愛した人を食べた罰

「これは愛した人を食べた罰なんです」

 彼はそんな事を言っていました。

 最初は猛烈な痛みのせいで意識が朦朧としているだけだと思っていたんです。

 尿管が引っかかった結石を排出しようとするので強い痛みを引き起こすのです。

 刑事さんは若いから患ったことはなそうですね。じゃあ想像するのは難しいかもしれないな。

 例えると……爆弾。腹部が突然爆発したような激痛です。しかもひどいと、それが一晩中続いた患者さんもいました。

 爆弾……うぶっ。

 ……すいません。机を汚してしまい、自分の言った言葉であの地獄絵図を思い出して、しまいました。

 大丈夫です。最後まで話せます。最初は思い出すのも嫌でしたが、誰か、いえ刑事さんに聞いてもらったほうが気持ちが楽になれる気がするので。

 でも信じられますか。

 目の前の人間の腹が爆発したなんて、ねぇ信じてくれますよね? 刑事さん。


 ぼくは子供の頃イリエワニみたいねって離婚した母さんに言われたことがあるんです。

 小さい頃から噛みつき癖があって、好きな人や親しい人の張りのある肌やその下から盛り上がる柔らかそうな肉を見ると、涎が溢れて思いっきり顎を開いて食いつきたくなるんです。

 幼稚園に入る前なんですけど、抱っこされてる時に半袖から見えかくれする母さんの二の腕に噛みついてしまったんです。そうクッキリと跡がつくくらい。

 ああ、もちろん、普通のご飯も大好きですよ。好物はオムライスです。ゾンビみたいに人肉大好きってわけじゃありません。

 それにゾンビ達は見境なく食べますけど、ぼくはちゃんと選びますから。

 痛つっ、


 ぼくの両親はいつも喧嘩ばかりしていて、小学校の頃、離婚した母さんは出ていきました。

 父からは「あの女が他の男と内緒で会っていたのが悪いんだ」とぼくに嘘を吹き込んで味方に引き入れようとするんですが、あまりにもお粗末すぎて笑うのを堪えるために泣いたふりをしていました。

 だって、父はよくお金を持ち出して一日中帰ってこなかったり、ぼくが昼寝していると思い込んで、大声で母さんじゃない女の人と電話しているのをはっきり覚えています。

 でもぼくは父を選びました。

 何故かというと、母さんの田舎は何もないつまらないところだからです。

 一度行っただけですが、ネットもゲーム機もなくて、周りは森に囲まれて虫だらけ、夜になると真っ暗で退屈だったから。

 その分、自分の家ならゲームし放題、動画見放題、部屋でゴロゴロしても、誰にも怒られません。

 だって父が家にいることはほとんどなかったので。

 外面のいい父は、沢山の女の人と付き合っていたようでした。

 帰ってくるのは週に一度、一週間分の生活費を置いていくだけ。

 でも一ヶ月分の高校生のバイト代くらい置いてあるので、同級生の中では比較的裕福な方でした。

 でもそれが知られてからは、お金をたかられるようになってしまったんです。

 それをいつも助けてくれたのがーー

 痛っ!


 ぼくはいじめられています。

 離婚して、同級生の母親達が噂していたのを聞いたことがあります。授業参観はいつもぼくの父は来ませんでした。

 だから小学生でも気づいたのでしょう。

 自分達とぼくは何か違う。

 こいつは親が欠けていて劣っている。だから言うことを聞け、と。結論づけたんだと思います。

 そんなおかしな考えでも多数派になってしまえば、教室という狭い世界のルールになるんです。

 でも、それをぶち破ってくれる頼もしいヒーローがいたんです。

 彼がいなかったら、今頃ぼくはここに座って痛みに苦しんでないと思います。

 ぎっ、いぃぎっ!


