恋は盲目

 最近妻の様子がおかしい。

 一日中椅子に座ったまま機嫌が悪いのだ。

 でもその事を責める事はできない。

 一ヶ月前の緊急警報放送は僕たち夫婦だけでなく、全ての人を底の見えない枯れ井戸に突き落とした。

 最初は希望もあった。核兵器、ソーラシステム、電磁バリアーで覆う。南極にブースターを配備し回避する。

 平時なら荒唐無稽と鼻で笑われるだろうが、僕達は心の底からその希望に縋っていた。

 その希望も儚いもので、一週間もしないうちに風に舞う木の葉のようにどこかへ飛び去った。

 だから俯きがちな日々を送る妻に苛々する事はない。

 けれど、どうしても気分は暗くなってしまう。

 鼻を啜りながら今日も妻に話しかける。

「おはよう」

「……おはよう」

「お腹空いてるだろ。朝食用意したよ」

「……ありがとう。でもいらないわ」

「そっか、分かった。お腹空いたら言ってくれよ」

「……」

 こんな短くて途切れがちな会話が、かれこれ一ヶ月近く続いている。

 このマンションに引っ越したのは一年前。エントランスを出たらすぐ公園もあり、徒歩五分で行けるスーパーも(しかも深夜まで営業)ある。不便があるとすれば最寄り駅が徒歩二十分かかる事だろうか。だけど妻が「いい運動になるわね」と言ったので、それはそうだと納得した。

