マブタナデ
証言、1 十七歳男性、バイトの休憩室で遭遇。
ええ。はっきりと覚えていますよ。あの日の出来事は。
バイトの休憩時間に入った時でした。
その日は三連休の初日でお客さんは昼を過ぎても途切れなくて、ずっとチキンを作り続けていましたよ。
フライヤーから上げるチキンは一度に八十個あるので重いし、熱された油から立ち上る蒸気は熱いしで、もうクタクタでしたよ。
何とか商品を溜めて、二階にある休憩室に入ったんです。
その時はもう仕事の疲れも忘れて走るように階段を登りましたよ。
理由ですか? 言わなきゃ駄目ですか。分かりました。
十九時にですね。推しのライブ配信があったんです。推しの意味は分かりますよね?
じゃあ、話を進めますよ。
休憩室の椅子に座ってすぐ、休憩時間終わりを告げるタイマーをセットして、ポケットからスマホを取り出したんです……あっ今のなしで、厨房にスマホの持ち込みは禁止なんで、バレたらクビになっちゃうので……。
あっ公表はしないですか。じゃあ良かった〜。で、スマホを取り出したところで、丁度推しの配信が始まったんで、安堵のため息を吐きました。
えっ?推しの名前ですか? 言わなきゃ駄目ですか? 分かりましたよ。事実確認の為ですからね。
推しのVtuberは
あっ名前だけでいいんですか。分かりました。
チェッ、先に行ってくれよ。
それで、天乃翔の配信を見ていたらですね。欠伸したくなったんです。
でも寝るわけにはいかないですよ。推しの配信は一秒たりとも見逃すわけにはいきませんから。
いつもはどんなに眠くても疲れても、配信見ている間は両眼が覚醒して眠気なんてなくなるんです。
けれど、その時は何やっても欠伸が止まらないんですよ。何度噛み殺しても、奥から奥から溢れてくるみたいに。
何十度目かの欠伸を我慢しているとですね。ふと横に気配を感じたんです。
おかしいんですよ。いや休憩室だから従業員は来るのはあります。
でもですよ。その気配右側から感じたんです。
左側にドアがあるのに、そのドアが開いた音は全くしなかったのに、ですよ。
普通ならゾッとするのに、その日は推しの配信を見ながら眠気と戦っていたんで、怖いという感情は出てきませんでした。
で、問題はここからなんです。
目の前に右側から手が伸びてきたんです。天乃翔の右手が。
天乃翔はいつも親指以外の指が剥き出しの黒い革手袋をしているんですが、その掌が目の前に現れたんです。
同時にミルクティーみたいな匂いがして更に眠くなってきて、天乃翔の指がぼくの瞼を撫でたところでタイマーが鳴りました。
気づくと配信も終わっていたんですが、天乃翔に瞼を撫でられたからか、物凄くスッキリした気分でした。
これが体験した全部です。それでいつ報酬をくれるんですか?
証言、2 三十五歳男性、自室のリビングで遭遇。
はい。あの日にあった事を話せばいいんですね。
でも記憶なので細かい違いはあると思いますが、大丈夫ですか。分かりました。
その日は妻の一周忌でした。
名前ですか。
えっ、梨花の死因も言わなければいけないんですか。あの日の出来事の裏取りの為、ですか。
分かりました。でも決して口外しないでください。妻の死を晒し者にしたら私はあなたに何をするか分かりません。
梨花が死んだのは交通事故です。道路に飛び出した女の子を助けようとして車に轢かれてしまいました。
けど梨花の決死の働きは無駄ではありませんでした。
抱き抱えられた女の子は奇跡的に助かったんですから。
でも、女の子にどれだけお礼を言われても気持ちは晴れませんでした。
だから、やんわりと接触を拒否して四十九日が終わっても塞ぎ込む毎日。
やがて親戚や心配してくれる友人の連絡を返さないでいると、誰からも連絡は来なくなりました。
家で物言わぬ妻と二人きりになれた事で、気持ちの整理がつくと思ったのですが、そんな事はなく、何故死んでしまったのかと梨花を責め、轢き殺した運転手と飛び出した女の子にも恨み言を言い散らかす日々を一人で送っていたんです。
客観的に見ると、かなりヤバい人間ですね。私は。でもどうにもならなかったんです。
誰かを恨む事で梨花が帰ってくるなら。そんな叶うはずのない願いを持ち続けて過ごしていました。
梨花と二人っきりで一周忌を迎えた時でした。
その頃殆ど眠れず、医者も匙を投げるほどでした。
いつも梨花に話しかけては気を失って、目覚めたら話しかける事を続けていたんです。
一周忌当日。寺院に行く時間に遅れないようにタイマーをセットして、その日も話しかけていたんですが、不意に眠気が襲ってきたんです。
その時は、深く考えずに疲れが溜まっているだろうくらいに話し続けていたらですね。
左側に気配を感じたんです。
突然だったのですが、馴染み深い気配と妻がお気に入りの花の香りの香水が香ったので、特に驚くこともなかったですね。
その気配はしばらく止まっていたのですが、衣擦れの音と共に左手が、薬指に指輪をした妻の手が伸びてきたんです。
そのまま瞼を撫でられると、たちまち視界が暗転しました。
次に気がついたのは耳に飛び込んでくるタイマーの大音量のおかげでした。
とても爽やかな気持ちでしたよ。一時間足らずでしたけれど、人生で一番の快眠だと胸を張って言えます。
左側から来たのは間違いではないかと? いえ間違いではないですよ。左手が伸びてきた事も明確な理由があります。
妻は、梨花は左利きなんです。
ところでいつまでこの施設に寝泊まりしていればいいんですか? 長引くようなら上司に連絡しておきたいのですが。
マブタナデ。この怪異の名称だ。
近年、亡くなった恋人や手の届かないアイドルによって瞼を撫でられて眠ってしまったという体験談が相次いでいる。
何年前から出現したのか不明だが、ここ数年の勤労過多や睡眠不足と因果関係があるのではないかと推測されている。
場所や時間は様々だが、共通しているのは一人っきりで、酷く疲労している時に現れる事が共通している。
調査の為、ぼくは同じ環境を作って怪異の出現を待つことになった。
部屋には見つからないようにビデオカメラとボイスレコーダーを各所に潜ませた。
しばらくすると、体験者たちが言っていた通り、右側に懐かしい気配を感じたが、手は瞼に伸びてこず突然消失してしまう。
記録装置を確認すると、ボイスレコーダーには認識できない雑音しか残されていなかったが、ビデオカメラには映像が残されていた。
背中を向けるぼくの右側に何者かがいる。
しかし全身が黒い幕に覆われ、全くの正体不明。
その幕は全てを飲み込むように光を吸収する事が分かっただけで、それ以外は今現在の技術では解析不能と判断された。
上記の体験者二人に共通する点はタイマーをセットしているところだ。
もしタイマーをセットしない人間がマブタナデと遭遇した場合どうなるのか。
更なる解析が待たれるところだ。
追記
似たような怪異としてマブタナメの存在が確認されている。疲れて眠っている体験者の瞼を舐め回すという迷惑極まりない怪異である。
この怪異は体験者が嫌悪する人物として現れる事が確認されており、ぼくも近々特定する為に体験者と同じ環境が用意されている。
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