 彼は園児の頃から高校生の今までずっと一緒です。

 ナヨナヨしたぼくとは違い、いつも背筋を伸ばして、ツンツン頭は活発さを強く印象づけていました。

 仲良くなったのは、彼のママさんとぼくの母さん同士が仲良くなったのがきっかけです。

 彼は運動全般が得意で、運動音痴のぼくを引っ張ってよく外で一緒に遊びました。

 インドアなぼくでも、彼と二人っきりなら外で遊ぶのはとても楽しいことでした。

 だから親友だけど兄ちゃんと呼んでいます。

 兄ちゃんはヒーローらしく人柄もいいので、自称友人達が羽虫の如く集まってきます。人が増えた時はとてもつまらなくて歯軋りが止まらなかったです。

 でもそんな兄ちゃんも、ある日ヒーローからいじめっ子に転職しました。

 でもぼくは責められません。ぼくの衝動がいけないんです。

 去年の夏のことです。ぼくは毎日のように複数人からいじめを受けていました。

 最初は一週間分の生活費を渡していたんですが、段々と量が増え、遂には一ヶ月分を寄越せと言い出したのです。

 それはできないと拒否すると、暴力を振るうようになりました。

 人気のない校舎の裏でアルマジロのように身を丸くしていると、兄ちゃんの怒声が聞こえてきたんです。

 多勢に無勢でも怯まずに立ち向かい、いじめっ子達を撃退してくれました。

 兄ちゃんがぼくに向かって手を伸ばします。

 暑かったからだと思うんですが、半袖のシャツを捲っていたので、いつもは隠れている二の腕が見えたんです。

 水泳部に通う兄ちゃんは筋肉質な身体をしていました。ガチガチな鎧のような筋肉ではなく、イルカやシャチのような、しなやかな筋肉でした。

 その二の腕の筋肉が盛り上がっていたんです。まるで綺麗にチキンライスを包む卵のように。

 涎が止まりません。口を強く閉じても漏れてくるほどです。

 ぼくは手を伸ばして彼の腕を固定すると同時に、尻にバネ仕掛けが仕込まれていたように飛び上がって、二の腕に噛み付きました。

 舌は汗の味を感じ、前歯が弾力のある筋肉に食い込み皮膚を噛み破る直前、ぼくは頬に衝撃を受けて校舎の壁に背中からぶつかりました。

 何するんだ! 怪物に遭遇した哀れな犠牲者のような目で睨みつける兄ちゃんの一言を最後に、ぼくは気を失ってしまったんです。

 こうして彼もいじめっ子に与しました。今じゃぼくのヒーローではなく、いじめっ子達のヒーローになっています。

 そんなぼくに救いの手を差し伸べてくれたのがーー

 いぎっ、いだいだぃだい。脇腹が裂けそう……


 少し、落ち着きました。

 ぼくに救いの手を差し伸べてくれたのは、兄ちゃんの母親、ママさんでした。

 さっきも言った通りママさんはぼくの母さんとも仲良くて、離婚して田舎に帰ってしまった時は、一緒に泣いてくれたんです。

 これは後から聞いたんですが、母さんはママさんに、ぼくのことを頼むと伝えていたと教えてくれました。

 仲の良かった頃の兄ちゃんとぼくは、夜になるまで遊ぶとママさんの家に寄って、夕飯をご馳走になりました。

 ママさんの料理は美味しい以上にあったかくて、例えば冷やし中華でも、食べれば心の中がポカポカするんです。

 あっ1番のお気に入りはオムライスです。

 でも兄ちゃんにいじめられるようになってからは家に来るなと言われて行けなくなりました。

 すごい悲しくて、部屋でひとりで泣き、家に行っていいか尋ねて拒否されては、泣く日々を送っていました。

 でもある日、家の前でママさんが立っていたんです。

 電話番号やメールアドレスも教えていたんですが、兄ちゃんに全部削除され連絡するなと釘を刺されたので、心配になって来てくれたと言っていました。

 ぼくはリビングでママさんに一部始終を話しました。

 するとママさんはぼくの涙に濡れる手を握ってくれたんです。

 ぼくがいじめられていることに気づかないことを謝っていました。

 自分の息子がいじめに加担していることを謝ってくれました。

 そして彼に言って、いじめをやめさせると約束してくれたんです。

 その後、いじめは無くなりませんでした。彼はママさんから言われて理解したフリをしていたのです。

 ぼくはいじめられ続けましたが、以前ほど辛くはありません。

 何故ならママさんが味方になってくれたから。

 ママさんは彼が嘘つきなことには気づいてない様子でしたが、ぼくの気持ちを敏感に察してくれたんです。

 それからはママさんが時々家に来るようになってくれました。家事だけでなく、甘えるぼくを膝枕してくれたりしてくれたんです。

 だからいじめられても何も感じなくなりました。だってママさんの慈愛の力が、とても強かったから。

 要求に反応しなくなったからか、兄ちゃんを含めたいじめっ子達は何もしなくなりました。

 その代わり周りにぼくのことを言いふらしたんでしょう。クラス全員に無視されるようになりました。

 ちょっと待ってください。また脇腹が痛く、イダイダダダダダダダダダダ


 ふぅ、はぁ〜〜。

