肉だんご

 今日も憂鬱な一日が始まった。

「ドアが閉まります。駆け込み乗車はおやめください」

 一度閉まりかけたドアが開いた。

 次の電車に乗れば良いのに。

 あなた達が苦痛の時間を生み出している事を一刻も早く自覚してほしいよ。

 もしインタビューを受ける事があったら、ぼくはこう答えるね。

 目標にしていた高校に無事合格したのが、十五年生きたぼく最大の幸福ですね。と。

 それからはゴールのない泥水のウォータースライダーを滑り落ちる日々。

 学校へ向かうには、徒歩では遠すぎるし自転車では上り坂が多すぎて、ぼくの脚力では学校にたどり着けないという結論に達した。

 じゃあ電車通学が楽かと言われれば、ぼくと同年代の人なら早朝平日の電車内がどれだけ辛いかわかると思う。

 もうこれは現代で活躍する拷問器具としか思えない。

 到着した電車の窓から見える、人人人。

 ドアが開くと同時に、くしゃくしゃのガムの包み紙のような老若男女が改札目指して殺到する様は全力疾走するゾンビみたいだ。

 そんな事を思っていたら、車内から伸びた舌に引き摺り込まれるように、列に並ぶ人達と一緒に車内へ引き摺り込まれた。

 ぼくは布団圧縮袋に入れられた布団のように押し込まれる。手すりや吊り革に掴まれれば運の良い方で、椅子に座るなんて夢のまた夢。周りの人達が空いた座席に尻を落とそうとする姿は、小学生の頃やったパン食い競争の勢いを思い出す。

 ぼくが固定された場所は窓際だった。身体をサンドイッチされるように固定され、そのままドアが閉まった電車は乗客の存在など気づいていないように滑らかなスタートを切る。


 赤の他人と密着する十分間。ぼくの視界には様々な方法で時間を潰している人達が見える。

 スマホで動画を見ている男子高校生、イヤホンで音楽を聴いていると思われるぼくより少し年上の女性。スーツ姿の男性は立ったまま器用に文庫本を開き、ぼくの隣にいるおばさんは小さな扇風機を顔に当てていた。

