十二話

「牧さんは身なりは疎か謝る相手を間違って

いるよ。根っこから正しくない感じ。おれで

はなくて、百千ももゆき君に謝って」と、彼は続けて

責め立てた。この吹雪は積もりそうだ。

 彼の男気は認めるが、相手は我々より二十

年も前に生まれた女性である。つまり、母親

と同じ年代なのだ。もはやこれまで。傍観者

ではいられない。

「やめて下さいっ」

 彼のジャケットの裾を手で払う。

「何?」

 見返る彼に「お気遣いに感謝しております」

と、調子を合わせた。

「うん。……あれ。若しかして言い過ぎたか

な」

 彼は本当に、思ったことを口に出して言う。

 未来を見据えてほしいものだ。

「そうか。牧さん。ごめん。でもさ、相手を

褒めて、喜んで貰った方が気分いいと思う」

 言葉の方向付けが変わり、まるで湿雪しっせつだ。

「……はい。百千ももゆき君。すみません」

 牧さんは従順さを見せたが、俺へ向き合う

時に肩を隠したので、わざとであったと知る。

矢張、彼にこびを売ったのだ。既婚者の筈だが、

道徳心を忘失か。どうやら魅力を自負する人

らしい。それに涙を見せたのは引っ掛かる。

気がある人へ纏い付く太さをも感じた。

「いいよ。わかってくれたなら」

 俺への謝罪を受け容れたのは、彼であった。

 黙すと、牧さんがそそくさと給湯室へ行く

ので見遣る。ばつが悪いのだろうと察した。


「あの。成城せいじょうさん。あなたは正義感があると

お見受けしました。真実を追求するのは男だ

てだと、初見でも感じたものです。でも」と、

失礼して彼の袖に触れ、「相手は先輩で、そ

れに女性なのです」と声を潜める。

「違うよ。『そんな言い方をしないで』と、

抵抗した方がいいよ」

「はい……」

 俺は行動していなかった。

「あれ? おれがそばにいるのに小言こごとを言っ

たのは、おかしいな。若しかして、俺に同

調を求めていたのかも。外界で聞く苛めの構

図って、悪友を求めるらしいな……。否、そ

こまで人を疑ったら会社にいられないや」

 彼は頭が切れる。営業に打って付けだ。

「ランドセルの件は、おれのミス。よし、整

理できた。きみも間違えた時は言ってね」

「はい」

「ふうん」と彼は腕組みをする。俺の返事は

意に沿わぬのか。

「人間は待てない生きものになっているから、

黙っていると等距離にならないよ。きみは、

『先輩』と言ったけれど、敬っているの?

おれは違うな。芽を摘む人は心が荒んでいる

もん。自己が何に対して怒りを覚えるのかを、

考えたらいい。目の前に鏡を置いたら、人を

笑う気になれないと思うんだ。社友に失望し

たくないな。おれはしなやかでありたい」

 彼は才弾さいはじけた人だと感じた。恣意しい性は側面

であり、本質を衝く人だ。俺が手を抜いたと

読み、悠々とするならパートナーとして認め

ないと言っているのだ。最も警戒すべき人物

であった。俺は勇気を奮いて、彼の気持ちを

掴みに行く。

「……自己が何に対して自己であるかとする。

その問い掛けが己を量るものだと、自分も思

います」

 俺はそれ故に他人へ向き合えないとは言え

ず。言葉を間違えてはならない。相手に信じ

て貰うことは、勝ち負けではないのだ。

「あなたのパートナーとして、尽力します」

と、最低限の規律を守る意志を表明した。す

ると彼は一転して、涼しげな瞳を見せてくれ

た。まるで、冬の寒さに凍てつくような問答

であったが、安堵した。

「社内においては。でしょう」

 彼が目を細め、微笑んでくれた。

「実直だよね。わずらわしさも振り切れないものだ

と気付けば、休憩しようと思うだろうなあ。

おれは、休憩するのも大事だと考えているん

だ。気持ちの切り替えだよ。おれも退勤後は

遊ぶもん。そこそこの面容が揃うし。そうだ。

携帯を見せてあげる」

 成城せいじょうさんが自分の席へ行くのを眺め、随分

楽しそうで奇妙に思う。彼が鞄を持つのを

見て、はたと気付き、食べ損ねてしまうとサ

ンドイッチをエコバッグから取り出す。瑞々

しいトマトのスライスを見て、一安心。俺は

好物のトマトを見詰めるだけで口に含んだ気

になり、喜びが沸き起こってくるのだ。こち

らもさぞや甘酸っぱいことであろう。


「忍耐の積み重ねかしら。あたしの知らない

二十二歳がいた」

「えっ?」と声に気付いてサンドイッチを隠

す。食べ物に気を取られ、人の気配を感じぬ

とは恥だ。

「あたしは、努力しても失敗は付き纏うって

知っているの。でも、折れない心を持つ人に

会えたようね。百千ももゆき君。あなたは詰られても

超然とする大心おおこころを養っているのね。お人好し

ではない。見直したわ」

 明かるい声音に誘われて顔を上げると、そ

ばにいたのは同期の清香せいかさんと知る。柔らか

そうな髪だ。毎日眺めても、花のように瑞々

しく感じる人である。

成城せいじょう君を扱うのが上手ね。彼は己を過信し

てると思うけれど、誰かに認めてほしくて急

ぐのかしら」と、清香せいかさんは机の縁を見る。

その指摘は的を得た気がして、「はい」とエ

コバッグを隅に置いた。

 成城せいじょうさんは期待の星と持ち上げられても、

所詮は新入社員だ。実績はないので、功を上

げたくて焦っているのだろう。

 俺は努力して栄光を掴めば、軽蔑する者を

減らせると考えている。成城せいじょうさんと手を携え

て、実績を積み重ねたい。そして、彼が栄光

を掴むように及ばすながら力になる。これが

パートナーである俺の使命と心に誓う。

「あたしが知る限りだけれど、愛されて育っ

た子供は決断が早いんですって。有りの儘に

生きるの。親を信頼しているからよ」

「そうですか……」

 俺は、親と信頼関係を未だに築けない。

「ねえ。彼は鞄から携帯を取り出したわよ。

面妖だわ。持ち歩かないとは初見だわ。

言うあたしも、他人に見られたくないけれど」

 清香せいかさんの背伸びした口調が微笑みを誘う。

成城せいじょうさんは車で通勤ですし、日中も社用車

を運転するので、鞄に入れた儘なのでしょう。

彼は個人の携帯の他に、会社が貸し出す業務

用の携帯も所持するので、混同しないように

管理していると思われます。公私の区別とい

う基本ができていて大丈夫。そう捉えると彼

は『認めてほしい』人でしょう。清香せいかさんの

読みは当たっていますよ」

 俺はふと無意識に言っていた。清香せいかさんの

覇気に乗じたかのようで、エコバッグの中で

出番を待つトマトも、思い違いだと益々赤く

なっていそうだ。

「そう。使い分けは難しいでしょうね。同じ

鞄に入れているなら、心理的に取引先と個人

的な友人の両方から、認められたいのかも」

 彼女の言葉にどきりとして、返事に窮する。

 SNSで気楽に繋がれる時代だが、彼は他人

に厳しい人である。一方で、朝は覇気がない

し無礼という身勝手さが、他人と向き合わな

い俺の好奇心をくすぐる。彼の声は鐘の音を思わ

せ、この胸に響くのだ。

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