 いじめに対して何も感じないと思っていたんですが、そこは鋭いママさん。

 まだ終わってないことに気づいたんです。

 学校に訴えると言うママさんをぼくは引き止めました。

 いじめっ子に意識を持っていってほしくなかったんです。いや息子である兄ちゃんの事も忘れて欲しかった。

 ぼくだけを見て欲しかった。そばにいてほしい。片時も離れてほしくない。

 服越しでもわかる柔らかい肉体と少し濃い匂いを独り占めしたかった。

 だからママさんが帰ってしまった時、ぼくは自室のベッドに八つ当たりをしました。

 怒りが引いた後決意したんです。この溶岩のように熱い想いを伝えなければ、胸が溶けてしまいそうなほどこの熱い想いを一刻も早く。

 次の日ぼくはママさんの家を訪れ、リビングで、むかし母さんが見た恋愛映画を真似て、彼女の前に跪いて告白しました。

 見上げると、口に手を当てて何度か瞬きをした後、

 こう言ってぼくの鼓膜を震わせたんです。

 ありがとうって。

 そう、ぼくの告白を受け入れてくれたんですよ。

 ありがとうって。ぼくは抱きつきました。

 ママさんをしっかりと抱きしめ、握り潰したくなるような柔らかい肉と頭がくらくらするほどの甘ったるい匂いを堪能していると、涎が口内に溜まっていきます。

 目に飛び込む、白く柔らかそうな首。少し影が差したそこは近づかないと分からないほど微かな匂いを発していました。

 ぼくは涎を垂らしながらそこに噛み付きました。

 皮膚を破るほど強く。

 ウギィ!?……いえ大丈夫です。

 この幸せな思い出を語っている方が痛みを忘れられます。

 首に噛みついた時、一緒に床に倒れました。

 仰向けのママさんは手を広げ、ぼくを受け入れてくれたようでした。

 だから遠慮なく顎に力を込めます。

 首筋というだけあってコリコリとした筋が楽しい食感を生み出してくれました。

 次の肩は肉が少なく皮しかなかったので、早々に二の腕へ向かいました。

 二の腕は最高でした。兄ちゃんの時もそうだったのですが、柔らかさと程よい硬さがあって、噛むたびに口いっぱいに美味しい汁が溢れ出すんです。

 肉の少ない前腕は肩と同じく、すぐ食べ終えてしまいました。

 その先は指なのですが、身がないからすぐ済ましたと思うでしょう?

 でも違うんです。指の骨は咥えるのにちょうど良くて、関節のところで分かれて飴玉のように舐められました。

 いつもぼくに触れる指だけあって、歯で削り舌で舐めるたびに味蕾が優しさに埋め尽くされます。

 両手の指を舐め尽くしたら、次はメインディッシュというべき胴体です。

 エプロンとタートルネックが邪魔だったので脱がそうとしましたが、血で身体と床に張り付いてしまって手では上手くいきません。

 試しに噛んでみたところ、イリエワニみたいと言われた強力な顎は難なく服を引き裂く事が出来ました。

 ついでに厚いデニムのジーンズも噛みちぎっておくことも忘れません。

 美味しいものを満喫するには、下準備が大事ですから。

 ……先生? 顔色が悪いですけど大丈夫ですか。ちゃんと聞いてくださいね。

 鎖骨に沿って舌を動かし、胸部を噛み開きます。

 胸は肋骨が多すぎてちょっと手間取りました。でもその間に詰まった肉をスプーンを使うように歯でこそぎ落としたら、次はぼく達男ならみんな大好きな二つの膨らみです。

 跳ね返るほどの弾力の先端をしっかり咀嚼してから、柔らかな脂肪の塊にかぶりつきました。

 溢れる脂は乳の味で天にものぼるような気持ちでした。

 待望の太ももへ向けて口を開いたとき、後ろで物音が聞こえたんです。

 振り向くと、真っ赤な靴下を履いた足の裏がこちらに向けられていました。

 兄ちゃんが仰向けに倒れていたんです。

 血がリビング全体に流れていて、それに足を滑らせて転んだみたいなんです。

 ぼくは勿体無いと思いながらママさんに向き合いました。

 兄ちゃんはそのままにしましたよ。幸せな時間をお裾分けする気なんて髪の毛ほども思いませんでしたから。

 太ももを含めた両足は予想通りでしたが、腕よりボリュームがあったぐらいで、ちょっと印象は薄いですね。

 殆ど食べ終えたとき、すごく喉が渇きました。

 汗や下半身に溜まっていた液体ではとても足りなかったので、胸の中央にある大きな袋を見つけたんです。

 両手で持ち上げると、今もドックンドックンと動き、ちぎった管から赤い液体がトクトクと溢れていました。

 ぼくは勿体無いと思い、持ち上げたそれの下に自分の口を持っていきます。

 溢れてくる液体の勢いが弱く、もっと飲みたいと思いました。

 試しに脈動する袋に力を込めると、無数の穴からブチャッと溢れてきました。

 ぼくは顎が外れんくらいに開け、一滴もこぼさないようにしていたんですが、飲み終えた時には、白いシャツが赤く染まってベトベトになってしまいました。

 髪の毛は飲み込みにくかったんですが、血に浸すことによって……えっ次の患者さんが待っているからここまで?

