鞍掛女史との秘密記録

梦吊伽

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 (2)


 ここでやり残したことがあるのだと鞍掛女史は自慢の黒髪を掻き上げながら破顔する。あのときと同じ、あのときの笑い方だ。ということは私はまた騙されるのだ。やり残したことなんてあるわけがないのになんでそんなことを言うのだろう。今更になって当て付けのつもりなのだろうか。私を置いて勝手に出て行ったくせにこの女は気が狂っている。

「あなたはどこまで知っているのですか」

「全部」

 私が女史の存在を忘れようとしている間に彼女は神になってしまったようだ。彼女は私の体からレイヤーを一枚引き抜くと老体じゃこれが上手くできないのと言って消えた。ティーカップの中身は紅茶で満たされソーサーの上にお行儀よく座っている。私はまた些細なことで彼女との貴重な時間を無駄にしてしまったと思い頭を抱えた。





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 動画サイトの視聴履歴を見ていると当然のように昨日と今日が繋がっている事実に辟易する。そんなことメールボックスや昔の写真を見返すことができる時点でわかりきったことだと思われそうだけれど私はその日々の連なりが偏執的に怖いのだ。怖い。相席に死人が座っているがそれは怖くない。鞍掛女史は一年前の盛夏に実験中の事故で亡くなったがなぜ今になって戻ってきたのだろうか。そう考えると私は今も昔も不可逆な時間の流れを恐怖しているというより可逆的なものに興味があるだけなのだと思った。鞍掛女史はそんな私の気分を察したようでにこりと歯を見せて変わっていないと言った。そんなことをされるとなんだか悔しくなってしまって私はしばらく押し黙っていたのだけれど遂には根負けして多元宇宙論もシミュレーション仮説も全部間違いだったと呻いた。女史は頷くとマクスウェルの悪魔について言及した。私は苦笑すると少女時代に戻らないのかと皮肉ってみたがまだ死にたくないからと一蹴されてしまった。女史の提唱した理論には死は存在しない。

 嘘が下手だという言葉を私は飲み込む。そもそも相席の死人は嘘をついていないしこんな些細なことで袂を分かつのはもううんざりだからだ。紅茶が冷めてしまうと言ってティーカップとソーサーを持ち上げる女史の指はまるで古木の枝のようにか細くなにかの弾みで中程からぽきりと折れてしまいそうだ。加齢による振戦で指先の震えはあるものの背筋はしゃんと伸びていていつ見ても高潔そうな人に見える。

 ドアベルが鳴り私の横を思春期の女史によく似た女学生が入店して来たが、直後に食器の擦れるカチンという音がしたので私はゆっくりと正面に向き直った。

「そちらの暮らしはどうですか」

「そこそこ」

「お姉さんには会えましたか」

「会えた」

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