叡智を継ぐ者 〜剣士リオネルと魔法のオーブ〜

帆ノ風ヒロ

叡智を継ぐ者 〜剣士リオネルと魔法のオーブ〜

 血走った瞳と剥き出しの牙。荒れ狂った一頭の狼型魔獣が、夕闇に包まれた街を駆ける。その先に、ひとりの少女の姿があった。驚きと恐怖で身がすくみ、棒立ちになってしまっている。


 ルーヴと呼ばれる狼型魔獣の体長は三メートルを超えている。飛び掛かられればひとたまりもない。鋭い爪と牙の前では、なすすべなく絶命するだろう。


 側で叫んだ男性は父親だろうか。手を伸ばしながら駆け寄るも、地を蹴った魔獣の到達がそれを上回る。


 もはやこれまでと思われた時、咄嗟に機転を利かせた男性剣士がいた。彼の名はリオネル。しがない中年の冒険者だ。


「この力に、こんな使い道があったとはな」


 左手を突き出し、リオネルは苦笑した。帯状に伸びた魔力の光が、魔獣の腹部へ巻き付いた。綱引きの要領で敵の体を引き寄せる。


「残念だったな」


 地面へ引きずり倒した魔獣を睨み、リオネルは剣を構えた。駆け込みざまに振り抜いた一閃が、的確に魔獣の首をはねた。


* * *


「で、偶然に助けたその少女が、街長の娘さんだったわけっスか。御礼にそんな高価な物まで……オイラはその頃、まだ森の中で戦ってましたからね。取り逃がした一頭が、そんな騒ぎになってたなんて驚きっスよ」


 間抜けな顔で感嘆の息を漏らすのは、リオネルの相棒である弓矢使い、アルマンだ。


「声が大きい。周りには他の乗客もいるんだ。少しは気を遣え」


 依頼達成の翌日。ふたりは乗合馬車に揺られながら戦果報告を行っていた。


 向かい合わせに設置された木製ベンチには、商人とおぼしき中年の男女が三名ほど。他に、五歳程度の男の子を連れた母親の姿もある。


 このまま拠点の街へ戻って冒険者ギルドへ報告を済ませれば、狼型魔獣ルーヴの討伐報酬が手に入る。その金で、二週間程度は食いつなげる算段だ。


「悪いな。おまえが魔獣を退治していれば、娘さんと知り合いになれたもしれないのに」


「いやいや。三十歳を越えたおじさんなんて相手にしてもらえるわけねぇっスよ。色恋沙汰より、こうやってリオネルさんと金稼ぎして酒場で一杯、ってのが楽しいんスよ。今夜も行っちゃいますか!」


「こんな昼日中から、もう酒の話か」


 リオネルは呆れ顔で溜め息を漏らし、隣に座る相棒の顔をじっくりと眺めた。


「ボサボサ頭と無精髭。勿体ない……きちんとした身なりをすれば、もてるだろうに」


「だから、オイラのことはいいんですって。リオネルさんこそどうなんスか」


「どうって?」


「再婚とか。奥さんを難病で亡くして十二年っスか。四十歳を過ぎて、色気も増してきたことですし」


「そんなこともないだろう」


「自覚してないだけっスよ。それに、息子のラウル君も愛情に飢えてるでしょ。向かいに住んでる精肉店のお婆さんが世話を焼いてくれてるって言ってましたけど、いつまでも頼ってるわけにはいかないっスよね」