 ……わかりました。ベッドに寝ればいいんですね。

 どうですか先生。固まってないで何か言ってくださいよ。痛いんです。やっぱり食べ方が不味かったんでしょうか? もっと時間をかけてゆっくりと堪能した方が、でも一口食べたら止まらなかったんです。先生も好きな人と二人きりの時には、我慢できない時がありますよね?

 検査の準備ですか、イダダ……イダ、イダイ、先生早く脇腹から何か出てきそうなくらい痛い、です。

 これが愛した人を食べた罰なのでしょうか……イダイ。まるで何かが噛み付いているような、そうだこれは歯だ。前歯と犬歯で内臓を噛み切られているような……早く先生、何とかしてください。

 こんな事ならママさんのそばにいれば良かった。ぼくの部屋にいる優しいママさん。胸に抱けばこんな痛み、こんな痛ーー


 そこまで話したところで、その、アレが起きました。

 気味悪いし、正直吐き気もしましたが、私もプロなので診察中は表情には出さないよう努めました。

 でも今思うと、その時に追い出しておけばよかったと思います。

 そうすれば、私のクリニックは……三十年続いたのに、三十年ですよ! 静かで穏やかな雰囲気に包まれて、顔見知りの患者さん達は帰る時いつもお礼を言ってくれて、長年手伝ってくれた妻も私にとって右腕同然でしたよ。

 彼女もかわいそうだ。刑事さん達が駆けつける前に破裂音を聞きつけて入ってきたばっかりに……。

 今じゃ「出して出して」と呟くばかりで幸せそうです。

 刑事さん。あんな事があったクリニックは誰が保証してくれるんですか? 警察の力でなんとかしてくれませんかね。私は被害者ですよ。あの一日で全て失ってしまった。

 これからどう生きていけばいいんでしょう。毎日見るんです。夢であの赤茶色の光景が、もう嫌なんです。消したいんです。そうだ。刑事さん。拳銃、拳銃持ってますよね。私の頭を撃ってください。ね、ね? そんなことできない?何言ってるんだ!私は悪夢を見続けている被害者だぞ!お前にはそれを解決する義務があるんだ早く狙って引き金を引けおい早くしろお前がやらないなら自分でやるよこせお前が持っている拳銃をよこせぇぇぇぇぇ


 わたしの銃を奪おうとした老医師は四人がかりで取り押さえた。七十の彼のどこにあんな力があったのか、柔道有段者の同僚三人の力を借りてやっと取り押さえる事ができたのだ。

 勿論わたしも逮捕術を学んでいる。

 でも、わたし一人ならどうなっていたか。考えると寒気が走る。

 その後医師は錯乱状態のまま精神病院に収容されたが、入院中に死亡した。

 死因は腹部破裂。連日「出して出して」とうわ言を繰り返し、ある日担当医の目の前で爆発するように腹部が破裂したそうだ。

 今わたしがいるのは、件の空き物件と化した雑居ビルの前。その四階に老医師のクリニックがあった。

 管理している不動産業者に尋ねたところ、男子高校生が死亡した直後から、誰もいないのに女の声が聞こえてくるとか。

 聞いたのは一人ではなく、ビルに入った改装業者の作業員が全員、工具を置き去りにして逃げ出したとか。わたしを担当した不動産業者はクーラーが効いた部屋で冷や汗を流しながら小声で教えてくれた。

 もう何分も前からビルの前に立っているが、それ以上足がが動こうとしない。

 この件の捜査は早々に打ち切られている。彼の親友と言われた少年の家は肉片と骨片が散乱し、件の男子高校生が住んでいた部屋では、まるで舐め尽くしたように艶やかな女性の頭蓋骨が発見された。

 十中八九犯人は死んだ高校生なのだが、その凶器を考えるだけで……。

 もう一つの疑問は腹部破裂による死亡。実は男子高校生やクリニックの医師だけではない。いじめっ子にのリーダーだった親友の少年も医師の妻も同じ死因で亡くなっている。

 何か共通点があるのだろうか。

 不意にポケットの中で振動を感じた。取り出したスマホの画面を確認すると、通知はひとつもなく、死んだ双子の妹と学生時代に撮ったツーショットの待ち受けが表示された。

 不意に課長から着信が入る。どうやら殺人事件の可能性の高い通報が入ったそうだ。

 わたしはすぐさま署に戻る事を伝えて、ビルから離れるために爪先を歩道の方へ向けたところで全身に鳥肌が立つ。

 シニヨンに纏めた髪とスーツの襟元の間のうなじ。その無防備なところに生暖かい吐息を吹きかけられたのだ。

「出して出して」

 排泄物の臭いと女の声が、わたしの鼻と耳に侵入してくる。

 今着てるスーツ、もう着れそうにないな。




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