 僕と妻が出逢ったのは中学の時、教科書を忘れて途方に暮れていた時に声をかけてくれたのが隣の席の彼女で、ロングヘアから漂う清潔な香りがふわりと僕の鼻をくすぐった。

 優しく包み込んでくれる姉のような存在で、ぼくが恋を自覚するまでさほど時間はかからなかった。

 ある日、僕は彼女に呼び出された。今がチャンスと勢い任せに告白すると、彼女の告白と被ったのは、今も鮮明に思い出せる。

 止まらない涙を残り少ないティッシュで拭う。

 窓はおろかドアもここ何日も開けていないので、ハウスダストが溜まっているのだろう。

「なあ、掃除道具どこにある?」

「それなら……」

 テーブルから指示を出す妻に従って、室内の埃や絨毯に垂れたコーヒーのような液体、そして辺り一面に散乱した長い髪の毛を取り払っていく。

 住み慣れた我が家だが、既に電気も通っていないので、真っ暗な中、手探りで掃除を進めていった。

 途中外からドアを激しく叩かれたが、居留守を決めて掃除に集中した。

 妻の待つリビングに戻り、まだ電池が生きている時計を見るともう夜に差し掛かる時間だった。

 テーブル下に置いてある防災バックから残った非常食を取り出し、白いテーブルクロスの上に並べていく。

 妻の視線に気づく。

「食べるかい」

「ううん。大丈夫よ。もう残り少ないんだし、あなたが食べて」

「でも、お腹空いてるんじゃ」

「私より、いっぱい動いているあなたが食べるべきよ」

 妻に押し切られ、鼻を啜りながら僕一人で夕食を食べた。

 いくら愛する妻がいるとはいえ、一日中家に閉じこもっていると手持ち無沙汰になって、色々考えてしまう。

 このマンションから人の気配が消えたのはいつからだったろうか。

 一ヶ月前、家の周囲は喧騒と狂乱に包まれた。窓から外を覗くと、人々は殴り合い殺し合い物を奪って逃げている者もいれば、腐肉に集まる蝿のように一人の女性に群がる男達。

 至る所で火の手が上がっていたが、警察も消防も機能していないのか、自然鎮火するまでの数日間、空は雨を降らす事のできない雲に覆われた。

 惨状を見た僕は妻を酷い目に遭わせない為に、最期まで家に閉じ籠ることを決意。

 自分で命を絶つという事は考えたくもなかったし、愛する妻が先に死に、万が一自分だけが生き残る事なんて耐えられなかった。

 それが三週間前のことで、僕は荒れ放題になった近所のスーパーで出来る限りの食糧をかき集めたのが最後に外に出た日だ。

 道の至る所では倒れて動かない人がそこかしこにおり、逆に立っている人は手に手に凶器を持って獲物を探す肉食獣のように辺りに視線を這わせていた。

 隣の部屋には妻と親子のように親しかった老夫婦がいた。彼らは毎日のようにベランダで念仏を唱えていたのだが、二週間前からその声はパッタリと止んでいる。

 カーテンを引き、瞬間接着剤で固定した窓を見るとあの悲鳴が脳裏から蘇った。

 一週間前、僕と同年代と思しき男性の叫びが聞こえてきた。

 その声は上から下に向かって遠ざかっていき、微かなグチャっという音と共に声も止んだ。

 声の主は今も下で潰れているのだろうか。それともカラスのご馳走と化しているのか。

 そんな思考を打ち破るガンガンという金属音。

 引きずった冷蔵庫のバリケードで塞がれたドアが叩かれた。

 残り一週間を切った頃、それは決まった時間もなく、ドアをノックしてくる。音の大きさから金属の棒のようなもので叩いているみたいだ。

 しかも隣の部屋のドアも叩いているようなので、一日かけてマンション全室に同じ事をしているのかもしれない。

「あなた」

「何?」

「鼻」

 妻に止まらない鼻汁を指摘されてティッシュボックスに手を伸ばすと、あるべきはずの紙がない。

 仕方なくもう何日も着たままのシャツの袖口で拭き取った。

「……汚い」

「ごめん」

 椅子に座った妻は何も言わなくなってしまった。

 針となった沈黙のせいで耳が痛い。

「もし、こんな世界にならなかったら君は何したかった」

「……」

「僕は、平和な毎日だけで充分。朝起きたら君の朝食を食べて「いってらっしゃい」って見送られて仕事に行って、作ってくれたお弁当を食べて午後の仕事も頑張って、帰ったら君の「おかえりなさい」とお風呂で癒されて、夕食を食べたらぐっすり眠って一日を終える。休日には一緒にショッピングや映画を見に行って、君はホラー映画大好きだから、僕がビビっていると手を握ってくれて……」

