第三幕 シンセイカツ
第三幕 シンセイカツ①
朝。健生はむっくりとその体を起こすと、しばらくぼーっとしていた。先日の誘拐事件の後、学校を二日休み、今日から普段通り登校する予定だ。だが、体にまだ疲れが残っているのだろう。全身が気だるい。正直まだ休んでいたい。とはいえ、そろそろ登校して友人たちに会っておきたいのも本音だ。この間登校しなかったことで、二人も心配しているはずだった。
普段よりものんびりした動きで身支度を整え、階下に降りる。普段通りリビングに向かうが、そこで健生を出迎えたのは両親ではなかった。
「おはようございます、健生様」
柳幸。烏の濡れ羽色をした長髪に、黒いセーラー服を身にまとっている。健生の高校の女子制服だ。彼女は白いエプロンをつけ、朝食の準備を整えていた。黒い制服と白のエプロンのコントラストが美しい。
「お、おはよう柳さん」
朝から好きな女子のエプロン姿を拝める。なんて贅沢なモーニングルーティンだ。
どぎまぎしていると、父親の一誠(いっせい)が健生に話しかけてきた。
「おお、健生おはよう。幸ちゃんすごいんだぞ! 誰よりも早く起きて朝ごはんの準備をしていてくれたんだそうだ」
食卓の上には、洋画で見るような美しく整った朝食が並んでいる。
「本当、すごいわねえ。幸ちゃん、料理が趣味だったりするの?」
「できることが多いと、任務の幅が広がりますので」
一体どんな任務をこなすと言うのだろう。それはさておき、一人でこれだけの食卓を整えたのなら、すごい腕前だ。これは、味の方も期待できそうだった。
「健生様も、召し上がりますか?」
柳が健生に話しかけてくれる。
笑顔でどろどろになりそうになりながらも、健生は何とか平静を装って答えた。
「ありがとう、いただきます」
意中の女子お手製の朝食を食べるという、高校生男子であれば垂涎であろうイベントを終えて健生は家を出ようとするが、そこではっと気づく。そもそも、今まで通りに登校しても良いのだろうか?
「えっと、柳さん?」
「いかがいたしましたか?」
「俺さ、学校って今まで通り徒歩通学していいの? その……友達と一緒に」
「構いません。健生様は、できる限り今まで通りお過ごしください」
その言葉に胸をほっと撫でおろす。
「私も通学時と学校にいる間同行しますので」
その言葉にどきっと鼓動が跳ねる。
「同行するの?」
「はい」
「学校内も?」
「もちろんです。ご安心ください」
何も安心していない。だが喜んではいる。こんなどぎまぎ状態が常に続くと言うのか。というか、他の人に何か言われたりしないのか。
と、考えたところで、健生の思考はぴたりと止まる。
いや……どうにもならないか。
健生は実質、友人二人とクラス内で孤立している状態だ。そんな自分に、何か言ってくる人なんていないだろう。そう思いなおすと、健生は柳とともに家を出る。まず彼の視界に飛び込んできたのは、まるでこの数日間、何事もなかったかのような雲一つない快晴だった。気持ちの良い朝に深呼吸すると、新鮮な空気が肺を満たす。
やっぱり、意外とこの世は悪いことばかりじゃない。
そこでふと、健生は思い出す。柳の連絡先を聞いていなかったことを。
(どうしようかな……)
どうやら、彼女は当分冨楽家に住むようだ。この状況なら、連絡先を今すぐ聞く必要はないだろう。であれば、まずは最初の一歩からだ。
健生は喉から出そうな心臓を何とか飲み込みながら、柳に話しかける。
「えっと……しばらく俺の警護をしてくれるん……だよね」
ちょっと声が裏返ってしまった。焦っていると、柳はそんなことは気にしていない、というように言葉を返す。
「その通りです」
「じゃあさ、しばらく一緒にいるわけだし、友達になろうよ。もし俺といて嫌なこととかあったら、遠慮なく言って。あと、同い年なんだから、敬語もなし……っていうのはどうかな?」
……これでどうだろうか。
その言葉を聞くと、柳は固まる。いや、元から表情は非常に硬いのだが。
「……まず、私が嫌と感じることはありません。そして、警護対象である健生様に対して敬語を使わないわけにもいきませんので。お気遣いなく」
どうやら間違っていたらしい。
「えーっと……じゃあ、それはおいおいということで! これからよろしく!」
気まずい空気を無理やりまとめるように、健生は鞄を左手に持ち替え、右手を差し出す。それを見た柳は先ほどよりも固まった表情で、健生の右手を見つめる。
「……これは?」
「……よろしくの握手……みたいな?」
柳はじっと健生の右手を見つめた後、深く礼をする。
「これからよろしくお願い致します」
……これは、なかなか長い道のりになりそうだ。
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