ゼツボウ ー枯れ井戸の底に溜まった汚泥のような物語ー
七乃はふと
ぼくの愛した芋虫
ぼくの頭上はいつも重く薄暗い。
天井の電灯が切れているのではない。
一年中真っ黒な雲に、街どころか、世界が覆われているせいだ。
太陽がごく稀に下界に光を浴びせてくれるが、それも弱々しく短い間なので、最初は微かな希望と縋りついていた人々も今や誰も天を仰ぎ見ようとはしない。
配給された保存食を食べ、厚着をして出かける準備を整えると、貸与された四十四階の部屋を出て地上まで階段を降りる。
薄闇の歩道ですれ違う男達は、空を覆う黒雲より暗い表情をしている。
その澱んだ川の中に身を投じた。
まるで固まった廃油と肉汁で流れを遮られているかのように、ぼくが混ざった列の動きは鈍い。
ふと騒ぎが聞こえ、ぼくを含めた何人もが音の出所に顔を向ける。
何本もの鉄格子のような太い足の間から十代後半と思われる男二人が道路に倒れているのが見えた。
「もうこの街は終わりなんだ!」
「そうだ。死ぬ間際に楽しんで何が悪いんだ!」
二人を囲んでいた兵士達が警棒で殴って黙らせる。
顔を殴られると、出来立てのポップコーンが弾けるように、口から砕けた歯を撒き散らす。
隊長と思われる兵士が手に持った瓶を掲げる。
「貴重な時間を無駄にするとは発禁の酒を呑むとは、貴様ら汗水垂らして働く同志に罪悪感を感じないのか!」
隊長は、ぼくが混ざっている川を指差す。
男の一人が顔の半分を大きく腫らしたまま、隊長に負けじと血の混ざった唾を飛ばした。
「罪悪感? そんなものあの化け物に喰らわしてやれ。あいつらだって吐き出すに決まってる」
隊長が口の端を吊り上げた。
「いいことを思いついた。お前達の処分は最前線送りだ。身体にナパーム弾を括り付けて奴等の元に送り届けてやろう」
「嫌だ!」
もう一人が逃げ出そうとして、兵士に羽交締めにされる。
「化け物に生きたまま食われるなんて嫌だ。せめて殺してくれ!」
「だめだ。怠け者を殺す余裕なんてない。その役目はイナゴ共が喜んで引き受けてくれるさ。食当たりを起こすとも知らずな。おい連れて行け!」
連行されている間二人は喚いていたが、兵士達は耳栓をしたように無反応のまま連れて行ってしまった。
一部始終を見ていた列が動き出す。
ぼくの周りの顔は騒動が起こる前より深く陰影が差しているように見えた。
排水から飲料水を作る仕事を終えたぼくは、夜泣きのように疲労を伝える身体を無視して、ある場所へ向かった。
そこは軍の士官専用の寮で、本来下っ端兵士のぼくが入れるところではない。最悪、不法侵入者として逮捕され、最前線にナパーム弾を巻き付けられて放り投げられるだろう。あの二人の酔っ払いのように……。
巡回中の兵士はぼくを一瞥しても何も言わない。ぼくも視界に人が入っても、まるでいないかのように振る舞った。
扉の前に立ちノックする。
「どうぞ」
厚い扉越しでも分かる軽やかな鈴の音の声に許可をもらい、スライドドアを開けた。
「よく来たね」
節電で病人のように弱りきった照明でも、濡羽色の長髪はしっとりと輝いている。
何度も見ているのにも関わらず見惚れていると、滑るように近づいてきた切れ長の瞳に下から見つめられる。
「疲れているみたいだね。今日も一日ご苦労様」
「いえ。少佐にそう言ってもらえて嬉しいです」
ぼくは迷わず敬礼をした。例え最高司令官が目の前に来ても右手はピクリともしない自信があるのに。
「こら、友人に敬礼はしないでっていつも言ってるだろ」
「はい。少佐」
友人。この逃げ場のない世界で愛の告白と同じく価値を失った言葉。でも少佐から言われると、肉体に溜まった汚水が天然水に変わるような清らかさを感じた。
「中に入って君も座りなよ」
後に続いて部屋に入り、少佐の為だけに改装されたバリアフリーの廊下を進む。