 妻は黙って聞いてくれる。

 止まらない涙を何度も袖口で擦っても、妻は怒らなかった。

 思い出に浸っていた僕達の穏やかな時間を打ち砕いたのはドアを叩く音だった。

 もちろん無反応でいると様子がおかしい。

 いつもなら一、二回で叩いてどこかに行ってしまうのに、今回は延々と叩かれる。

 まるで僕達が中にいる事を確信しているかのように。

 妻との最期の時間を邪魔されるのは我慢ならない。

 僕は武器代わりのフライパンを片手に冷蔵庫の隙間に身体を潜らせドアスコープを除く。

 正面には誰もいないがノックは続いている。

 視線を下に傾けると、果たしてそこにいたのは少年だった。

 プールなどで使うスイミングゴーグルにマスクをした出立ちで一心不乱にドアを叩いている。

 少年は拳を打ち付けながらも、何かに怯えるかのように左右に首を巡らせていた。

 僕はリビングに戻る。

「誰だったの」

「子供だよ。小学生か中学生くらいの」

「入れてあげないの?」

「僕が助ける義理はない」

「そんな事をいうあなたなんて嫌いよ。お願いだから中に入れてあげて」

 もうすぐ全てが終わるのに子供を助けて何になる。いい事をして天国に行く切符を手にしようとでもいうのか。

 そんな反論が喉まで上がってくる。

「あなた、お願い」

 妻の言葉で反論の言葉を唾と一緒に飲み込む。

「今開けるからノックを止めてくれ」

 扉越しに大声を出すと音が止んだ。

 ドアスコープで確認すると、少年は左手で右手を摩りながら、ドアに視線を据えている。

 よく見ると全身が震えていて、こちらを騙そうという気配は感じられない。

 ドアを開けると、僕が何か言う前に少年のマスクが動く。

「助けてください。変な男の人に追いかけられているんです!」

「変な男?」

 そんな人間今はどこにでもいるだろ。と言いかけたところで、僕の左手側から足音が聞こえてきた。

 男が荒い息遣いでこちらを見ている。

 右手には所々茶色くなってへこんだ金属バット。

 何日も洗ってないのか、脂塗れの髪を髭の伸びた顔に貼り付けて走ってくる。

 バットが振り上げられるのを見ていると、室内から妻の声。

「二人とも早く中に!」

 金縛りが解けた僕は少年を引っ張るように中に入れてからドアを閉めようとするも、一足早く男のバットが眼前に迫る。

 鼻先に錆び臭いバットが触れたところで動きが止まった。

 暴漢の血走った眼球が僕を見つめたまま固まると、きつい口臭が鼻腔に侵入してくる。

「お、お前……ぶぐっ!」

 バットを落とすと自らの鼻と口を手で押さえ、今にも嘔吐しそうな表情で後ずさると全速力で廊下を引き返し、階段がある方へ姿を消した直後、重いものが転がり落ちる音と悲鳴が重なり静寂が戻った。

 僕はもう誰も入れまいとドアをしっかり塞いでリビングに向かう。

 そこには妻と助けた少年が向かい合っていた。

「あなた。この子、両親を亡くしてひとりぼっちみたいなの」

「そうなのか?」

 直接尋ねると、僕を凝視していた少年が口を開く。

「一週間前、父さんが急に襲いかかってきて、母さんが助けてくれたんですが、酷い怪我をして、し……動かなくなってしまったんです。しばらく一緒に暮らしていたのですが、お腹が減って我慢できなくて……」

「外に出たらあの男に襲われたんだね?」

「はい」

「でもよくこの部屋に人がいるのが分かったね」

 少年は妻がいるリビングの方を見ながら答えた。

「あの、ぼくの家と同じ臭いがしたので」

「匂い?」

「助けてくれてありがとうございました!すぐ、出ていきます」

 肩を震わせる少年に出ていけなんて言葉はとてもじゃないが言えない。

 妻の方を見ると僕と同じ気持ちのようだ。

「ここにいなさい」

「えっ?」

「ここにいなさい。僕も妻も歓迎するよ。もちろん君がよければだが」

 少年は僕と妻を交互に見ると、涙と鼻水を垂らしながら何度も何度も頷く。

 僕は出来る限り綺麗なタオルを持って彼に手渡し、椅子に座るように薦めた。

「今日からあなたはうちの子よ。何も遠慮なんかしなくていいからね」

 僕を見てから妻を見た少年が、控えめな感謝の言葉を口にする。

 僕は腹を空かせているであろう少年の為に残った非常食を全てテーブルに広げ、彼の為に明かりを取り入れようとカーテンを少し開く。

 黒煙の雲が過ぎ去った空は、僕達の絶望した気持ちに反して爽やかな晴れ模様。

 その青空に太陽が二つ輝いている。

 片方の太陽は光の尾を引き、確実に僕達に近づいてきていた。

 予測通りなら後二十四時間もない。

 陽光に照らされたリビングでは椅子に座った妻に少年が寄り添い、リスのように非常食を食べている。

 妻は微笑みを浮かべながら、その様子を見守っていた。

「あなたも一緒に食べましょう。見てたら私もお腹が空いてきたわ」

「ああ、そうだね。三人で食べよう」

 少年に感謝だ。最後の最後で愛する妻の笑顔が見れたのだから。

 僕は尽きることのない涙と鼻水を拭うと、この時間を永遠に過ごす為に、カーテンを引いて外界の状況を遮断した。

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