り出した。

 到着した場所は目印らしい目印もない歩道の真ん中だった。

 着いた途端に着信が入る。

「ここで会ってる?」

『ええ。到着したあなたが見えるわ。今からそちらに向かうわね』

 電話が切れると同時に、こちらに向かって歩いてくる人型が目に留まった。

 その人形は見上げるぼくの前で立ち止まると、黒いソフト帽を真っ白な頭から少し持ち上げる。

「改めて。私はどうこうと。以後お見知り置きを」

「ぼくの名前はーー」

『知ってるわよーー』

 どうこうとさんの口に当たる部分から告げられた名前は確かにぼくの名前だった。

「立ち話も何だし、どこか座れる所に行きましょう。ああ、あそこがいいわね」

 ロングコートの裾から伸びる、白くて細長いナナフシのような指が、近くのファストフード店を指し示す。

 二人して入ると、肉の焼けた匂いやポテトを揚げた油の香りとソースの芳香が死んだはずのぼくの胃袋を刺激した。

 ぼくは迷わずにバーガーとポテトのセットを頼む。

 代金を払おうとしたところで、財布を持ってないことに気づく。

 助け舟を出してくれたのはどうこうとさんだった。

 黒のコートの懐に手を差し入れると、ぼくの買った分の現金が寸分違わず出てくる。

 先にテーブルに着くと、どうこうとさんは手にストローの刺さった紙コップを持ってこちらに来た。

「お待たせしました」

「さっきはありがとう。お金は必ず返すから」

 どうこうとさんは口に当たる部分にストローを差し込んで中身を吸いながら、掌をこちらに見せた。

「今回の報酬の前金が出ているので気にしないで」

 母さんの声で言われると、すんなりと納得する事ができた。

「分かった。でもお礼は言わせて。ありがとう」

「ほら。頼んだ物が冷めてしまうわ」

 ぼくは促されて、久々のまともな食事を堪能した。

 食べる幸せに耽溺している間、どうこうとさんは何も言わずに立ったまま待ってくれていた。

「さて、本題に入るわね」

「スカウトの件だね」

「あなたを欲しがっている依頼主様はWMR社と言う企業様です」

「聞いた事ないけど、何をするところなの」

「はい。日本のみならず世界中に支社がありまして、主な使命はーー」

 全部聞き終えてぼくは面白そうだと思った。そんな刺激的な毎日も悪くない。

「その表情」

「えっ?」

「未知を前に楽しそうな表情をするあなただからこそ、依頼主様が必要とする人材なのでしょう」

「必要とされている……」

「ええ。必要なんです。あなたが」

「でも問題があります」

「あなたのお父様ね」

「そう、あいつは絶対反対して、ぼくは家に閉じ込めようとすると思うんだ」

「私に任せて」

「どうこうとさんが?」

「障害を排除するくらいお安い御用よ。さあ、あなたの心に刺さっている小骨を教えて」

「教えたら必ず解決する?」

「勿論」

「じゃあ、三十一本の小骨をどうにかしてほしい」

 ぼくを苦しめてきた人間を教えるとどうこうとさんは頷いた。

「分かった。早速行ってくるわ。あなたはここで待っていて。すぐ戻るから」

 ぼくの目の前から消えた。飲みかけのジュースが空になると同時にどうこうとさんは帰ってきた。

「これでいいかしら」

 どうこうとさんが見せてくれた年代物のアルバムの中身は、ぼくを満足させるに充分だった。


「ここでいいかしら」

 どうこうとさんが立ち止まったのは、十字路の真ん中、行き交う車がぼく達を避けていく。

「迎えのヘリでも来るの」

 会社の規模を考えたら、そんな映画みたいな事が起こっても不思議ではない。

「いいえ。そんな煩くて時間のかかるものは来ないわ。ここに入って欲しいの」

 母さんの声で促されたのは、どうこうとさんが開いたコートの内側。

 コートは黒い、光を吸収するブラックホールのように光を反射せず、見つめているとまるで瞳孔のようにも見えてきて、その無限に続く穴に落ちたくて堪らない。

 手を伸ばすと、案の定コートに吸い込まれる。向こう側にはつっかえがなく何処までも落ちていけそうだ。

 どうこうとさんを見上げる。

「準備はできてるわ。後はあなたのタイミングよ」

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 ぼくは頭から飛び込む。

 頭から飛び込んだはずなのに、気づいた時にはコンクリートに囲まれた部屋でパイプ椅子に座っていた。

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