「今水を入れるね。お腹は空いてないかい」
ぼくは部屋に一つしかない椅子に腰掛けた。
「水だけで大丈夫です」
少佐は顔の横にあるレバーを口に咥え、アームを操作して冷蔵庫を開けた。
「ごめんね。いつも時間かかってしまって」
二本の機械の指に挟まれたコップは、既に汗をかいていた。
「気にしないでください」
ぼくは水を飲みながら少佐の首から下を見る。
その肉体にはぼくが当たり前のように持っているものが欠けている。
詰襟の軍服は、まるで赤ん坊のお包みのように胴体の部分だけが膨らんでおり、両袖とズボンは空気の抜けた風船のようにしぼんでいた。
これがぼくを友人と呼んでくれている人。そしてぼくが恋するーそう目が合った途端、心臓が早鐘を打ち、その黒髪に顔を埋めたいという気持ちを恋というのならー少佐はぼくの初恋の人だ。
あれは学校のお昼休み。一人で机に突っ伏していると、同級生が窓が割れんばかりの大声を出した。
「おい。大変なことが起きてるぞ。外国に隕石が落ちたんだ」
何人かが画面を覗き込む。フェイク動画だと信じていない様子だ。ぼくも再びの惰眠を貪るために机に頭を埋める。
つい寝過ごして先生に注意され、笑いものにされる。そんないつもの日常が過ぎていく。そんなつまらない毎日が続くと思っていたのだが……。
一夜明け、状況は一変していた。
落ちた隕石から怪物の群れが現れたのだ。
墜落現場を取材していたテレビクルーのカメラによって瞬く間に全世界に周知される。
その日を境にぼくは学校に行かなくて良くなった。代わりにいつ終わるともしれない命懸けの肉体労働が始まった。
金属の皮膚を持つ侵略者は瞬く間に世界を喰らい尽くした。
その勢いは尋常ではなく、動物はもちろん、草木や建造物、もちろん人間も侵略者にとっては格好の餌でしかない。
世界の人達はすぐさま反撃を開始し、共通の敵を前に一致団結して挑んだものの、結果は足止め程度の戦果しか上げられず惨敗の連続だった。
ネットは生きていたものの、外国の情報は何も分からなかった。
しばらくすると空が慌ただしくなる。
軍用機や旅客機、果てはプライベートジェットなど飛行機博覧会のように様々な航空機が日本にやってきては着陸していた。
同時期、多数の避難民を乗せた豪華客船や軍艦も続々と寄港していく。
狭い島国はすぐにいっぱいとなり、さながら観光客で賑わう電気街のようになっていた。
決定的に違うのは、男達は着の身着のままでその表情は共通して暗い。
そして一般人のぼくらは初めて知る。世界は侵略者ローカストに占領され、人類の生存圏はぼくが暮らす島国しか残ってないことを。
「……聞いてる?」
少佐の声で現実に引き戻された。
「寝てたでしょ?」
「いえ、そんなことは……」
「涎垂れてる」
慌てて口元を拭うが、手の甲に湿った感触は残らなかった。
「……だましたんですね」
「嘘をつくからいけない」
少佐は口でハンドルを操作し、廊下の方に車椅子を向ける。
「身体を洗いたいから手伝って」
「はい」
少佐の後について浴室に向かう。
「君も身体を洗っていきなよ。仕事柄仕方ないとはいえ、臭うよ」
「すいません。ではお言葉に甘えて」
脱衣所に入ってすぐ、一週間分の排水まみれの僕は汚れた服を脱いだ。
次に少佐の詰襟のボタンを外すと、その隙間から濃くて甘い体臭が溢れ出す。悪臭に慣れすぎた鼻には刺激が強く咽せるほどの甘い匂い。
鼻腔が一人でに動くのを気づかれないように頭を下げ、血の通っていないドールのような白い肌を傷つけないように、慎重に服を脱がす。
裸になった少佐は軽いので、赤ん坊のように抱き抱えて共に浴室へ入り、湯の張った浴槽に漬けた。
濡羽色の髪を大輪の花のように広げた少佐は、切れ長の瞳を閉じてお湯の温かさを全身で味わっているようだった。