「それはそうなんだがな……こうして遠方の依頼に対応できるのも、婆さんのお陰ではあるんだ。しかし再婚っていうのもな……」


 何より、ラウルが納得しないだろう。


 手持ち無沙汰な想いを紛らわすように、リオネルは手にした御礼品を眺めた。


 繊細な装飾が施された花瓶のようなそれは、クリスタルオーブと呼ばれる品だ。中には魔石がいくつも詰められ、魔力が覚醒していない者にだけ反応するように出来ている。


「にしても、クリスタルオーブなんて貴重品をポンとくれるたぁ、街長も気前がいいっスね。現物を見るのは二十年ぶりくらいっスよ」


「俺も久しぶりに見たな」


「普通に暮らしていりゃあ、魔法を授かる十五歳の時に一度手にするだけっスもんね。オイラには縁のない代物でしたけど」


 あっけらかんとした顔で笑うアルマンに、リオネルも苦笑で返した。できれば話題を変えたいと思うも、相棒の興味は離れない。


「両手で触れると魔石が煌めいて、その中のひとつだけが共鳴するんスよね。その魔石を手にすれば、魔法を授かるって」


 アルマンは、クリスタルオーブをまじまじと覗き込む。


「懐かしいっスよねぇ……オイラも当時、授与式は大きな街の教会じゃないとできないってんで、馬車ではるばる遠出したんスよ。その授与式だって、適合者はほんの一握りっスからね」


「仕方ないさ。魔力が覚醒するどころか、魔力を持っている人間が少なくなったんだ」


「そうっスよね。失われゆく力、とでも言うんスかね。覚醒すれば幸福な人生なんでしょうけど、不公平感がすげぇっスよ」


「王城で雇われたり、高官に就けるなんて話も聞くが、授かった魔法にもよるだろうな。覚醒した全員が好待遇になるわけじゃない」


「なんだか詳しそうな口ぶりっスね。魔法が覚醒しなくて、未練たらたらって感じっスよ」


「茶化すな。興味はない」


「へいへい。そうっスか……」


 話を打ち切る気配を見せたことにリオネルが安堵した途端、アルマンは思い出したように声を上げた。


「そういえば、ラウル君も十五歳っスよね。授与式、もうすぐじゃないっスか」


「あぁ。どうしても行くと聞かなくてな」


「なにかあったんスか」


 沈んだリオネルの様子にただならぬ気配を察し、アルマンはたまらず問いかけた。


「いや。大したことじゃない」


「オイラたちの仲じゃないっスか。そんな澄まし顔をしたところで意味ないっスよ」


 アルマンから肘で小突かれ、リオネルは鼻の頭を掻いて苦笑した。取り繕おうにも相棒とは十年以上の付き合いだ。今更、隠し立てするような間柄でもないと割り切った。


「この腐った現状を変えたいんだとさ」


「今の生活に不満があるってことっスか」


「親父は定職に就かず、うだつの上がらない中級冒険者。先の見えないその日暮らしの生活に、心底嫌気が差しているんだろうな」


 責めるようなラウルの目が記憶の底にこびりつき、頭から離れなかった。


『こんな生活なんてうんざりなんだよ。俺は必ず魔法を手に入れて、この腐った現状を変えてみせる』


 野心を秘めた強い眼差しと気の強さは、亡き妻にそっくりだった。歳を追うごとに、ますます似てきているように思えた。


 リオネルも、好き好んでこの生活を続けているわけではない。冒険者などという仕事をいつまでも続けていけるとも思っていない。しかし彼の中でも道半ば。なさねばならぬ目的のため、今でもこうして冒険者としての活動を続けている。


 つらい現実から逃れるように、リオネルはクリスタルオーブに目を向けた。


「確かに、あいつには無限の可能性がある。このオーブのように、きらきらと輝く未来があるのかもしれない。でもな。あいつはそこにこだわり過ぎてるんだ……もしも魔石が反応しなかったら、あいつはすべての希望を失ってしまうかもしれん」


「やってみなくちゃわからないし、なるようにしかならないっスよ」


「俺は、あいつが絶望する姿を見たくない。自分が死ぬ以上に、それが一番怖いんだ」


「リオネルさんから、怖いなんて言葉を聞くのは珍しいっスね。いつも自信に満ちていて、剣の腕前も一流だってのに。それこそ魔法の力があれば、上級冒険者の頂点だって夢じゃないって思ってるんスよ」