 車内では勤勉な冷房が働いているが、冷風はぼくに届く前に充満した湿気と混ざり合い、何の役にも立たない。

 突然振動によって窓際に押しつけられたので、何とか肩の骨を使って身体を支えた。

 窓には整髪剤やどこから滲み出たか分からない脂の跡が手招きするようにぼくの目の前に迫ったが、なんとか素肌の接触を避ける事ができた。

「……事故防止のため急ブレーキを掛けることがありますので、手摺り吊り革におつかまりください」

 無機質なアナウンスは、ぼくの神経を逆撫でする。

 動けない身体に溜まったストレスを少しでも発散するように自由な首を巡らすと、車内に知っている人物を発見する。

 その人は、同じ高校に通う同級生で小学校から一緒の初恋で憧れの人。

 この苦痛な通学を選んだ理由は、彼女と一緒にいたかったから。

 小学生の頃はよく一緒に外で遊び、彼女が苦手な虫から身を挺して守っていたのは、ぼくが唯一語れる武勇伝だ。

 憧れの人は小学生からスポーツが得意で、今の高校にもスポーツ特待生で入学していた。

 髪をポニーテールにして短距離走をする姿を見たことがある。

 運動着から覗く太ももの筋肉が動く度に盛り上がるさまは、まるでサラブレッドのようだった。

 車内唯一の癒しを見ていると、彼女の後方にいる男の存在に気づいた。

 そいつはぼくの父と同じくらいの年齢に見え、スーツを着ていることからサラリーマンだと推測する。

 中年サラリーマンは、ぼくの憧れの人に視線を定め鼻の穴を大きく膨らませている。

 当事者の彼女はイヤホンをしてスマホをいじっているので、背後の透視するような視線に気付いてない様子だった。

 サラリーマンは、ポニテのカーテンから見え隠れする汗の浮かぶうなじを吸いこもうとする勢いで凝視している。

 ぼくはここで株を上げようと一瞬考えたが、チラリと見えた彼女のスマホの液晶によって気持ちが萎えた。

 メッセージアプリでやり取りしていたようで、その相手は一人しかいない。

 彼氏だ。

 高校入学後、憧れの人はみんなの前で付き合っている事を公表した。

 一年上の先輩でまるで漫画に出てくる主人公のライバルキャラみたいに容姿端麗、運動神経抜群、勉強もできて、教師を含む女子全員から好かれている。

 そんな先輩と彼女はお似合いすぎて、ぼくだけでなく周りからも反論の言葉は出てこなかった。

 憧れの人に彼氏がいる事を思い出して憂鬱な気持ちになったところで、また急ブレーキ。

 肘の骨や鞄の角が、ぼくのお腹や背中、持っているカバンに食い込んだ。

 ヒヤッとした。中には学校生活の数少ない楽しみの一つ、お弁当が入っているのだ。

 母さんが用意してくれたのは好物の肉団子。

 大丈夫とは思うが、カバンを開ける事ができないので、無事な事を祈ることしかできない。

 駅到着まで数分、目を閉じて特技とも言える妄想の世界に飛び込む。

 そこでは憧れの人と付き合っているぼくが彼女の家に招かれ、手作りの肉だんごを口に運んでもらう。

 愛情たっぷりのソレを口に含んだ瞬間、ガリっとした食感の後に、得体の知れない液体が溢れ出した。

 現実に戻されたぼくは舌で口内を探るが、当たり前な話だが何もなかった。

 電車が揺れ、大きくお腹が突き出た男性がぶつかってくる。

 ワイシャツ越しなのに汗ビッチョリなのがはっきりと分かって、表情に出ないように注意する。

 男性はすいませんと言って体制を直したが、顔から流れ落ちる汗は、スーツの襟にシミを作るほどで、蒸し暑い車内で一人冷凍庫にいるように小刻みに震えていた。

 お腹を抑えているところを見て、ぼくは事情を察した。

 駅に着くまで何事もありませんようにと祈りながら、目を閉じる。

 肉だんごとトイレからある虫を連想してしまう。小さい頃見たホラー映画で、何百匹もの黒い虫が人間を生きたまま食い殺す場面だ。

 あれはなんていう虫だったっけ?

 結局思い出せず、先程のような幸せな妄想のチャンネルを探すが、ついぞ見つからなかった。

 仕方なく、変わり映えのしない窓の外を見ていると、電車がトンネルに入る。

 小指ほどの長さのそこを抜ければ駅は目の前。

 ぼくは胸の錘を落とすように長く息を吐いた。

 まだ窓一面が漆喰に塗り固められている間、車内からネットに繋がらないと声が聞こえてくる。

 相変わらずサラリーマンに見つめられたままの憧れの人も苛立たしげにスマホを指で叩いていた。

 トンネルから抜ければすぐ繋がるよ。と心の中で呟くと、闇が払われ朝特有の強い日差しがぼくの瞳孔に飛び込んできた。

 眩しさに一瞬瞼を閉じて再び開いた時、大勢の他人がいる中でえっ?と間抜けな声をあげてしまう。

 街が暗い霧に包まれている。あちこちから煙が上がっているせいだ。

 火事だろうか、それにしては数が多い。一つや二つではない。ドアの窓から見える黒煙の数は十を超えていた。

 駅に近づいたのか電車が減速した。

 そのおかげで近くにある道路の様子がよく分かる。

 ドアが開けっぱなしの車が何台も車道の真ん中に置き去りにされ、蟻の群れのような人の波が一方向に向かって逃げるように走っていく。

 それを追いかけるように、歩道橋の高さもある黒い球が転がっていた。

 正体を確かめようと意識を窓の方に集中したその時、悲鳴のような甲高い金属音が車内に響き渡って電車が急停止。

 ぼくと乗客は勢いに負け、立っている人ばかりか座席に座っている人も、まるで無重力空間にいるように前方に強く押し付けられた。


 鼻の中が腫れ上がるほどの悪臭で気がつく。最初に照明の割れた電車の天井が見えた。

 自分の状況を確かめようと身体を動かすが、首から下は糸を切り離されたようにまるで反応しない。

 首から上を動かしてやっと悪臭の正体が判明した。

 ぼくの周りに乗客が折り重なって積み重なっている。

 強い衝撃を受けたからか、手足が変な方向に折れ曲がった人が多い。顔が背中の方を見ている男子高校生、あの汗まみれのサラリーマンは、お腹をパンクしたタイヤのようにへこませ、股間から茶色い物体を撒き散らしていた。

 そんな肉塊の中でぼくは彼女を見つけた。

 憧れの人の顔だけ見ると無傷だが、ぼくと同じように首から下が乗客の山に埋もれている。

 彼女はある一点を凝視しているようで、声をかけても反応してくれない。

 パッチリと開いた大きな瞳の中で何か動いている。

 どうやら目の中にいるのではなく、瞳に反射しているようだ。

 それは真っ黒なキノコの傘で瞳の中で次第に大きくなっていくのが見えた。

 突然、憧れの人が首が折れるほどの勢いで頭を揺らし、遂には白目をむいて動かなくなってしまった。

 醜く舌を出したまま気を失った姿から、よほど恐ろしいものを見た事が分かる。

 ぼくの頭上に大きな影が覆いかぶさる。

 心臓がバイクのエンジンのように激しく動き、壊れた蛇口のように汗が止まらないけれど、どうしても気になって、意識を失った彼女から視線を外す。

 目の前にいたのは軽自動車ほどもある黒い光沢の体を持つ丸っこい虫だった。

 そこでやっと名前を思い出す。

 フンコロガシだ。

 フンコロガシは巨体で車内の壁を無理やり押し退けながら近づいてくると、人の足ほどもある二本の前脚を伸ばし、ぼくと憧れの人が混ざった人肉の塊を器用にこねくり回し始めた。


 ぼくの眼前で作業を終えたフンコロガシが祈りを捧げるように踊っている。

 ダンスが終わったら恐らく巣に連れていかれるんだろう。この後どんな運命が待ち受けているか想像もしたくない。

 それまでに残り少ない幸せな時間を満喫するつもりだ。

 だって、ほっぺにキスするように憧れの人が顔を寄せてくれているから。

 願いは図らずも叶った。

 ざまぁみろ。


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