ぼくは片手で支えながらもう片方の手で、少佐の髪を洗い、目に石鹸が入らないように気をつけながらムダ毛ひとつない顔を洗い、首筋から鎖骨を経て逆三角形を描くように肩から腰へと手を滑らせる。白い肌は恐ろしくきめ細かく繊細で、指の指紋の凹凸で傷つけないよう最大限の注意を払う。
美しい陰影を描く肋骨が浮き出た胸部。触ると分かる戦う為に鍛えられた腹筋や指を突き刺したくなるような細い切れ込みの臍を丹念に洗った。
もちろんなだらかに盛り上がる金属で覆われた手足の付け根を洗う事も忘れない。
洗い終えた後、隆起した二つの頂を見つけて、嬉しい気持ちが込み上げた。
洗い終えて全身の水気を拭き取ってから、新しい純白の軍服を着せてあげる。
「ありがとう。明日もまた頼むよ」
これは一週間に一回の儀式。
「だから君も死ぬなよ。私を洗っていいのは君だけなんだから」
「もちろんです」
初めて会話する前から少佐の事は知っていた。何故なら英雄だから。
少佐はローカストに対抗する試作型パワードスーツの装着者だ。
ぼく達一兵卒が使うような、筋肉を補助するためのアシストスーツではない、完全な戦闘用。
そのスーツは神経と直接回路を繋ぐため、金属の手足は生身以上の滑らかさで侵略者を屠る。
代償は神経を繋ぐため肉の手足が邪魔だということ。
少佐は生まれた時から、その問題をクリアしていた。
生まれつき手足のない身体は両親に忌み嫌われたのだろうか、裏路地に捨てられたところを保護されたらしい。
貧困な環境により義肢など買えるはずもなく、そのまま一生ベッド暮らしの選択肢を選ぶ直前、宇宙から隕石が落下。
試作されたパワードスーツの被験者に志願し、全ての出撃で侵略者を撤退に追い込む活躍を見せ、英雄に祭り上げられていた。
少佐に命を救われた兵士は数知れず。
ぼくもまた、怪物の餌になる直前で助けられた一人。
ローカストの臓物に埋もれたぼくの鼻は、場違いな甘い匂いを嗅ぎ取り、その美しい濡羽色の髪に目を奪われ、
「君、大丈夫かい」
儚い鈴のような声音は、悲鳴のやまない戦場でも、しっかりとぼくの鼓膜を震わせた。
パワードスーツの両手でお姫様抱っこされながら、ぼくは確信していた。
この人が好きだと。
一週間に一度の防衛戦が終わってすぐ、ぼくと少佐は浴室にいた。
白兵戦によって怪物の内臓や体液を浴びた白い肌を傷つけないように洗っていると、水滴のついた天井を見つめながら少佐が口を開く。
「早く自由になりたいな」
「自由ですか?」
「そう、空を飛びたいんだ」
空。ローカストが作り出した黒雲は雨を吸収するだけでなく、航空機の電子機器を狂わせるため、軍用機は無用の長物と化していた。
「言っておくけど飛行機に乗りたいんじゃない。自らの翅で空を飛びまわりたいんだよ。目的地はないけれど、ずっと太陽を追いかけていたいな」
「それは、いいですね」
言葉とは裏腹に腑が煮え繰り返るので、誤魔化すために質問した。
「でも何故、翅なのですか?」
「私の蔑称は知っているだろう」
少佐は英雄と奉られているが、全ての人間がそう思っているわけではない。手足のない生き物に助けられて不快に感じている人間は、その見た目からこう蔑んでいた。
「芋虫、ですよね」
そう呼んだ人間は逮捕されているが、蔑みはなくならない。
「芋虫、確かに今のぼくにピッタリだよ」
「しかし、パワードスーツを纏った貴方は誰よりも軽やかに戦場を駆けています。でなければ今頃ぼくはここにいませんでした」
「あの義肢は素晴らしいけれど、私が求めているものとは違う。私は鉄の足で土に塗れたくない。汚れることのない青空を一対の翅で駆け回りたいんだ」
そう語る少佐の瞳は浴室の天井を透かし、今は見ることも叶わない青空を見ているようだった。