「よせよ。俺はそんな大層な人間じゃない。依頼で稼いだ金で、おまえと酒を酌み交わすのが趣味って程度の男だ」


「お互い、似たもの同士ってことっスね」


 苦笑を交わしたリオネルはクリスタルオーブを持て余し、抱えていた道具袋の中へしまい込む。


 そうして、馬車は街道を軽快に進んだ。三時間を費やして日が傾き始めた頃、ようやく目指す街の姿が見えてきた。


「やっと着きますね。馬車は楽っスけど、尻が痛くていけねぇや」


 明かり取りの窓から外を覗いたアルマンは、待ちきれないとばかりに居住まいを正した。


「街に着いたら、早速ギルドっスね。早いところ報酬をもらって酒にありつかねぇと、今にも干からびちまう。酒場はあそこでいいっスか、ふくろうの寝床亭。あの給仕係の女性、絶対にリオネルさんに気があるっスよ」


「まったく……相変わらず気が早い奴だな。弓を射るときは黙って身構えているくせに、普段は本当に別人だな」


「仕事中は別の人間と入れ替わってるんでしょうね。黙ってじっとしてる分、よく喋ってよく動きたくなっちまうんスよ。なんかすんません」


 人なつこい笑みを浮かべたアルマンが、ぼさぼさの髪を掻いた時だ。前方で馬のいななきが聞こえ、馬車は急停止した。乗客の悲鳴が上がり、車内は瞬く間に混乱に包まれる。


「何が起きた!?」


 リオネルがたまらず声を上げると、御者台ぎょしゃだいから年配の男性が転がり落ちてきた。


「魔獣だ! 魔獣が出た!」


 御者の男は乗客を見捨て、荷台の後方から我先に飛び出してゆく。直後、前方で再び馬が鳴き、馬車が激しく揺れた。


 御者台の先に目を向けたリオネルは、魔獣の爪に引き裂かれる馬の姿を見た。


「熊型魔獣のウルスだと!? どうして、こいつがこんな所に!?」


 森の中に住み、人里には滅多に姿を現すことのない魔獣だ。普段は四足歩行だが、獲物を襲う際には後ろ足だけで立ち上がる。体長五メートルを優に超える怪物だ。


 驚愕するリオネル。その腕を、アルマンが慌てて引っ張った。


「早く逃げるっスよ! 上級冒険者でも手に余る、獰猛な相手っスから!」


「待て」


 相棒の手を振りほどき、リオネルは素早く車内へ目を走らせた。


 商人たちが荷台の出口へ殺到している。しかし、泣きわめく男の子を連れた母親が取り残され、逃げ惑っている。


「アルマンは、そこの親子を安全な所へ逃がせ。俺はその間、奴を引きつける」


「無茶っスよ。いくらリオネルさんでも、ウルス相手に勝てるわけないっスよ!」


「やってみなければわからない、だろ?」


 込み上げる恐怖を押し隠し、リオネルは腰に提げた長剣を引き抜いた。彼の装備といえば、手にした剣と身に纏った軽量鎧。背負った道具袋には、少量の携帯食料と水だけ。戦闘に役立つ道具は昨日の依頼で使い果たしている。一撃でも受ければただでは済まない。


