第三幕 シュウゲキ⑤
『いつも笑顔でいなさい。笑顔でいれば、みんなから愛される人になれるのよ』
山下心路の母親は、息子にこう教えを説いた。
『うん、分かったよお母さん!』
息子は母親の教えを忠実に守った。家でも学校でも、常に笑顔で過ごした。心路は周囲の人間から愛される存在となった。だが、愛される存在を疎む存在というのも常にいる。
ある日、心路は同級生に靴を隠された。彼は泣きながら帰り、母親に事の次第を離した。
母親は、心路を叱責した。
『泣くからそんな奴らに舐められるのよ。泣いてはいけません。怒っても駄目よ。常に笑顔でいなさい。そうすればいつか、その程度のことなくなるわ』
『分かりました、お母さん』
このときをきっかけに、母親の教えは彼を縛る鎖と化した。
感情を見せず、本心を悟らせず、常に笑顔でいること。これが彼の日常となった。
そして彼は大人になった。初めて就職した会社は、俗にいうブラック企業だ。いつも笑顔でいる彼はパワハラの恰好の的。心路にとって耐えがたい日々が始まった。
泣きたいときも、怒りたいときも、笑顔という仮面を自分に貼り付ける。
理不尽な目に遭っても、笑顔という人相を作り上げる。
やがて、男子トイレの鏡を見て、自分の笑顔を確認することが日課となっていた心路。
あの日も、そんなよくある理不尽な毎日の一つだった。
『おい、山下! これできてねえじゃねえか、どうなってる!』
そんな指示、自分は一切受けていない。
『お前はいつもへらへらしてるからこんなことになるんだ、いい加減にしろ!』
笑顔でいなければもっと酷いことになる癖に。
『もういい! これ終わるまで今日は帰るな! いいな!』
…………。
全員が帰ったオフィスで、心路は淡々とキーボードを叩く。
タン タン タン
ダン ダン ダン
ガン! ガン! ガン!
「ああっ!」
彼は男子トイレによろけるように駆け込んだ。鏡を見なければ、顔を整えなければ‼
そして鏡を覗き込んだ心路が見たのは、ぐちゃぐちゃに崩れた自分の顔だった。
「山下さん?」
はっと意識が戻ってくる。視線を下げると、冬樹が相変わらずクールな表情でこちらを見ている。
「煙しんどいなら、仮面外しといたら? その方が楽でしょ」
「たた、確かにそうかもしれませんね……!」
「ほら、山下さん、あとはこれ! 新しい消火器!」
今の自分は笑顔でないというのに、彼らは仮面を外していても良いと言う。
何故?
「何で、こんな顔でもいいんですか?」
「どど、どんな顔でも山下さんに変わりはないからですよ……!」
「そうよ! 怒った顔も泣いてる顔も、笑顔も仮面も全部山下さんよ!」
「まあ……そういうこと」
どんな顔でも、自分には変わりない。
その言葉に、涙を流していた幼い自分が抱きしめられた気がした。
「そうですか……」
山下は仮面をそっとはめる。だが、この仮面も仲間たちから見れば自分の一部。もはや貼り付けられたものではない。
「おっ、みんな無事かいな⁉」
そこに飛び込んできたのは市原と桂木。どうやら救援に来てくれたらしい。
「あ⁉ 青葉がいねェじゃねェか!」
「あっ、彩川君! 忘れてたわ!」
「かか、彼はちょうど休憩に室外に出ていたんです……!」
「それくらいは一人で……というか、一人の時間もあった方がいいと思って」
「……クソッ!」
桂木は悔しそうに壁をガツン!と殴る。それを市原が諫める。
「古賀ちゃんも別で動いてくれとる。きっと大丈夫や。まずは皆さん、俺が『演幕』かけますんで退避しましょ」
「了解です! フフフフフ!」
山下はいつものように高らかに笑って見せる。そう、いつものように。あるがままの自分のように。
「皆さん、準備はええですか?」
市原が確認を取ってくる。
『了解!』
その場にいる全員が声を張り上げる。その声を合図に、市原は演幕で全員の姿を隠した。
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