「その時はぼくもお手伝いします」
「ありがとう。でも手助けはいらない。私は私自身の力で空に上がるから。君にはそれを見届けてほしい」
ぼくは唇を噛み締める。口内に血の味が広がる。
その味がぼくにある決心をさせた。
一週間後、ローカスト侵攻に対する防衛戦が行われた。
既にぼくが住む街以外との交信は途絶え、東西南北を包囲されていても、男達の一部は勝利を信じていた。
今までと違い、ローカストの侵攻の勢いが止まらない。いつもなら撤退するほど損害を出しているはずなのに、同類の屍を踏み越え、無数の触手から涎を垂れ流しながら前進を止めない。
塩水噴射機で鋼鉄の外皮を柔らかくし、小銃の代わりに標準装備となった両手持ちのハンマーでローカストの一匹を殴りかかる。
息がかかるほど近づいたとき、ぐううう〜、という音が化け物から聞こえてきた。
仰向けに倒れた侵略者を殴り殺したぼくの腹も釣られて音を立てた。
ローカストの割れた鋼鉄の外皮からぬらぬらとした腸が飛び出している。
赤い皮は正体不明の粘液に塗れているが、学生時代に見た腸詰めを思い出す。
空腹が思考を停止させた。
腹が減っては戦はできぬ。と誰かがいった。そうだぼくにはやらなければならないことがある。
周りの目がぼくに注目していないことを確かめ、怪物の腸詰めにかぶりつく。
血の味しかしないが、適度な弾力があり、噛めば噛むほど溢れる体液のおかげで、意外と食べられる。
腸詰めを四本ほど食べたところで、ここ数年で味わったことのない満腹感を得た。
これならやれる。ぼくは口の周りのベトベトを戦闘服の袖で拭う。
血と体液で汚れた袖に、人間の爪らしきものが付着していた。
少佐はいつも通りローカスト相手に無双していた。
百を超える化け物の頭上を飛び越えながら塩水を吹きかけて弱らせ、刃を潰した分厚い板のような鈍器を振り回す。
鈍器の舞が終わりを迎えたとき、少佐は化け物の死体で作られたステージの上で一人佇んでいた。
ぼくは拍手しながら近づく。
「こら、なに見惚れてるんだい。そんな余裕はないはずだよ」
ほんのり頰を染めた少佐は、ぼくから目を逸らした。
「まだローカストの侵攻は終わっていないんだからーー」
言い終わる前に構えたハンマーを少佐の頭に振り下ろす。
濡羽色の髪を真っ赤に染めながら仰向けに倒れた。
血が混じった切れ長の瞳がぼくを見つめ、何かを問うように口が開く。
言葉を発する前にぼくはハンマーを振り下ろす。力の限り振り下ろす。
鼻が凹み、皮膚が裂け、眼球が飛び出す。それでも振り下ろす。
生き返ってもらっては困る。
頭蓋骨が砕け、その奥にある脳味噌が潰れる感触を確かに感じ取ったところで、ぼくは兵士達に羽交締めにされた。
「少佐。貴方を空に飛ばさせなどしない。貴方はぼくのものだ。なのにぼくの元から飛び立とうとするなんて絶対許さない。貴方はぼくの芋虫なんだ。ぼくの許可なく自由になりたいなんて、ぼくが許すはずないだろうが!」
覚醒したとき、そこは真っ白な天井だった。
マスクをした医者風の男が視界に現れた。
「目覚めたか。喜びたまえ英雄殺し。手術は成功した。君と英雄のお陰で素晴らしいデータが取れた。軍上層部も喜んでくれたよ」
薬でも打たれたのか、手足は感覚がないように動かない。
「君の処遇は死ぬまで戦うこと、だそうだ。まあそれは生き残った私達全員に言えることかも知れないな」
不意に警報が鳴り室内が赤く染まる。
「やれやれ。ここまで侵入されたか。早速君も出番が来たぞ」
首を動かしたぼくは、初めて男の姿を見て言葉を失った。
「さあ新しい手足をつけて出撃だ。芋虫くん」
そう言う男の手足は少佐と同じ機械の手足と化していた。
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