 母子の姿に、過去の情景を重ねていた。ふたりを何としても助けたいという想いが、心と体を突き動かす。


「行くぞ」


 御者台から駆け出したリオネルは、突きの体勢を維持して跳躍した。刃は、馬へ食らい付いていた魔獣の腰へ突き刺さる。途端、怪物はたまらず身を震わせた。


 振り払われたリオネルは地面を転がった。死んでも離さないと誓った剣は、まだ手の中に収まっている。


 すかさず身を起こすと、怒りを漲らせた魔獣に見据えられていた。怪物の口元を赤黒く染める血が目に付き、自分の体が噛み砕かれる未来が頭をかすめる。


 剣を構え、呼吸と体勢を整えた。気を抜けば一瞬で刈り取られてしまうのは明らかだ。怪物の足下に転がる馬の亡骸。その後を追うことだけは絶対に避けたかった。


 リオネルは相手の傷を伺った。先程の一撃は魔獣の厚い毛皮に阻まれ、わずかに傷を負わせた程度だ。


「くそったれ」


 悪態をつき、素早く考えを巡らせる。


 乗客全員が逃げおおせるまでどの程度かかるのか。彼らを逃がした後、どうやってこの魔獣から逃げ切るか。


「悪いが、先約があるんだ」


 梟の寝床亭。その木製テーブルに並ぶ、酒とつまみの数々が頭に浮かんだ。アルマンとの約束を果たすため、こんな所で時間を取られている暇はない。


 リオネルの行動に痺れを切らせたのか、魔獣は後ろ足で立ち上がった。凄まじい咆哮が大気を震わせる。リオネルもまた、心臓を掴まれたような衝撃を受けていた。


 巨大な壁が反り立っているような威圧感だ。生者と死者の世界を隔て、リオネルをこちら側へ閉じ込めようとするかのようだ。


 恐怖が熟練剣士の体を蝕み、反応を鈍らせる。そこへ丸太のような怪物の腕が、左右から交互に振るわれた。唸りを上げる一撃に、避けるだけで精一杯という有り様だ。


 こいつは噂以上だな。


 熊型魔獣ウルスの危険性は聞き及んでいた。自分のような中級冒険者が出会うことはないだろうと酒のつまみに聞きかじり、笑いのタネにする程度の存在だったはずだ。それがこうして目の前に現れ、刈られる側に追い込まれようとしている。


「でもな……」


 リオネルとて漫然と過ごしてきた訳ではない。皆にさげすまれたあの日から血の滲むような訓練を続け、剣の腕を磨き続けてきたのだ。アルマンには適当に返したが、自分が上級冒険者に劣っているとは微塵も思っていなかった。


 攻撃をどうにか避けながら、側の茂みへ魔獣を誘い込んだ。振るわれた左手が背後の樹木へ食い込み、怪物の動きがわずかに止まる。


「ここだ」


 前傾姿勢を取ったリオネルは怪物の左脇へ飛び込み、刃を突き立てた。狙ったのは、先程の傷と同じ場所だ。


 刃先が深く食い込み、傷口から血が溢れる。怪物の腰を蹴りつけ、剣を引き抜き慌てて距離を取った。その鼻先を、怪物の拳がかすめてゆく。


 きわどい戦いだと、リオネルは息を吐く。


 危険な依頼を避けてきた彼にとって、大型魔獣との戦いは数年ぶりだった。身体能力の低下も一因だが、何より守るべき者の存在が大きかった。


 息子のラウルを一人前に育てる。それは妻との約束であり、自身の生涯をかけて成さねばならぬと決めていた。


「そういうわけで、負けられないんだ」


 刃の先へ、怪物の巨大な体が浮かぶ。


 血に飢えた魔獣の勢いは衰えることを知らないようだった。そればかりか獲物と見なした相手に傷を負わされ、強い怒りにとらわれているように見えた。


 夕闇を、リオネルの呼吸と魔獣の荒い息が支配する。張り詰めた空気を纏うリオネルに、突如として閃きが訪れた。


 あれを使えば、ひょっとしたら。


 怪物から目をそらさず、すり足でゆっくりと後ずさる。


 夕闇の中で怪物の姿が見えるのは、馬車の御者台へ取り付けられた松明たいまつのおかげだ。馬は襲われたが、車体は形を留めている。松明を手にすれば、炎を警戒してあきらめてくれるかもしれない。


 すがるような想いで、炎を求めて下がる。怪物もその姿を追い、四つん這いの姿勢で距離を詰めてきた。


「うわぁ! 熊だ!」


 馬車の向こうで、男の子の悲鳴が聞こえた。それが戦いの均衡を打ち砕く。


「くそっ」


 焦るリオネルの前で、怪物は新たな獲物へ狙いを切り替えた。子どもの方が上質な食事であることをわかっているのだ。


 後ろ足で地面を蹴り、巨大な体が横を駆け抜けようとしている。逃がすまいと、リオネルは必死の思いで左手を伸ばした。


「行かせるか」


 昨日、狼型魔獣を捕らえた時と同じ要領で、魔力の帯を伸ばした。


 これこそ、リオネルがクリスタルオーブから授かった力。引き寄せの魔法だった。


『なにそれ。かっこ悪りぃ』


『なんの役にも立たねぇじゃん。そんな魔法、俺が授からなくて良かったよ』


『なんか恥ずかしい。一緒にいる時に、絶対に使わないでね』


 故郷の村では友人たちから馬鹿にされ、大人たちからも笑われた。クズ魔法のリオネルと揶揄され、自尊心を深く傷付けられた。


 憤慨した両親は村を見限り、リオネルを連れて新天地へ引っ越した。それ以降、リオネル自身も魔法の力を隠し、表沙汰にすることなく生きてきた。


 クズ魔法と笑われた力。その使い道をようやく見つけ出すことができたのだ。


「よし」


 魔力の帯が、怪物の左足へ巻き付いた。しかし喜んだのも束の間。怪物を引き留めるはずが、帯ごと打ち上げられていた。


 言葉を失い、宙を舞うリオネル。頭の中は真っ白になり、怪物の元へ飛び込んでゆく瞬間が、やけにゆっくりと展開される。


 足を取られた怪物から鬱陶しそうに睨まれていた。虫を払うような仕草で右手が振るわれ、鋭利な爪が夕闇の中で怪しく光る。


 左肩から右脇へ向け、リオネルを鋭い痛みが襲った。砕かれた鎧の破片が舞い、炎の明かりを受けてキラキラと瞬く。


 人生の終わりに、祝福を受けているようだ。


 口元に笑みすら浮かべ、力をなくしたリオネルは地面へ崩れ落ちた。


「リオネルさん!」


 遠くで、アルマンの声が聞こえた気がした。矢を放つ音さえ、自分とはまったく関係のないことのように思えていた。


 それなりに面白い人生だったんじゃないか。


 薄れゆく意識の中、リオネルは自らの生涯を反芻していた。


 覚醒した魔法の力がもっと素晴らしいものであれば、人生が変わっていたはずだ。しかし、この人生でなければ妻と息子に出会うことはなかったのだと思うと、これはこれで悪くなかったのだと納得できた。


 心残りは、最愛の妻のためにと始めたことが、やり遂げられなかったことだ。そして、息子であるラウルを残して果てること。


 最後までダメな父親ですまない。できることなら、もう一度顔を見たかった。伝えたいことが、まだまだたくさんあるんだ。


 握りしめたはずの拳にも力が入らず、いよいよここまでだと覚悟を決めた。


 ラウル。おまえはおまえらしく、この時代を逞しく生きていけ。おまえならできる。


 息子の顔を思い浮かべ、リオネルは強く訴えた。自分の存在が消えることは構わない。残される息子に、神の加護があらんことをと。


「うわあっ」


 するとリオネルの耳元で、聞き覚えのある声がした。側に大きなものが落ち、微かな振動が背中へ伝わった。


「父さん!? どうしたんだよ」


 うっすらと目を開けたリオネルの前に、自分を覗き込んでいる息子の姿があった。


 ラウルの体は魔力の青白い光に覆われている。その光が自らの左手と繋がっていることに気付き、リオネルは自分の力に呆れ果てた。


 まさか息子を引き寄せてしまうとは。だがこれは、神が与えてくれた最後の機会か。


 そう思い直したリオネルは、気力を振り絞ってラウルの手を取った。


 言葉を発する気力はなかった。想いのすべてをぶつけるつもりで息子を凝視し、親子は無言のままに見つめ合う。


「父さん、死ぬな。薬、傷薬は?」


 現状をどうにか打破しようと、ラウルは必死に足掻いた。いつも見ていた父の背中。そこへ斜め掛けにされた道具袋を思い出した。


 その道具袋は側に転がっていた。革紐が解け、中身が周囲へ散乱してしまっている。


「クリスタルオーブ?」


 幸か不幸か。ラウルはそれを見つけてしまった。リオネルは焦りと後悔を感じながらも、どうすることもできなかった。


「俺がなんとかしてみせる」


 リオネルの手を解いたラウルは、大慌てでオーブを拾った。両手で包み込むように持ち上げると、中に収められた魔石のひとつが、まばゆい輝きを放った。


「俺、魔法の才能が!?」


 嬉々とした顔をするラウルに、リオネルも驚きを隠せなかった。


 しかし、オーブに納められた魔石の数は百を超える。魔石は力を振り分けるための入口に過ぎない。その入口から更に細分化され、ひとつの魔石にも数十種類の派生が存在する。リオネルのように、使い道がわからないようなハズレ魔法も多く存在するのだ。


「え? 誰?」


 ラウルのつぶやきは、リオネルには届かなかった。不安そうな顔で辺りを見回す息子に、リオネルは困惑していた。


 ラウルは一体、何と話しているのか。


 疑問に思っていた矢先、側にしゃがんだラウルが、リオネルの傷口へ右手をかざした。


「静寂の水、生命のあかし。この身へ宿りて傷癒やせ……命癒創造ラクレア・ゲリール!」


 患部が水色の輝きに包まれ、見る間に塞がっていった。それどころか、リオネルの体に活力を漲らせ、すぐさま起き上がれるまでに回復させてしまったのだ。


「おまえ、水の魔法を授かったのか」


 感嘆の声を上げるリオネルを無視して、立ち上がったラウルは別の場所へ目を向けた。


 視線を追ったリオネルは、熊型魔獣を目に留めた。魔獣の右足は、竜のあぎとと呼ばれる設置型の罠に囚われていた。鋭い牙のような棘が並ぶ金属板に、左右から挟み込まれている。


 機転を効かせたアルマンのお陰だと悟り、リオネルは笑みを零した。魔獣の向こうでは、その相棒が長弓を手に対峙している。


「ラウル。今のうちに逃げるんだ」


「嫌だね。冗談じゃない」


「何を言ってるんだ。水の魔法を授かったからって、思い上がっている場合じゃない」


 リオネルがラウルの肩を掴むと、彼はそれを嫌がって身じろぎした。睨み返してくるその目には、闘志と決意が漲っている。


「思い上がる? 上等だよ。俺はね、すべてを手に入れたんだよ。この腐った現状をぶち壊すだけの力をさ」


「おまえ、どうしたんだ」


「どうもしないよ。俺たちの力で、世界を見返してやる時が来たんだよ。父さんが最高の剣士だってことくらいわかってる。俺と父さんの力があれば、世界を変えられる」


 その言葉が、リオネルの胸を震わせた。ラウルが嘆く現状は、今の生活を思ってのことではなかった。報われることのない現実に向けた、父の背を押す言葉だったのだ。


 言うが早いか、ラウルは怪物を狙って駆け出した。リオネルは驚きに目を見開く。


「馬鹿野郎。死ぬ気か!?」


 足下に転がっていた剣を拾い、リオネルも必死に後を追う。前方を走るラウルの右手に、緑色の魔力の光が宿るのが見えた。


「そんな……」


 傷を癒やしてくれた水色の光は、水の魔力の作用によるものだ。目の前で顕現けんげんされる緑の光は風の魔力に違いない。ふたつの属性を操る能力など聞いたこともなかった。


 ラウルの接近に気付いた魔獣は、彼を新たな標的と見定めた。片足を固定されながらも体を捻り、鋭い爪の生えた右腕を掲げる。


「かかって来いよ。ザコ魔獣」


 力を見せつけるように不適に微笑んだラウル。その右手から、真空の刃が顕現する。


斬駆創造ラクレア・ヴァン!」


 すべてを断ち切る勢いで荒々しく飛んだ刃が、怪物の右腕を根元から斬り飛ばした。


 熊型魔獣ウルスは苦しみもがき、天を仰いで痛みに吠えた。その懐にラウルが滑り込む。


「うるさいんだよ」


 勝利宣言のように言い放った右手には、赤色の魔力が顕現していた。彼が拳を突き上げると火球が飛び出し、怪物の顔面を燃え上がらせる。


「父さん、今だ!」


 ラウルが怪物から離れながら叫んだ時には、剣を構えたリオネルが魔獣へ肉薄していた。


「くらえ!」


 体ごと預けるような渾身の突き。その一撃が、うずくまる怪物の喉を貫いた。


 血を吐いて痙攣する魔獣を見下ろしながらも、リオネルは生きた心地がしなかった。ようやく勝利を確信したのは、ラウルとアルマンに声を掛けられた後のことだ。


「アルマンもすまなかった。おまえが魔獣を引きつけておいてくれたお陰だ」


「そんなこたぁいいんスよ。煙幕玉と竜の顎が残っていて助かったっスよ……まぁ、それはそれとして、どうしてラウル君がいるんスか。それにその力。どういうことっスか」


 目をしばたかせるアルマンに向かい、ラウルは恥ずかしそうに笑みで応えた。


「よくわからないうちにここにいて、なんか覚醒したみたいです。魔石から、全知全能の力を与える、って声が聞こえて……」


「全知全能?」


 間抜けな声を上げたのはリオネルだ。


「うん。大賢者クローヴィスの力を継ぐ者として、の者の叡智えいちを授けるって」


「ちょっと、ちょっと。それってめちゃくちゃ凄い能力なんじゃないスか。大賢者クローヴィスっていやぁ、伝説級の人物っスよ」


「確かに、俺でも知っている」


 興奮するアルマンを見ているうちに、リオネルもただならぬ事態だとようやく実感が湧いてきた。


「俺の息子に、大賢者の力が?」


「父さん。これからは俺をどんどん頼ってよ。魔法だけじゃないよ。知識だって思いのままなんだ。父さんが探し続けている秘薬だって、絶対に見つけられるよ」


「おまえ、どうしてそのことを……」


「ん? 精肉店の婆ちゃんが教えてくれた。母さんと同じ病気で亡くなる人をなくしたいっていうのが、父さんの願いだって」


 冒険者を辞めたらどうかと問い詰められた際、つい事情を明かしたことをリオネルは後悔した。


「秘薬の原料を見つけるまでは冒険者を続けさせて欲しいって頼まれてるんだけど、それまで生きていられるかねぇ、って笑ってたよ……原料探し。俺にも手伝わせて欲しいんだ」


「婆さん……余計なことを」


 溜め息をつくリオネルを見て、アルマンが陽気な笑い声を上げた。親子の背中を勢いよく叩き、彼らの顔を覗き込む。


「まぁ、積もる話の続きは酒場で。ラウル君の祝いも兼ねて、今日はとことん飲むしかないっスよ!」


「おまえはラウルにかこつけて、酒が飲みたいだけだろうが」


「おっかしいなぁ〜。今日のオイラは大活躍だったはずなんスけどねぇ。ってわけで、リオネルさん。ご馳走になりやす!」


「アルマン、調子に乗るなよ」


 陽気な大人たちを置き去りに、ひとり冷静なラウルは周囲へ目を向けていた。


「その前に、どうやって街へ帰るわけ? 馬のない壊れかけの馬車と、向こうには親子もいるんだよ」


 その声で、リオネルも現実へ立ち戻った。御者と商人たちの姿はどこにもない。


「幸い、松明がある。街も近いし、歩いて戻れるだろう」


「俺がいて、本当に良かったね」


 ラウルが風の魔法で造り出した竜巻に包まれ、一同は瞬く間に街へと帰還を果たした。


 こうして、剣士リオネルと弓矢使いアルマンに、賢者ラウルが名を連ねることになる。


 彼らの名はやがて大陸中へ広まることになるのだが、その冒険譚はまた別の機会に。

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